独居老人の調査を始めて一ヵ月が経った。ああ、こんな事ってあるのだろうか。貧しくて、汚くて、みじめで…。初めて訪れたペンソンのショック。路上に日増しに増えてくる乞食。レストランのまわりをうろつく浮浪児。道にうずくまる浮浪者。ああ、いやだ!逃げ出してしまいたい!
 私はついに胸の中に押えていたものを夫の前で噴出してしまった。
「これが、あなたのかつてのあこがれの国ブラジルなの?」
ブラジルは、大学でポルトガル語を専攻した夫のあこがれの地だった。
「こんな仕事するなって言っただろう。見なくてもいいところを見て、しなくてもいいことを始めて、今さら、文句言ったって仕方ないだろう」
「でも、『私はやります』と言ってしまったの。もう、始めてしまったの。この国を正しく理解するためには、上の世界も下の世界も見なきゃならないはず。でも人口の六〇パーセントがまともな家に住んでいないという、その実態を目の前にして、私はもう、うんざり!」
「世界中にこんな場所はたくさんあるさ。もっとひどい国だって…」
「そうね。そうかもしれない。私たち日本人は日本しか知らないからそう感じるのかもしれない。東南アジアも、アフリカも貧しい。こんなことで失望していたらしょうがないのかな…」
 奴隷解放からまだ一〇〇年しか経っていない国。南米一の工業国にして、発展途上国。巨大スーパーマーケットにあふれんばかりの品物。超高層ビル群、車の洪水、そして公害。ファベイラと呼ばれる丘の上のスラム。そしてカーニバル。この冬の寒空にダブダブの大人物のTシャツ一枚で裸足でかける子供。マクドナルドで物乞いする浮浪児。道端にも布と段ボールにくるまって寝ているアル中の浮浪者。ああ、この国、せめて冬がこんなに寒くなかったならまだ救われるのに。ブラジル…。
 私は、あと何年かすると、この国が離れがたい大好きな国になるのだろうか。この国の実態にはしっかりと目をつぶり、貧しくて汚くて、危険な面から遠ざかり、ゴルフだ、テニスだ、レストランだ、旅行だと忙しく動き回る日本人たち。そして、この私もその一人。なのに、それがいやで日本人社会を飛び出して、飛び込んだ極貧の福祉の世界。何とも中途半端な私の立場。ああ、カオス(混沌)の真っ只中で私は大混乱だ。
 ビジネスマンである夫の世界は社会の上の方の世界。私の働く福祉の世界は極貧の世界。でも、どちらもブラジルなのだ。表と裏の顔。
 そんな混乱の最中、ブラジルの日系社会では、移民八〇年祭を記念して、日伯関係の国際シンポジウムが開催された。会議は、政治・経済・文化・福祉などに分かれて開かれた。夫は経済関係の会議に、私は福祉関係の会議に出席した。夫婦でそれぞれのブラジルを見つめ直すことができたこのシンポジウムのおかげで、私たちは表と裏の顔をもつブラジルを実感した。
「トータルな姿でブラジルを見つめていくことができる。何とか乗り切らなくては」
と私は思い直した。


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