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靖国と日本国憲法(2006.5『人権と教育』)
「道はいつもひらかれている」支持者が詩を紹介してくれました
茨城県職員組合第68回大会 来賓あいさつ (2000年10月12日)
新社会党結党の辞(1996.3.3)
細川連立政権と日本社会党の進路(1994.2.10)
「リクルート疑獄の構造」序文(1989.5.1)
「暮らしと法律」(1986年刊)に寄せて
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 1989年4月25日、竹下首相はついに退陣を表明した。空前の政治不信の広がりの中で、中曽根氏の証人喚問問題を裁ききれず、自らの疑惑の弁明に憂身をやつす竹下氏に残された途はこれしかなかった。私たちは88年7月、土井たか子委員長が「この臨時国会は税制国会ではなく、リクルート国会である」と断じて以来、リクルート疑獄の徹底究明をめざして奮闘してきた。それから十ヶ月、竹下政権の崩壊を目の当たりに見て、あらためて国民の力の大きさに目をみはり、歴史の確かなあしどりを実感した。
 リクルート疑獄は規模の大きさや構造の複雑さにおいて、わが国政治史上例をみないだけでなく、民主主義にとっても深刻な危機をはらんでいる。さまざまな”形”を装った巨額の金が政官界にバラまかれ、政治が国民の意思によってではなく、金権によって動かされている実態が次々に明らかにされた。
 そればかりではなく、国会は、これほどの大疑獄を前にしながら、自民党が数の力によって国政調査権の発動を凍結し、中曽根喚問どころか竹下氏の”三点セット”の提出さえ実現できていない。汚染された政治家たちは、自らの疑惑解明に背を向け、「秘書だ」「妻だ」と他に責任を転嫁し、うそ八百を並べて逃げ回るという哀れな姿を見せて、国民のひんしゅくをかい、政治不信を増幅させてきた。
 その自民党が、公約違反の消費税やそれを前提とした89年度予算だけは、単独採決、強行採決をくりかえしてきたのであるから、わが国の議会制民主主義は地に墜ちた。そのような”危機と不信”を生み出した責任は、かかって竹下内閣と自民党にあり、竹下内閣の総辞職は当然のことといわなければならない。
 しかし、竹下退陣によってリクルートの解明は一歩も進んだわけではない。まして自民党の持病ともいえる腐敗体質の構造にメスが入ったわkではない。したがって、首相の退陣によって真相究明がウヤムヤにされたり、帳消しにされてはならない。
 私たちは、この民主主義の危機を克服し、金権・腐敗の政治を根本的に改革するためにも、リクルート疑獄の真相とそれを生み出した構造を全面的に解明し、その政治的、道義的責任を厳しく問わなければならない。
 そこで、”リクルート疑獄とは何か”について、いくつかの特徴点をあげておこう。
 その第一は、「一般人には入手し難い、公開後には値上がり確実な未公開株」であって、職務権限如何では賄賂ともなる”黒い株”が政・官・財そして学者、文化人、ジャーナリストなど、実に155人にものぼる各界の有力者にバラまかれ、”濡れ手で粟”の大金に化けたことである。
 それは、ロッキード疑獄に見られるような、ある特定の目的のために一部の限られた政治家に賄賂を贈るという”単発型”ではなく、いくつもの狙いが同時に含まれ、単に各界の広範な層というだけでなく、中曽根政権中枢にいた政治家をはじめ、自民党の各派閥の領袖を網羅し、その魔手は野党の一部にも及ぶという”複合型””重層型”の超大型疑獄である。
 第二の特徴は、動いた金の巨額さである。まず、コスモス株は、店頭公開に向けて約1900万株が放出され、公開時に5270円の高値をつけたから、元値を引いた差益の総額は600億円を超えた。そのうち、84年12月に”譲渡”された76名と、86年9月のいわゆる”還流株”を引き受けた79名の人びとが”濡れ手で粟”で受けた利益の総額は68億円余になる。
 問題は株だけではなく、莫大な”献金”や大量パーティー券購入など、各種の名目で政界に巨額の金が動いていた。竹下、安部、宮沢各氏への億単位の”献金”等は、国民を唖然とさせたが、それですべてとは限らず、中曽根氏らへの”献金”に至ってはほとんど明らかにされていない。
 第三の特徴は、リクルート側の政界工作はかなり早くから始まっているが、それが水を得て急速に”悪の華”を咲かせるのは中曽根政権誕生以後のことである。
 中曽根内閣が推進した行政改革―民活政治は、”小さい政府”をかかげて、土地をはじめとする各種の規制を緩和し、国公用地の民間企業による利・活用を図り、公営企業の民営化などを進めることによって、”民間活力の導入”を行なうというものであった。これは民間企業にとっては、従来の公的規制が弱まって問題をはらむ企業活動の幅が広がることになり、また国公有地などの公共財産や公益事業が営利活動=私的利潤の対象になり、しかもそれらに公の資金や行政的支援が提供されるということであった。その点で”民活”とは、実は企業にとっては”官活”にほかならなかった。
 その結果、“土地狂乱”の火がつき、リクルートは地価高騰と“民活”をバネに肥大化していく。リクルートの急成長の「神話」の裏には、このような“官”の徹底的な利・活用
があった。そのためには既成の利権構造にくいこむだけではなく、他を押しのけて独自の利権のネットワークを政官界にはりむぐらす必要があった。大量の株と巨額の“献金”は、まさにそのための手段であった。
 中曽根氏の“審議会政治”は、このような工作を補強し、先取りするうえで願ってもない機会となった。中曽根政権総体とカネで癒着したリクルートは、政府の各種審議会に例を見ない数のポストを得てきた。これによってリクルートは、政策立案の段階からその影響力を行使し、またいち早く政策情報を入手し、さらにはそのポストを自分の事業に有利に誇示、利用することができた。
 最後に、このような本質をもつリクルート疑獄を発生させたのは、言うまでもなく政・財・官の癒着とその上に成り立ってきた40年余にわたる自民党の長期支配がある。
 私たちは、13年前にロッキード疑獄を経験した。それは「首相の犯罪」であったが、元首相は被告人兼務でキングメーカーとなり、長い間わが国の政治を裏から動かした。ロッキードの教訓を生かしたはずの政治資金規正法は、竹下首相自身が違法、脱法の先導役となり、そのザル法ぶりを露呈して見せた。また、「疑惑を受けたときは自ら真摯な態度をもって疑惑を解明し、その責任を明らかにする」とした国会の政治倫理綱領には誰も従わず、これも空洞化してきた。このようにして金権と汚職の政治を根絶できないまま、そのウミを政治の体内に温存させてきたことが、今日のリクルート疑獄を生む土壌となったのである。
 疑獄に連座し、あるいはそれと同居してきた政治家たちが、依然としてわが国の政治の中枢に座り、退陣を表明した首相が、わが国の代表として諸外国を歴訪するなどの汚職の“日本的決着”に、今度こそ本格的な「ケジメ」をつけなければならない。
 竹下政権は窮死したが政治はなにも変わらなかった、では困るのであって、総汚染の自民党内の政権タライ回しで目先だけを変えるような欺瞞を許してはならない。このような自民党の大失政による政変にあたっては、社会党を中心とする野党が選挙管理内閣をつくり、リクルート疑獄の徹底解明を行なった上で解散・総選挙を断行し、国民の審判を仰ぐのが憲政の常道である。
 いずれにしても、ポスト竹下政権がなすべきことは、精神論やポーズで問題の本質をすりかえたりすることではなく、中曽根証人喚問をはじめとする疑獄の全容解明を政治の最優先課題とするとともに、衆院を早期に解散することである。総選挙なしに、国民と自民党多数支配の国会との距離、政治不信と金権政治との乖離を埋めることはできないからである。
 総選挙では各党が金権政治一掃のための具体的な政治改革案を国民に示して、その審判を受ける必要がある。本格的な政治改革は、そこから始まる。(1989年5月1日)


