音楽と自分と                   (中学卒業制作『音楽の創作』について) 高野 獨源 音楽というものは、実に不思議なものだと思う。その訳は、とても一言で言えるもので はなくて、生まれてから約十五年経過した現在、印象としてある感覚なのである。何故人 間は音楽を好きになるのか、という事からして不思議であるし、その他、色々な事から不 思議だという感じを引き出さずにはいられない。  不思議ではあるが、音楽の影響はかなり大きい。他人の事迄は良く分かり兼ねるが、自 分に取って見れば音楽というものの影響は、あまりにも大きいのである。それゆえ、いざ 卒業制作に、多少迷った末に音楽の創作を選んだ  こうして文章を書いている間も、頭の中には、いつの間にか自然と音楽が流れてくる。 誰でもそうだろう。それは、どこかで聞いた曲も有るし、自分で無意識の内に組み立てた ものも有る。すると、何故か、じっとして居られない気分に陥ってしまうのである。時間 が過ぎて行ってしまう。時間は大切なものである。時間と共に全てのものが流され失われ てしまう。そんな事を考えてしまうのである。時間はものを失うと同時に、新しいものを 創り出すのだが、自分には、今以前のものに強い未練が残るのである。  音楽というのは分かる様で分からない。夢の様で現実の様で、楽しいようで悲しいよう で、時間を流しているのか止めていてくれるのか、はっきり判らない。自分の頭には、映 像の回想の場面の様に、幻想的でぼやけた雰囲気が満たされる。音楽は、それだけで独立 して居るのではないと思っている。やはり他の人の事は、どうしても判りようが無いので、 全て自分中心の考えだが、音楽は、自分の経験に強く結び付いているものと思う。つまり、 自分自身の歴史がある故に、音楽の強い影響を受けるのではあるまいか。今迄に吸収した 全てのものが、自分自身の歴史を形成して、彩色している。人は、それぞれ違った色彩を 持っている。それぞれの歴史と、それぞれの考え方が、皆違うからである。もちろん、そ こから、それぞれの人の好みも異なってくるのであろう。  自分の世界と音楽とのつながりを書こうと思う。  父は、学生の頃、マンドリンを弾いていたので、その関係で、自分は両親に連れられて、 生まれたばかりの頃から、良くマンドリン演奏会を聞きに行っていた。父の後輩達がマン ドリンの演奏をしているのである。それが大体一年に一、二回位であった。その外にも、 時々オーケストラやピアノなんかの演奏を聞きに行ったりした。自分ではあまり覚えてい ないが。  考えてみれば、これらの様に、会場で直に聴くのだけが音楽ではない訳で、それより日 常的に聞いていた音楽の影響は、何倍も多い事と思う。やはり、時々しか聴かない曲は、 印象が薄く成ってしまうと思う。しかも演奏会で、毎回同じ曲をやっていた訳でもなかろ うから、演奏会で聞いたら聞きっ放しで、それほど影響は無いだろう。  その点、家でレコードやテープレコーダーで聴く音楽を、両親は何度もそれらの曲をか けたであろうから、自分は聞いている筈である。そんな小さな頃の事は、ほとんど覚えて いないが、何回も聴いた曲の印象は、今、意識の底深くに存在していて、ものの見方に影 響を及ぼしているかも知れない。気性の強弱、明暗、などは、先天的なものの外に、後天 的な経験に因っても、かなり決まると、勝手に考えているので、音楽等も、大きな役割を 果たしたのではないかと思うのである。  毎日々々聴いたであろう曲が、自分には有る。おそらく誰でもそうだと思うが、子守唄 や動揺等は、少なくとも一日平均一曲は聞いていたのではないかと推測している。記憶が あまり無いから、あくまで推測するしかないのだ。  テレビやラジオ、それに出掛け先では、有線放送等で音楽を聞いたのではなかろうか。 昭和四十四年頃の東京は、、既に音楽のあふれる都であったと考えられるから、詰まる所、 自分は、年がら年中音楽に包まれて育ったのである。  これ迄書いた、三歳位までの自分の音楽の経験は、現代の人なら、大抵当てはまると思 う。自分は、ごく普通の音楽の環境の中にあった。  これは自分と音楽との関連であったが、それだけ書いても、何にもならない事に気が付 いた。それは、音楽というものは、先述のとおり、自分というものを形成する単なる一つ の材料であると考えるからである。  生い立ちの記の様なものを書かぬ事には、この文章も完成しない様な気がする。が、少 なくとも三歳迄は、自分がどういう考えを持っていたのか、良く判らない。というより、 想い出せない。  三歳の終わりからピアノを習い始めた。一週間に一回で、これは、自分から習いたいと 言い出したのであるが、随分怠けて、上達するのに、人の何倍もの時間が掛かった。両親 が、毎日々々熱心に練習を見ていてくれたのだが、小学校に入った時には、そのピアノを やめてしまった。