この写真の鷹は初代で、今村氏は剥製を蟹谷小学校へ寄贈された、 |
小矢部市内の人物や行事、由緒を訪ねて紹介する「小矢部あちこち」を企画しました。毎月1回掲載します。今月は、第17代目鷹匠(1983年7月10日号の「市報おやべ」で「鷹匠17代目を襲名」、1993年8月20日北国新聞では「宮内庁方式17代鷹匠」と表記)である今村光男さん(棚田)を訪ねました。
今村さんは1983年(昭和58年)6月1日に、第16代目の花見薫さん(元宮内庁職員)から允許(いんきょ)を受けました。落成式などで古式にのっとり「放鷹(よう)の儀」を披露します。これまで、高岡市で行われた「万葉越中夢幻譚」に二度ほど出ましたし、最近では、昨年夏に市内で行われた北陸3県の交通安全大会にもボランティアで出ました(1998年7月22日北国新聞朝刊)。めったに出番がなくなりましたが、鷹が生きている限り、忘れられないようにと要請にこたえているそうです。
現在の鷹は2代目で、名は龍鳳(りゅうほう)、今村さんが「レッキ」と愛称で呼びかけると「ピッ、ピッ」と鳴いて答えます。エサは毎日与えます。もう十数年も生きており、「猛禽類だが、長く付き合っていると心が通じるものだ」。
「いまの鷹が死ねば、もう鷹匠を続けるのは困難だ。鷹はワシントン条約で捕獲が禁止されており、手に入れるのは大変困難だろう。鷹匠の後継者をつくるのはその意味では、なかなか見とおしが立てられない状況だ。」
「鷹と人間の付き合いは古い。一番古いのが犬で、その次が鷹だ。古い宮には鷹の絵が奉納してある。その次に古いのが馬で、絵馬というのがあるだろう、古い宮には松に鷹の止まった絵が奉納してあるよ。」(新湊市放生津町の放生津八幡宮のことではないか。1993年8月20日北国新聞の記事によると今村氏が17代目鷹匠として「大伴家持を祭神とする祖霊社の落成慶賀式」で「古式ゆかしい放鷹の儀を披露」とある)
「わしは鷹を育てただけだが、これまで小矢部市で鷹匠の歴史や、鳥見役の歴史を調べた人は大変だったろう。せっかく古文書をほじくりだして調べたのだから、何かにまとめ、みんなにわかるようにしてはどうかと思っている。」
鷹はいつでも見せてもらえます。井波で彫刻をしている人たちが、鷹を彫っているが、生きている鷹をぜひ見たいと来ていかれたそうです。
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