あっせん利得罪というのは、政治家、市町村長、議員が行政に口を利く、そういうものに対するものです。許認可に関わりそこからリベートを取る、これが常態化している訳です。だから相場まであると言われます。酒やタバコ、これは許認可事項です。就職一人斡旋すると初任給一年分、校長になるには三〇〇万など、まことしやかに出廻っているのです。ある保守系の議員には値段表まである、こういうことが横行していたわけですから、リクルート事件が発覚し竹下内閣を退陣に追い込んだ後、私が率直に言うとあっせん利得罪という法案をまとめました。その時自民党は戦々恐々でありました。こんな法律が通ったら刑務所がいくつあっても足らない、と。当時の社会党もこれを無視して小選挙区に乗せられてしまった。そういう経過で、いわば私にとって思いの深い法律です。なぜこのような法律が必要なのかは申し上げるまでもありません。ようやく陽の目を見ることになりました。
 戦後、これを取り締まらなければならないということで、昭和三〇年代、斡旋収賄罪という法律が刑法上特設されました。請託があったかどうか、直接頼まれたのかどうか、さらに不正な行為を公務員にさせたかどうか、職務権限が公務員にあったかどうか、等々をめぐって検察庁はつかまえることができなかった。つかまったのは中村喜四郎ただ一人。公取委の動きを抑えておきたい中村喜四郎たった一件、これしか捕まらなかった。そこで政治家が、皆さんのところにもああしてほしい、こうしてほしいと来ることもあるでしょうが、それをすること自体が越権行為とみる。その結果、口利きの結果、リベートを取る、お金を取るなどはもってのほかだ、とするのがあっせん利得罪です。これはイギリスの腐敗防止法に学んでいます。汚職や事件に関わった政治家を再び政治の舞台に陽の目を見ることをなくしようということで、ようやくそれが広がることになったのはご同慶にたえません。自民・公明の出してきたのはザル法です。今の政治が信頼されてないので、あっせん利得の内容をきっちりさせ政治の浄化をはかってまいりたいと考えます。
 今の政治の状況、時代の流れは、先程、塚田委員長からありましたように価値観がバラバラです、将来の不安もあり、全くそのとおりですが、時代の特徴は、新自由主義と改憲路線と考えています。申すまでもなく政府や自治体の役割をできるだけ小さくする、軍事は優先する、軍事と警察は中心に置きたい、福祉は大幅に後退する小さい政府論があります。その結果、公務員の数が大幅に減らされる、企業倒産も特徴です。そして市場は競争原理、弱肉強食に任せる、貧富の格差を拡大させようというのが今の時代の大きな特徴であります。その点で公務員の皆さんにも例外なくその流れが押し寄せてきています。これとどう闘うかがポイントとなります。皆さんの努力に敬意を表します。
憲法だけに絞りますが憲法改悪の流れが強まってきました。衆参両院で今年一月早々から憲法調査会がスタートしました。五年間調査するといいます。憲法改悪は前提としないという約束でした。自民党、自由党からはスタート直後から調査期間は三年で終わりにし、四年目からは改憲作業に入るという、そして五年か六年目には国民投票だというのです。改悪の中心は集団的自衛権の行使だけであります。日本以外の戦争にアメリカと一緒になって自衛隊を出動させる道を開く、これは新ガイドラインが前段をつくりました。武力行使だけは憲法上抑えられているために日本の自衛隊は出来ない、それを自衛隊が公然と武力の行使も出来るようにしようと言うので憲法改悪が必要となっているのです。憲法九条はもちろんのこと。こんな時代を私たちは許してはならないのであります。その為には、憲法改悪阻止の大きな運動を労働者、組合の皆さんがつくっていただかなければならないと訴えるものです。自民党や公明党あるいは保守系だけではないので誤解のないように言いますが、民主党も鳩山さんは二年以内に憲法改悪、場合によっては徴兵制も、と言ってます。前回の総選挙の結果は八割が改憲派ないしは改憲指向派で、改憲の発議に必要な三分の二を優に衆議院は超えるに至りました。問題は参議院なのであります。参議院は未だそこまで行っていません。したがって来年の参議院選挙で護憲派が三分の一を確保できるかどうかが分かれ目であります。その為に自民党が比例区で28%の支持しかなかった現実から大敗を恐れ、この危機感から今、拘束名簿式から非拘束名簿方式にしようとしてしております。有名人を大量に出してその得票でこれを自民党にプラスして過半数を制するという自民党の企みです。取り巻く情勢は申すまでもありません、二十一世紀へ厳しい時代を乗り越えて新しい時代に大きい労働運動、本格的な労働運動をぜひ作り出して下さい。
(2000年10月12日。茨城県職員組合第68回定期大会にて来賓あいさつ。)