自分の希望に因るものであった。  この時期、活発に友達同士で遊び回っていた。度々、その仲間以外の者とけんかなども した。  小学校では、内気な方であったが、活発でもあった。とにかく走り回るのが大好きで、 じっとしているのが嫌いで、血気が、この頃から実に盛んであった。  この頃の雰囲気は、現在でも強く脳裏に焼き付いているのである。小学校の頃の思い出 は、昨日の事の様に想い出す事が可能である。本当になつかしく感じる。出来る事なら、 この頃に戻りたいとさえ思う。それが、今、自分の非現実的で無駄な夢の一つである。  ちょっとした事に、すぐ夢中になって、頭に血が上る性格で、その結果気に入った曲に は、しつこく執着するのであった。  小学校三年生から、再びピアノを始めたのであるが、惜しい事に、これも以前にひけを 取らぬ怠け様であったから、上達の遅い事この上も無い。一曲進むのに何週間も掛かるの である。何回やめようと考えた事か。今迄良く続いたものだと思う。  自分は冒険的な事が大好きで、今思うと、その気性が過ぎて、周囲の人にも迷惑を掛け たのではないかとも思っている。  本当にこの頃は毎日々々集団で盛んに遊び回っていた。全力を尽くして駆け回った。そ して、遊びに没頭していたし、スポーツもやったりしていたから、充実した毎日を送って いたのだ。  この頃の印象ほど強烈に焼き付いているものは外に無い。十五年の内、一番理想的な幸 せだった時期はこの時なのだ。今も幸せには違いないが、大切な何かが欠けているのだ。 自分ではっきりと、それを意識している。  今から想えば、この想い出は夢の世界であった。もう絶対に戻らない世界。しつこい性 格ゆえ、昔に固執して仕舞うのである。この想い出の園の世界は、いつしか自分からも消 え去って行ってしまうのだろうか。白黒の映像になり、不動の写真になり、ついには本当 にこの思い出の世界を闇の中に失ってしまうのだろうか。  どうした事か、五、六年生の頃から、自分でも、ひどく感傷的に成ったと思う。活発で はあったが、気が弱く、内気であった。そして、今から思うとどこか標準の人とは違うと 思われるが、子供なりの陽気さにかけていた。それには自分でも気付いて、自己嫌悪に陥 る事が良くあった。しつこい、いやな性格ゆえかも知れない。過ぎ去った事に、どうして もこだわってしまうのである。今もそうであるように。そして、悪い方へと物を考えてし まう時がある。  しかし、この頃、何かを夢として持っていた事をはっきりと覚えている。それは、花畑 の映像的なものだった。  中学に入ってからも、少し普通の人と違うような事をしている。テレビドラマに感動し た余り、それに頭がいっぱいになって、しばらくの内は、他の事は全く手につかなくなっ てしまった。同時に、その主題歌、、主題曲にも激しく感動した。その曲の雰囲気に完全 に支配されてしまったのだ。もしかしたら、ちょうどその頃、東北地方へ旅行した時(家 族で)の雰囲気と、合っていたためかも知れない。何かを思い出して、訳もなく考え込ん でしまう様になった。  邪推かも知れないが、昔から、余りに血気が盛ん過ぎている為だろうか。これは先天的 なものらしいが、それと、内気で湿っぽい様な性格とが、この辺りからかみ合って来たら しい。  気性が盛んなのは、今でも変わってはいない。本当は変わって欲しく思っているのだが ……。過去に執着するいやな性格だ。ふり払いたいものだ。  音楽を何故好きになるのだろう。音楽は、何かを表現している。自分も、その表現する ものに近い経験、つまり過去の思い出や夢があった時に、共鳴するのではなかろうか。い や、これも本当に自分中心の考えであるから、他の人に当てはまるかどうか分からない。 この文章自体、納得の行かぬ物であろうと思う。  音楽の重大性を衝撃的に感じ取ったのは、中二の時である。それは、音楽の授業で、大 バッハ作曲の小フーガのト短調を聴いた時であった。何故この曲が脳天に釘を打ち込んだ 様な衝撃を与えたのだろう。自分は、それ迄、バッハと言う人の音楽さえ良く知らなかっ たし、関心もあまり無かった。ただ、ビバルディの『四季』を聞いて、何となくバロック 音楽のファンに成った積もりでいたのだ。  自分は、この短いオルガン曲をカセットテープに録音し、何度も何度も聞いた。それは、 表現が悪いかも知れないが、打ち込まれた釘を、ぐいぐいと奥へ押し込まれた様な結果に 発展した。聞けば聞く程、引き込まれて行くのである。後で段々気付いて行ったが、その ような曲が、バッハに何と多い事か。  そして、長い間かかって、カセットテープから、自分なりに小フーガト短調のピアノ用 楽譜を作ったり、やはり夢中になって他の事にあまり手が回らなくなってしまった。  本当に、何故こんな風に感動したのだろう。あの時の複雑な心境と調和したのだろうか。  