アイドル研究 高野 獨源 一 アイドルの名前に於ける流行の影響を通して観た世界  名前という物には明らかに流行という物が影響している。たとえば江戸時代には何とか 左衛門、何とか兵衛と言うような名前が多かったのに対し、現在はより短く平仮名二文字 から四文字位に収まる様な名が大半を占めている。戦時中には、勝と言う字を使った名前 が増えたり、かつて多かったウメと言う名前は減り、桜のつく名が梅よりも好まれまた実 際増えていると言う統計があるようである。このような名前に於ける流行は、流行に弱い 日本に限った事ではなく、伝統を重んじるドイツでさえも顕著に見られている。たとえば、 戦時中には、ヒルデガルト、エーデルガルト等いかにもゲルマン民族の典型的な名を付け る場合が多かったのに対し、戦後は、モニカ、アンドレア、ルッツ、ウルリーケ、メラニ ーなど、かつては余り聞かれなかった名前が登場してきている。  アイドルに於いては、このような名前の流行というのは、更に短い周期で、或いは単発 的に、顕著に現れている。実は名前を通じて、名前以外の流行という物も垣間見えて来る のではないかと思われる。例えば好まれる人物の性質、活動形態、売出し方、落ちて行き 方、消えて行き方等である。  私がまず、例を挙げるのは、二人の浅野である。即ち浅野温子と浅野ゆう子で、この二 人はほぼ同じ時期に流行の波に乗りテレビや雑誌を騒がせたのである。 また風間トオルが出たり中村トオルが出た。その他に中村なにがしと言うのが数人出た ように記憶している。岩井小百合が出て岡田有希子が出て岩井由紀子が出た。更にゆきシ リーズでは、同じ様な時期に工藤夕貴と斉藤由貴が出ている。  また、名字を省いた名前では、昭和六十年の真璃子に始まり、ちはる、きたろう、等数 名が出てきている。  そして最近では、坂井真紀がテレビコマーシャルに登場した頃、水野真紀と言う人も出 てきた。その少し前には水野美紀と言う人もコマーシャルに登場していたのである。また、 あるガソリンスタンドの宣伝では、中谷美紀と言う人も登場した。真紀、水野、美紀で結 ばれたこの四人は、コマーシャルによって名を挙げた。また、更に、ドラマの世界に出て きた持田真樹もまきシリーズの一環である。 ひょっとしたら、ポール牧もこの範疇に組み入れる事が出来るだろうか。  これらは、本名の場合もあるし、芸名の場合もある。だがここではそれを問題にはしよ うと考えていない。いずれにしろ、名前を含めたその人物の総体として流行に乗った人達 なのである。少なくとも結果として、この様な似た名前が、アイドルの間に蔓延している のである。そして、名前に見られるように、その性質、活動方法等も没個性の傾向が見ら れる。皆似ている。しかしそれにも関わらず、次から次へと新しく似たようなアイドルが 現れてくるのである。この現象は正に使い捨て文明の如く使い捨てアイドルと申しても良 いような有り様である。私は、この現象の原因として、逆に観る側の人々の個性の伸張を 挙げようと思う。一人一人が自分は自分だぞと主張を続けた結果、それぞれはめいめいの 方向に走り出した。自然好みも違ってくる。大スター等はついに誕生する事は出来なくな った。ニーチェの超人を予言的に解釈するならば、正にニーチェの超人が最後の巨人であ ったと言える。人と人との間には、共通項は少なくなってきた。当然人気を集めるために は、その少ない共通項に合致しなければならず、自然みなみな似たような者が集まらなけ ればならなくなる。或いは、集団を作り、さあどれでも興味のあるアイドルを注目されい っと、趣味の多様性に対抗しなければならなくなる。おニャン子クラブは、そういった多 品種小量販売の走りだったように思えるのである。  