小さき旗上げ、遠大な志  新社会党結党に寄せて

 私たちはここに、新社会党結党第一回全国大会を開きました。一九一五年、社会主義の草分けである堺利彦さんが「新社会」という雑誌を発刊、その冒頭に「小さき旗上げ」という一文を呈し、自らを「遠大な志の存する義軍」と語っています。奇しくも同じ名前と志で五人の国会議員が小さな旗を上げ、護憲勢力の結集を訴えましたところ、一〇〇〇名を超える皆さんが一堂に会し護憲平和の党の歴史的な旗上げを迎えることができたことは、旧社会党の変節の中で困難と苦悩が長かっただけに、この上ない喜びであり感激はひとしおであります。
 かえりみれば、この二年間に旧社会党は政権参加とひきかえに小選挙区制に賛成し今日の混迷の原因をつくったうえ、自衛隊合憲、安保堅持に転じ、新軍拡と安保再定義に手を貸し、護憲を捨てて改憲政党に転落しました。また、原発容認、消費税率の引き上げ、年金改悪、コメ自由化など数々の公約違反を重ね、さらに憲法違反の破防法を発動し、住専処理を国民の血税でまかなう過ちを犯すなど、無原則無節操な集団と化しています。そして旧社会党は一月十九日、綱領と規約を変えて半世紀に及ぶ歴史に幕をおろし、社会民主党と名乗ってはいますが、ここにはもはや社会民主主義の姿はなく、改憲の党、第三保守党に転落しました。
 このような深刻な事態に直面して、憲法改悪に断固として反対し護憲の旗を再びうちたてる責任があります。また、働く者や市民の立場から、政治の変革を進めなければなりません。最初は少数であっても、また、どんなに苦労が大きくとも、私たちが始めなければ誰が始めてくれるでしょうか。日本の社会に対し、アジアの平和に対し、子供の未来に対し、私たちは責任をもっているのです。
 時代は世界史的な転換期にあります。20世紀は植民地主義と戦争の時代でした。二次にわたる大戦で一億の人命が奪われ、広大な地域と文化が廃墟と化しました。20世紀はまた、科学技術と生産力の飛躍的発展で大きな富を蓄積しました。分配の不公正、貧富の格差、南北の格差を広げ、戦争とあいまって資源を浪費し、環境を破壊し、人口増と重なって食糧危機を招き、人類の生存をも脅かすに至っています。
 私たち新社会党は、これら20世紀の負の遺産を清算し、希望に満ちた21世紀を迎えたいと思います。そこで、憲法9条を守り、人権と民主主義・環境と福祉を重視して、すべての人びとが健康で文化的な生活ができる共生の時代をめざして、「私たちの当面の政治目標=一九九六年綱領」を決定し、その政策の具体的かつ明確な実現のために人びとと一緒に運動をつくっていきます。ひとりの力は小さくとも多くのひとが力を合わせれば、知恵も能力も資金さえ生み出すことができます。新社会党は、旧社会党の護憲派・良心派の人びとが中心でスタートしましたが、広範な人びととの共同の運動によって、より豊かに、より多様に、より強力に発展していくことができるものと確信しています。
 新社会党は、皆さんと私たちがこれからつくる党です。初めは寒空の下で芽を出した小さな木でありますが、自信と誇りをもって、ひるまず、たゆまず活動を広げていくならば、大地にしっかりと根をはり、やがて大きな森をつくることができます。その中で護憲のかがり火を焚き、平和の灯を世界の人びとに発信していくような政党にしていきたいと考えます。
 先の堺さんの文中の最後は、「来ってこの山塞に投じあるいははるかにこの孤軍を援げんとする者があるならば、戦術の相違、軍略の差異、それらは今深く争いだてする必要はない。大同に従って相共に謀ればよい」と結ばれています。この言葉をしっかりとうけとめ、新社会党は、平和と民主主義を求める全ての人びと、人権や環境を大切にする多くの人びとと小異を残して大同につき、護憲勢力の大結集をはかり、21世紀にむけて確かな展望をきりひらいていきたいと思います。(1996.3.3)



