2005年9月22日(木)「しんぶん赤旗」
川崎重工争議 不当解雇・賃金差別 解決で全面和解
労働法尊重の施策実行へ
(写真)一括全面解決の勝利和解が成立し、喜び合う川重争議団と支援の人たち=21日、神戸市
造船重機大手、川崎重工の神戸・兵庫工場で起きた近藤正博さん(49)の解雇撤回と賃金差別是正を労働者が求めてきた争議で、二十一日、争議団・支援共闘会議と会社側が全面和解しました。
和解協定書は、会社側が▽憲法に定める基本的人権、労働諸法令を尊重して公平な人事施策を実行する▽近藤さんへの仮払金(八〇年の神戸地裁仮処分決定に基づいて五年間支払った解雇後の賃金)の返還請求権を放棄する▽和解金を支払う―を確認。法的には決着したもとで、当事者の交渉で和解に至った争議は「異例」といいます。
川重は一九七八年、結婚間近の近藤さん=当時神戸工場勤務=に岐阜への配転を命じ、近藤さんが断ると解雇しました。
また川重は六六年、仕事の難易度や能力で労働者をランク分けする「職能等級制度」を導入。会社のいいなりにならず、労働条件改善を求めて運動する労働者を低いランクに置き、同期に比べ、月約十万円も低い賃金差別を長年続けてきました。退職強要に応じない労働者に、みせしめの草むしりを強制するなど、差別を強めてきました。
労働者十七人(後十六人に)が九四年、地方労働委員会に救済を申し立て。地労委は〇三年、川重の不当労働行為を認定し、職能等級是正、差額賃金支払いを命令。会社側が受け入れ、同命令が確定しましたが、是正は不十分なものにとどまり、労働者は、さらに差別是正や謝罪を求めてたたかってきました。
争議団長の坂本明さん(67)は「近藤さん事件を含め、一括全面解決したのは大きな成果です。四十年来のたたかいが実りました」と語りました。
■仲間と家族が支えてくれた/原告の近藤正博さん(49)
結婚を間近に控えて転勤を断り、二十二歳で川崎重工を解雇された近藤正博さん(49)。二十七年にわたるたたかいとその思いを聞きました。
◇
一九七八年五月、神戸工場で電算機オペレーターとして働いていましたが、突然、岐阜工場への配転を告げられました。
その半月前、職場で知り合った尚子さん(49)と婚約したばかりでした。親の介護も考慮して配転を断ると、会社は連日執拗(しつよう)に迫り、尚子さんの自宅にまで押しかけました。「君はもう岐阜の人間だ」と仕事もタイムカードもとりあげ、解雇しました。
■妻とビラ配る
理不尽な会社への怒りと将来への不安…。「こんな人権じゅうりんを許すわけにはいかない。同じ犠牲者を出さないためにたたかおう」と決意。妻の尚子さんと工場の門前に立ち、手書きのビラを配りました。これをきっかけに、職場の活動家と知り合い、神戸地裁に地位保全の仮処分を申請。「近藤君を守る会」が結成されました。
近藤さんと「守る会」は、たたかいのなかで支援を広げていきます。神戸地裁は八〇年六月、賃金の支払いを川重に命じる仮処分決定を出しました。配転や出向の強要は続きましたが、配転拒否者が解雇されることはありませんでした。
八二年から毎月、工場門前でカンパを訴え、ときには年間五十万円も。「職場の仲間が『はよ戻ってや』と励ましてくれたことが一番うれしかった」と振り返ります。
■あきらめない
裁判では、会社が抗告し、近藤さんは大阪高裁で敗訴。本訴審でも神戸地裁、大阪高裁、最高裁(九二年)で敗訴しました。会社は、支払い済みの賃金と利息金約一千万円の返還を迫りました。
しかし、近藤さんはあきらめませんでした。全国を回って署名を集め、くり返し本社に要請。株主総会に四回出席し、事件の不当性を告発しました。議長から「その件は決着済み」と制止され、マイクの電源を切られても訴えました。昨年は、英文のリポートを携え、国連まで赴きました。
粘り強いたたかいが世論を動かし、和解への道をこじ開けました。
「ようやく会社に非を認めさせることができました。妻と二人で始めたたたかいでしたが、いろんな人と出会い、仲間と連帯する素晴らしさを実感できたことは、私の人生にとって大きな糧になったと確信します」
苦労を共にした尚子さんと二十一歳と十四歳の娘に伝えたい言葉は―。「二十七年間、支えてくれてありがとう」(塩見ちひろ)
◆e-mail address: ご意見・コメントは下をクリックして下さい
『スパーク』へ意見・コメントを送る