このような傾向が進んで行けば、アイドルに対しては、人々はますます個と個のつなが りを指針して行き、横のつながりは希薄になって行くであろう。また逆に、唯一アイドル が漠然とした没個性を保つ事によってのみ、観る側の人々は一方的ではあるが、客体とし てのアイドルの中に共通項を確保する事が出来るであろう。   二 女優持田真樹誕生への前奏曲  持田真樹は今やテレビドラマで主役級の役をこなし、その演技はなかなか技を巧みにし 妙を点じている。演技の自然さ表情の多彩さなど、十九歳の持田真樹の演技力を私は高く 買っている。もしかしたら児童劇団などに所属していた事もあるのかも知れない。  ここで持田真樹のこれまでに就いて歴史をひもとこう、と言いたい所ではあるが、生憎 私はそんなに詳しくもなく、数週間前にアイドル研究家に成ったばかりなので徹底的な調 査を行う余裕も無く、ひもとくのは取りあえずやめておこう。知っている範囲でしか述べ る事しか出来ないのは遺憾である。持田真樹は一九七五(昭和五十)年一月十一日に誕生 した。一九九四(平成六)年四月十二日から、テレビ朝日の火曜ドラマ『お父さんは心配 症』に出ている彼女は、その中で、心配症の父をもつ高校生の娘の役をうまくこなしてい る。岡田あーみんの漫画が原作なだけにふざけた物なのだが、迫真性を持った演技で視聴 者を世界に引き込んで行く。登場人物の気持ちが良く伝播している。私は、これを見た時 に、実際こんな状況に立った場合の心境と言うのが一瞬実感されて、思わず身震いしたも のである。また、そんな娘を持つ父親の気持ちも何だか分かった気分になってしまうので ある。が、実は演技の巧拙は今度のテーマには余り関係が無いのであった。ただ、なかな かやるなと思ったと同時に、私は勝手にこの時点で女優持田真樹の誕生と決め付けてしま ったのである。  実際には、彼女は昨年、『高校教師』に出ていたし、また、『もう一つのJリーグ』と 言うドラマでちょっときつめのお嬢様の役を演じていたのだが、前者は悲惨すぎる役どこ ろで、後者は、主役の高橋由美子の陰にあってか地味でおとなしい印象を与えた。やはり まだ本領を発揮と言う訳では無かったのではないだろうか。また十六歳の時から『桜っ子 クラブ』と言う集団性予備軍的アイドルばら売り団体に所属しておりテレビに出ていたの だが、人気は高かったが印象は、やはりおとなしいと言う感じであった。特に目立つ性格 ではないし大物だと言う気もしない  万一本人の目に触れたら失礼になるだろうから一 言言っておくが、この文章は、持田真樹さん個人に就いての私の批評を意図している物で は決してない。順序として、どうしてもそのような形容の句を挿入してしまうものの主題 はまた別の所に存する上、私自身の感情という物は一切抜きにして書いているのである。 曲がりなりにも研究である以上、ほめる事も無ければ、けなす事も無く、普遍を目指し、 自らを機械の如く律しなければならない。これは厄介な事を始めたと、自分でも少々持て 余しているところである。であるから、多少の形容に関しては単なる方便と、ご勘弁を頂 きたい。では本題に戻って、ええ、何を言おうとしていたのだっけ    ええ、この『桜っ子クラブ』のご先祖はやはり、昭和六十年から六十一年に掛けて大活 躍した『おニャン子クラブ』であろう。『モモコクラブ』と言う、ちょっと似たものもそ の頃にあり、西村知美などはその出身なのだが、二十人を越える大集団アイドルが、当座 の活動を共にし、適時独自行動を取って行くという形態は、この頃に始まったと言える。 この作戦は大成功であったと言える。消えてしまった人も多いが、『おニャン子クラブ』 出身者では、ゆうゆ(岩井由紀子)、渡辺満里奈、工藤静香、国生さゆり、渡辺美奈代、 生稲晃子等は、未だに目立つ活動を続けている。