Aさんは、隣りに住むOさんを紹介してくれた。Oさんの部屋は、Aさん宅に行く途中、その前を通った。その時、いったい誰が来たのだろうというように、眼鏡の奥から不審気な目つきでこちらを見ていた、その人の部屋だった。
 開け放たれた通路側の窓(と言っても一つしかない)には、古びた毛糸編み機が一台、でんと置かれていた。編みかけの凝ったセーターがぶら下がっている。ここはAさんの家よりさらに狭く三畳ほどだろうか。私が訪問の意を述べると、どうぞと言って編み機の横の丸椅子をすすめてくれた。そして、ゆっくりした口調で話し始めた。
「去年の九月ですよ。普段から座骨神経痛だったのが、ほれ、あの物干し、あんな風に高くなっとるでしょう。あそこのブリキに足をひっかけて、ころんじゃったんですよ。痛うて痛うて、援協の診療所かバンデイランチ病院(公立で安価)へ行こうと思っていたら、近所のおばさんが、病院に行ってジェッソ(石膏)したかて治らん言うて、ジャバクアラ地区の柔道の先生のとこへ連れていってくれたんですわ。そこでマッサージしてもろていると、ボキッいうて、骨折してしまった。そこでまたバンデイランチ病院へ行って四時間のオペラ(手術)。
 退院してから、コチア市にいる甥の世話になったんです。私の妹の子ね。この子が本当にようしてくれて。ノーラ(嫁)がブラジル人なんだけど、看護婦しとってね。言葉はようわからんけど、よく面倒みてくれました。そこに三ヶ月ほどいて、サンパウロに戻ってきたんです。親からもらった体をこんなにしてしまって…。毎月病院に通って、薬もらっていました。痛いと言うても、医者は、若いもんならすぐ治るけど、あんたは年とっているから一、二年はかかると言うんです。
 毎日決まって、朝の11時から午後3時ごろまで傷が痛むんです。曇りや雨の日、寒い日は体がとても冷えるんです。私はこうして編物をしてるから、コレ自分で作るんです」と言って身につけている毛糸の黒のロングスカートと、その下の青い毛糸の長ズボンを見せてくれる。
「こうしてぬくうしとかんと、とても冷える。冷える人には子供はできんそうですな…」
と淋し気に言う。
「私の主人は、結婚しても私に子供ができないんで逃げちゃったんですよ。18歳でブラジルへ来てね、移民は男の人がほとんどだったから女は少なかった。女なら誰でもいいという感じで結婚したんですよ。でも、子供ができないんで逃げたんだ。
 前に医者が言ってましたよ。胸のシャッパ(レントゲン)を撮ったら、骨が何本か溶けて無いって。小さい頃熱病にかかったことがあるだろうって言うんです。私は覚えとらんけど、そのせいで骨が溶けたんだろうって。小さい時、熱で何も食べられん時、母が熱いうどんを作ってくれた覚えがあるから、あの時だったかもしれん。それがきっと卵巣の方に降りたんや。卵巣をオペラ(手術)した時はもう膿みだらけやったと。それで、もう子供は出来なくなってしまった…。
 18歳でブラジルへ来て、働いてばっかりだった。男みたいにカバーリョ(馬)引いたりして働いてきた。甥のノーラ(嫁)が言ってたよ。おばさんは若い頃、無理して働き過ぎたんだって。だから、今こんなになっちゃったんだって。看護婦しているからわかるんだね。私の姉さんは体が大きいけど、私はこんなに小さいでしょ。それが男と同じように働いてきて…。惨々苦労してきたのに…。何も悪いことしてないのに…親からもらった体、こんなにしてしまった…。子供でもいればねえ…」
「ソブリーニョ(甥)は時々訪ねてくれるのですか」
「ええ、月一回病院に行く時は土曜日に車で連れて行ってくれたんです。あの松葉杖もこのふとんも新しく買ってくれました。本当によくしてくれるんだよ。妹はピニェイロス地区に、他の子と住んでいるんです。お城みたいな家さ。何かあったら、いつでも連絡できるようになってる。甥はここの家賃も払ってくれてるんですよ」
「今、心配な事は?」
「オペラ(手術)の傷の痛みと、前からの座骨神経痛だね。足がふらふらして。私は立ってこうして編物するでしょ。痛くなると、この椅子に座ってやるんですよ」
「編物の収入はありますか」
「いくらかありますよ。人に頼まれて編むんだけど」
壁にかけてある洋服類の中に、毛糸物がたくさんある。
「これも、これも、このふとんも私が編んだんです。若い頃から編物が好きで、先生について習ったんです。その先生がこの編み機を私にくれたんです。何でも編みます」
「年金はもらっていますか」
「ええ、私はサンパウロに来てから、日系の映画館に九年間勤めたんです。そこのドーノ(主人)が親切で、手続きを勧めてくれたんで、今は毎月、最低給料一つ分もらえます」
日本人街には日系の映画館があったが、最近、ビデオの普及で人気がなくなり、館は閉じてしまった。
「月一回、銀行に年金を受け取りに行くんですよ。でも、今度ころぶと、足に入れた金属がとび出してきちゃうからね。骨と骨とを金属でつないであるんです。それが痛いのね。若けりゃ、すぐになじむんだろうけど、私はまだ痛む。医者はね、痛むなら、はずすこともできるって言うけれど、はずすには、またオペラせにゃならんもんね、年取ったらオペラはしちゃいかん。たいへんだ。後もよう治らんし」
「日常の買物はどうしてますか」
「このペンソン(下宿)のじいさんに頼むんです。少し手数料やるんです」
 話は尽きないが、また様子を見にくると約束して立ちあがった。
「これから、寒くなるし気をつけて」
と言うと、壁にダラリとぶら下がった洋服を手でよけ、その下にある水枕を指して、
「ほれ、これ。この中に熱い湯を入れるとぬくい。毎晩そうしてます」
と微笑んだ。いつの間にか、眼鏡の奥の不審感も消え、やさしい目になっていたことに安心して帰途についた。


ご意見、ご感想をぜひおきかせください。
Email:takayo-i@msh.biglobe.ne.jp

Homeに戻る