農村パラダイス『第十二章』

熊本市内の稗田に、熊本医大の皮膚科の教授だった喜島先生の住まいがある。大正一〇年の酉年だがすこぶるお元気だ。出身は東京の板橋だが、奥様の実家が高森酒造という関係で退官後もずっと熊本在住である。

いつだったか大分前に小泉の脚に変な腫れ物が出来て一向に治らない。放って置いたら段々大きくなる。とうとう意を決して医大をおとずれた小泉は、そこで喜島教授の診察を受けクロモ・マイコージスと診断されて切除した。その折、熊本医大で二例目だと聞かされた小泉は大得意で、以来、教授の家に度々出入りするようになった。

その小泉のお目当てが教授宅のホールにある1960年製のベーゼンドルファーのピアノである。
「やっぱりスタインウエイみたいな量産品とは違うぜ」
と分かったような恐ろしい事を平気でいう小泉だ。その自称心豊かな貧乏人の小泉のモットーは、月五万円の国民年金生活だ。但しそれはあくまで基本設計であってオプションは、それぞれの立場で自由にすれば良いというのだから、心豊かにもなれる訳で、一郎にいわせると、そんなのインチキだよと云われかねない。

ところが始末の悪いことにその小泉論に喜島先生が大賛成なのである。もともと自分の脚に出来た腫れ物の原因 を尋ねられた先生曰く
「そりゃあ小泉君、皮膚をきれいにし過ぎてブドウ球菌を減らしてしまうからクロモなんていうカビがとりついたのさ。いうなれば自業自得だな」
そう云われた小泉、怒るどころか妙に感心して
「違いない先生、乳牛の乳房にもブドウ球菌は、いっぱい付いていて皮膚の健康を保っている。共存とはそういうものなんだよ」 とお説教を始める始末だった。

ともあれ小泉の月五万円の年金生活の提唱は今に始まった事ではない。老人の食事は良質タンパクの不足を来さないように心掛けるだけで、あとは干からびないように外観を保つ。働き過ぎない。運動もし過ぎない。そして斃れたら止むということ。

「倒れて後止むとは戦時中の謳い文句だったが、それとは違うもっと自然な意味で、年寄り自身は寝込んでからの介護を心配するよりなるべく寝込まないように心掛けて、その代わり倒れたらそこでお仕舞いにする覚悟だけは必要」ということで成る程それだけなら月五万円で基本的には沢山だ。

食費も、みやざわけんじのように、一日に玄米三合と味噌と少しの野菜だけなら月五千円も掛からぬが、これでは人生70古来稀なりに逆戻り、一日卵三ケ、肉100グラムの月一万円を加えて一カ月一万五千円が食費の基本で、後の衣住などは知れたものというのがその内容である。

それに喜島先生も言い添えて
「活性酸素を押さえて細胞の老化を防ぎ、アルブミンが低下しないように年寄り程、動物タンパクを摂らないと駄目だよ。大体普段の体重が五パーセント減ったら栄養不足だと思って良く、老人は少し太りぎみが長生きするというのが定説になって来ているよ。70歳過ぎたら痩せこけて当たり前では長生きできませんよ。それから夫婦や一人住まいの老人に一日30品目なんて実際的でない。卵などは完全栄養食品です。そういうものを中心に置いて考えたら良い。それに最近は糖尿病が多い。それが一番多い国がインドで、やはり必要な動物蛋白はとらないと駄目です」

喜島先生は臨床医としては内視鏡操作の大家、縫合の名人ともいわれる。そしてそれ以上に老人の栄養問題に造詣が深い。卵はコレステロールが高いからなどと云うと、怒鳴り付けられる
「君ねえ、コレステロール値400位の年寄りが一番長生きなんだよ。それだけ老人にはコレステロールが必要なんだ」