もはや九年も経っているのである。その 後『たわわギャル』等と言うのもあったが、こちらは、余りぱっとせずに終わった様であ る。『桜っ子クラブ』の起源に就いてはまだ調査が行き届いていないが、その活動形態は、 『おニャン子クラブ』の系脈を継ぐものである。現在既に始まってから少なくとも三年は 経過している。  ただ、その規模に就いては、かなりの違いがあるように思える。それは所謂『アイドル』 全体の勢力の低下である。また同時に歌謡曲の全盛時代は去り、クイズ番組やバラエティ ー番組が幅を利かせ、それまでのアイドル像ではこの時代を切り抜けないものとなってき たようである。このテレビに於ける『アイドルの勢力低下』と『歌謡曲の衰退』は、どち らが先でどちらが後だか分からないような時間的経過の中で進行した。または、どちらが 原因でどちらが結果なのか分からないと言う事も言える。とにかく、かつての盛り上がり は表面上見られなくなった。  さて、今まで述べてきたような事がどうして女優持田真樹の誕生と結び付くのかとお考 えの読者もいらっしゃる事だろう。私自身も少し心配している所である。だが、結び付く だろうと言う見積を立てた上でこの文章を始めたのだから、きっと何とか成るだろう。こ んな駄文は斜め読みで充分だなどと言わずに、ぜひ最後まで精読致したい。物は試し、騙 されたと思ってやっぱり騙されるのも乙な物である。  では、ますます本題から離れる様であるが、諸芸術、哲学の歴史をざっとひもときたい。 まず、西洋音楽である。簡単に言ってしまえば、西洋音楽の歴史には流れがある。最初を グレゴリオ聖歌と呼ばれる単旋律音楽とすると、やがてルネッサンスの対位法音楽(フレ スコバルディ、ムファットなど)、バロック音楽(ビバルディー、バッハ、ヘンデルなど)、 ロココ音楽或いは前古典派(バッハの息子たちなど)、古典派音楽(ハイドン、モーツァ ルト、ベートーベン初期など)、ロマン派音楽(ベートーベン後期、シューベルト、シュ ーマン、ショパン、リスト、チャイコフスキーなど)と言うように、時代に応じてその作 品に共通の特徴があり、一くくりにくくる事が出来る。そしてその後、段々流れが分かれ てくる。ワーグナーやリヒャルト・シュトラウスが出るかと思うと、ブラームスのような、 新古典派と呼ばれるような作曲家が出てくる。フランスでは、フランス六人組、ロシアは ロシアで、ショスタコーヴッチ、ラフマニノフなど、また独特の流れが発生する。シェー ンベルクの十二音技法も登場した。もはや、その価値観の多様化には目を見張るものがあ る。もはや全ての流れを追っかける事は不可能である。  美術界もまた似たり。ルネッサンス、バロック、ロココ、古典、ロマン、印象派、象徴 派、ユーゲントシュティール、表現主義、その後は混沌としている。ここにも価値観の多 様化現象を見る事が出来る。文学もまた然り。バロック、ロココ、古典主義、前期ロマン 主義、後期ロマン主義、自然主義、写実主義、その後は、カフカあり、ブレヒトあり、も はや主義を唱える事は必ずしも時代を映さなくなってきた。  哲学もそうだ。ギリシャ哲学(ソクラテス、プラトン、アリストテレスなど)から始ま り、神学(アウグスティヌス、トマス・アクィナスなど)、イギリス経験論(ベーコン、 ヒュームなど)、大陸合理論(デカルト、ライプニッツなど)、ドイツ観念論(カント、 ショーペンハウアー、ヘーゲル、フィヒテなど)、ニーチェ哲学、プラグマティズム(デ ューイなど)、実存主義(サルトルなど)、構造主義(ソシュールなど)、その後はまた いろいろである。  これらに共通している事は、今世紀に入り、どの分野に於いても、歴史的な流れが一本 に留まらず、細分化、専門化が進み、それぞれが独自の進化を遂げ始めていると言う事で ある。