細川連立政権と日本社会党の進路(インタビュー)

【「造反」について】造反とか守旧派と言われるが我々は正論派ですよ。政治腐敗の根絶が政治改革の基本です。それが選挙制度の改革にすり替わった。政治改革前進の気持ちに変わりはありません。小選挙区に反対なのです。企業・団体献金の禁止と腐敗防止法の二つはぜひ実現したい。元々社会党は比例代表を基調にした併用制で一致していたんですが、小沢・新生党代表幹事は「小選挙区こそ社会党をつぶす制度だ」という趣旨のことを言っていたのです。
【党の方針に】自民党政権を倒すことが大事なので、連立は当然でした。しかし社会党は準備不足だから閣外協力すべきだったんです。にもかかわらず当時の労組幹部などから「青酸カリ以外は何でも飲め」という天の声があり、それが今日まで尾を引いているのです。党の方針というが執行部の独断先行であり党大会も事後承認でした。
【自民党と手を組んだ?】自民党の反対と我々の反対は趣旨は全く違う。結論が否決だから同じだからといって謀議したことは絶対ない。
【連立政権を倒すのか】細川政権発足時は小選挙区と比例代表は二五〇ずつと決めたのに、コメ問題のように基本合意を越えると「前政権の継承」だけになって、変化や発展がなくなってしまう。社会党も埋没する。細川さんが基本合意を破り連立政権の基盤が自壊作用を起こしつつあるのです。
【社会党からの6閣僚】社会党らしさが私たちからも見えません。細川政権の人気は高いのに与党第一党の社会党の人気が暴落している由縁です。逆に自民党政権でもできなかったコメ部分開放自由化、厚生年金65歳支給、海外法人救出のための自衛隊機派遣を細川政権がやってのけた。こうなると社会党の連立参加は何だったのか。
【小沢・新生党と独自性】金権政治の一翼を担ってきた小沢さんが、向こう岸からこちらへ渡ってきたからといって、みそぎはすんだのでしょうか。ゼネコンスキャンダルが広がっているのに証人喚問もできない、真相究明も手がつけられない、これで何が政治改革だという国民の怒りがある。社会党の存在そのものが問われています。
【与党であること】ゼネコン汚職追求より、景気対策より、政治改革が優先するという、特別列車に仕立てて障害になるのはすべて先送り。列車の積みには腐敗防止でなく小選挙区制で「そこのけそこのけ」と走り続けてきた、それに待ったをかけたのが参議院での否決だったと思う。
【処分と執行部に】日本の民主主義と社会党を守る思いをこめて選択した道です。執行部に出ていけとはいいませんよ。民主主義に敵対する制度を採用して、返す刀で我々を切る資格があるのでしょうか。腐敗防止で共通事項を見いだせば、みんな団結できるんですよ。分裂はしてはならないと思う。もう少し冷静に考えればわかってもらえる。 価値観が多様化している時代なので、一つの政党で全員足並みを揃えるのは難しい。ドイツのように党議拘束を緩和したり、議員は良心に従ってのみ投票するとか、そういう時代になっている。新しい統合の論理や方法を確立する必要がありますね。
【右派と新・新党の動きに】そういう考えの人たちが党を出るでしょう。赤松さんなんか公然とそう言っているね。社会党を集団でぬけて、新党や新・新党をつくることは許されない。どうしてもいやだいと言う方は出ていくしかない。社会党は護憲・平和・民主主義を大切にしながら新しい時代に見合った政策を決めていく。小沢さんを中心に中央突破して社会党を揺さぶろうとしているのです。小沢戦略に乗るわけにはいきません。(1994.2.10)





