今月のトピックス
May ’07
5/5(土) ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン(ストラヴィンスキーのバレエ「結婚」を中心に)
2年前から始まった、東京丸の内のGWの定番、気軽にクラシックを楽しもうという、「熱狂の日」(ラ・フォル・ジュルネ)音楽祭。今年は、「民族のハーモニー」というテーマで、グリーグ、シベリウスの記念年にちなんだ、国民楽派を中心とした、世界各国の音楽をセレクトしての演奏会が多数開かれた。
この4月から全く今までと環境の違う仕事となって、休日の出勤も不明ななか、数日前になってようやく行けるメドがたってチケットを予約しようとするも完全な手遅れで、ニールセンの「霧が晴れてゆく」とか、シベリウスの弦楽四重奏などの注目プロは完売。なんとか、ストラヴィンスキーの「結婚」のチケットが取れて、いざ上京、と決定。
当日、正午前に現地着。すると、有料公演以外にも多彩なイヴェントが催されていることを知り、まずは、1日のプランを練る。演奏会のチケットがあれば入れる催しが多数ある。
まずは、12時30分から、国際フォーラムガラス棟7階ラウンジにて、マスタークラス。レジス・パスキエ氏を講師に、受講生・瀧村依里さん(芸大3年)がチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲第1楽章を披露。「ちょっと、この部分は、あなたのようにキレイ過ぎる。」などというコメントも差し挟みつつ、オイストラフから学んだ演奏法を教授してゆくさまに、感銘深し。長く音の続くパッセージに拍子の頭の感覚がつきまとう点を訂正し、流麗に一息で音楽の流れを作りあげたり、また、第2主題の捉え方が、我を忘れたような感情をむきだしにするように、といった具合いに、情熱的な、そして土俗的な趣が次第に明確になってゆく。パスキエ氏の鋭い耳の感覚にも驚き、また、さすがコンクール受賞歴もある瀧村さんのレベル、センスにも感心してしまう。1時間のマスタークラスが終了した後も、細かな指使いとか教えたい点があると、裏で指南は続いていたようだ。ビジネス・ライクに終らない、音楽に対する真摯な姿勢に快い感動を覚えた。
続いては、メイン会場を離れ、帝国ホテル・プラザにおける、ロビーコンサート。2時から。戸田弥生氏のヴァイオリンと、野原みどり氏のピアノ。
ドビュッシーの「あま色の髪の乙女」。そして、ソロ2曲。バッハのシャコンヌ。ショパンのスケルツォ第2番。そしてラベルのツィガーヌ。ロビーコンサートにしては重量級の選曲だ。
シャコンヌにおける集中力には一気に惹き込まれた。人の動きもせわしない街の雑踏の中に、一切妥協の無い、鋭い信念の音楽がそこに立ち現れた神々しさ。バッハの音楽の深さを再認識。ピアノは、やや小柄なもので、本格的な作品を演奏するにはやや物足りない楽器のようではあったが、特に繊細な音の作りの部分には細やかなハイセンスぶりが聞き取れた。
遅い昼食をとってまずは東京駅近くのホテルにチェックイン。そして、再び国際フォーラムへ。各国料理の屋台が並ぶ地上広場では、「熱狂の日」の本場、フランス・ナントでの演奏の様子を大型スクリーンで見ながら、のんびりくつろぐ人々。そして、ちょうどハンガリーの民俗音楽グループ「ムジカーシュ」によるパフォーマンスに浮かれ乗っているさまに遭遇した。また、地下のグッズ販売も大賑わいで、ポストカードなど記念に入手した。グリーグ、シベリウスのみならず、我等がニールセンの似顔絵ハガキもあったので、北欧3巨匠揃い踏みで購入したした次第・・・嬉しい限り。
さて、今回本格的なコンサートとしては1つだけだが、濃い内容のモノ。6時30分から、バルトークの2台ピアノと打楽器のためのソナタ、そしてストラヴィンスキーの「結婚」。後者は、4台ピアノと打楽器、そして独唱合唱という異色の編成。なかなか、こういうフェスティバル的な場でないと取りあげにくい作品だ。
まず、バルトーク。この精緻なリズムの構築が、4人のアンサンブルによって見事統制をもって整然と音楽が流れてゆくさまが素晴らしい。迫力で押すような、野蛮主義的な作品でなく、新古典的な美感が優れている。第2楽章の微妙な音色の変化(小太鼓を中央・端で叩き分け。など)を伴う緊張感、5連音符のモチーフの不気味さの後に、まるで吹っ切れたかのような白々しい、第3楽章冒頭のハ長調・・・この主題は、ショスタコーヴィチの「バビヤール」第2楽章「ユーモア」との密接な関係を持つ・・・なんともシニカルな舞踊だ。なお、このバルトークの主題自体が、ベートーヴェンの「コントルダンス」(いわゆる娯楽的なダンス音楽集で、その中に有名な「エロイカ」終楽章の主題も含まれていることでも有名)をいびつに変形させたものとの指摘も興味深く感じている。
2人の打楽器奏者が次々と様々な楽器をあやつり、また、バルトークの細かなバチ指定によって色々な音色をまさに着色してゆくさまが、ヴィジュアルとしても楽しい。なお、コンサートでは簡単なパンフレットが配付されていたが(仔細な曲目紹介はない)、そこで、当作品の初演の譜めくりが、「かの大指揮者ショルティ」、と書かれていたのには、へーという感じ。
