演奏会評

 

1999.7.11 新交響楽団第166回演奏会 芥川也寸志没後10年

 7月12日、芥川さんの誕生日である。早くも没後10年を迎えた今年、74歳の誕生日の前日に催されたこの演奏会、歴史に深く刻まれるであろう、記念碑的な演奏会となった。
 作曲家が、作品を残し、その作品が世代、そして国境を超えて伝播してゆく・・・・・、そういった過程の中で、その作曲家本人が死に、本人を知っている人が少なくなりつつある時期、本人に関する思い出と同様に、作品もまた忘れられかねない。実際、歴史上、本人の死によって作品も忘れられていった例の方が断然多いはずだ。
 芥川さんの没後10年という区切りの年、芥川さんが作り、育てた「新交響楽団」が、それぞれ芥川さんの思い出を胸に(芥川さんを直接知らぬ、若い奏者も含めながら)、次の世代への作品の伝播という役割を、確実に果たしていることに、私は、喜びを感じている。そして、頼もしく思っている。
 決して、私は(私たちは)、芥川さんのことを忘れはしない。芥川作品を忘れはしない。
 そう、断言できるだけの状況に、今、ある、ということを実感させるに足る、素晴らしい演奏会(多くの聴衆に囲まれての名演の数々・・・・)であった。
 後世、芥川作品が、日本の20世紀後半を代表する作品群であるという評価を得るに至ったとき、この没後10年の新響さんのコンサートが、象徴的なエポックであった、と語り継がれるに違いない。
 その、歴史的な瞬間の直接的な証人の一人が、私なのだ。20世紀を生きた人間として、この瞬間を共有できたことを、とても、嬉しく思っている。
 新交響楽団さん、ありがとうございました。これからも、芥川さんの遺志を継いで、演奏活動を続けていただきたく思います。

<1>交響三章−トリニタ・シンフォニカ

 私個人として、思い出の作品であり、かつ、今度実際に演奏するということもあり、今回のコンサートで最も楽しみにしていた曲である。その期待を裏切らない、名演であった。

 まず、これは、全ての曲にあてはまることではあるが、団員の方々が、作品を熟知し、作品に共感していることがこちらに伝わってくるのである。歌うべきところは思い入れたっぷりに伸び伸びと、そして、自分の役割をしっかりわきまえた冷静さをも持ち合わせ、メリハリのある演奏となり、作品の持つ魅力を十二分に開花させていたのである。さらに、芥川さんの、最大の特徴、アレグロの疾走感、そして、生き生きとしたリズム、これが、かつて私が経験したことのないレベルで、私に快感をもたらしたのだ。ほとんど、曲の持つ限界に近い、テンポ設定と思われる。そして、当然若干の乱れは必然的に生じるものの、特にバイオリンを始め、弦楽器が、決してパート内でずれることなく、文字通り、一糸乱れぬ演奏となっていたことに舌を巻いた。奏者の力量、地道な努力の賜物であろう。
 そして、なによりも、作品の持つ若さ、これが全面に感じられたことに感激した。歴史も長く、当然年配の方も数多い団体なのに、安全パイを取ることなく、果敢に攻め、作品の持つ勢いを圧倒的に見せつけていた。ときおり無鉄砲にさえ感じる、作品自体が持つ荒さ(短所)をも、この演奏の若さこそが、長所へと昇華させていた、と言えよう。作品に対する、、あっての演奏であろう。
 新響さんの芥川作品のCDも私は、愛聴させていただいているが、断然、今回の演奏のレベルの方が高かった。生で触れるからこそ、という点も当然あろうが、各個人の演奏技術という面、アンサンブル能力の面でCDの演奏を超えていた。是非とも、CD化を切望したい。皆さんに聴いていただきたい、と推薦したくなる演奏だった。芥川演奏のバイブル的な存在感すらあるのだから。
 技術において、プロとひけを取らず、情熱において、プロに勝っているのが、これら芥川作品全てに共通して聴き取ることができたことこそ、このコンサート全般の感想と言えよう「一体、日本のプロ音楽家は、何をしているんだ」、と本気で責めたくなるほどの成果を、このアマチュア・オーケストラは手に入れている。何と、素晴らしい事ではないだろうか!(私もアマオケに在籍するものとして、新響知らずしてアマオケはできない、とすら思うに至った。)