 奥久慈・大子町に生まれる。茨城県立常陸太田一高を経て、中央大学法学部卒。東京で弁護士開業。間もなく、水戸に法律事務所を開設。水戸弁護士会長、茨城県弁護士会会長、日弁連理事、社会文化法律センター理事などを歴任。1974年から日本社会党所属参議院議員(茨城選挙区)となり、4回連続当選で24年間、平和外交・環境・人権、基地問題など国会で活躍。日本社会党茨城県本部委員長として県内労働運動、住民運動へも献身し、茨城の良識との評価は根強く21世紀に受け継がれている。ロッキード事件、リクルート疑獄では追求の先頭に立つ。1994年小選挙区制に反対し、青票(反対票)を投票。1996年4名の国会議員とともに新社会党を結成、初代委員長となる。水戸市見川在住。法律事務所は水戸駅南口に。
【主な著作】『リクルート疑獄の構造』(1989年)、『巨悪を撃つ』(共著・1979年)、『暮らしと法律』(編著・1986年)など多数。



  わたくしが法曹として出発して30年になろうとしています。東京で弁護士を開業し、松川事件、砂川基地訴訟、”三池”の闘いなど全国的な事件を手がけてきましたが、1966年に地元茨城に戻り、水戸に法律事務所を開設しました。
 当初一人旅だった事務所は、まもなく丹下昌子弁護士が参加し、つづいて天野等弁護士、久保田謙治弁護士、そして関周行弁護士らが加わってにぎわい、矢田部理個人の事務所からロー・ファーム的な事務所に発展しました。
 その後も新進の水谷ニ良弁護士、安井弘弁護士などが仲間入りし、わたくしの名は冠していますが、横の紐帯を軸にしたユニークな共同法律事務所として、正義と人権のために活動してきました。憲法の心を大切にしながら、一貫して庶民の立場、働く者の立場で仕事をしてきたと自負しています。
 そして、いま矢田部理法律事務所は20年の年齢を刻むことになりました。この間手がけた事件はおよそ1万件、数万の人びととかかわってきました。扱う仕事も民事、刑事はもとより、行政事件から労働問題、そして環境・公害に関する”住民訴訟”まで広がりをみせ、さまざまな大衆運動や住民運動とも結ぶ間口の広い事務所として機能してきました。
 とりわけ、これらの諸活動のなかでも大きな位置を占めたのが、日常的な法律相談活動であったと思います。ちょっとした注意やアドバイスが、ひとりの人間の生活や権利に大きな響きをもたらすことを思うと、それは長い時間をかけて取り組む訴訟事件よりも、時としてはるかに神経をつかい、法律の知識や技術だけではなく、全人間的な知恵や経験が求められる仕事でした。まさに、暮らしと法律をつなぐ”環”−−−それが法律相談です。
 そのような貴重な経験をもとに、矢田部理法律事務所開設20周年を記念してまとめたのが本書です。省みていえば、この本はそんなに水準の高いものではありません。もとより専門家の批判に耐えようなどとの思い上がった気持ちもありません。しかし、ささやかではありますが、表題の如く”暮らしと法律”を結びつけることに役立ち、庶民の生活や権利にとって”道しるべ”になってくれればと願っています。(1986年2月15日 誕生日にあたり 水戸にて)


 古谷綱武さんを知っていますか。社会派俳優・故滝沢修さんの義兄弟です。教員の方の紹介で詩人 古谷さんの詩を読みました。新社会党と理想を求めてやまない人々に捧げます。
 ※古谷さんとその著作についてご存知の方、協同掲示板でお知らせ下されば幸いです。


 道は、いつもひらかれている                               詩 古谷綱武

 道は、すべての人の前にひらかれている。その人にやる気があるかないかだけである。

道は、すべての人の前にひらかれている。しかし、道がとざされていると思う人の前には道はとざされている。自分はだめだと思う人は、だめになっていく。
 
 道は、すべての人の前にひらかれている。しかし、自分が生きていくべき人生は、自分で発見していくよりほかにないのである。

 道は、すべての人の前にひらかれている。しかし、生きがいとしあわせとをつかみあてるその鍵は、自分の心の姿勢の中だけにしかないのである。

 道は、すべての人の前にひらかれている。しかし個性のない人生は、真実の人生ではない。たとえ優れた人のまねをしても、まねをしてつかみあてられる自分の人生というものは、この世にはないのである。

 道は、すべての人の前にひらかれている。。しかし、人生を暗く生きようとする人には、明るい人生も暗くしか生きられない。人生を明るく生きようとする人だけが、暗い人生さえも明るく生きていくことができるのである。

 道は、すべての人の前にひらかれている。しかし、自分からあきらめてしまうことは、もはや生きることではない。その人の前で道もとざされる。

 道は、すべての人の前にひらかれている。しかし、人が一度でやりとげられることが、自分には一度でやりとげられないこともある。一度でやりとげられないことは十度やってみよう。十度やってもやりとげられないことは、百度やってみよう。

 道は、すべての人の前にひらかれている。しかし、やりとげるまでは、決してやめないこと。そして、やりとげようとする心を決して失わないこと。

 道は、すべての人の前にひらかれている。しかし、見栄や虚栄心、にくしみやうらみ、欲の深さや身勝手な自分本位、そうしたものに心をしばられていると、その心の束縛の不自由さによって、その人は、自分から自分の道をとざしてしまうことがある。

 道は、すべての人の前にひらかれている。しかし、求める心があるならば、恥をかくことを決して恐れまい。軽薄な虚栄心などに心をしばられまい。また、人を憎むことから得られるものは何もないこともよく知っていよう。欲の深さは、かえって失うものが多いことも知っていよう。

