厚生ホームは、一九七一年にサンパウロで設立された。戦前、一九三〇年代に20代で移住してきた一世たちが四〇年後、いっせいに老境に達し、移住者の老人問題が発生したという。身寄りも無く、職も無く、病弱になり、生活を維持できなくなった例が多い。また身寄りがあっても家族関係が悪化し、同居できない人も保護の対象である。
移住者の中には、単身渡伯や構成家族の一員として来た人もいて、その後配偶者に恵まれず、独身を続ける人や、妻子に先立たれて一人暮らしとなった要保護老人も多い。これらの人々を世話する施設の必要性から、当時、援協本部事務所に近い建物を借りて発足した。老人ばかりではなく、時には、病院から退院した患者のアフターケアや、浮浪者の一時収容保護場所としても機能していた。現在の契約ペンソンMのような場所だったといえるだろう。
しかし、家賃は高く、収容人数も少ないことから、一九七四年サントスに移転したということだ。移住者が船で運ばれていた時代、新着移住者のための施設だった「移民の家」が、海外移住事業団から払い下げられ、老移民の施設となったわけである。初めの頃の入居者の平均年齢は60歳くらいだったのが、私が訪問を始めた一九八九年には、高齢化し72歳となり、病弱者やボケ老人も増えてきていた。
かつて多くの移民船が到着した港町サントス。今でも残る古い町並み
老朽化した旧サントス厚生ホーム。戦前の新着移住者のための「移民の家」は、労移民の施設となっていた
ちょうどその頃、当時のホームが老朽化したため、新館の建設が始まろうとしていた時だった。ホームでは、職員たちの努力にも関わらず、四四名の老人たちは、日々、暗い雰囲気の中、単調なハリのない生活をしていた。たまに来る各種の慰問団の他には、これといった日々の活動プログラムもなく、互いの人間関係も閉鎖的で、毎日三度食べて、それ以外はごろ寝といった具合。金もない、身寄りもない、健康もすぐれない人々が、行く所なく辿り着いたという感じで、「人生の敗北者」のような影を引きずっていた。
また、精神的な障害を持つ人も多く、正常な会話ができないことも暗くなりがちな理由だ。そんな老人たちにとって最大の楽しみであるはずの三度の食事は、経営上の困難から、質も量も決して満足のいくものではなかった。ブラジル人の調理人の炊く白米はブラジル風にポロポロ、肉料理はかたい。食料の多くは、現地日系社会からの寄付なのだが、上手に管理するための貯蔵、冷蔵冷凍の設備がなく、腐らせたりするのが現状のようだった。食事の時間に集まってくる人々の間に会話はほとんどなく、ステンレスの皿に一緒盛の食事を黙々と食べ、解散するといった有様だ。衣食住を提供してもらっているのだから、不満はたくさんあるけれど、ぐっと心の中にこらえて生活しているという感じがしてならなかった。
ホームの解体工事が始まると、残された半分側に老人たちは詰めこまれることになった。解体時のほこり、騒音、足場の悪さ、そして、夏に向かって蒸し暑さと、二重三重の困難のなか、私たちの活動が始まった。
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