政治的にも、イデオローグによる対立よりも、各々の価値観による対立が表面化し て来ている。  こう成ってくると、どの流れが本流でありまた支流であるかと言う議論は意味を為さな くなってくる。それぞれの主義主張、思想、趣味に応じて主体的に選択、創造をする事が 可能になって来る。また、何人たりとも、そう言った個人の特質を否定する事は出来ない。  Aさんが、Yというものを好んでいたとして、BさんがXを指向していたとするならば、 AB両者の間には接点が無いと言える。全員がZと言うものに注目していた時代には、Z と言う共通点があった。この点に就いて、夏目漱石は、『吾輩は猫である』の第十一章に 於いて、鋭い予言を登場人物に語らせている。猫の主人宅に集まった客達が、個性の発展 と言うテーマで意見を述べあっており、迷亭先生は、やがては夫婦は別居しなければなら なくなると予言する。それに対して、芸術家の東風君は、真っ向から反対する。  「私の考えでは世の中に何が尊いと言って愛と美程尊いものはないと思います。吾々を 慰藉し、吾々を完全にし、吾々を幸福にするのは全く両者の御陰であります。吾人の情操 を優美にし、品性を高潔にし、同情を洗練するのは全く両者の御陰であります。だから吾 人はいつの世いずくに生まれてもこの二つのもの を忘る事が出来ないです。この二つの 者が現実世界にあらわれると、愛は夫婦と云う関係になります。美は詩歌、音楽の形式に 分かれます。それだから苟も人類の地球の表面に存在する限りは夫婦と芸術は決して滅す ることはなかろうと思います」  「なければ結構だが、今哲学者が云った通りちゃんと滅してしまうから仕方が ないと、 あきらめるさ。なに芸術だ?芸術だって夫婦と同じ運命に帰着するのさ。個性の発展とい うのは個性の自由と云う意味だろう。個性の自由と云う意味はおれはおれ、人は人と云う 意味だろう。その芸術なんか存在出来る訳がないじゃないか。芸術が繁昌するのは芸術と 享受者の間に個性の一致があるから だろう。君がいくら新体詩家だって踏張っても、君 の詩を読んで面白いと云うものが一人もなくなっちゃ、君の新体詩も御気の毒だが君より 外に読み手はなくなる訳だろう。鴛鴦歌をいく篇作ったって始まらないやね。幸いに明治 の今日に生まれたから、天下が挙って愛読するのだろうが……」 「いえそれ程でもありません」  「今でさえそれ程でなければ、人文の発達した未来即ち例の一大哲学者が出て非結婚論 を主張する時分には誰もよみ手はなくなるぜ。いや君のだからよまないのじゃない。人々 個々各々特別の個性をもってるから、人の作った詩文などは一向面白くないのさ。現に今 でも英国などではこの傾向がちゃんとあらわれている。現今英国の小説家中で尤も個性の いちじるしい作品にあらわれた、メ レジスを見給え、ジェームスを見給え。読み手は極 めて少ないじゃないか。少ない訳さ。あんな作品はあんな個性のある人でなければ読んで 面白くないんだ から仕方がない。この傾向が段々発達して婚姻が不道徳になる時分には 芸術も 完く滅亡さ。そうだろう君のかいたものは僕にわからなくなる。僕のかいたもの は君にわからなくなった日にゃ、君と僕の間には芸術も糞もないじゃないか」  八十九年も前にこのような論が飛び出しているのは驚きであるが、結果として確かに現 実化する傾向にあるから、その先見の明にはますます驚嘆せざるを得ない。少なくともア イドルと歌謡界に於いて、この傾向は現に進んで来て、両者の盛り上がりを抑え込むに至 ったのである。  かつては、グループサウンズが流行したと思ったら、わっとばかりに人々がその潮流に 身を任せたのであった。ビートルズが流行れば、皆がその真似をする。