エレベータ
                                    作:ko2001


  「今日も,蒸し暑いな。」

  男は,上着を片手に,吹き出す汗を拭きながら,自宅へと向かっていた。

  中堅サラリーマンである彼は,会社からさほど遠くない,都心近くのマンションの
  一室を借りていた。

  夜とはいえ,都心の気温はまだまだ高く,お世辞にも夜風が涼しいなどという
  台詞がでる状態ではなかった。

  ようやく,マンションの入り口が見えた時,男は祈るような気持ちで呟いた。
  「誰にも,会いませんように...」

  ここは,80戸程の部屋を持つ6階建てのファミリー向けマンションだが,
  住人の出入りが激しく,かなりの空き部屋が存在していた。
  そのおかげというのもなんだが,彼のような独り者でも入居可能となったのだ。

  ただ,男は,これ以上住人が増えるのには反対だった。
  なぜなら,このマンションの空き具合が気に入ってここを選んだのだから。

  男がもっとも嫌いなこと,それはこのマンションの中でその住人に会うことだった。

  別に,人間嫌いとかではないのだが,とにかく会うのがいやだった。

  そんな彼がいつも神経を磨り減らすのが,帰宅時のエレベータだった。
  疲れきった神経で,あの狭い箱へ他人と一緒に入るのは,苦痛以外の何物でも
  なかった。

  実際,先にエレベータを待っている人影が見えたら,階段を使って,自室のある
  6階まで昇ることもたびたびあった。

  今日は,暑さでクタクタに疲れているので,一気に6階まで昇りたかった。
  だから,マンションに入る前に,男は思ったのだ。

  「誰にも,会いませんように...」


  幸い,エレベータ付近には人影がいなかった。
  だが,肝心のエレベータは6階にいた。
  下ボタンを押して,エレベータを待っていると,男の鼓動はまた早くなってきた。

  「もし,後からきた人が寸前で入ってきたら...。早く来い!!」


  その時,マンションのエントランスの方から,小さな音がした。
  よく聞くと,それは早足のヒールの音のようだった。
  「女性か...」

  それでも,男は会いたくない方を選んだ。
  エレベータは,もう2階を過ぎて,間もなく,その窓が見えようかという
  ところまで来ていた。

  マンションのドアが開く音が聞こえる。
  「俺の方が早い」
  男がそう思った瞬間,その足音は小さな悲鳴に変わった。

  男は一瞬凍りついたが,その場所からは物陰になって,何が起こっているのか
  わからなかった。
  何か争うような音と,小さな悲鳴が何度か聞こえたが,その音はすぐに止んだ。

  男は迷ったが,その時,エレベータのドアが開いた。

  「こっちに近づいてくる,衣擦れのような音がする。」

  男は,急に恐くなって,エレベータに飛び込み,6のボタンと,閉まるを必死で押した。
  永遠にも思える時が過ぎ,ようやくドアは閉まり始めた。

  さっきの衣擦れは,すぐそこまで来ているようだ。

  ドアが閉まった。

  男は,ほっとして,胸をなで降ろした,その瞬間...

  エレベータの外扉の窓に,血まみれの手がガシっと張り付いた。

  ガクン...とエレベータが動き出した。

  男は,昇り始めたエレベータの内扉の窓から,下に流れていく外扉の窓を覗き込んだ。

  そこには,頭から血を流した長い髪の女性の姿があった。
  その頭が徐々に上を向き,その目が男をキッと睨んだ瞬間,視界から消え去った。

  男は,...黙って自分の部屋に入り,その夜は外に出ることはなかった。

−−−

  翌朝,出勤しようとした男は,一階から聞こえる騒々しさを耳にすると,
  裏手にある非常階段を使って下に降りた。

  その夜,他の住人と一緒に事情聴取された男は,同じく住人だった若い女性が
  殺されたことを知った。

  しばらくの間,男は非常階段ばかりを使って部屋に出入りしていた。

−−−

  それから,しばらく経ったある夜,季節外れの台風の影響で,ひどい横なぐりの
  雨が降っていた。

  マンション前までは,なんとか捕まえたタクシーで来た男だったが,その雨を見て
  非常階段を昇るのをためらった。

  「仕方ない。エレベータで行くか」

  男は恐る恐るエレベータホールに近づいた。
  そこは,いつも通りの風景で,あんな事件があった痕跡はもう何処にもなかった。

  男は,エレベータを待った。

  なかなか来ないエレベータに,イライラしながら...

  その時,...かすかな音が聞こえた。
  聞き覚えのある音が...

  そう,あの衣擦れの音だった。

  男は,血の気が失せるのを感じ,何度も何度も下ボタンを押した。

  エレベータの扉が開き,男は飛び込んだ。
  そして,閉まる ボタンを叩いた。何度も,何度も。

  ようやく閉まったエレベータの扉の窓に,近づく人影が見えた。
  と,その視界は動き始めたエレベータに遮られた。

  男はほっとした。
  しかし,エレベータが2階を通り過ぎる瞬間,また窓の外に人影を見た。

  3階を過ぎる時,それははっきりとした後ろ姿だった。

  4階を過ぎる時,その姿は横顔になっており,こちらを向こうとしていた」

  「あの女だ...何故だ..」

  そして,5階を過ぎる瞬間,男は見た。
  窓の外から,しっかりと自分を見据える,血まみれの女の血走ったを。

  エレベータは,6階に着き,扉が静かに開いた。

  だが,誰も出てくる者はいなかった。


                     終わり

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