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2000年10月号

やきものに打ち込む大浦駿吉さん
            ぬくもりの世界を訪ねて


市内高木にお住まいの大浦駿吉さんが今年初めての窯出しを行ったという、10月8、9日付の地方各紙の記事に誘われて、日暮れ間近い千羽平のふもとの工房を訪ねた。


案内された工房にはクラシック音楽が流れ、窯出しされた作品が所狭しと並んで、二つとない形と色合いを誇り、重量感ある落ち着いた雰囲気だ。10工房で語る大浦駿吉さん月29日から始まる工房での展示会に向けて、作品の仕上げなどでお忙しいさなかの訪問になった。
大浦さんの作品には、かめやつぼが多い。縄文以降長い年月に耐え生活に根ざしたものであることと、その平凡な形とに惹かれるのだそうだ。窯の中で崩れてしまったかめやつぼにも愛着を抱いて工房の目立つ位置に置き、どれ一つ失敗作はないと話す。この方の心根が伺い知れる。本人は、「陶芸家」と呼ばれるには、それで生計を立てているわけではないので当たらないが、さりとて、「陶芸が趣味」と言われるのは物足りない、とも話す。


6年前に自分で積み上げた窯は、焼き上がったいわゆる製品の出来から見ると歩留まりの悪い、最も旧い方法の半地上式『窖窯(あながま)』と呼ばれるもの。釉薬(ゆうやく)をいっさい使わずに、高温を出す能登産のアカマツの薪割木をくべ続け、その灰が自然ゆうとなる『焼き〆(しめ)』という方法によって、ビードロのかかった素朴で独特な味わいが生まれる。
今回は、これまでよりも12時間長い、5昼夜と12時間かけて焼き上げた。1200度を超えた窯の中はすべてが透明で、ある写真家は「お浄土の世界はこんなものか」と語ったとか。午前4時から6時ごろにかけて、窯の中は、ほんの5分間ほど1300度にも達して、紫色の炎がたなびくそうだ。


『窖窯(あながま)』と『焼き〆(しめ)』にこだわるのは、能率第一主義の現代にあって、最も遅れた非効率なやり方が生み出してくれる生活雑器の持つ強さやたくましさに惹かれるからだ。独断だがと断りながら、「電気やガスで焼く華美な作品は堕落だ。つまらない」という。また「毎回、窯出しする作品は、どれひとつとっても精一杯のかっこうで出てくる。十人十色と言うところ、見方によっては全部一等賞で、人間尊重、ヒューマニズムの世界と相通ずる」と作品に手触りしながら満足げ。
やきものは、もともと人間にとって原始の営みで、きわめて人間的な仕事であった。6割が窯の力、2割が土の力、2割が作り手の器用さ。窯へ入れたものには人間は何もできない。人間の力はたかが知れているという。人間の好きなようになるものではなく、窯が支えてくれるという安心感の上に成り立つものだという。


やきものを始めた退職間際までの長年絵画に取り組み、今は記念の入賞大作3点が工房を囲んでいる。絵画時代を振り返って、「賞をとりたいという動機で絵を描いてきて、不純だった。個性や自我を出そうとする世界で肩に力が入っていた。やきものは、自分が受け持つのは2割、肩に力を入れても仕方がない。人事を尽くして天命を待つ世界だ」という。
大浦さんの器作りはろくろを使わない『ひもづみ』なので、内側の厚みに不均衡があり、焼き上がった作品には収縮率の違いから表面に手作りの面白さが出て、ぬくもりが漂う。


おいとまをするころはすっかり暮れ、夜風がひんやりしたものの、大浦さんのお人柄のぬくもりと、出合った作品のぬくもりとを胸に抱きながら工房を後にした。 (通信員T・T)


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