アルゼンチンに赴いた家族


結婚して、それから
朝、夫を会社へ送りだし、ひとしきり家事をこなしたが、まだだいぶ残しがある。二人の娘達はのんびりと春休みの寝坊を楽しんでいるのか、まだ起きてこない。わたしは、娘たちにし残した家事を頼むメモを置いて、市民運動の仲間の待つ女性センターへ自転車を走らせる。 学校が始まると、土曜日の家事は夫の受け持ちとなる。いつの間にか、わが家の家事は時間に余裕のある者が受け持つという、暗黙の了解のような決まりができあがっていた。今でこそ、ようやく家族のこうした協力で、私達の家庭は何とか無事にまわっている。おかげで私の地域ボランティア活動も支えられている。

私も自分の生き方を丸ごと認められるようになったのは、つい最近のことである。人それぞれの生き方があって当たり前。自分の生き方を自分で選択しながら、私にはいつも迷いがあるけれど、それが私。そんなすべてが自分の人生。そう思ったとき、ようやく肩の力がふっと抜けたような気がした。そう思えるようになるまで、何年かかっただろうか・・・。

私は、戦後、物が豊かになりつつあった高度経済成長期に育った。男女平等教育のもとで進学し、大学では社会福祉を専攻した。それでもやはり結婚にバラ色の夢を抱く娘となり、学生時代に知り合った夫と迷わず結婚し、主婦となった。ところが妊娠してから体調がすぐれず、入退院を繰り返していた。そんなとき、夫の海外出張の話が持ち上がった。海外営業という仕事柄、当たり前のことではあったが、出産を控えて不安がよぎる。
「きっと間に合うように戻るから・・・」
という言葉を残して夫は旅立っていった。しかし、出産の日にはついに間に合わず、雪の降る朝、長女が誕生した。その後も運悪く長期の出張と出産が重なり、次女の出産にも夫は不在だった。
「いったい会社って何なんだ!」
そう思うのは私だけだろうか。私は決して夫を恨んではいない。彼なりに精一杯努力していることは痛いほどよくわかる。しかし、どうしようもない不満がつのる。
「これが企業戦士の銃後の守りなのだろうか?」
1980年。私は28歳。二人の娘の母親となり、日夜育児の鬼と化し、狭い団地を這いずり回り、腰は痛い、肩はこると訴える始末。バラ色の夢とはかけ離れたまさに「半径500メートルの世界」に閉じこもることになった。

二人の娘は入れ替わり立ち代り風邪をひいてくれた。ただの風邪とはいえ、毎月のように病院通い。おんぶに抱っこで自分自身もふらふらしながら病院に駆け込むと
「母ちゃんが悪い」
と口の悪い医者に叱られ、育児に全く自信をなくしてしまう。少し具合がよくなった上の娘を遊ばせながら、下の娘に1日6回の授乳。吐いたといっては服を着替えさせ、山となった洗濯物を荒い、ぐちゃぐちゃになった部屋を掃除し、三度の食事を作る。それだけが私の仕事だった。次第にストレスはたまり、鏡の中の自分はちっとも魅力的ではなかった。

若い企業戦士の夫は、入札入札に明け暮れ、家庭のことで私を助けてくれる余裕などまったくなかった。私は彼をのみこんでしまった巨大なビルをただひたすら恨んだ。二人とも、もう少しゆったりと人間的に暮らしたいと望むのは間違っているのだろうか。そんな思いを夫にうちあけても
「そんなただの風邪くらいで心配するな!育児ノイローゼだ。贅沢な悩み」
といって、早起きして出かけたゴルフの疲れでさっさと寝てしまう。私は憤懣やるかたなしで床についたものの
「私のわがままにすぎないのだろうか・・・、やっぱり女は忍耐すべきものなのだろうか」とあれこれ考えて眠れなかった。
しかし、結婚して5年目、夫の帰宅が遅い日には、久々に買い込んだ10年前のヒットソングをBGMにコーヒーを飲みながらほんのひととき思い出に浸ったりもする。突然泣き出す娘をトイレに連れていったりで現実に戻されはするのだが。まあ、夢見ていた生活とはちょっと違うけれど、それなりに幸せな日々を送っていた。あと、1・2年もすればもう少し自由な時間もできるだろう。そうしたら何をしようか・・・と私は心に夢を描き始めていた。


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