ゲーテの『若きウ ェルテルの悩み』が世に出たときには、当時の学生たちは好んでウェルテルの服装を真似 たらしいが、テレビ、ラジオなどの放送文化が進んだ時代にあっては、なおの事流行の力 はあったのである。  一九八〇年辺りになると、ベスト・テンの様な番組の中では、演歌あり、アイドルあり、 ニューミュージックあり、ロックあり、と多様化の傾向が見え始めていた。もうその頃に は、私の同級生などは洋楽(最初は西洋古典音楽の事かと思った)と号して、アメリカや イギリスの流行歌を好んで聞く人が増えてきていた。 やれ、ソウルだ、フュージョンだ、レゲエだ、ヘビメタだ、パンクだと、もはや手に終え ない、ジャンルの分化である。一方で富田勲のシンセサイザー音楽、コンピューター音楽、 映画音楽、前衛音楽、民族音楽等々、器楽曲の方でも趣味の多様性が拡大し、もはや、統 一的な番組でこれら全てを紹介しようなどという企画は不可能になって来たのである。  これら個別の趣味を持った人々は、お互いに同類相求めて勝手に情報交換をし始めた。 しかし個々の集団は小さく、集団同士の繋りも途絶え、世界に一大流行を巻き起こすため には、余程の事がなくては駄目である。人に自分の趣味を紹介する事は、趣味や価値観の 押しつけと取られる危険もあり、さらには、人の趣味だからいやなのだの言う人も出て来 たのである。  文学者の誰かが言っていた事であるが、死んだ人を研究するのは安心だが、生きている 人を研究するのは、動きがあって、どう転ぶともわからず研究したくないそうである。評 価も故人の場合は、未発表の原稿でも発見されれば別だが、大体決まってしまっているも のである。ところが、生きている人の場合は、評価が変動するために、素晴らしい事を書 いても、手放しで賛辞を送る事を躊躇してしまうと言うのである。  私の知り合いで毒言と言う男が『写普遍』と言う雑誌を出した事があった。その時には、 毒言のまわりにいた読者達は、こぞって『写普遍』を批判し、中には、『アンチ写普遍』 を発刊して、これに対抗しようと言う者もあったのである。しかし、全然会った事もない 人が、この雑誌をどこかで見て興味を示したり、卒業論文の参考にさせて貰ったと言って きたりしたのだそうである。「遠くの人間の方が受けが良かった。身近な人間の言う事な んてあてにならないな」とは、毒言君の弁であったが、まあそんな事はないにしろ、客観 的に眺められぬ者に対する不信感というのは、こんな所にあるのではないだろうか。 こんな訳だから、アイドル界の勢力減退も必然的経緯だったと言えよう。まして、大ス ター不在と言われて久しいのも、当たり前の現象だと言っても過言ではないだろう。  それにも関わらず、アイドルは存在している。以前のように、誰もが歌を引っ提げて出 てくるとは限らず、色々な形で登場してくる。むしろ、色々な形で登場した後で、アイド ルに祭り上げられる場合も多くなっている。アイドルに祭り上げる……これは一体どうい う事なのであろうか。  アイドルを語る場合、客観という言葉が鍵となる。アイドルとは偶像であって、こちら 側から一方的に対するものである。アイドルと自分とは、同列に並する事は出来ないので ある。この前提のもとにアイドルは客体となり、客体に対する観方は客観となる。逆に、 この客観が確保されて初めて、アイドルはアイドルたり得るのである。これによって、ア イドルは、そこらの隣人とは違い、あくまで対象となり、主体性を失う。受け手は各自の 自由の範囲でアイドル受容を行う。アイドルの盛り上がりは低調ではあるものの、多様化 した人々の個々の世界の中に思い思いに取り込まれていくものとして存在する。  偶像は、個々の世界の中に入って、その世界を活性化するための役割を果たす。今度は 宗教論に飛んでしまうが、偶像は、その宗教世界を象徴し、表象を膨らませ、創造力を駆 り立てる。