 さて、トリニタの感想だが、第1楽章冒頭、この速さでおい、大丈夫か、というのが素直な感想。しかし、こちらの心配などものともせず、平然とクラリネットは、この困難なソロをやってのける。
 ピアノ奏者も団員の方のようだが、ほとんど協奏曲の如く蓋を全開にして、精力的にソロを弾きこなす。テュッティの時も、耳をすませば、隠し味的にピアノが聞こえ、オケ全体に硬質のサウンドを与え、全体を引き締めていた。スコア上は、無駄な音符が多い(どうせ聞こえないのに!)と、理解していたが、さにあらず。聞こえればその効果は確実にある。この作品の重要な特徴の一つだ。ピアニスト、聞こえないからと言って諦めるべからず。しかし、オケの内部に位置するピアノが全開というのは初めての経験だ。そこまでして聴かせたかったのだろう。そしてそれは正解だろう。
 2/4拍子の第1楽章では、随所に3/8拍子が登場する。そのリズム感も心地よく足並みがそろい、颯爽とした印象だった。そして、打楽器陣もツボを得たもので、ソリスティックな強打を効果的にきめており、直後の弱音部分とのコントラストが美しい。
 第1楽章は、全体的に、次々と移りゆく様々な楽想が、よどみなく、明確な対比をもって進行し、聴く者を飽きさせない、といった印象である。きまぐれな「カプリチォ」という題名を思わせる演奏である。この楽章において、平板な演奏ほどつまらないものはないだろう。

 続く第2楽章は、管楽器ソロが完璧に次から次と受け渡され、日本的叙情を(ヒヤヒヤすることなく)満喫させてもらった(CDは少々危なっかしいところもありましたね)。何度も同じ旋律がオーケストレーションの変更のみで、展開されることなく進むため、曲自体は、正直なところ冗長な印象も否めないが、随所にルバートをかけつつ、歌心たっぷりな演奏で曲の短所を救っていた、と思う。
 特に、中間部の悲歌は、感動的だった。特に、クライマックスに入っての、弦楽器の歌が素晴らしい。ビオラ、チェロの中音域で一節あった後、高音域に一気に上がって歌う場所、そして、さらに第1バイオリンのみが最高音域ですすりなくように歌う場所、音楽における「美」とはまさしく、これではなかろうか、と思うのだ。
 人間の感情の表現手段としての、音楽。まず、それは声楽から始まったはずだ。しかし、最も表現豊かである、人間の「声」には音域の限界がある。そこで、音域の広い「楽器」の登場となる。本質的には、人間の声の代替手段として楽器はある。しかし、音域の広さの獲得と共に、得てして「歌」のもつ表現力が欠如する場合がよく見受けられる(特にアマオケにあっては)。
 だが、この場面では、歌が、楽器を変えて、徐々に3オクターブ上にまで受け継がれてゆく。それが、同一人物の歌唱のごとく、一本の線として(一つの感情の流れとして)継承され、歌われていたのだ。
 ソナタ形式を頭で理解し、その構成美に、うっとり酔いしれるのが音楽なのか?
 人間の感性は、最初からそんなことに心奪われるようには出来ていないのではないか?
 何らかの感情を引き起こさずにはいられない旋律、その旋律、「歌」のもつエネルギーこそが、音楽における本質的な「美」ではないのか?

 頭では、純日本風な(下手すれば演歌風な)安っぽい旋律だと理解しかねない。しかし、その歌が、奏者によって感情を付与され、聴衆が、その歌に何かを思う、といった流れの中にこそ、人間が本来的に感じる、音楽における「美」が存在するのではなかろうか?
 とにかく、作曲家の書いた旋律と、奏者の歌心に、聴衆の私の心が突き動かされた、それも日本人としての自覚を持ちつつ。という具合なのだが、こんな感動、安っぽい、のでしょうか?

