高田 俊昭さん

高田さんは、平成20年(2008年)に亡くなられました。
心よりご冥福をお祈り致します。

1951年生まれ。両親、妻厚子さんと一男二女の7人家族。

・1988年、37才の時、交換手に番号を告げるが一気に言えない。ALSを発病。告知は受けなかったが医学書から判断。

・1990年、京都府立医科大学付属病院人事課を休職。

・1994年、宇治市の第二岡本総合病院で人工呼吸器装着。「生きていてよかった。呼吸がすごく楽になった。これからは呼吸器をつけて細く長くがんばる。」

身体は動かず、声すら奪われた今でも、大樹のように酸素を放出し、時には疲れた旅人に安らぎの木陰を提供できるような、そんな大樹になって妻や子供にメッセージを送りたい。

 

お父さん、カッコいい、カッコいいよ!

 ある日のこと、痰がゴロゴロいいだしたのでコールベルで呼ぶと、娘二人が争って廊下を駆けてくる音が聞こえる。いち早く吸引の道具を手にした奈穂子は、勝ったとばかりに満足気である。遅れをとった早奈絵はベッドサイドに回って、私のむくんだ手をさすりながら微笑みを送ってきている。
 この病気と真正面から向き合った頃は、まだ子供達も幼く、いたづらに不安をあおることなく平常心で接しようと妻と誓い合ったものである。だからどんなに苦しくても辛くても子供の前では笑みをたやさないよう努めてきたつもりである。
 でも吸引時にはどんなに堪えても、気管内に異物が混入してくる訳であるから、反射的に全身は硬直し、一瞬顔もけわしくなる。それでも早奈絵がずっと見つめているものだから、眼で「大丈夫だよ」と合図を送ると、意外な言葉が返ってきた。

「お父さんカッコいい、カッコいいよ!」。

 私は昭和26年、京都のはずれ醍醐の地に生まれた。
醍醐は、東海道を京都に向かう一歩手前の山科から奈良に向かう街道が延びていて、その街道沿いに太閤秀吉が花見の宴を催したことで有名な醍醐寺があり、この醍醐寺を中心に開けた村は、当時はまだ街道筋を一歩横に入ると、「トトロ」の世界そのままの田園風景が広がっていた。
そんな所で幼少年期を過ごした私は、自分の将来や人生について何も考えず、ただ漫然と時を過ごしていたような気がする。
そんな自分にも、「俺は何がしたいんだ、何が好きなんだ」と真剣に問うたことがあった。答えはすぐに出た。
「やはり絵が好きだ」。
だが時すでに遅く、いつまでも親のすねをかじるわけにもいかず、たまたま兄の勧めで受けていた京都府の公務員のほうが受かっていて、そちらに身を投じることにした。結局のところ全てを投げ捨てて絵の道に進むだけの勇気と情熱がなかったのだ。
公務員なら自由な時間が持てるだろうと思ったが、何のことはない、歳とともに重要な仕事を任され、残業、残業の毎日・・・・・。
そんな最中の発病であった、運動神経が侵され数年で死に至るという病気である。
死のゲートの前に立ち、この世の全ての執着心を捨てようとした時、むくむくと頭をもたげてきたのが、臆病だった絵に対する私の小さな情熱だった。
描きたい、むしょうに描きたい。だが結果的に私に残された絵画の時間は約一年だった。特に後半は急速に腕の力が衰え、筆もわずか数秒でポロリと落ちてしまうほどであった。
それは私の人生にとって最後に残った、線香花火のように、小さいが激しく燃えて、ヤナギの葉をいっぱいに伸ばし、しぼんでいった、私の臆病だった小さな情熱――。

 

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