いわゆる芸能的アイドルも、同様に内的世界の一登場人物として、構成を支え る事になる。アイドルにはこのような存在意義が付与されていると私は見る。いわゆる芸 能アイドルの現在の形式での存続に就いては全くその保証をする事は出来ないが、少なく とも広い意味でのアイドルの存在は永続的なものである。  だいぶ長くなってきて、『女優持田真樹誕生への前奏曲』と言う題名を忘れてしまう人 がいると困るので、端折って行こう。かく言う私も危うく忘れかけたのである。  さて、平成六年五月三日放送の『お父さんは心配症』第四話の中では、奇しくも、アイ ドルの条件として、次の三項が打ち出される。   アイドルの条件1.一見ごく普通          2.でもやっぱりかわいい          3.彼氏がいない。       これは、持田真樹扮する佐々木典子が、タレントオーディションを受けるくだりがあり、 その関連で出てくるのだが、そこでは第三番目の事項が注目される。と言うのは、このド ラマの中では、佐々木典子には彼氏がおり、この条件を満たしていないからである。それ が結局は佐々木典子が芸能界を選ばず、彼氏を取ると言う感動の展開になるのだが、それ はさておき、第一項と第二項との二つは満たしている。そして、現実の持田真樹は、第三 項も満たしている事になっている。満たしているのだろう。満たしていると信じるしかな い。さてそこでこの「アイドルの条件」を今まで述べてきた事に合わせて換言すると、以 下のようになる。     野流アイドルの条件  1.普遍性をもつ事により客観に耐え得る客体となる。即ち第三者の内的世界に於ける 様々な状況に対し、普遍的なものだけが広く活動できるのである。なぜなら第三者に取っ ては、普遍的アイドルに対しては、内的世界に於ける、想像上の選択の余地即ち自由が生 まれ、その自由が内的偶像としてのアイドルを 主体の世界に取り込む際の可能性に繋る からである。つまり、一見ごく普通と はこれなり。  2.ところが、単に普遍性を持つだけで特徴がない場合には、あえてこれをアイドルと して祭り上げる必要性に欠けてしまう。主体の価値観に応じて客体はその価値観に合致す る特徴を持って初めてアイドルたる必然性を持つに至るのである。  かわいいということも、その特徴の一つに数える事はできるだろう。だがそれだけでは なく、例えば演技がうまいとか、歌がうまいとか、声がいいとか、様々な事がここで言う 特徴として数える事ができる。それらは、たで食う虫も好 きずきと言う如く、人それぞ れ目の付け所が違うが、ある程度客観的判定を土 台にしていないと、揺らぎやすいもの になってしまうだろう。  3.アイドルは、飽くまで主体との間に一方性を保持していなくてはならない。主体と の間が並列或いは相互的関係にあっては存在しえない。主体の内部世界にアイドルは存在 するが、アイドルの内部世界には主体は存在しない。そのた めに主体の内部世界に於け る自由の範囲が拡大されるのである。ところが、主体と並列関係にある第三者が、アイド ルとの間の一方性を打ち崩すことが認識された場合には、自己の内部世界におけるそのア イドルの一方性が失われ、内的世界は縮小し、アイドルは象徴的地位を失する事になる。    私はこのように『お父さんは心配症』第四話の中の「アイドルの条件」を読みかえる事 ができると思う。第三項の、アイドルの一方性については、余り世間では意識されていな い様にも見受けられるが、私は、むしろ、この第三項を最も重要な条件であると考えてい る。と言うのは、アイドルは、人の内的世界に住むものだと言う前提に立っているからで ある。その前提に立てば、アイドルは、現実の人ではなく、仮象なのである。更に言えば、 夢の世界の住人なのである。