 道は、すべての人の前にひらかれている。しかし、自分から自分の道をとざしてしまうような、そういう自分のいっさいのものを、自分から捨て去っていくことが大切である。それを失った時にに本当の自分が生まれてくる。道がひらけてくる。

 道は、すべての人の前にひらかれている。しかし、すぐにわかった気持ちになってしまうのは危険である。一だけ考えて一がわかったと思うのは、ほんとうはわかったことではない。百考えてやっと一がわかったというのが、ほんとうにわかったということである。

 道は、すべての人の前にひらかれている。、しかし、いつもやわらかい頭をもって、早く決断できる人でありたい。一だけ考えて、決して誤ることなく、たちまち一の判断ができるのが生活力とよんでもよいものである。ただ、そうした早い決断が、いつも誤りなくできるのは、その人が百を考えぬいてきた蓄積を、その心の中に持っているからなのである。

 道は、すべての人の前にひらかれている。しかし、良いことを確かに良いとわかり、悪いことを確かに悪いとわかることが大切である。しかもそれは、ほんとうは、それほどやさしいことではないのである。そのむずかしさこそをよく知った人でありたい。

道は、すべての人の前にひらかれている。しかし、悪いことが確かにわかるためには、良いことが確かに良いとわかる以上の、教養とセンスとが必要である。そのことも、よく知っておきたい。

 道は、すべての人の前にひらかれている。しかし、たえず、知ろう、学ぼう、考えよう、とする意欲を持たないならば、人はその自分の人生の道を、あるきすすむ力を失うであろう。知り、学び、考えていくことが自分の人生の道をあるいていくことだからである。

 道は、すべての人の前にひらかれている。しかし、人によっては、自分にとって一番やさしい道しか、あるこうとしない人もいる。だが、人によっては、自分を育て続けていくために、一番むずかしい道のほうを、一生懸命あゆみつづけている人もいる。

 道は、すべての人の前にひらかれている。しかし、そこで権利意識ばかりをむやみにふりまわして、まったく停滞した空虚の中にだけ身をおいている人もいる。そうではあるがしかしまた、人間としての権利の意識をまったく自覚していない人はとかく、大切な責任の意識にも欠けている場合が少なくない。

 道は、すべての人の前にひらかれている。しかし、したいことだけをして、しなければならないことは、なかなかやろうとしない人もいる。しなければならないことこそを、したくなる人になりたいものである。

 道は、すべての人の前にひらかれている。しかし、この人生はまたその別の一方では、人にその道を見失わせるほどの誘惑と失望の繰り返しにも、満ち満ちていることを忘れてはならない。それだからこそ、人生という道の味わいは深いのである。

 道は、すべての人の前にひらかれている。しかし、世間に自分というものをわかってもらおうなどという期待は、持たないほうがよい。そうした期待に生きたいのであったら、世間の因習に全面的に屈服して生きるよりほかにないのである。それは、自分のない人間になることである。わかってもらえようともらえまいとも、そんなことは問題にしないで、あくまでも自分の真実にこそ生き、つらぬいていこうとするとき、世間というものは、あんがい思いがけなく、かえって、自分を理解してくれるものなのである。


 “靖国”と日本国憲法 改憲論議によせて
1 憲法と靖国
 帝国憲法の下で国家神道は、明文の規定はないが憲法的慣習法としてわが国の国家宗教とされ、天皇はその最高の祭祀者であり、靖国はその中心的神社であった。国家的性格をもつ国家神道は、軍国主義、極端な国家主義の精神的な源流とされ、国民を天皇の軍隊として戦場にかりたてる役割を果たしてきた。その中で靖国は、戦争を美化し戦死者を「英霊」として祀り戦争遂行の重要な一翼を担ってきた。
 現憲法二〇条は、戦前の国家神道が果たした役割を猛省して信教の自由を保障し、それを完全なものにするために国家があらゆる宗教から絶縁し、宗教に対して中立の立場を堅持すべきものと規定した。国家の非宗教性の原則、または政教分離の原則といわれている。その結果靖国神社は、国家が管理する神社から民間の一宗教法人となり、合祀祭も天皇の参拝も行われなくなった。
 ところが、五一年九月サンフランシスコ講和条約の調印を契機として「戦没者」の葬祭への公的機関の参列か緩和されるなど政教分離の原則が軽んじられるようになった。同年一〇月靖国神社で初の例大祭が行われ、吉田茂首相が初めて参拝した。これらの動きから靖国の復活がいわれるようになり、以後石橋湛山氏などを除いて歴代首相か参拝するようになった。
 また、六九年から自民党は、靖国神社の国家護持を求めて毎年のように靖国法案を国会に提案した。他方、民衆の側も、津地鎮祭違憲訴訟をはじめ各種の違憲訴訟を提起するなど憲法と靖国をめぐる攻防が日増しに論議を呼ぶに至った。海外からの非難もあがった。韓国のキリスト者たちは、帝国主義戦争での戦死者を英霊として神格化し、靖国に祀ることを国家か護持するごとは許せないと強い抗議の姿勢を示した。
 これに対し、靖国神社側は、戦前に果たした自らの役割を何ら反省せず、声高に一五年戦争は侵略ではなく自存自衛のための戦争であったとし、アジアの国々の独立に寄与したと強弁している。しかも、天皇参拝の復活をしきりに要請し、昭和天皇はこれまで七回も参拝している。また、靖国神社は首相らの参拝を歓迎しただけではなく、七八年一〇月にはA級戦犯東条英機元首相ら一四名を合祀した。靖国問題がこれによって新たな緊張を生み国内外から強い反発を招くことになった。

