渡伯して1ヶ月が過ぎた頃、私は日系邦字新聞の片隅に「精神障害者の社会復帰について」の発表会があるという記事をみつけた。早速新聞社に問い合わせてみた。日本語で行われるのかと尋ねると、ポルトガル語と日本語と半々でしょうとの答えだった。なんだかよくわからないが、とにかく参加してみることにした。土曜日だったので夫に子供を見てもらって、と考えていたが、夫は付き合いのゴルフとかでさっさと出かけてしまった。どうしても参加したい私は、小学生の娘たちを連れて出席した。
発表は日本語の人、ちょっとたどたどしい日本語の人、すべてポルトガル語の人とさまざまだ。おかしな正解だと思った。生意気にも質問などしている子連れの変なおばさんは、一体何者かというように、終了後、初老の男性が私に声をかけてきた。
「あなたはどうしてこんなところへいらしたのですか」
「私は日本で福祉と心理学を専攻した者ですが、駐在員の妻として先月渡伯してきました。何かボランティアをしたいと思って、今日ここへおじゃましました」
「ぜひうちの協会へきてみなさい。いろいろ仕事はあります」
彼こそ、その後私がお世話になる、サンパウロ日伯援護協会事務局長の小畑博昭氏だった。
「やる気があるなら、あなたに机と椅子を用意しましょう。ケースを二つ三つ担当してもらい、ケースレコードを提出してもらいましょう。福祉の制度や施設については、これからその都度勉強してもらいます」
失敗も挫折もあるだろう。でもせっかく得たチャンスを逃しはしたくない。そう決心した。目の前にさっと光がさしてきた気がしてとてもうれしかった。
こうして私は、1988年1月から、サンパウロ日伯援護協会の福祉部へ通うことになった。
サンパウロ日伯援護協会(通称援協)は、1959年1月に設立され、すでに30年近く活動を続けてきた。ブラジルの日系移民の歴史には二つのピークがあった。ひとつは1930年代、もう一つは戦後である。援護協会は戦後移民の早期独立と定着を支援するために設立され、1973年には、ブラジルの社会福祉法人としての認可を受けている。会の運営は40名の理事によって行われれ、事務局のもと、福祉部・診療所・総合病院・結核診療所・精神障害者社会復帰センターおよび二つの老人ホームがある。
私は福祉部に所属した。手始めにこれらの施設を見学し、過去のクライエント(来談者)の何千というケースレコードを読ませてもらいながら、福祉部職員の日々の活動を見てすごしていた。福祉部は、いわゆる日本の福祉事務所のような働きをしている。毎日いろいろなクライエントが訪れる。日系二世の職員たちは、日本語とポルトガル語を器用に使い分けながらクライエントに対応していく。そして暇をみては、私に福祉部の仕事について説明してくれた。
ケースレコードを読み出した私は、面白いことに気が付いた。ごく初期のころのものは、すべて日本語で記録してあるが、そのうちポルトガル語が混じる。例えば
「CLIENTE(来談者)をHOSPITAL(病院)に連れて行くが、VAGA(空室)がないので・・・PENSAO(下宿屋)に宿泊する」
といった具合でこちらとしては非常にわかりにくい。次の時代になると、はじめから終わりまでポルトガル語で書かれているので、読むには辞書を片手に取り組まねばならない。アルゼンチンでは「話せるスペイン語」の勉強をしてきたが、ここでは「話せて読めるポルトガル語」を自分の目標にしなくてはならない。特殊な専門用語(例えば医学用語や心理学用語、福祉制度の用語)も覚えなくては鳴らない。私はボランティアをはじめると同時にポルトガル語の学校にも通いだした。そして極力現地の新聞を見るようにしていった。
私も、そして夫や子供も徐々に生活のリズムがついてきてサンパウロという街にもなじんできた近所ならバスや地下鉄に乗って動けるようになっていた。