物自体ではなく、単なる認識の対象であるがために、アイド ルは、現実の制約を解き放たれて非現実の世界に自由に生きるのである。作用を及ぼすの は飽くまでアイドルの方であって、主体の方ではない。主体の方が作用を及ぼそうとした 途端、主体に於ける、アイドルを取り巻く世界は現実界へと転換し、大きな制約を帯びて 自由を失う。もはやこの段階では対象をアイドルと呼ぶ事はできない。家族、隣人、同僚、 仲間、友人、恋人、愛人、知り合い等と変わらぬ関係へと陥ってしまう。それらの人々と の関係は相互関係である。一方性による内界の広い領域は確保され得ない。  人間の内界には、ドラえもんの四次元ポケットの如く、時空間を超えた広大な世界があ る。この世界には現実の世界とは比べる事の出来ないほどの領域が保証されており、これ を持つ事が人類の特権でもある。  ある者はこれを観念と呼び、またある者は空想とも名付ける。心理学者は夢とも呼び、 文学者は物語と言った。アイドルは条件を満たす事によって、この広い世界の住人となる 権利を持つのである。第三項が厳密に守られれば守られるほど、アイドルと主体の内界の 純粋性は高まる事になるだろう。  余談になるが、先日私は、高校の頃の同級生に突然誘われて会ったら、案の定、某新興 宗教の勧誘であった。布教係の青年がついてきて、私は彼と激論三時間のすえ、喧嘩分か れと相成ってしまった。脅しと神頼みの新興宗教で我が内的世界を満たす位だったら、ア イドルを百人みっけて内的世界を充実させた方がましだとさえ思ったものである。  さて、以上でアイドルの条件として私なりの見解を述べさせていただいた。同時に、こ れらの条件にこの小論文のテーマである持田真樹も当てはまっていると言う事を改めて述 べておくとしよう。勿論、人それぞれにアイドルが居て構わないし、私は単に一例として 持田真樹を担ぎ挙げたのだとここでは言っておこう。『お父さんは心配症』の中で適って いた項目に対しては、現実的にも適っていると見て差し支えないであろう。そうすると、 第一項と第二項は確保である。第三項については、これも「一方性」を打破するような情 報は今のところ入ってきていないので、まず大丈夫だろう。そう思う事が出来れば、それ でよしとするしか、取りあえずのところは道がない。これは、自分自身の観念上の問題な ので、各人各々の持つ情報に頼って判断を下すしかないのである。  こうして、持田真樹のアイドルとしての条件は満足した。持田真樹は、平成二年には『獄 門島』に出演、その後、『霊感商法株式会社』『もう一つのJリーグ』、『高校教師』、 『桜っ子クラブ』と言う異色な番組にも出ていたが、『お父さんは心配症』へとドラマ街 道を走る。その間にテレビコマーシャルにも多数出演している。私としては完結した別世 界を作りやすいドラマという形式において、彼女に更に頑張って貰いたいと思っている。 ドラマの中で彼女は最もアイドルとしての純粋性を保ち、最も能力を発揮するであろう。 そして、「アイドルの条件」をいつまでも満たしていて欲しいと願わずにはいられない。     参考文献   北川昌弘+T.P.ランキング編著『NIPPONアイドル探偵団九四』    宝島社 一九九四年     夏目漱石著『吾輩は猫である』新潮文庫 一九六一年  参考番組 『お父さんは心配症』テレビ朝日 一九九四年   『高校教師』TBS 一九九三年 『もう一つのJリーグ』テレビ朝日 一九九三年   『桜っ子クラブ』テレビ朝日 一九九四年 執筆日時及び場所   第一章 一九九四年四月十九日 東京深川富岡町 第二章 一九九四年四月二十日から六月七日 東京深川富岡町  予告 第三章に続く予定です。          改訂版発行 一九九四年六月八日 高野出版