 最後の第3楽章。第2楽章に続きアタッカで突入。冒頭、あの精力的に、がむしゃらに突き進む主題が出た途端、目頭が熱くなり、映像がどんどん曇ってゆく。何故かは知らねど。
 芥川さんの死を思ったか、私の少年時代を思ったか、溌剌とした音楽に対し自分のふがいなさを口惜しく思ったか、それはよくわからない。
 しかし、この音楽の持つ、健康的な、前向きな姿勢が、生演奏の場で、一聴にして、涙するほどに、自分にかつてないほどの感動をもたらしたのは確かだ。
 不況真っ只中の、今の日本に必要な音楽は、まさしくこの音楽ではないか?
 昨年は、史上最多の自殺者を数えたというが、死を選ぶ前に、一度、前を向いたらどうだ。切り開かれるべき道が見出せないものか。
 このフィナーレの前に道はない。自ら、道を作るのだ、という力に満ちているではないか。そんな生きかたこそ、見習うべきではないのか。

 さて、ここでも新響さんは、芥川さんの作品を救っている。まず、主要主題提示、再現における、オーケストレーションの問題。主旋律が弱く、伴奏過多である。そこで、特に主題の再現のたび、バイオリンと木管が精力的に弾き込む。伴奏型はバランスに細心の注意を払う。特に金管にやや、無意味なパッセージが見られるが、絶妙のバランス・コントロールである。
 あまり、神経質になりすぎると、主題の再現という、最もエネルギーが爆発すべきところで、音楽の勢いが減じられることとなり、曲を殺すこととなる。が、その辺は旋律を担当する上記のパートの気合、の問題で解決されていた。
 また、曲の後半は、既に出た素材が、無秩序に再現、羅列されるという無鉄砲な構成となっている。そこで、最後は、勢いこそが曲を救う。停滞しようものなら、曲は死ぬ。とにかく、持続的なアッチェレランド、そしてその速さにおける演奏技術の確かさ、完璧なるアンサンブル能力が問われる。CDでは、正直、加速の途中で崩壊しかかっており、十分に曲の魅力を伝えきれなかったきらいがあろう。しかし、今回の演奏は、その点は完璧にクリアしていた。次々と、またか、またかと素材が再現される、そのたびにテンションを高め一気に終結を目指さなければならない。
 こうと決めたら、こうだ。ソ連への単身不法入国をも実現させた、行動力ある若き青年芥川、その姿をまぶたに焼き付け、その生き様に共感した人々が多くいるからこそ、こんな(超人的な)演奏も可能となったのだろうか?
 こんなに、演奏に説得させられた演奏はこれが始めてではなかろうか。私たちの演奏も、1歩でも、この境地に近づけたら、と思います。
 がんばらねば!!!

芥川さんの74回目の誕生日を偲びつつ(1999.7.12 Ms)

 

<2> 交響管弦楽のための音楽

 さて、続いて演奏されたこの「音楽」もまた、ノリノリで、聴衆を一気に引きづり込むパワフルな演奏。第2楽章の豪快さは、快感。生命力の爆発に、体も本能的にエキサイト。この興奮は「どうにも止まらない」。
 ただ、トリニタに引き続き演奏されると、気がつくことがある。確かに、トリニタの延長上にあり、かつ、洗練されていることが確認できる。しかし、楽想が整然と構成され、作曲技法のうまさは感じるが、トリニタほどのスリルは感じられない。終結に向かって突進する勢い、という面では、トリニタの方が、がさつで武骨な分だけ面白く感じた。この「音楽」は、単純な繰り返し、が多いように思われる。そのため、旋律の親しみやすさも相乗効果を上げ、トリニタよりは演奏頻度も高いのだろう。もちろん、芥川さんの個性全開の、魅力的な傑作に違いないが、「トリニタ」ももっと演奏されるべきだ、との思いは新たに生じた。

