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- こうして、私の長い一日が終った。帰りのバスに、半ば放心状態で乗り込み、わが家にたどりついた。ショックだった。ひどく混乱していた。こんな世界があるなんて信じられない。自分が住む世界とはまるで別世界。なにもかも…。私は家族の前では何とかこのショックを押えていた。
週末、事務局長の小畑氏からスーパーバイズを受ける。
「びっくりしたでしょう。でも、自分に時間があったらやりたいと思っていたことなんです。ぼくの代わりにあなたにやってもらいたい。一人暮らしの老人たちを訪ね、その心の奥深くにある不安や淋しさを聞いてやってほしい。それだけで、かれらはどんなに救われることか。ぼくもこんな経営管理の仕事ではなく、実際のフィールドワークがしたい。しかし、今は時間がまったくない。だからこそあなたにやってもらいたい」
と、日本にいる父に似た丸顔で、どっしりした体いっぱいに情熱をあふれさせ、私に語る。
「そして、あなたが見たり聞いたりしたことを、私見を混じえず記述してほしい。読み手にその情景が浮び、彼らの声が聞こえるように書いてほしい」
お年寄の話をただただ聞くだけで、何の役にも立てないと無力感を感じていた私に彼は大きな力を与えてくれた。
「あなたの方も、かれらから得るものは大きく、何事にもかえがたいはず。駐在員夫人の華やかな生活をしていては、知りえないものを知るわけだし。いつか発表してごらんなさい。出会う人の一言一句、すべての情景を記述して」
私にとって恐しかったトロンバ(強盗)の出る裏通りも、柄の悪いバール(立ち飲み酒場・カフェ)も、どろぼう長屋のようなペンソン(下宿屋)も、この励ましの言葉でふっ消えた。私はもう、うつむいて「主婦です」なんて言わない。しっかりと相手の目を見て、自分のしている仕事について話ができるはず。
そして、もう一つ、小畑氏はつけ加えた。
「老人たちと話をすることで、その背景にある、二世、三世との関わりを社会学的に見てほしい」
もう、こうなると、ゾクゾクするほど興奮してしまう。福祉、女性、子供、老人、家族、これらがブラジルという社会の中で、複雑に絡み合っていて、今まで別々の分野に見えていたことが、一つになる。
この日系社会に、老人という分野から入り込むことでその絡み合う状況が見え、それをほぐしていくことすらできるかもしれない。私が、今まで関心を持ってきたいろいろなことが、今まさに一つのトータルな対象として、私の前に現われた。それも実践の場で!私はいつになくやる気になっていた。
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