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2001年10月7日号

特別展「利秀と今石動」を見る
             柴田清(埴生在住)

 小矢部市には「小矢部ふるさと博物館」(水落)、「小矢部ふるさと歴史館」(埴生)、「桜町JOMONパーク出土品展示室」(桜町)、があり、それぞれの資料からわが故郷の姿を見せてくれています。
 いま「ふるさと博物館」で特別企画展「利秀と今石動」がひらかれているので訪ねてみました。(来年一月二〇日まで)。来年はNHKテレビで「利家とまつ」の連続ドラマも予定されており、この特別展はその事前学習にもなり、郷土の歴史を学ぶいいきっかけを与えてくれています。
 「ふるさと博物館」の二階に昇ると、まず目に入るのが「前田利秀画像」(拡大複製)で、本行寺所蔵の本物(小矢部市指定文化財)は展示室の中央部におかれています。永伝寺所蔵の「利秀寄進状」や、石動図書館所蔵の「今石動町之圖」なども展示されています。どれも、江戸時代の石動を知るうえで貴重です。出口近くには大きな「越中四郡絵図」(原寸大複製)が、天井から床まで届いており、埴生「村」や松永「村」など見知った地名が石高とともに記されています。その緻密さに感心しました。
 前田利秀は加賀百万石の祖、前田利家の甥です。父、秀継は、越前府中で、利家より一千石を与えられ、その後、津幡城四万石を領し、さらに、今石動城、木舟城へと移り、そこで天正一三年(1585年)の大地震で圧死しました。そのとき利秀は八才でしたが、今石動の城主となり四万石を領しました。天正一八年(1590年)の秀吉の小田原攻めには、利秀は利家に従って八王子城を攻め、その後の文禄の役(1592年「朝鮮出兵」)で名護屋(佐賀県)に赴く途中に病気になり帰国して、一六歳で没しました。墓地は八和町の本行寺。父秀継の菩提寺が同町の永伝寺であることとともによく知られています。
 利秀没後、今石動は篠島清了(秀継、利秀につかえた家臣)が、利長から三千石を与えられて支配し、それから、長政、清長、清次、清英と宝永7年(1710年)まで続いたと伝えられています。(なお、加賀藩政末期侍帳に人持篠島鍛冶郎二、五〇〇石の記載がありますから、篠島家は幕末まで加賀藩に重く用いられたことがうかがわれます)
 「ふるさと博物館」一階には昭和二〇年頃までの、庶民の生活用具などが展示されていて、年配者にはなつかしいものです。訪れたときには特別に「瓦」の展示があり、小矢部市の有力産業である瓦製造の盛衰に感慨を覚えました。

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