岩宿50周年企画―九州旧石器の狩人たち―


この企画についてひとこと

 昨年企画しましたこのコーナーは、以下のような創案で開始しました。一年間に7回ほどの話を掲載しようと思っていたのです。しかし、危惧していたとおり、やはり5回で挫折しました。ごらんのように中途半端で2000年を迎える羽目になりました。まあ、私の生き方そのものという気もします。新年となりますが、取りあえずはこのままにしておき、余裕がありましたら、そのうち第6話を掲載したいと思います。(1/3)

「1999年は岩宿遺跡発見からかぞえて50年目を迎えます。この私が100年目にボケずに生きていることは至難と思われます。そんな訳ですし、せっかくの機会ですのでこの小企画をやろうと思います。何回続くか分かりませんが、九州での旧石器を追い求めた人々のことを、思いつくままに数回に分けて、記してみたいと思います。
実は最初は次のように真面目な企画案を考えました。
1)半世紀という節目を迎えて、その間に日本の旧石器時代研究は何処まで到達したのでしょうか

2)今、何が分かって、何が分からないのでしょうか。
3)これからの研究の道筋はどう描かれるのでしょうか。
大ボケかましてしまいますが、こんなことが私に書けるはずはありません。当然、企画倒れです。
それでは何をするのかと申しますと、過去、現在に渡って九州を主に旧石器を探求してきた人々の足跡を私なりにたどってみたいと思うのです。50年とはわずかな期間ですが、その間にも幾度か九州が華やかな舞台となった旧石器遺跡の調査や研究発表がありました。これらを進めた人々をたどりつつ、研究基盤をととのえ、研究を止揚した“力”の根源についても独善的に考えてみたいと思います(1999.3/9)」

第1話 岩宿遺跡と相沢忠洋氏のこと―九州旧石器研究前夜―(3/9、3/27余録記)
第2話 池水寛治のこと―九州石器文化研究会のころ―(3/12)
第3話 忘れられた先駆者―宮崎の“かもしかみち”―(5/6)
第4話 日本前・中期旧石器研究の起点―別府湾から拡がった波紋のゆくえ―(6/15)
第5話 鬼鼻山と烏ん枕―原産地遺跡を守る人々―(9/5)

第1話

岩宿遺跡と相沢忠洋氏のこと―九州旧石器研究前夜―

1,はじめに
 ここでは、岩宿遺跡の発見や発見者である相沢忠洋さんについて思うことを書く予定です。ただ、研究史とか、学史とかをひもとくつもりはありません。それは、これまでも多くの先生や先輩たちがやってきましたし、私がそんなに詳しいわけはありません。

 さて、1949年に群馬県岩宿遺跡の発見を契機として、本格的な日本旧石器時代研究が始まりました。その後、全国各地に旧石器時代遺跡が発見、調査され、しだいに日本列島に住んだ旧石器時代人類の生活の様子が明らかになってきたわけです。
 もちろん岩宿遺跡の発見以前にも日本列島に縄文時代よりもっと古い時代から人が住んだのではないか、と考えた人も幾人かはいましたが、結局正当に評価されないままでした。
 岩宿遺跡発見のいきさつや道筋については氏の記した『「岩宿」の発見』などの詳細な記録や、HPもありますので、そちらへゆずりましょう。

2,岩宿遺跡の発見がもたらしたもの
  さて、岩宿遺跡の発見は何をもたらしたのでしょうか。なにをいまさら、とお思いでしょう。もちろん日本の旧石器時代研究の出発点ですので、この点は自明のことです。それ以外になにがあるのでしょうか。
 1949年という時期は、日本はまだ敗戦後の貧しさを残してはいましたが、次第に活力を取り戻しつつありました。とはいえ向学心を持ちながら生きるために学ぶ機会をもてず、働かざるを得ない若者も多かったのです。東京・大阪に集約的にまた急速に発展する日本経済は、一方で地域格差も生み出しました。考古学は大学の先生がやるもので、ほとんど趣味や道楽のように受けとめられていたのです。
 地域に生き、大学で学ぶ機会はなくても、さまざまな苦難に向かい、遺物などを通じた古代との出合を大事にして、考古学に精魂を傾けた相沢忠洋氏や長野県の諏訪を中心に活躍された藤森栄一氏の姿勢に惹かれた者が少なからずいたことも確かです。
 60〜70年代には、各地で後に「考古ボーイ」と呼ばれる少年たちが、野山や田畑を遺跡を探して憑かれたように歩きまわるようになります。かく言う私もそうした少年の一人でした。これは当時、講談社学生社などの出版社が地域在住の考古学者の著書を次々に出版して行ったことと関連しそうです。もっとも、遺跡の発見や発掘は、探検や冒険と同じく子供にとって遊びの延長にありました。それでも共通して、その地域に生きた先人の息吹を肌で感じていました。拾った一片の黒曜石の矢尻や土器片に、ふるさとの地にかつて住んだ人々の生き様を想像したりしたのです。相沢忠洋氏による岩宿の発見を、中学生の私は、H・シュリーマン(最近ならインディ・ジョーンズかも知れませんが、一緒にすると大変な失礼です。考古学を題材にした著名な本と言うだけです。)のように胸躍らせて読んだ記憶があります。

