無党派知事の誕生を支えた市民型選挙

2001年3月25日は、千葉県民が21世紀の千葉を変えた、記念すべき日となりました。 今回、今までの私にとって、大仕事であまりに無謀なことであった知事選挙の応援という活動をしました。選挙活動を終え、「市民型」のこの選挙の無党派の風が「金権千葉」「土建屋千葉」「保守王国千葉」「管理教育千葉」と悪名ばかりがつきまとっている千葉を変えていくものであると私は信じています。この選挙について、ここにレポートします。

■選挙の応援をしようと思った理由

この「知事選挙」をやってみようと私が決心したのには2つの理由がありました。

1.現職が退いたことと、各地での無党派知事の誕生という世間の風
今回は現職が退いたことだけでなく、自民党も候補を絞りきれずに分裂していました。また、昨年の長野・栃木と無党派知事が誕生してます。千葉だって、できるはず…と思う人もいました。
2.千葉県の市民派は、事実上協力しあえる信頼関係を築き上げていたこと
知事選を支える基盤となった人的ネットワークは実は10年、いやもっと長い間、この千葉県の中で、ふつふつと沸きあがっていました。それは既成された枠ぐみを超えた、人と人との信頼関係が基本となったネットワークです。
市民型選挙を支えたネットワークはすでに千葉県内で作られており、そのネットワークの熱意に巻き込まれていく形で私も選挙にかかわるようになりました。

■市民派ネットワークはどんな風に作られていったのか

私自身は1993年の市川市の市議補選で、女性議員をふやそうという運動の中、初当選しました。その時、ある新聞記者から、1991年に千葉市で当選していた、岩橋百合市議(現県議)を紹介されました。又、松戸では中田京市議が誕生するなど、いわゆる政党には所属しない「市民派」と呼ばれる女性議員が続々生まれつつあった頃でもありました。

私たちは、文字通り政党に属していない為、政策についての勉強会に参加するようになりました。それは財政研究会・全国フェミニスト議員連盟・介護保険を考える一万人市民委員会千葉等です。その他、人権・環境・教育・情報公開・残土産廃・道路や流域下水道・まちづくりなどについても、各市の市民運動家たちと情報交換や研究を重ねてきました。
又、1997年には、千葉県女性センターで、全国フェミニスト議員連盟の夏合宿を行い、県内自治体の女性政策調査等も実施してきました。そういう活動の中で、私たちは議論を重ねる間柄となり、お互いの気心が知れるようになっていきました。

その一方で、1997年には千葉市・船橋市・市川市の市長選挙が行なわれ、各市で同じように「公開討論会」を実施しようという女性たちのグループもありました。この件についても、党派やしがらみに関係なく、各市のメンバーがお互いに情報交換をしながら、選挙活動を進めていったこともありました。

なんのしがらみもない女性たちは、こういうネットワークを作っていくことが簡単にできるのです。

翌1998年、船橋女性センター主催で、センター指導員をしていた佐藤ももよさん(現船橋市議)企画の、「私の視点で政治を見る」という連続講座が開かれました。中嶋里美さん、船橋で先の公開討論会を仕掛けた、市民団体エポックの野屋敷いとこさん、市川での公開討論会を開催した市川に女性市議をふやそうネットワークの西川園子さんらが講師によばれました。また、千葉女性会議の浦野美智子さん(千葉市の公開討論会を実現したメンバーです)もこの講座を聴講していました。講座終了後、この3人が、2001年に行なわれる千葉県知事選に女性候補を擁立したいという夢を語ったそうです。

1999年の統一地方選挙では、自分たちの手で自分たちの選んだ候補をおし出そうと、県内では市民ネットワーク千葉をはじめ多くの無党派の女性議員が誕生しました。 2000年の衆議院議員選挙においては、自分たちの納得のいく候補を選びたいと、県下12選挙区全てで公開討論会が実現されました。

こうして、一つ一つを着実に進めてきた女性たちを中心としたネットワークは広がり、千葉県を市民サイドから変革の渦を起こしつつありました。そして、2000年秋には、長野県で田中知事が、栃木県で福田知事が「無党派知事」として誕生したのはみなさんよくご存知のことと思います。この千葉県でもとの思いに至ったのは、公開討論会を仕掛けた野屋敷さんたちでした。つまり、2年前の「夢」を千葉県で実現できるだけの土壌はすでに出来ていたのです。

