援護協会福祉部での仕事になれるにしたがって、精神分裂症の患者、アルコール依存症のペンソンの住人、乞食暮らしを繰り返す若者たちの社会復帰といった、専門家ですら難しい仕事を分担するようになった。どれもこれも、やってもやっても先の見えないケースばかりで、正直、私はいささかうんざりしていた。しかし一方で、前年の独居老人調査が評価され、日系の老人週間イベントでその発表をしたり、老人会や婦人会の会合でも、日系独居老人の実態について話をする機会を得ていた。
それでもやはりなぜか、
「この国、好きじゃない」
と、つい口をついて出てしまう。ブラジルへ来てから二年。それなりに充実してはいるのだが日本へ帰りたい気分になっていた。
インフレにつぐインフレ。人々の暮らしはよくなるどころか、ますます苦しくなっていく。福祉部の仕事で接する極貧の世界。街には浮浪者やストリートチルドレンが増えつづけている。強盗・殺人も日常茶飯事で拘置所には犯罪者があふれかえり、しかたなくどんどん釈放しているとか、ひとつの房に彼らをつめこみすぎて酸欠で死亡したとか、
「いったいこの国はどうなっているんだ!」
と思う日々が続く。
何一つ明るいニュースはなく、国民の多くは満足に教育を受けることができず、人種差別は歴然と存在する。貧富の差は大きい。貧しい北部からどんどん都市部に人が流れ込み、スラムはますます拡がり治安は悪化する。しかし・・・政府にはなんの手だても打てない。

街も郊外もすさんでいた。毎日の暮らしも極度の緊張を強いられていたのであろう、私自身もくたびれていた。そんな1989年11月、ブラジルでは20数年ぶりに大統領の直接選挙が行われた。選挙は労働党の女性市長、ルイザ・エルンジーナ誕生の波に乗る労働党党首のルーラと、中道右派のコロールの対決となった。テレビ討論会での二人のディベートは白熱し、国民もこの対決の行方について熱心に議論していた。テレビを使った選挙PRではコロール陣営のほうがはるかにお金をかけているようだった。識字率の低い国なので投票用紙の見本が配られ、「ここにしるしをつけよ」などと教え込まれていた。

人々はそれぞれの候補者を応援するデモに参加したり旗を立てた車を連ねてクラクションを鳴らして走り回ったりと大騒ぎである。ある日、車で外出しようとした私たち家族は、労働党ルーラ候補の支援デモに遮られた。いつ着れるともしれない人の波に、運転席の夫はいらいらしていたようだが、私はそのデモのうねりを楽しんでいた。私はひそかにルーラを応援していた。デモに参加しているのは黒人やモレノとよばれる混血が多かった。貧しい階層の支持者が多いのだ。彼らが政治を動かす時がきたのかと思うと、やっと救われる気がした。

しかし結果はルーラが惜しくも敗れ、コロール政権が誕生した。新政府が発足し、とにかく国の再建の夢を新大統領に託した。インフレ経済の立て直しに立ち向かうのは驚いたことに40歳そこそこの女性経済大臣だった。ところが真っ先に新政府が行ったのは突然の預金凍結というショック療法だった。家や車を買うたおめにこつこつとためてきた預金は、ごく一部を除いて引き出せなくなった。そのショックで多くの人が心臓病で倒れたという。

預金凍結によってインフレを一時的に無理やりおさえこんだものの、物価はやがてまた、じりじりと上がっていった。そんな時、8300億円にも上る社会保険院の公金横領が明るみにでた。援護協会のスタッフも毎日関わっている福祉施設や公的医療機関は、社会保険院からの毎月の給付が何ヶ月も遅れたうえ、やっと支払われた金額がインフレによる実質目減りで患者やスタッフを維持することができなくなり、閉鎖に追い込まれたりした。

状況は好転しなかった。公立病院はいつでも貧しい病人たちであふれ、6時間待ちの3分診療である。中産階級以上の人々は私立病院を利用し、彼らは「公立病院は病気が伝染する」といってその不衛生を非難する。5歳以下の子供の30%は栄養失調で、年間所得が150〜350ドルの世帯が全体の40%にもなる。リオやサンパウロの人口の半分はファベイラと呼ばれる丘の上のスラムに暮らしている。ここは大雨でも降ろうものなら土砂崩れで大勢が生き埋めとなってしまうところである。
「ああ、やっぱり新政府もだめか・・・」
私はため息をつくしかなかった。


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