農村パラダイス『第三章』

 パサッ、パサッ、
軽いエンジン音を響かせた一条刈りのバインダーが、規則正しく稲束をほうり出して行く。今日は谷の小泉が手伝いに来てくれている。五反百姓が沢山出来、稲も自然乾燥が当り前になると、当然のことながら品種をとやかく言わなくなった。みな一様に旨いのである。

「昔は、この辺は粟飯ばかり食っていてね」一服つけながら小泉が述懐する。「わしや粟飯がだいきらいじやった。特に、冷えるとモソモソして喉に絡み付くんじや。この辺りは、そりやあ貧乏でな、地主の倉の中もみんな粟じやった。だから時折、おあまから来る、うば貝売りの、白い握り飯がたまらん旨かった。今の百姓ば幸せじやのう。」

昔、この近くで育ったという小泉は、ずっと遠くを見詰めるようにして続けた。「もっともホホジロなんかの小鳥達にとっては、稲より粟のほうが御馳走での、今は捕ってはならんが、昔は子供たちはバッタルというワナに粟の穂をつけて小鳥を捕ったもんじやよ。」

 今朝の新間には、八郎潟の塩害が、大きく取り上げられていた。新陳代謝を絶たれた大規模農地は土造りも施肥もままならず、いたずらに、痩せ細ってゆくばかりで、もはや打つ手とてないだろう。その点、厄介視されていた山田の方は、自然の代謝に助けられて、かろうじて生きながらえている。「どだい、アメリカなどの作り捨て農業を、そのまま日本に持ち込むなんて、例えて言えば、補給を無視して遮二無二突き進んだ、インパール作戦みたいなもんだった。農業のことなどまるで知らない経済評論家や財界の連中の言うことばかり取り上げて、世論を引っ張った、当時のマスコミの責任も大きいだろうな」と言う一郎に、「だからこそ、その責任を感じて、テレビレポーターだった田中首相が、これだけの農業改革をやってぐれたんじやないか」言いながら小泉は大きく笑った。

「さ、片付けるとしようや」立ち上がった二人の背に、くまぜみの声がかしましい。鷹が二、三羽ゆうゆうと舞っている。ふいに小泉が、すっとんきょうな声を上げた。「あの妙見様の裏の、たぶの木を見てみい、えらい太いアケビの蔓じやで、、、、」アケビば、この辺の山でば、自然の果物の王様である。その果肉の甘さはたとえようもない。小泉は、まるで宝物を見つけた少年のように、目を輝かせて居た。

『農村子日く』

 最近、全国的に「地鶏」ブームが起きているが、なぜ皆こうも品種にばかりとらわれるのだろうか。今でこそ、不味い肉の代表のように云われるブロイラーも、芳醇で、旨い肉質の原種どうしの交配で作られた。それが僅かのあいだに、すばらしい増体を果たしたものの、肉質そのものは見るかげもなくなってしまった。食物に対しての、技術革新とかコストダウンは多くの場合、このように味を犠牲にしてしまうものなのである。卵や牛乳とて例外ではない。

 ならば今焦点の米はどうなのか。アメリカ式農法を取り入れて、今迄通りの味の米が出釆ると思ったら大間違いで、数年を経ずしてアメリカ並みになってしまう。それどころか、コストダウンとイノベーションを急ぐぶんだけ、より不味い米になるのは必定である。それにもまして心配なのは大型作り捨て農法導入による土壌の荒廃である。いずれは塩害がひどくなるか、砂漠化するかのどちらかであろう。

 上農は心を作り、中農は土を作り、下農は米を作る、という楕神があってこそ、何千年もの間、狭い同じ土地で豊芦原の瑞穂国といわれるほど、米を作り続けてこられたのに、いくら意欲があるとは云え、当面の利益と、コストダウンしか考えない一握りの人達に、日本の米作りを任せるために、また莫大な税金を使って田畑をひろげ後戻りできなくしてしまう。はたしてそれが正しい方向なのかどうか、もう一度よく考えてみる必要があると云うよりそんなことは断じてやってはならないのだ。

 同じ新潟のコシヒカリと云っても、採れる場所で味はうんと違う。あとの処理方法ではもっと差がつく。先日のテレビ討論では、皆、平地の大きな水田は問題なく、山田をどうするかで議論していたが、実際に新潟コシの名を高からしめたのは、紛れもなく、その問題視された山田のほうだったのだ。それをなくしてしまったらアメリカ米と味では大差なくなることは、繰り返すように火を見るよりも明らかなことである。

 何れにしても旨さを求めて品種品種と騒ぐのは、愚の骨頂で、餌や肥料、作り方処理方法を変えてしまえば味はまるで変化してしまうことを、生産者も消費者も共によくわきまえておく必要があるだろう。

 味を追及する篤農技術こそ、これからの日本の農業にとって欠かかせないものになる。昔、各地の地主達が、きそって独自の旨い地酒を造っていたようにである。