 続いて、ここでは、パンフレットでも触れられている、小太鼓についても触れておこう。
 新響さんのCDを聴いてお気づきの方もいらっしゃるでしょうが、この第2楽章の小太鼓パートに、楽譜の指定にない、
リムショット(ワク打ち)の連打が現れる。これは、芥川さんの指揮で演奏した時に、作曲者自らが指定した方法らしく、小太鼓奏者の方は芥川さんの没後もずっとそれを続けているという。それを読み、何て幸せな経験をされているのだろう、とうらやましくもあり、将来演奏する時が来れば(その夢は、現状において絶望的な気もするが・・・・、決して諦めはしない)、是非リムショットかましてやろう、と決意した(8分音符で8発リムショット当てるのは、けっこう難しいような気もするよなぁ)。
 その予告されたリムショットも衝撃的に鳴り響き、私も感極まってしまうのだった。同業者ゆえのシンパシー。

 パンフレットについても一言。上記の打楽器奏者の方を始め、団員の方々それぞれが、芥川さんとの思い出を語っているこのパンフレットにこそ、芥川さんが団員の皆さんの中に生きていることが証明されていたようだ。そして、その思い出が音楽にあふれていることが十分納得できた。このパンフレット、私にとっては家宝となろう。

<3> 弦楽のためのトリプティーク

 そのパンフレットに、新響における芥川作品の演奏履歴が掲載されており、案外芥川さんの生前に演奏されたものが少ないことに驚いた。芥川さん自身が、自作を演奏することに躊躇していたという。ただし、そんな中でも、トリプティークだけは別格であった。ソビエトでの演奏旅行でも取り上げられ、生前に10回を越す演奏に恵まれていたのだ。そんな、新響さんの十八番の中の一つだと思われるトリプティーク、完璧な演奏ぶりにまたまた感動が呼び起こされる。
 (余談ながら、新響さんの十八番の最たるものは、
伊福部昭の「タプカーラ」であろう。これもまた、是非聴きたいものだ。)
 (また、演奏履歴を見て、
生前の演奏頻度の少なさ故に、トリニタなどのCDの演奏がまだ、こなれていない印象であったのに対し、没後の追悼演奏での経験もあってか、今回の演奏会での演奏が、堂々たる名演ぞろいであることにも納得した。
 と同時に、やはり、偉大な作曲家というもの、生前に報われること少なく、没後に初めて認められるものなのか、と淋しくも感じた。
 芥川さんの生前にこそ、もっと芥川作品を取り上げてくれたのなら、とも思った。
 しかし、芥川さんのその謙虚さが素晴らしいところだ。・・・・・新響さんではなく、日本のプロ演奏家たちこそ、身近な偉大な才能に敬意を払い、演奏すぺき義務があったのではないか?
 ふと、
太宰の「如是我聞」における絶叫が頭をよぎる。
 我々、演奏に携わる者全てに対する叫びでもある。
 なぜ、遠い過去の、評価の定まった巨匠ばかりに目を向け、身近にいる生きた芸術家に対しては、無視、もしくは批判しかしないのか?

 今からでは、遅いのかもしれない。芥川さんが死んでしまった、という意味においては。
 しかし、今からでも遅くはない。芥川作品の評価は、残された我々の仕事だ。個人(故人)を知る者が少なくなる時代に、その故人の作品が不当にも忘却されてゆくのを回避させる意味においては。
 そんなことを思いながら、新響さんが芥川さん没後の今も、生の作曲家との交流をしながら演奏活動を続けていることに頼もしさを感じるのだ。)