 天皇と靖国
 かつて靖国は、「天皇の神社」であるといわれ、天皇制と分かち難く結びついていた。現憲法の下で靖国神社は、民間の一宗教法人となったが、宗教団体である以上国家機関である天皇との特別な関係を持ってはならないというのが憲法二〇条の趣旨である。ちなみに九一年一月仙台高裁は、天皇の靖国参拝の是非が問われた岩手靖国違憲訴訟でこの点を鋭くついている。靖国神社は憲法上「宗教団体」であり、参拝は「宗教的行為」であると認定したうえ、天皇の公式参拝は政教分離との関係では首相のそれとは比較にならないほど国と社会に大きな影響を与えると断定し違憲であるとした。この明快な判決の指摘にもかかわらず、天皇と靖国を再び結びつけようという策動がしばしば繰り返されてきた。
 昭和天皇の参拝は、戦後の四五年から六九年まで六回行われたが、それまで国会で議論されることはなかった。七五年秋の昭和天皇の靖国参拝について、私たちは憲法上問題ありと初めて参議院の内閣委員会でとりあげた。政府は、「私人としての立場でのお参りで世間に公表しているから差し支えない」と弁解してこれを強行した。この論議には経緯がある。同年五月三日稲葉修法務大臣は、憲法擁護の義務(九九条)があるのに自主憲法制定国民会議に出席した。これが国会で問題になり私が参議院法務委員会で追及した。政府は「閣僚の地位の重みからして個人の資格と閣僚の資格の使いわけはそもそも困難である。閣僚の行動としては慎重を欠いた」との政府見解を出し謝罪した。憲法上国事行為にもなっていない天皇の公的参拝が違憲であることはいうまでもないが、私的参拝だと強弁してもまさに象徴天皇という「その地位の重みからしてその使い分けはそもそも困難」というのが誰の目にも明かであり容認できないと批判した。それ以後今日まで天皇の参拝は行われていない。
 しかし、天皇の参拝を求める動きは、靖国神社関係者や遺族会だけではなく今日も根強く存在している。中曽根元首相は、「小泉首相がやるべきことは自ら参拝することではなく天皇参拝の道筋をつけることである」といい切っている。折しもこの一月末、麻生外相も本音を語った。小泉首相の靖国参拝が中韓両国から批判され首脳外交は大きな壁にぷちあたっているのに、時の外務大臣か「英霊が求めるのは天皇の参拝であり、それが一番」と発言した。さっそく韓国政府は、「侵略戦争の歴史を正当化し、美化しようとするもの」と反発し、新華社通信は「日本の極右勢力の立場を代表している」と厳しく論評した。国内でも当然のことながら強い非難の声があがった。
 その靖国神社の宮司の人選に天皇がかかわっている。○四年九月旧盛岡藩主の末裔である南部利昭氏が靖国神社の九代目の宮司に就任した。同氏は当初宮司になることをためらっていたが、霞会館(旧華族会館)の創立記念午餐会で天皇から「靖国のこと、頼みます」といわれ、皇后からも「靖国のお守りをよろしく」と重ねていわれて引きうけたというのである。今日なお天皇と靖国が深くつながっている証左である。靖国問題は、国内で世論か二分しているだけでなく深刻な外交問題にまでなっているのに、その人事にまで口をさしはさむというのは、象徴天皇制の逸脱であり、政教分離の原則に背くなど憲法上も由々しきことといわなければならない。