うすうす思うのだが、最初は、あのパイプオルガンの音色に感動した。そして、何度も 何度もきく内に、段々と内面的な感情が理解されて来たのではあるまいか。バッハが、ど んな風な想いを持って作曲したかは分からないが、自分の経験から生まれた感覚が、この 曲の内面に合っていたのではないだろうか。  次に、バッハの曲を意識して聞いたのは、トッカータとフーガニ短調であった。何と、 あの素晴らしく有名な曲が、このバッハの作曲だという事を知り、驚いた。この曲も、不 幸にも自分にとっては感動の波が大き過ぎた。ニ曲もの素晴らしい曲が続き、バッハの音 楽に取りつかれた様になった。本当に、おお、これもバッハの曲だったのか!と驚く事が 度々である。こうして、まずオルガンの曲から、少しづつバッハを知り始め、だんだん範 囲は拡がって来た。管弦楽、協奏曲、リュート、チェンバロ、声楽曲と……。そして、バ ッハ以外にも拡がっていく……。  そして忘れもしないが、スキー学校に出発する前日の夜、頭脳をえぐる様に襲い掛かっ て来た、ある一曲の歌謡曲によって、自分と音楽とは、種類に関わらず、切り離せないも のになった様だ。それが不思議なのだ。今迄の移り変わりが……。音楽の不思議さである。  さて、作曲を始めたのは、ほんの一年前の、昭和五十九年の初め頃である。習った事も 無く、知識が乏しく、ピアノを使って、何とか五線紙へ音符を書いて行った。この頃、ピ アノの練習をがぜん張り切り出したが、今更張り切っても遅い。もう人に、何倍もの遅れ を取っているのである。  音楽を創るのと、聴くのとでは、やはり全然違うものなのだろう。いくら曲を聞いて感 動しても、そうだからと言って作曲も上手に出来るという訳には行かない。当然の事だが、 何だかそれは、自分にとって皮肉のように思える。自分は何かを表現しなくてはいけない 様な感じを禁じ得ないのである。何故だろう。  作曲をしている内に、少しずつ、早く、楽に出来る様になって来たが、出来ても、捨て てしまったりした。オーケストラ用のに手を出したりもしたが、失敗した。対位法も、和 声学も、ほとんど知らないし、実に不自由であった。今でも不自由である。自分の頭には 曲が浮かんでも、それを五線紙に書く事が、仲々出来ないのだ。だから、苛立ちと焦りを 感じていたのである。自分の無力を今更の様にしみじみと感じた。そして何だか情けなく なって来る。こんなところが、自分がいやになる原因だ。本当にさっぱりしない、いやな 気性だと思う。  中学に成ってからは到底成就すべき筈もない、非現実で、無駄になる夢ばかりを追って いる様だ。そして、このまま年を取りたくないと感じる。時計を止めて欲しいと思ってし まう。もう理屈では、仲々解明されない世界だろう。  最近、自分はどう成ってもいいが、他の全人類が、幸福に生きて欲しいと思うようにな った。自分のような事を考えないで。自分の様にはなって欲しくないと思う。全人類が、 明るく平和に暮らせば、いいと思うのだ。何故だろう。  自分は音楽によって楽しくなるとは限らない。時には、ひどく悲しくなる。それなのに、 それらの曲を自分から聞くのは何故だろう。  自分は平和と幸福に包まれている筈なのに、じっとしていられないのは何故だろう。  謎だらけだ。つかみどころがない。不幸にも、音楽で耳を楽しませて聞き流す事のでき ない人間になってしまっている。音楽を独立させて考える事ができないのである。しかし、 音楽があるが為に、自分はどんな逆境にも耐えられるかも知れない。無敵の味方を仲間に 得た様な気がするのだ。それに、何か使命感に似た何かがさわいでいる。  そして、音楽は、映像を映し出し、自分はそれから目を放す事ができなくなり、様々な 情景を見る。自分なりの情景を脳裏に描き出して行くのだ。夢の様に自分の憧れを、自分 の歴史を、そして自分の幻想を……。  今、まぶしい冬の日ざしが、部屋に入って、机に当たっている。何かの影と共に。 一九八四(昭和五十九)年    付録 『卒業制作抄録』より、     音楽の創作  卒業記念作品制作で、(四)の部門の音楽の創作をやる事に決めたのだが、それまで多 少迷った。生い立ちの記というのは、自分自身の歴史であって、絶対に忘れてはいけない 事であるが、この類の事は日常やっているので、論文にするまでもないと思った。それに いざ出すとなると、自分の考えなど書いて出す勇気がないと思ってやめておいた。研究も、 一年で終わる見通しがつかないと考え、やはりやめた。体験記といっても、これといった ものもなく書けない。  最後に残ったのが(四)の部門で、作曲するか、小説書くかのどちらかにしようと迷っ たが、文章が下手でとてもかなわないので、小説はやめ、結局作曲をする事に決めた。                   一九八四(昭和五十九)年