"スパークNo234" (2003.8)



市民アンケートの内容について
刈谷労基署に改善指導を要請

 ――日本共産党刈谷市議団とデンソー支部

刈谷労基署で「刈谷市民アンケート」の労働問題関連で要請する面々(8/5)
こちら向き左から、
野村武文刈谷市議、山本シモ子刈谷市議、デンソー支部代表、

 七月の刈谷市議選の際に、日本共産党刈谷市委員会がおこなった、全戸配布アンケート結果にもとづき、日本共産党刈谷市議団は刈谷労基署に要請行動をおこないました。これには野村武文、山本シモ子両刈谷市議が参加しました。またデンソー支部の代表も交渉に同席しました。市民から寄せられた約三十項目にわたる声を文書で示し、改善指導を求めました。(その一部は別紙の通りです)
 応待した刈谷労基署の次長と主任は「大変参考になります。今までの労働実態についての認識を更に深めることができました。具体的な個別の問題については可能なところから改善していきたい」と回答しました。
 また日本共産党刈谷市議団からは「刈谷市はゆとり都市宣言をしているが、労基署と任務分担して市全体として一体、具体的に何ができるか検討していきたい」と希望が述べられました。

刈谷市民アンケートの声
○ 配転による実質賃金カットで、手取りが3分の2になった。
○ サービス残業は当たり前のよう。現在では文句を言えばリストラ組です。
○ 将来の年金制度に積極的な対策を。
○ 海外移転によるリストラの受け皿を。
○ アイシンには、外注からAI-Eを通した二重の派遣がある。300人くらいおり違法を承知でやっている。調査して欲しい。アイシングループは労組もなく、いまだにサービス残業をやっている。AI-Eも救ってほしい。
○ 手当てなしで残業している。
○ 小学校に勤めているが、5日制になってから帰宅時間が午後7時になった。家族と食事が出来ない。
○ 問題が明るみになるまで隠している。会社は反省がない。
○ 知人の会社は、徹夜で働かされるうえに、そのまま次の日も出勤になる。夜中の休憩時間はナシ。ごはんを食べるひまももらえず、厳しいとのこと。お金はそのまま支払われず、差し引かれる。組合もなく訴える場がない。
○ 毎日、サービス残業で、あたり前のようになっている。
○ 豊田工機やその子会社などもサービス残業があります。それに子会社などは外注など社外工を切って、そのかわりの人をいれず残された人に仕事をおしつけています。
○ 目に見える形でのリストラはないけれど、いじめのような、退職にむけるようないやがらせがある。
○ 6年も昇級なし、ボーナスカット、夜帰りが遅いので少しでも早く帰るように朝1時間ほど早く出社している。
○ 主人は出向。娘は残業手当のつかない労働。
○ 刈谷市役所の職員の残業が多すぎる。本人の健康管理のため午後10時までに全員帰宅を希望。
○ 朝7:20から夜8:00がほぼ毎日です。ほぼサービス残業です。(公務員)
○ アイシン開発では、月一休で代休などが全くありません。
○ 子どもが織機で働いています。以前は残業をボランティア同様にしていたのですが、最近は少し改善されたようです。共産党の活動のおかげと感謝しております。
○ リストラという名の首切りや黙って給料を下げるなど許せない。


仲間の声
今年の昇給
 今年の昇給は三〇〇円(調整給二千円を引かれて)。会社は何を考えているのか。しかし毎月の組合費は五二〇〇円も引かれています。組合は選挙の時だけ元気になります。私たちのことは考えていません。何のための組合でしょうか。どうして選挙を強制されるのでしょう。個人の自由です、投票は。こんな組合、必要ありません。
夜勤者用駐車場
会社まで歩いて五十分かかるところに住んでいます。朝四時頃に終わる勤務になったが、車通勤が認められないので不自由している。西尾工場の回りは空き駐車場がいっぱいあるのに、何とかならないのか。


トヨタ元係長の労災認定
 国が上告を断念
坂口力厚生労働相は、うつ病で自殺したトヨタ自動車の係長だった男性=当時(三五)=の労災を認め、遺族補償年金の不支給処分取り消しを命じた名古屋高裁判判決について、上告しない方針を明らかにしました。
 判決によると、男性は設計技術者として一九八八年六月ごろから長時間勤務が恒常化し、うつ病にかかり同年八月に飛び降り自殺しました。豊田労働基準監督署は九四年、業務とうつ病の関係が認められないとして、遺族補償年金などの不支給を決めていました。
判断基準改めよ
 トヨタ過労自殺事件弁護団の声明
 高裁判決は一審判決と同様、「通常想定される範囲の同種労働者の中でも最も脆弱(ぜいじゃく)な者を基準とする」という考え方を採用している。厚労省は今回の高裁判決を謙虚に受けとめ、これまでの判断基準を直ちに改めるべきである。


写真にみる日本史の中の日本共産党 連載第十二回
 広島の被爆中心地
 一九四五年(昭和二十年)八月六日の被爆直後の産業推奨館(原爆ドーム)。内部には三十人ほどがいたが、すべて即死しました。広島では、この原爆で市民の約半数の二十万人が死亡しました。
 日本共産党は米ソ対立の時代から、核軍拡競争をやめさせ、地球上からすべての核兵器を廃絶するため、戦後一貫して運動してきています。