 演奏の感想から大きく逸脱してしまったが、このトリプティーク、作品としても素晴らしいものだ。
 長さを全く感じさせない、充実ぶり。
 日本的な雰囲気も醸し出しつつ、通俗な表現に陥らないバランス感覚。
 弦楽器だけとは思えない、音色の多彩さ。
 さらに、考え過ぎだとは思うが、
ショスタコーヴィチへの影響、を邪推する。
 第1楽章最後の、テュッティで和音がどんどん細分化されていくところ、ショスタコーヴィチの
交響曲第14番「死者の歌」の第2楽章、及び最終楽章の終結の仕方との共通点を見出す。
 また、第2楽章の特徴、ノック・ザ・ボディ。楽器を指で叩くところ、ショスタコーヴィチの
弦楽四重奏曲第13番の、弓で楽器を叩く発想へのヒントにはならなかっただろうか?
 ソビエトへの不法入国後、ソビエトでも出版され、また、新交響楽団のソビエト公演でも繰り返し演奏された、このトリプティーク、
ショスタコーヴィチの心をもとらえたであろう、と推測するだけでとても楽しいのだ。

 最後に、演奏面での感想を一つ。前述の、ノック・ザ・ボディ。思いのほか、カツカツいわず、コンコンとこもる目立ちにくい音質だったと感じた。興味深く聴いてこそ、わかる、といったニュアンス。とても、優しいイメージだ。それと同時に、和太鼓のワクを軽く叩いたような音質だとも感じた。それが、郷愁を誘うかのような表現に聞こえてくる。新たな発見だ。
 それと同時に、芥川さんの没後すぐの追悼コンサートでは、降り番の管楽器奏者が、その演奏に涙していたという逸話をも想起させる、情感たっぷりの演奏で、特にこの第2楽章に、ジーンと心に迫るものを感じた。
 私も、芥川さんの死を悼むAMのラジオ番組で、ノイズの合間から聞こえてくるこの第2楽章に感動した10年前を、改めて思い出したのだった。

予想以上にこの演奏会評が長編になっているのに驚きつつ(1999.7.28 Ms)

(休憩をはさんで後半へ続きます。)

<4> 交響曲第1番

 正直なところ、後半の大曲2曲については、前半ほどの熱狂を持ってその鑑賞に臨んだわけではない。
 前半を聴き進んで、「トリプティーク」で芥川さんの作品系列は、一つの頂点を極めているような気がしていたのだ。
 交響曲第1番には、余りにも、
プロコフィエフ、ショスタコーヴィチからの表面的な影響(旋律素材、オーケストレーションの類似)が、かなり露骨に感じられ、決して、「トリプティーク」までの着実な進化の延長にはない作品として私は理解していたのだ。
 しかし、現実に今回の演奏を聴いての感想は、見事にも、その音楽の持つ推進力に私自身、巻き込まれ、感動を余儀なくされたのであった。
 (毎度毎度のことなのだが、CDなどで鑑賞する場合は、案外理性的な態度で曲を評価できるのだが、
実演に接する途端、本能的なるモノが、理性的な思考を押しのけて、自分を燃え上がらせている、ということが結構あるようだ。)

 まずは、交響曲としてのスケールの大きさ、外面的効果の面で、面食らってしまった。
 ホルン6本を有する、3管編成、そして打楽器群の充実。

 また、前半の諸作が、比較的軽めな内容であったのに対し、重苦しく、深刻な世界へと芥川さんは足を踏み入れているが、まさしく、ショスタコーヴィチ的との精神的つながりを、見せつけられ、単なる素材の共通性以上の深いつながりを意識させたことが感動を呼びおこした点も見逃せない。

