後日、M氏は私を訪ねて事務所に来ていた。
「この間の調査の結果、どうなりましたか。私の状態見たでしょ。それで、どうなりましたか」
と暗に援助金を示唆した。私たちスタッフのミーティングでは、かれには援助金は出せないと決定していた。長年、金がすべて酒になってしまうという経験をしていたからだ。しかし、老年金の大半が下宿代に消えてしまうのなら、少なくとも一日一食は弁当を支給しなくてはならない。しばらくその方法をとっていたが、次第にその弁当も他人に売ってしまい現金化して酒を飲むようになった。そこで下宿屋の近くの食堂で毎日一回食事ができるようにした。そうすれば酒に変わることなく、きちんと食事させることができる。
 しかし、年齢、ぼや騒ぎ、生活の様子などを考えると、一人暮らしをこれ以上続ける不安は大きい。
 そこで、家族と話し合って、老人ホームへ入れる方向で検討してみることになった。まず私はM氏の息子に会って話さなくてはならない。M氏は、息子の住所は知らないが行き方はわかるという。とにかく、息子宅のある郊外の町まで彼の案内で行ってみることにした。
 市バスで小一時間走った後、バスを乗り換えるため、町なかを歩く。道の両側には小さな商店が並んでいる。物価は中心地より安いようだ。道路には乞食や浮浪者がいる。火傷のあとのただれた上半身が痛々しい男が物乞いに座っている。少し行くと半身裸の男がうずくまっている。足は萎え、手は異様に曲がっていて一人で歩くこともできない様子。前に空缶を置き、行きかう人々が小銭を投げ入れる。
 M老人は、そんななかをしっかりした足どりで前へ進む。私は、半分おどおどしながら彼の後に続く。次のバスに乗って一〇分ほどで目的地に到着した。彼の息子の家は、そこから少し坂を上った所にあった。
「ここです」
と言われた家は、小ざっぱりとしたしっかりした造りの家だった。庭で一人のおばあさんがブロッコリーをむしっていた。そばに混血の幼な子がいる。
「援護協会の者ですが、M氏について御相談したくて伺いました」
 用件を述べると、急に表情が険しくなり、何しに今さら…という感じ。それでも、家の中へは入れてくれ、居間のソファをすすめてくれた。M老人の現状を説明し、息子の援助を求める。彼女はこう言い返してきた。
「私は前の夫との間に五人子供がいて、その夫が亡くなってから、子供をかかえ、途方に暮れている時、同県人のMと一緒に暮らしたんですよ。ところがこの人は家を出たり入ったり。酒は飲むし、子供はかわいがらない。ろくに仕事もしないから、金も家計に入れなかった。私は逆に殴られもしました。ファコン(包丁)で殺してやろうと思ったこともありましたよ。この人が道ばたでのたれ死んだって、私には責任ないね。子供らも同じ気持ちでしょ。ここで一緒に住んでいるのは前の夫との子です。Mとの間には三人息子がいるけど…、この隣りにMの長男が住んでいたけれど、今は他に女をつくって、この子を置いてどこかへ行ってしまった。仕事場も知らんし、行方もわからない」
 私はがっかりしてM氏とともにサンパウロへ帰った。結局、家族の同意は得られないので、本人の意志を確かめるため、サントスの老人ホームの見学に連れていった。しかし、長年の気ままな生活をやめる気もなく、また酒の制限もあるので、一人暮らしを続けると言いはった。私たちは仕方なくしばらく様子を見ることにした。
 その後も、M老人は時々、福祉部を訪れる。鍵を紛失したとか、年金を銀行から受け取った帰り道に、三人組のトロンバ(強盗)にひったくられたとか、いろんな理由を考えては、金銭援助の要求をくり返していた。
 ところが、二年程経つと、体も弱くなってきたため、本人と相談の上、やはり、老人施設へ入ることになった。しかし、八十余年を自由気ままに生きてきたM老人にとって、施設で暮らすことは、まるで牢屋にいるように感じたのかもしれない。入所後間もない頃、彼は塀をよじ登り、脱走を試みたのである。しかし、飛び降りた時に骨折し、結局入院するはめになった。
 サンパウロの救急病院は入院患者であふれ、彼は、病室ではなく廊下に補助ベッドという入院だった。M老人はそこで回復を待たずにこの世を去った。私たちにとって、あっけない最期となった。自由に生きることの方が彼にとっては幸せだったのかもしれないと思うと、胸が痛む。本当の福祉とは何なのか、考えさせられる出来事だった。


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