■そして、千葉県知事選挙。現役が退いたこともはずみとなり・・・

2000年11月には「千葉県でも市民型選挙で新しい知事を創りたい」と「21世紀の千葉を創る県民の会」が立ち上がりました。初会合に集まったのは、野屋敷さん所属のエポック・市民ネットワーク千葉・生協関係者・市民オンブズマン・環境団体等の13人でした。しかし、実際に「無党派」を条件に知事候補の人選に入ったものの全員に断られてしまいました。12月13日には諦めムードの中、「残土産廃問題ネットワーク千葉」の井村弘子さん(80才)が「堂本暁子さんはどうか」と声をあげました。彼女はゴルフ場開発問題等で堂本さんとは10年来の付き合いだそうです。堂本さんは環境や女性問題に精通した国際派議員・元ジャーナリスト。全国女性議員サミットや富山の夏合宿にも参加して下さり、ともに活動してきた堂本さんなら私たち全国フェミニスト議員連盟にとっても、文句なしです。

12月22日メンバーは国会議員会館まで堂本さんを訪ね、立候補を要請しました。しかし、そんなメンバーに彼女は県の課題・施策、選挙資金計画、県議会の勢力分布等々の宿題を出しました。県民の会が本気かどうか付きつけられた課題でした。暮れにメンバーは必死で資料を用意し更に立候補をお願いしました。そして又、堂本さん自身も、友人である浅野宮城県知事にこうアドバイスを受けていたそうです。「自分がなぜ知事になりたいのか、自分と対話して決めなさい!」と。

2001年1月に入っても、自民党は候補の一本化が出来ずに迷走していました。そして共闘を模索していた民主党は連合推薦の、別の候補を立ててきました。共産党はいち早く出馬表明しています。3分裂で厳しい状態とりました。

2月に入り、堂本さんの立候補の意志を確認し、私たちはこぞって勝手連を立ち上げました。そして、選挙告示まで1ヶ月、全員がまさにフル回転で選挙戦に突入しました。

■実際の選挙活動、市民派選挙とは?

堂本さんは選挙カーの上らず、ビールケースの上に乗り、落ち着いたトーンで話されました。終わりには必ず聴衆に近づき、相手の目をしっかり見つめて話を聞いていました。これが堂本流でした。茶髪やガングロの若者からがんばっての声が飛び、お年寄りが駆け寄って握手を求め、サラリーマンが手を振ってくれる。チラシを手に取ってくれる人の数はひましに増えていったように思います。「金をもらっての投票でなく、カンパをして一票を投じる」そんな市民型選挙が定着し、集まったカンパは総額2400万円。選挙資金は全て賄えました。

私のほうはというと、仲間に声をかけて説得し、早速市川勝手連に名乗りをあげ、連絡先を公表しました。政治に無関心といわれるベッドタウンの市川市民ですが、そんなこともありません。ごく普通の方々から連絡をいただいたりしました。選挙応援といってもチラシをまいたり、口コミで広げたり、ポスターを貼ったりという地道な活動です。それでも「がんばって」と言ってくれる人、私たちがチラシをまいていると、「私も近所にまきます」といって持っていってくれる人、ちらしくださいと連絡をくれる人・・・このあたりはまさに「口コミの輪」がどんどんと広がっていく感じでした。もちろん「うるさい!」といわれたり、せっかく配ったチラシが駅構内で靴後付きで捨てられていたりして、それを拾うときの惨めさってないんですよ!!

それでもやらされてやったのではなく、やりたくてやった選挙活動の最終日、ボランティアみんなが「楽しい、いい選挙だったね!」言って抱き合ったのです。

■そして、堂本知事の誕生

結果、堂本49万票、自民推薦候補47万票、民主推薦候補43万票、共産推薦候補24万票と、無党派の勝利となったのはみなさんよくご存知と思います!!一方この結果にコメントを求められた自民党の福田官房長官は「政治にあまり関心を持たずに投票する方が多い、そう言う傾向がいいのかどうか…」 現実が見えない方のコメントが正しいかどうか、この記事を読んでくださった方にはもうおわかりいただけたと思います。又、市民運動に根ざさない政党はもう伸びないのです。地域で根をはって活動している人をどれだけつかんでいるのかと、私は政党に問いたいと思います。

全国フェミニスト議員連盟機関紙より転載


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