 特に、第3楽章、コラール、これは私自身、芥川さんの手抜き、を思わせ、余り評価していなかった部分であった。2分音符で推移する和音の連続、発想としては貧困だと思う。しかし、実演に接し、その単純な音楽の構成から極度の緊張感を作り出している点に気付き、そんな先入観を撤回させてくれた。単純なものこそ、雄弁に語るもの。ショスタコーヴィチもまさにそうではなかったか。
 そして、第4楽章、完全にプロコフィエフの交響曲第5番第2楽章のパクリ、ということで、パロディ的な印象が先に立ち、積極的に評価できなかった部分だ。しかし、新響さんの、限界スレスレと思われる快速な、そしてスリリングな演奏は、プロコフィエフの持つ、ある意味
楽天的(作り物的な、聴衆へのサービス、といった感覚、そして特定の調性から自由自在に離脱する点においては、ユーモアすら感じさせる。)性格よりも、ショスタコーヴィチの持つ一面、絶対的存在、独裁者との対峙、を思わせる、血が吹き出しそうな凄惨な性格を思い浮かべさせた。
 ただ、コーダのみは、前述のパロディ的な感覚がやはり拭い去ることが出来ず、作品として残念だ、とふと感じる一瞬もあるにはあった。しかし、終結を目指し一心不乱に駆け抜ける新響さんの入魂的演奏に、そんな理性的判断は後方へと追いやられ、熱狂する自分がそこにいた、のであった。
 (打楽器奏者として、小太鼓の超人的パッセージについても触れておこう。ひたすら、ワイヤプラシで16ビートを正確に刻みつづける前半は、下手すれば手がつりそうだ。そして、わずかな休符で通常の木撥に持ち替えて、また細かな音符の嵐、これを正確にやってのけるのは難しそうだ。そんな楽譜を難なくこなす小太鼓奏者、ブラーブォ!見ごたえ、聴きごたえ十分でした。)

 是非とも、今後、この作品が、日本のオーケストラにとってかけがえのない、純日本製の傑作交響曲として、欠かせないレパートリーとして定着することを望みたい。聴く機会さえ、もっと与えられるのなら、親しめる名曲だ、と思う。そして、世界の人々、特に欧米の人々にも、極東の島国において、欧米の音楽の流れをしっかりと受けとめ、かつ個性的な交響曲が20世紀後半にも作曲されているのだ、と認知してもらいたいものだ。

 決して、歴史に埋もれてしまう作品にしてはならない。

 追記として、この第3楽章が、ブラームスの同じく交響曲第1番第1楽章と同様な発想がみられることを発見し、おおいに驚いた。
 半音階的に上昇する旋律に対し、大太鼓が、一つ一つ重々しい音を並べてゆく様は、ブラームスの冒頭の発想に似ている。
 それが、意識的なものとは限らないだろうが、芥川さんの臨終の言葉、を思うとき、その伏線がここに(偶然にも)はられていたことに感動を覚えたのだ。ひょっとして、創造者の苦悩を思わせる、ブラームスの第1番の冒頭、芥川さんの心の片隅に常に鳴り響いていたのだろうか?

<5> エローラ交響曲

 さて、最後の「エローラ」は、今までの作品から大きく趣が異なる、いわゆる「現代音楽」的作品である。
 私自身、愛聴するものでもなく、このあたりから、芥川作品とは縁遠くなってしまっているのも確かだ。
 そこで、申しわけないのだが、あまり多くを語れないのだ(もう十分語りすぎてるような気もするが)。
 芥川さんの言う、マイナス音楽理論、へえなるほど、とは思うものの、作品からそれを聞き取ることは困難なようにも感じた。
 しかし、エローラの石窟寺院を見て、インスパイアされたこの作品、その
創造に対する熱狂、という面に於いては、この作品は素晴らしく説得力がある。エキゾティックな(リズミカルで、蛇足ながら私には「ジャングルくろべえ」を想起させ楽しくなってしまう)主題が登場するや否や、現代音楽的な思わせぶりな単なる音の塊が、生き生きとしたエキサイト感へと変貌する。
 仮に、交響曲第1番が、西洋の伝統に連なる交響曲、という命題に苦悩、格闘しながら(まさしく、ブラームスがベートーヴェンの足音を聞きながら交響曲第1番を書いたが如く)、完成されたとするなら、「エローラ」はまったくその束縛、義務感から解放された、自由な音楽となっているのではないか。そして、その西洋の伝統を捨て、アジアの伝統に連なる作品として生まれたのが、この「エローラ」なのだろう。

