2000年4月号

海軍陸攻隊 〜日本の空軍〜




すっかりさぼっていた訳ですが、気を取り直して再開します。覗いてくださっていた人すいませんでした(反省)。
という訳で4ヶ月ぶりの再開は2000年4月号、表示はB−25です。飛べる陸攻はどこにも ないですし、ちょっと苦肉の表紙選択といったところでしょうか。さすがに目次の写真は九六中攻と一式陸攻ですが。


今月の特集は海軍陸攻隊ということで、なにか写真があるのかな?と思ったのですが、今月号の写真には、陸攻のものは目次をのぞいて いっさいありませんでした。九七艦攻と「天山」の写真なら少しだけ載っているのですが。特に「天山」のほうは離着陸のショットで、 かなり貴重な写真です。


今月の写真はちょっと元気がない感じがするのですが、「輸送艦おおすみとLCAC」は良い写真が何枚かあがっています。「おおすみ」 自体も新鋭艦ということで、これまで掲載された写真も少ないのですが、LCACをウェルデッキに収容しようとしている写真や、全通となっている上甲板への車輌搭載 の方法がわかる空撮等、ちょっと興味深いものがありました。


モノクロ写真だと、終戦後の戦艦榛名、重巡青葉・利根の写真が載っています。いずれも20年7月の空襲で大破着底したもので、矢尽き刀折れ といった感じがよく分かります。「榛名」にいたっては機銃すら陸揚げして、半分なぶり殺しのような空襲に何度も晒されたそうですから、艦の各所に残る被弾場所の生生しい ものばかりです。接近して撮った写真が多いので、装備品の詳細がよく分かるのも収穫といったところでしょうか。




さて、本文を見てみると「陸攻隊」の特集なのですが、陸攻の誕生経緯と部隊・作戦変遷史、陸攻隊の話では外せない「渡洋爆撃」と「マレー沖海戦」の 話、あとは重巡シカゴを航空雷撃で撃沈した「レンネル島沖海空戦」の話が掲載されています。
陸攻史なので、神雷部隊の話も載っているかな?と思ったのですが、陸攻史の中でさらっと流されています。昭和19年を越えてからは 陸爆「銀河」を投入しても、陸攻の編隊攻撃は落とされに行くようなものになっていましたし(米艦隊の対空砲火と直援機のため)、レイテ戦前後の陸攻隊の動きはT攻撃部隊 が壊滅したように犠牲多く、功少なしといった状況でしたから、記事になり難かったのかもしれません。


あとは陸攻のテストパイロット達の話も載っています。陸攻乗りはその消耗のおかげで、生き残った人はほとんどいないのが現状ですが、指揮官級を始めとしてその防弾力のなさから、渡洋爆撃・ 初期の侵攻作戦・ソロモンでの死闘でベテランパイロットの大半は戦死しています。おかげで陸攻戦記を読むと出撃のたびに、編隊の何機かが必ず未帰還となり、みるみる部隊が寂しくなっていく という話がほとんどです。パイロットを消耗して部隊の戦力がどんどん低下していき、低下した戦力で攻撃をかけるため、さらに大損害を受けるという悪循環が、17年中頃から続きます。これは まったく防弾を考慮していなかった陸攻の機体性質のせいですが、なんとかならなかったのかなと思います。




「続・蒼空の河」ですが、昭和18年春の連日出撃のあたりの話が進展しています。重爆隊を援護する隼2個戦隊を迎え撃ってくるのは、P−40やハリケーンといった 戦闘機で、防空戦闘の相手はブレニムやB−25です。少しづつ部隊のパイロットが戦死する中、劣勢な隼隊はパイロットの腕でカバーしてなんとか戦局を支えている状態になっています。

ニューギニアや中部太平洋では、圧倒的な航空戦力の差で、陸軍航空隊はあっさり壊滅してしまった戦線が多いのですが、ビルマは両軍とも支戦線的な扱いをしていたような点もあり、比較的差のない 航空戦力での戦いが続いていました。陸軍のエースがビルマで続々と輩出したのも、そういう戦力差が比較的少なかったという点にあります(もっとも19年後半からは、戦力差が圧倒的になり、日本航空隊 は封じ込められてしまいますが)。

「戦艦武蔵殺人事件」も第5話となりました。出撃前夜に逃げ込んだ犯人を探す為に、主人公以下の捜索隊が艦前部の水密区画を捜索しているところが 今月の話です。檜山さんは最近架空戦記の仕事から色々なものを書くようになってきましたが、これもその一環なのでしょうか。僕的には取り敢えず、もう少し話が進まないと何ともいえないな〜 と言ったところです(^^




ワイド・イラストは、知られざる「ノモンハン航空戦」史話です。ノモンハンの航空戦の概略を追いながら、両軍も報告している戦果と実際はどう だったのかを、色々な資料から比較しています。
ノモンハンでの航空戦は、その後の日本陸軍航空隊に大きな影響を与えました。97戦がI−16に格闘戦で優位を見せた為、軽戦思想が蔓延し、太平洋戦争開戦時の戦闘機戦力の なさや、その後の後継戦闘機開発に大きなしこりを残したこと。数多くエースパイロットや中級指揮官が戦死し、陸軍航空隊全体での影響が隠れた面で徐々に進んでいたこと等、 太平洋戦争での陸軍航空隊不振の遠因となっています。
各種、記事や報告から両軍の戦果と損害を幾つか抜き出していますが、なかなか付き比べてみると面白いものがあります。


ワールズウェポン百科事典は、アメリカのジープと並ぶ、ドイツの軽軍用車キューベルワーゲンの記事です。およそ5万両が生産され、 ドイツ軍あるところ、必ずといってもいいくらい、このシリーズは姿を見ることができました。
当初の民間車の影響を引きずった丸々としたフォルムから、徐々に直線を多用した量産性に優れるマッシヴな形状に変わっていくのがよくわかります。また、水陸両用 型も何種類か生産され、各戦線で活躍しています。
ドイツ敗戦後に、重産業として最初に立ち直りを見せたのが自動車産業でした。その際、民需や輸出用に大活躍したのが、大規模な生産ラインが残存していて、量産が 容易で信頼性のある、キューベルワーゲンだったのです。幾つか図面や写真が載っていますが、アメリカのジープほどではないにしろ、ちょっとやそっとじゃ壊れなそ うなそのスタイルはなかなか惹かれるものがあります。


長編戦記は「第72号海防艦」の死闘についてです。戦争末期大量産された「丁型海防艦」に1艦で、中国や朝鮮と日本を結ぶシーレーン の保護に当たっていました。この時期の海上護衛戦はもう末期症状と呼んでもよいようなずたずたな状態で、日本近海ですら、米潜水艦が跳梁して、輸送船や護衛艦すら 次々と沈めていました。
本編は硫黄島での対空戦闘で負傷した筆者が、第72海防艦の艤装員となり、3月竣工より7月1日に仁川で潜水艦に撃沈されるまでの艦配置の回想録です。すでに連合艦隊 もなく、米潜水艦にたいしてあらゆる面で劣っていた日本護衛艦陣の苦闘が描かれています。




さぼってました・・・。ちなみに4月号をいま、書き上げたのですが、5月号は既に出ています(苦笑)。さっさと書いちゃいます。スケジュールは守らないとね。
さて、すでに出ている5月号は「対戦車戦闘車」の特集です。駆逐戦車や対戦車自走砲といった話です。ちょっと時間を置いて書き始めます(^^


2000/4/9 佐藤裕紀




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