清原500号の複雑

小学校に入学した1985年、甲子園に怪物と呼ばれた男がいた。清原和博。巨人が1位指名すると思われた清原だったが、巨人は桑田を指名。悔し涙を流した清原は翌年、西武ライオンズに入団し、デビューイヤーから不動の4番に座り、大活躍する。

常勝西武の時代。

たまたまライオンズのタンクトップ(背番号は7。石毛)と帽子を買ってもらっただけで、西武ファンになった僕は、毎日、西武の帽子をかぶって登校していた。3年生のとき左肘を骨折して、ギプスが取れた日に円山球場に連れてってもらって西武の試合を見たのも覚えてる。

不動の3番秋山、4番清原。自分にとって、この2人は最大のヒーローだった。当時の西武は、パリーグ制覇はもちろん、日本一になるのも当然のことのようであった。この栄光の日々が、永遠に続くものなんだと当然のように思ってた。なぜ周りの多くの人間が、いま輝いている西武ではなく、栄光の日々がすでに過ぎ去った巨人のファンなのか、いつも疑問だった。巨人の魅力は今もさっぱりわからないけど。

だが、ショックなことに秋山や工藤がダイエーに移籍。

さらに、数年後、清原が巨人に移籍してしまう。

清原が巨人ファンだったことは知ってたけど、清原は巨人に裏切られた悔しさを胸にずっと西武に残る、少なくとも巨人には移籍しないと信じてた。今度は自分が裏切られた気がして、ものすごく腹が立った。そのころは熱烈なアンチ巨人だったので、なおさらだった。今のしょぼい巨人は、なんかもう、どうでもいいんだけど。

常勝西武を支えた秋山も清原も工藤も放出した西武への熱はかなり冷めた。好きなチームは佐々木が台頭した大洋〜横浜→地元に来た日ハムへと変わったが、秋山や工藤や清原といった選手個人への応援は続いた。清原には活躍してほしいが、巨人には負けてほしいという矛盾した複雑な気持ちで長年、野球を見続けてきたのだった。

その清原が、きょう、ついに500号を打った。

拍手喝采の気持ちでいっぱいだ。

だが同時に、もし巨人に移籍しなかったら、順調にキャリアを積み重ね、怪我や不調に悩まされることなく、タイトルのひとつふたつ獲得して、とっくに600号、700号に届いてたんじゃないかという気がしてならないのも確か。

だが、悔しいことに、昔と違ってがっしりした清原の体には、いつのまにか巨人のユニフォームがしっかり似合ってしまってるんだよなあ。