3 小泉首相と靖国
 ○一年小泉首相は、「八月一五日にいかなる批判があろうとも必ず参拝する」と公言し、日にちだけをずらし公用車で靖国神社に出向いて参拝し、生花一対を供え「内閣総理大臣小泉純一郎」と記帳した。以後国内外の反発をよそに毎年参拝を繰り返している。
 この参拝について、○四年四月福岡地裁は「憲法で禁止されている宗数的活動に当たる」として画期的な違憲判決を下した。続いて、○五年九月大阪高裁は同趣旨の判断を示した。すなわち、首相が公用車を使い、私的参拝と明言せず「内閣総理大臣」と記帳したことなどから「公的行為」であるとし、また、国内外の強い批判のなか参拝を実行継続していることは国が靖国神社を「特別に支援」しているとの印象を与えていると指摘した。そして、国と靖国神社とのかかわり合いが社会的・文化的諸条件に照らして相当限度を超えるもので憲法で禁じられている「宗教的活動」にあたるとし、違憲であるとの判断を示した。
 さらに敷衍すれば、日本政府は村山談話などで、「植民地支配と侵略によって多くの国久とりわけアジア諸国の人々に対して多大な損害と苦痛を与えた」ことに対し、「痛切な反省の意を表し心からのおわびの気持を表明している」。ところが、靖国神社はそのような歴史認識を否定して一五年戦争は侵略戦争ではなく自存、自衛の戦争あるとし、その責任者であるA級戦犯は無罪であり国のためにつくした「殉教者」だとして合祀している。このような靖国神社の性格を特徴的に表現しているのが境内にある軍事博物館。遊就館‘である。「近代史の真実を明らかにする」と称して日清、日露戦争から一五年戦争まですべての戦争を美化し、わが国の自存、自衛の戦争であったことを強調し武器や写真を展示していることは周知の事実である。他方、植民地支配や侵略によって?多大な損害と苦痛を与えた? アジアの人々に対する反省は一顧だにしていない。
 そして驚いたのは、昨年(○五年)六月、境内の一角に「頌」と銘したインドのパール判事の記念碑が先述の南部宮司の名で建立されていることである。パール博士は東京裁判を「勝利に傲る連合国の、今や無力となった敗戦国日本に対する野蛮な復讐の儀式に過ぎない事を看破し」、連合国の訴追は事実誤認であり、法的根拠に欠けていることを論証してA級戦犯全員を無罪とする意見書を公にした、としてこれを碑に刻み誉めたたえている。わが国はサンフランシスコ講和条約で東京裁判の判決を受け入れているのに、靖国神社はこれを認めず「A級戦犯を合祀しなければ、外国の手によってなされた二方的な裁判に屈することになる」と開き直っている。その文脈でパール判事のA級戦犯無罪論を引用し碑まで建てるという挙に出たものと思われる。
 中国や韓国は、そのような靖国神社に「国を代表する首相が参拝することは、憲法上の問題にとどまらず靖国神社の誤った歴史認識を肯定し、とりわけA級戦犯合祀を是認するもので断じて容認できないということであって、その非難は当然のことである。それを小泉首相らが内政問題だというのはすりかえ以外のなにものでもない。
 また、小泉首相は憲法一九条を楯に首相にも「心の自由」があると弁解しているという。首相は「憲法とは何か」についての基本的認識が欠落している。憲法は人々の自由を守るため権力の行使者の言動を縛る規範であるのに、権力者自身が憲法の制限を取り払う根拠にしているのは逆立ちした理屈であり、論理矛盾という他はない。
 
4 改憲と靖国
 以上述べてきた靖国問題の総仕上げともいうべきものが改憲である。昨○五年十一月自民党は、結党五〇周年を記念して全面的な改憲案を公表した。改憲の核心が軍隊をもたないと誓った九条二項を削除して、「自衛軍」を正式に認知し、再び「戦争ができる国家」づくりにあることはいうまでもない。その軍隊が集団的自衛権の行使や海外派兵を強行し、本格的に戦争をすることを想定して憲法二〇条の改訂にも踏み込んだ。改訂案は、「国及び公共団体は、社会的儀礼又は習俗的行為の範囲を超える宗教的活動であって宗教的意義を有し、特定の宗教に対する援助、助長、若しくは促進又は圧迫、若しくは干渉となるようなものを行なってはならない」とした。言葉をかえれぱ「社会的儀礼」、「習俗的行為」の範囲内であれば憲法上許されるというのである。
 ここで、津地鎮祭違憲訴訟を思い出す。七七年七月最高裁は、地鎮祭は宗教的活動であり、ここに公金を支出するのは違憲であるとした名古屋高裁判決をくつがえし、地鎮祭は「習俗」であり、「慣習化した社会的儀礼」であるから宗教的活動ではなくそこへ公金を支出したり起工式を行なうことは合憲だとした。自民党改憲案は権力におもねた最高裁の合憲判決をよりどころにしてその内容を条項にもりこみ、首相らの靖国参拝を合憲と認知しようというのである。そのねらいは、戦争のできる国家になれば「自衛軍」の戦死者が予想されるが、これを「新たな英霊」とし合祀することを既定の事実とし、そこに首相らが公式に参拝できる道をつくることにある。自民党改憲案は、ここまで戦争体制の整備を考えていることを肝に銘じたい。
 最後に、国会は総選挙で圧勝した自民党と改憲指向の前原民主党が手を組めば改憲の発議は衆参両院で可能となる情勢になっている。その枠組みで改憲の第一段階である国民投票法の制定が俎上にのぼっており、改憲阻止の闘いは正念場を迎えている。
 これをうけて、平和憲法を守ろう、九条改憲を阻止しようという運動もさまざまな形で広がりつつある。この輪をさらに大きくして改憲の是非を問う国民投票をにらんだ運動を組みたてなければと思っている。
 あわせて、憲法は二千万人にものぽるアジアの人々の堪え難い犠牲に対する心からのお詫びと深刻な反省のうえに、不戦・非武装の誓いをしたのであって、それは国際公約といってよい。アジアの人々は、日本が改憲をして再び戦争ができる国家になることはその盟約を裏切ることであり、新たな緊張をつくり出すものとして重大な懸念を表明している。その心配を払拭するために憲法九条を世界に拡げ、平和のための国際連帯をつくっていくことも大きな課題である。 (元参議院議員・弁護士)

 2006年5月『人権と教育』44 号