N氏はサンパウロ近郊都市の知人の農場の小屋で一人暮らしをしていた。妻は二度にわたり精神病のために入院。そして死別。その後アルコール依存が激しくなり、ほとんど小屋でピンガに浸る日々が続いたようだ。援協に運び込まれた時は、このクライエントをまずどこへ連れて行くべきか迷うほど、多くの症状をかかえていたという。
全身衰弱、歩行困難、皮膚疾患、アルコール依存で幻視幻聴がみられるほど脳もやられている等々。そこで医師と相談のうえ、精神病院へ入院することになった。
その間、事務局長と福祉部ではN氏のケースを検討し、ブラジルに全く身寄りの無いことから、病状が落ち着いたら、国援法を適用して、日本の家族の元へ帰すのがよいだろうということになった。
日本には86歳の母が四国に、68歳の姉が九州にいるというので、姉の方と連絡をとり、身元引受人の承諾の手紙を得た。事務局長は領事館に国援法適用の手続きを始める。同時にN氏の友人や彼の出身賢人会も協力してくれるということになった。

一方本人は病院で日ごとに体力は回復しつつあるものの、妄想や幻聴に悩まされるなど精神的に不安定で、日本帰国の決心がつかない状況だった。

そんな状況の中で、1989年1月から、私はその精神病院に毎週訪問し、N氏の心理面での援助をするよう依頼された。ブラジルの精神病院には、日本語で彼を理解できるひとはいなかった。サンパウロから地下鉄とバスを乗り継ぎ、1時間半ほど行ったところに病院がある。午後の面会時間に鉄格子の外から守衛にN氏の名を告げると、看護しにかかえられて彼が足をひきずるようにして出てきた。錠前が開けられ、私は彼の歩行を助けることから始めた。会話の中のほとんどが妄想で、現実から逃げているようでもあり、ともすれば私自身もその幻想の世界に引きずり込まれそうなこともあった。

「気分のいい日は、病院内を散歩するけれど、まだ壁づたいでないと不安。気分の悪い日は一日中ベッドにいる。以前はすべて目に映るものが揺れて見えた。今は少しよくなったけれど心がズンズンする。自分はいつも神と対話している。神にそむくと心が痛むから、よく考えて行動しないといけないんだ。前は心に背いてひどい目にあった。故郷のツノ山にいるツノ様という神が、この間黒い頭巾をかぶって現れた。酒を飲んでいたな。酒は飲んでもいいとニコニコしていた。この足がふらつくのも、酒飲めば治るんじゃないかと思うんだが・・・」
アルコールでこうなったとはっきり本人に伝えるが認めない。
「自分は太陽を直視できる。太陽をじっと見ていると周りが暗くなって、太陽だけがはっきり見えてくる。太陽は全てを創ったお母さん。
あるときすごい美人が倒れていた。どうも殴られたらしい。おかっぱ頭の童女がその美人の胸を開け、くさりを出してはまた入れる。すると美人は息を吹き返した。
こぬか雨。音楽が聞こえる。。。。」
私はあえて話しを現実に戻し、日本帰国の話が進行中であることを伝えた。
「早く、決めたいが、ツノさん(神)がいいと言わなきゃ、帰ってもうまくいかん」
と答えた。
当時、精神安定剤は投与されておらず、ビタミン剤のみだった。翌週も妄想の話は続く。
こうして悩み迷うクライエントに共感しながら、それを認めるような対応をした。すべては神まかせだという彼に、自分で決心するよううながす。

訪問を始めて2ヶ月、クライエントの信頼関係も出てきた。彼は帰国を決心する一つのきっかけとして「ブラジルの仕事」について語るようになった。
「前は左眼だけに絵が映っていたのに、今は右目にも移り、視界が180度広く見える。これは心が映っている。
自分がブラジルに来た意味は、ブラジルの土地に関係すると思っている。殿サマの神がブラジルに姿をあらわすというのでやってきた。ブラジルの土地でないと殿サマの神は出ない。神の出る場所はここ(病院)じゃないか。もう神が出るころじゃないかと思う。出てくれると助かるなぁ。これがブラジルの用事だから。これが済まないと何しにブラジルへ来たのかわからなくなる。今かえってもお母さんは喜ばない。神が出れば母も喜ぶし、世界もよくなる」
彼がブラジルへ来るとき、家族はみな反対したそうだ。しかし、7年たったら帰ると約束して単身渡伯したという。何も蚊も失って帰国の理由を探して悩んでいるように見受けられた。彼は突然
「神はあなたじゃないかと思っている。神はどんな人間の姿をして出るかわからんもの。あなたじゃないですか」
私は一瞬、妄想の世界にひきずりこまれそうになった。
帰ってきてから静子さんのスーパーバイズで
「石崎さん引き込まれてはだめです!しっかりしないと!」
と強く言われた。

あまりに妄想が強いので、静子さんから病院の医師に彼の妄想の状況を説明してもらうようにした。彼は心の状況をブラジル人医師やスタッフに説明できるほど、ポルトガル語がしゃべれないのである。その後、抗妄想剤がビタミン剤とともに投与され、妄想も弱まり、より現実にと本人の関心が移ってきた。

それを機会に病院外に少しづつでる経験をさせ、社会復帰の一助にしようということになった。

始めての外出。心理士の静子さんの面接。彼女は日常生活に適応できるよう外出を試みているとN氏に説明し、自分でも歩行訓練に励むようすすめた。

その後彼の関心は一日もよくなって働きたいということに移り、妄想についてはあまり語らなくなった。歩行状態が不安な彼が飛行機に乗ることができるようになるまで福祉部では退院後のリハビリ施設を探すことになった。サントス厚生ホームという、援協の傘下の老人ホームに一時入居させ、近くの病院で理学療法を受けることとなった。

サントスの施設には日本の姉からの電話が入ったり、手紙が来たりするようになった。こうして国援法のおりる日を待ち、N氏は歩行訓練に励むようになった。

遅々として進まなかった領事館の手続きが終了したのは施設入所後11ヶ月後。ブラジルを離れる際には日本の断酒会の方がブラジルに来ていたので帰国の際に同行してもらうことにした。N氏は県人会の友人たちや福祉部のスタッフに送られてサンパウロをあとに日本へ帰国した。

その後N氏は日本で生活保護をうけ、適当な病院に入院できたと連絡があった。N氏の一年以上にわたる治療につきあい、スタッフは多くのことを学んだ。


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