杉原 充晃さん
・1986年、東大阪市に住み、NTTの線路技術の教官をしていた42才のとき、脱力感があり、ミカンの皮がむけないことに気づく。大阪大学付属病院でALSと診断され、本人にも告知された。
・「鉄人」ともニックネームがつくほどの強靭な肉体を持ち、トライアスロンにも出場した経験を持つ。
・1987年5月、大阪府立羽曳野病院の呼吸器科、木村 謙太郎医師によって、呼吸器を装着。8月退院。関西では1人目の在宅人工呼吸療養者となる。
病気の進行のため、杉原さんと込み入った会話をするのは困難です。また、現在舌と唇がほんの少し動くだけなので、パソコンを打つこともできません。
しかし、闘病中に記していた日記を見せて頂くことができました。(日本ALS協会近畿ブロック会報19号「難病ALSを前向きに生きる人々」橋本朋広)
1987年
10月21日 妻には全く申しわけなく思っている。このような状況にあって、子供に何をしてやれるのか、何をするべきか、結論が出せない。
12月 1日 せめて気持ちだけは「おおらかに温かく」を心掛けよう。
言い争いはもう二度とすまいと何度思ったことか。妻や子供に辛い思いをさせてしまった。動かない体が情けない。だが、泣き言は言うまい。
1988年
1月 9日 「大ぜいに見られて恥ずかしくない?」と聞かれるが、ちっともそんな気はしない。抱き抱えられて風呂に入っている姿が現実だ。
1月29日 みんな元気に働いているのに。こんなはずではなかったのに。
2月 3日
なんというおろかな人間であることよ。声も出ないのに顔をゆがめてグチをいう。なんという見苦しき姿であることよ。
6月29日 初めて花弁の数を知る。今までにこんなに花を見つめることがなかったから。
7月13日 33年ぶりに開く小学校の同窓会。残念ながら出席できない。なぜこんなことに成ったんだろう。原因は何だろう。
9月6日
体が使えないとなれば、人の二倍、頭を使わなければならぬ。
11月11日 (或る登山家の言葉。残された人生には限りがあるから、死ぬ時にああよかったと言えるように頑張って美しい山に登りたい。)これに対して、私は何をすればよいのだ。
11月18日 朝から無理難題を言っている。ただひたすらに許しを乞う。それにつけても、中林基さん(注:同病者)は素晴らしい。「俺に間違いはなかった」と公言してはばからないのだから・・・。
このような言葉が続くとさすがにこたえる。ただ救いは、曇っていた空が少しずつではあるが、明るくなり、灰色の雪さえも輝き始めたことだ。わが心、石にあらず。“Take
it easy”でいこう。
1989年
1月 3日 呼吸器とともに2回目の正月を迎える。昨年1年間に行なったことは何であったか。形として残ったものは9冊ばかりのスケッチブック。再び字と絵が描けるようになったことは、ささやかな収穫であった。
1月18日
泣いてもわめいても得るものがないとなれば、ひたすらに耐えるのみ。ささやかな絵を描くことではとても満足できない。子供の成長を見守るのみ。ライフワークとなるものを見つけたい。
2月 5日 体は不自由でも、病気ではないと思いながらも、呼吸さえままならぬとなれば、精神の病気になりかねない。できる限り手をわずらわせたくないが、介助されなければ何も出来ないこの現実。なぜ・・・・・。
2月23日 (介護者について)求めてはいけない。自分が思っている以上に相手もうんざりしているのだ。
5月10日
木も虫もおかれた環境の中で、精一杯生きる努力をしているに違いない。くよくよしないで。
8月21日
いずれにしても、打ち込めるものがあるということはすばらしいこと。私も何とか現状を打破しなければならぬ。これからしなければならぬ事。体が使えなくなった今、出来ることは唯一頭を使うこと以外に道はない。
そのためにまずしなければならないのは、精神のコントロールだ。これほどむずかしいことはない。大海に漂うがごとく、穏やかな時もあれば、大波にもまれ、海底に引きずり込まれ、絶望してしまう。
自力で進めなければ、全てを自然にゆだねよう。出来ることだけを牛歩のあゆみで良いから、着実にするのみ。決して怒らず。人に頼らず。
8月30日 人の助けがなければ、何事も出来ぬ身もやむを得なしと自分をなぐさめる。
11月16日 機嫌も良かったり、悪かったり。気持ちもぐらぐら揺れている。ホーキング博士も同病との記事を読むも、足元にも及ばず。
1990年
* この年の6月に杉原さんの絵画展が開かれている。
1月 3日 今年の目標は何か活動的な事をする。少し具体性に欠けるが、昨年までの読書とスケッチだけでは時間の無駄。同じような境遇にあって、立派な活動をしている人がいる。例えば、車椅子の天才といわれるホーキング博士。
子供たちの為にも、ぶざまな格好は出来ない。