北石家物語 高野 獨源   一  『本日集うべし』との知らせは突然伝えられた。農作業から帰る東部昭衡の顔はやや緊 張していた。どうもこの集いは心臓に悪いわい。近頃歳を感じる昭衡はそう思うのだった。 だからといって決していやな訳ではない。歳を感じるだけに焦りを感じ始めている昭衡は この集いで何とかせねばならないと考えていた。 「腰の重い輝義殿を何とか説得せねばな」  集会は慎重に、民家の群れから少し離れた小さな家屋で行われた。ここは北石輝義の家 屋であった。  東部昭衡は嫡子の頼衡を伴ってやって来た。中には既に北石輝義、輝則親子、昭衡の弟 成衡とその子利衡、細川義行、佐藤俊信、定信兄弟が集まっていた。 「今日は皆に見て貰いたい物がある。輝則、これへ」 輝義が命じた。二十二、三であろうか、輝則と呼ばれた若者は、一枚の大きな紙を真ん中 に広げた。それは、地図であった。 「なんと」 一同は目を輝かせた。 「平泉から鎌倉に向けて矢印が書かれている。一つは越後を経て武蔵へ、また一つは白河 の関から、そしてさらには常陸を経て安房から鎌倉へ。これは鎌倉攻略の戦計画では有り ませぬか」 「左様。どこからこれが出てきたと思う。秀衡公の経典に紛れておったのだ」 「とすると、これは、藤原の御館がお考えになっていたということか」 「恐らくは。御館がもし病で倒れなかったら、恐らくこの図に従って鎌倉に攻め込んでい た事であろう。御館は正に立たんとしている矢先にお亡くなりになったのだ」 「ううむ。返す返すも無念」 輝義は、真ん中の矢印を示した。 「これが秀衡公の本軍だ。そして、この越後から南下するのが泰衡様、国衡様御兄弟の軍、 そして常陸を通るのが、誰じゃと思う」 「源九郎判官義経殿しか有るまい。そして、最後に鎌倉を落とすのは九郎殿の水軍じゃ。 ひょっとしたら、この作戦は九郎殿自身が立てられたのかも知れませぬな」 東部昭衡が答えた。 「我らは秀衡公の御遺志を無駄にせぬ為にもいずれ立たねばならぬ」 十九の利衡も興奮して言った。 「左様。立たねばならぬ。だが時期を待て。そして、その時に備えて訓練をせねば」 輝義の顔も紅潮していた。  この日は、各自の鍛錬、いざと言う時の兵の数についての話し合いが持たれて散会した。  輝義には、この作戦図を見た時から、ある構図が浮かんでいた。ある程度の兵力をここ 鹿角、八幡平で集めた後、軍を二手に分け、輝則は酒田へ出、安東氏、由利氏を味方につ けて越後へ進み、弥彦の僧兵をひきつれて坂東に入る。輝義の本軍は津軽の豪族の財を頼 み、青森から藤原の親戚筋と合流して奥州道を南下する。奥六群の源氏の御家人どもを蹴 ちらして、上野に入り、輝則軍と呼応して鎌倉を目指す。実に長い道のりだが、時を見計 らえば可能な気がしていた。随所に味方となる軍勢が有るように思えた。奥州には十七万 騎が有ると藤原時代から言われている。その半数でも味方につけば勝算はあると考えてい た。  北石輝義は藤原国衡の重臣であった。その武功は知る者ぞ知っている。しかも、傍系で はあるが摂関家の流れを汲んでいる。更には、源氏の血をも引いているのであるが、勿論 それは、傍系の傍系であった。そう言う意味では、源氏本流の頼朝とは、家柄では比較に はならない。しかし、奥州では代々の兵法家として藤原家に仕えていた。尤も、奥州の百 年の太平の世にあっては、兵法家など余り表舞台には出る必要も無かった。ところが、平 家が西国で義経に討たれ、兵力の均衡が崩れると、にわかに平泉は慌ただしくなった。藤 原秀衡は密かに頼朝との対決を決意していたであろう。北石輝義が日夜藤原の館に召され るようになった。  やがて秀衡公は源九郎義経を平泉にかくまった。もはや源頼朝との一戦は避けられなく なった。 「皆の衆、平泉は頼朝には渡せん。これから頼朝は我らの敵じゃ。皆の力を合わせて、鎌 倉に攻め登ろうぞ」 「おうっ」 平泉は燃え上がった。がその矢先、大黒柱の秀衡が病に倒れたのであった。  泰衡が後を継いだが、秀衡の戦意は持ち合わせてはいなかった。泰衡は戦いを避ける方 針だったが為に、義経と、自分の弟の忠衡を殺してしまうことになった。  完全に泰衡は頼朝に騙されていた。もはや、平泉には、秀衡無く、義経無く、忠衡無く、 寂しいばかりであった。また、義経を殺した事で、人心も離れていた。  平家滅亡から、四年後、ついに頼朝は二十八万の大軍を率いて、奥州に向かって進発し た。  北石輝義、輝則親子は、藤原国衡に従って、阿津賀志山に布陣した。わずか二万騎で二 十八万騎を相手取り、次々と登ってくる鎌倉の後家人どもの軍勢を斬り伏せつつ、連日持 ちこたえていたが、ついに山中での混戦になった。  十日の防戦の後、国衡は、敵に囲まれ、立派な討ち死にを遂げた。  その後は、源軍の残党狩りが始まった。  二    北上する騎馬武者どもは沈痛な表情であった。元々勝ちは期待できぬ戦であったが、大 将の国衡に寄せる期待は大きかった。実際国衡の戦いぶりは素晴らしいものであった。も しやの期待に掛けた藤原方の兵達であったが、やはり数には叶わなかった。そして、戦い 慣れた源軍も、決して弱い軍勢ではなかった。やはり負けるべくして負けたのである事は、 皆の胸中に痛いほど明確になっていた。  北上する騎馬武者どもは、ついに国衡討たれるとの報告を受け平泉へと敗走していたの である。藤原方の味方は散り散りになってしまい、十数騎で阿津賀志山から平泉へと急行 していた。  北石親子も命からがら死地を脱した。義輝の心中は複雑だった。たった二万で、遠く平 泉から離れたところで戦った意味はあったのだろうか。むしろ平泉の直前で、全軍で敵を 防ぎ止めた方が良かったのではないか。国衡を失った今となっては、そういう思いが強か った。しかし、平泉では、本軍が待っているのだ。北石義輝はそう信じていた。  が、義輝ら残党を待っていたのは、もぬけの空となった平泉であった。諸処には火が掛 けられており、軍勢も見あたらず、泰衡も居なかった。噂に因れば、軍勢は解散し、泰衡 は館に火を掛け北に逃げて行ったと言う事であった。 (一九九四年四月十一日)