 さて、話は変わりますが1960年代までは行政組織で遺跡の発掘調査をおこなうことはほとんどありませんでした。現在では国、県レベルではどこでも数十名の職員がいますし、市町村でも埋蔵文化財専門職員を確保しているところが少なくありません。全国で五千人以上の文化財担当の職員がいる国は見あたりません。これを裕福な国と思うことは私にはできません。ただでさえ狭い国土に山ばかり、限られた平野は繰り返し開発されるという環境で、埋没している遺跡を無傷に未来に引き継ぐことは至難です。発掘調査の多くが遺跡破壊を前提とはいえ、これは最低限の対応だと思っています。ただし、このような状況はここ20年ほどのことです。遺跡の発掘がいたるところで当たり前のように行われる以前、多くの地域では遺跡は誰にも知られることなく壊され、発掘そのものすら見る機会はほとんどありませんでした。
 現在、各地の文化財職員も上は50歳代から、下は20歳代までと幅広い世代となってきました。数年後にはこの業界でも第一世代の退職者が多く出ることになります。50代から40代のうち、かなりの人々は、私のように10〜20代の頃に直接、あるいは間接的に相沢忠洋氏を知り、その何らかの影響を受けた可能性がありそうですが、これは別の機会に検討してみましょう。

3,遙かな赤城山へ
 さて、もう一つ、考古学が歴史学の一分野でありながら、きわめて自然科学に近い側面をもっていることを記します。単純ですが、考古学は人が自然に働きかけた痕跡を読み解き、そこから当時の文化、社会などを復元、検討する学問と考えています。もちろん自ら自然と対峙しながら考える、学ぶ、これはフィールドを基礎とするあらゆる学問の基本姿勢です。考古学と同様に自然科学の研究も次第に詳しくなっています。発掘調査でも火山灰や岩石などの地質的環境、また植物、花粉など幅広い知識が必要となり、なまけものの私など研究の進展について行けなくて大変です。
 遺跡に繰り返し立ち、周囲の自然環境を調べるという、一見地味ながら地に足のついた研究が改めて見直されるべきだと思うのです。
 相沢忠洋氏は自らの生き方を赤裸々に自伝に記しています。これを読み返す度に、なによりひたむきさを思い知らされます。岩宿発見以降も飾ることなく実直に研究されています。それゆえ、時にたたかい、時に孤立されたこともあったと聞いたことがあります。それでも、そうした事情すらバネとして最後まで赤城山の見える地を見据えて研究に生きられたこと、そのことに羨望と敬意、そして深い感動を私は憶えるのです。(3/7)

【余録】
話は変わりますが、青森県の中里町立博物館の考古学替え歌集の中にこんな替え歌がありました。誰がつくったのか分からないそうですが、なかなか良くできた詩だと思いましたので載せます。

遺跡めぐり(「岬めぐり」の替え歌だそうです)
あの頃時は終戦直後   納豆つんで行商歩き
一人暮らしはむなしいけれど   古人を追うのは楽し
今日も今日として行商めぐり   自転車押して切り通しめぐり
ロームに光る黒曜石は     洪積世の人の足跡
遺跡めぐりの自転車走る   前に広がる赤城の山よ
悲しみ深く胸にしずめたら   この丘越えて家に帰ろう

明治大学学術調査    一日二日とフレイクばかり
もうすぐやめよう雨降りだした   思ったところへハンドアックス
報告出たが名前はのらず    杉原先生独り舞台
俺は在野の誇りを胸に     赤城の裾を今日も行く
遺跡めぐりの自転車走る   赤城下ろしを背に受け今日も
悲しみ深く胸にしずめたら   夢は広がる先土器時代

(3/27付記)

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