 ただ、この作品が、実際、アジア的、あるいはインド的なのかはよく分からない。
 しかし、これもまた、団員の方がプログラムに書いてみえたのだが、将来、エローラの地で「エローラ交響曲」を演奏したい、のが夢、という記事があった。是非とも、実現していただき、その現地の人々と、この「エローラ交響曲」をもって、その創造への熱狂といった主題が共有されるのかどうかも確かめていただけたらな、と考える次第である。
 さらに、将来、エローラに住む人々がオーケストラを編成し、深い共感をもって「エローラ交響曲」を演奏する日がくることも願いたい。その時、きっと世界は、本当の意味での平和を手にしていることであろう。壮大なる夢、ではあるのだろうが。

<6> アンコール NHK大河ドラマ「赤穂浪士」のテーマ

 アンコールは、待ってました、の「赤穂浪士」。最近、やはりNHK大河ドラマの「元禄繚乱」にはまったこともあり、赤穂浪士は身近な存在となっている。このコンサートの前日も泉岳寺でお参りしたところだ。
 しかし、このテーマは名旋律だなあ。雪のしんしんと降り積もる夜、赤穂浪士たちが、悲壮な決意を胸に無言で吉良邸に向かう様が思い描かれる。
 他言無用、ひたすら、うっとり聞き入っていた。

 「赤穂浪士」と言えば、やはりこの曲だ。「峠の群像」のテーマはすっかり覚えていないし、「元禄繚乱」のテーマも、目の付け所が違うせいか、芥川ほどに心に迫ってこない。
 最後に、ウッチャンナンチャンのウッチャンが、フジテレビ系
「笑う犬の生活」スペシャル番組で、「一人忠臣蔵」を演じた時、やはり、芥川作品「赤穂浪士」がテーマとして採用されていた(1ヶ月ほど前のこと)。とても、嬉しかった、と同時に、笑いをこらえきれなかった。後世に「赤穂浪士」が受け継がれる役目を、ウッチャンもまた負っている、ということに頼り甲斐を感じつつ、またこの「一人忠臣蔵」はいつの日か続編があるとのこと、楽しみにしたい。

 閑話休題。芥川ファンの方にとっては、失礼しました。なんだか、尻つぼみな結末を迎えてしまいましたが、これにて、完。

 というのも、ふざけているので、再度、この演奏会トータルの感想を再掲しておきます。

 7月12日、芥川さんの誕生日である。早くも没後10年を迎えた今年、74歳の誕生日の前日に催されたこの演奏会、歴史に深く刻まれるであろう、記念碑的な演奏会となった。
 作曲家が、作品を残し、その作品が世代、そして国境を超えて伝播してゆく・・・・・、そういった過程の中で、その作曲家本人が死に、本人を知っている人が少なくなりつつある時期、本人に関する思い出と同様に、作品もまた忘れられかねない。実際、歴史上、本人の死によって作品も忘れられていった例の方が断然多いはずだ。
 芥川さんの没後10年という区切りの年、芥川さんが作り、育てた「新交響楽団」が、それぞれ芥川さんの思い出を胸に(芥川さんを直接知らぬ、若い奏者も含めながら)、次の世代への作品の伝播という役割を、確実に果たしていることに、私は、喜びを感じている。そして、頼もしく思っている。
 
決して、私は(私たちは)、芥川さんのことを忘れはしない。芥川作品を忘れはしない。
 そう、断言できるだけの状況に、今、ある、ということを実感させるに足る、素晴らしい演奏会(多くの聴衆に囲まれての名演の数々・・・・)であった。
 後世、芥川作品が、日本の20世紀後半を代表する作品群であるという評価を得るに至ったとき、この没後10年の新響さんのコンサートが、象徴的なエポックであった、と語り継がれるに違いない。
 その、
歴史的な瞬間の直接的な証人の一人が、私なのだ。20世紀を生きた人間として、この瞬間を共有できたことを、とても、嬉しく思っている。
 新交響楽団さん、ありがとうございました。これからも、芥川さんの遺志を継いで、演奏活動を続けていただきたく思います。

感動的な演奏会も遠くなりにけり。もう1ヶ月たつのですね。今年の8月、芥川さんの冥福も祈りつつ(1999.8.8 Ms)


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