ブラジルへ来て3年目に入った頃、私は自分が日系社会についてはだいぶわかってきたが、ブラジル社会についてはまだまだよく知らないことを残念に感じていた。そんな私を外に引っ張り出すチャンスを作ってくれたのは、カトリック系の日系老人ホームのベテラン福祉士トミコ・ボーンさんだった。彼女は、老年学の専門家でもあり、アメリカやヨーロッパなど海外の事情にも通じていた。私にとって幸運だったのは、彼女がサンパウロの革新女性市長の福祉分野での助言者の一人となって全市的な活動にも参加していたことだった。
1989年に女性市長となったルイザ・エルンジーナによる市制は何億ドルもの負債を背負ってのスタートだったこととに加え、彼女自身が政治的にはまったく経験がなかったため結果としては大きな変化にはいたらなかった。しかし一方で、かつては市長夫人が代々会長をつとめ慈善団体的な色彩の強かったしのボランティア協会が女医さんを会長にさまざまな女性専門家を入れて活動を始めた。トミコさんはその中心で活躍する一人だった。

その中でも1990年の老人セミナーと1991年の女性セミナーの開催はエルンジーナ市長の業績として評価できるものと思う。私はこの二つのセミナーに参加することで、ブラジルの老人・女性事情を知る手がかりとすることができたし、日本の状況と共通する点も見出すことができた。また、興味を同じくする人々との意見交換も行うことができた。各分化会ことに提言し、市制の一助にするという試みもあった。どちらも女性の専門スタッフが横の連帯をはかりながら実現したもので女性の視点がすべてに生かされていた。

また、援協福祉部による自主セミナーとして、精神科医による「施設における精神衛生看護」という講習会が開催され、私も参加した。サンパウロ州の福祉施設懇談会への参加の機会も得た。個人的にサイコドラマの講習を受けたり国際サイコドラマのワークショップに参加したりした。ブラジル女性団体を訪問して女性事情についてインタビューする機会も持った。多くの仲間達が色々なチャンスを私に与えてくれ、私はできるだけ多くに参加してきた。

そんなとき、私が日本へ帰国する1ヶ月前に開催される「ブラジル国際老年学・老年医学会」で、老人ホームでの仕事について発表してみないかと、スタッフの一人からさそわれた。言葉のハンディがあるのでと最初は躊躇していたが、彼女の熱心な誘いに応募してみることにした。発表者の一人として選考され、スタッフの協力を得て、小論文を書き上げ、スライド作成などの準備をした。帰国の準備も後回しに、私は自分の4年間のブラジルでの仕事の集大成としてこの発表に全力を注いだ。この論文は私のブラジル生活の宝物となっている。

私はこの論文を書きながら、ブラジルの日系社会における福祉活動を振り返ってみた。福祉先進国といわれる北欧や、ボランティア活動のさかんなアメリカと異なり、福祉更新国の南米ブラジルでの福祉活動体験では、日本ではあまり目新しいものではないだろうと思っていた。しかしサンパウロという巨大都市の中の日系社会は、医師・看護婦・福祉士・心理士・作業療法士・施設関係者・そして行政関係者といった専門家たちとボランティアがかかわる、まさに医療・保険・福祉の連携が実現されたコミニュティとして機能していた。
日本でも高齢化社会へ向けて行政関係者の間でこの「医療・保健・福祉の連携」が半ばお題目のように唱えられて久しいが、具体的な施策となって見えてこないのは残念だ。その意味では、私がブラジルで多くの専門化チームの中で地域福祉に取り組むチャンスを得たことは貴重な体験になったと思う。

こうして私は思う存分ブラジル生活を満喫し、帰国することになった。長女の高校受験のため夫より一足早めの帰国である。ブラジルは相変わらずインフレ・貧困・汚職・政治腐敗で治安は日ごとに悪くなるばかり。我が家のアパートの前でも2件の発砲事件が起こり、私はその一件を目撃した。結局最後まで私はブラジルという国を好きにはなれなかった。しかし、ブラジルの広大な自然とそこで出会った多くの人々はみな、今も深く心に残っている。


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