さて、続く「結婚」が、もう素晴らしいのなんの。もう二度と聴く機会にも恵まれないだろうな。この生き生きとした音楽の躍動感。心を揺さぶるような感情のひだ、とはまた別に、体にダイレクトに伝わる、生そのもののダイナミックなエネルギーが私全身を包み込み、夢中になって音楽の中に浸ることができた。この体験、体感は、他では得られない。人間の手と声だけが、何ら特殊な操作を加えず(弦・管楽器のような難しい過程を経ず)音楽を作る。根源的な音楽のあり方に、社会的人間という仮面を剥ぎ取られた、動物としての感覚を呼び覚ましてくれるような快感・・・ああ、ストラヴィンスキーよありがとう。数百年、数千年のヒトの感覚を、時代を超えて(しかし、単純ではない、複雑な和声とリズムに裏打ちされている凄さも一方であるのも事実)高度な芸術として再編成した手腕に、もう感動、感激。
曲間の、舞台配置が作られる過程を見ているのも楽しかった。4台のピアノが並んで客席の方を向き、そこにピアニストが座るさまは、はからずも私の近くにいた聴衆が、「F1だな、」と漏らしたそのままの光景。その左右に、上手には、3人の打楽器奏者が、客席方向からティンパニ、大太鼓、シンバル、タンバリン・・・と並び、下手3名は、小太鼓・中太鼓のセットが2人(響き線があるものとないものを各々担当)、そして木琴・鐘。それらを土台として、指揮者の前に4人の独唱者が並び、舞台後方に合唱が配置。
飛行機のアクシデントで、合唱団、演奏者は、舞台衣装が到着せず、急遽現地調達したとのこと。特に合唱は、この音楽祭のTシャツでそろえての出場。場内放送でも、アクシデントの説明と、軽装によることへのお断りがあったが、それもまたいい思い出だ。堅苦しい礼服でなく、カジュアルさもまたこの音楽祭の売りだし、ロシア農民たちの快活な祭典のさまを現代的なスリル満点な音響で表現した当作品の演奏に、決してミスマッチではなかった。お揃いのTシャツながら、中に「東京」と大きくかかれたTシャツでの参加した団員もいて、どんな集団の中にもやはり逸脱する御仁がいるもの、という光景も可笑しく。
ソプラノ歌手の冒頭の嘆き節なども面白く、パンフを見れば主にバロック・古典の専門らしく、その豹変ぶりもマニアには興味深かっただろう。対するアルトは、対照的な老婆的なドスの効いた低音が良い。テノール、バスもそれぞれに活躍の場はあって、大音響の中にも一頭抜きん出た存在感をアピールしていた。
最後は、暖められた布団に二人が入ってゆくシーン。声楽は止んで、ピアノの優しげなハーモニーが微妙にリズムを変化させつつ、その間に、鐘の音が何度も神秘的な響きとして鳴ってゆく。最後の減衰する鐘の音をいとおしむような客席の沈黙もまた良かった。
とにかく、素晴らしいコンサートに巡りあえて感謝。
その感動を胸に、さらにストラヴィンスキー体験が連続。展示ホールにおける、無料のコンサート。8時から、桐朋オケ、高関健氏の指揮で、「春の祭典」。この音楽祭の最も中心的な場所で、アリーナ式に、ステージを4面から客席が取り囲む。周囲にはCD販売、企業ブース(楽器や海外旅行)飲食の場等あり、気軽に出入りできる。中央ステージ一杯に108名の奏者が所狭しと並び、決して音響的には最善と言えないなかで、この変拍子にあふれた難曲を見事ダイナミックな演奏で魅了した手腕に拍手。30分強を立ち見で見守るが全く時間を感じさせない。「ハルサイ」「結婚」と、バーバリズムの傑作2曲を立て続けに聴く機会などそうそうあるまい・・・最近室内楽を中心に生演奏を体験してきたが、こういうパワー全開(しかし、実は超・頭脳プレイなわけだ・・・そのバランス加減がいいなあ。その点、例えばプロコフィエフの「スキタイ」などは、少々、パワーだけで押し切って、あまり精緻な感じはしなかったりして・・・)なスリリングさも改めて見直した。私にとって、ストラヴィンスキー、大ブームはなかなか起きないが、常に忘れられない存在だ(デンマークでの写真に見られるように、ニールセンときっとウマがあったであろうという想像からも、私にとってのストラヴィンスキー感は常にプラス指向だったりもするのだが)。
私の体験はここまで(ちなみに妻は、午後10時15分からの、フォーレの「レクイエム」まで。コルボ指揮で、かなりの名演と評判)。
私の半日の体験からも、「のだめ」人気もあって、ここまでの盛りあがりなのだろうが、クラシック音楽にこれだけの人々が集まってくるというのも頼もしい限り。1時間弱の演奏会で、値段が1500円程度というのもいい線を突いているだろう。ちょっと聞いてみよう、というにはちょうど良かろう。そして、バルトークとストラヴィンスキーのプログラムでほぼ満席というのも異様ではある。普段、オケの定期とかでこうはならない。1500席埋まるか?
また、私の周りの様子をみても、このゲンダイ・プログラムにも批判的な声は聞かれなかった。「面白い。」「ピアノが、エフワンみたいだ。」「カッコイイ。」そして、「結婚」終演後の割れんばかりの拍手、そして、別れの手を振りあう合唱団と観客の絆。決してストラヴィンスキーも難解なゲンダイ音楽ではなくなっていることは再確認。ロック・ポップスの感性に近いのか。シャウト、スリル、ノリ、・・・こういう現代人の感性について、もっとクラシック音楽側の人々も認識しておく必要はあるだろう。現代人の感覚に橋渡しできる選曲はもっと研究しておきたいもの。
ちょうど、この音楽祭の成功の紹介をした某新聞を読むと、「一般の現代人は5分しか集中して音楽を聞けない・・・それに適合した音楽祭」と。2時間かかる演奏会、ぼちぼち考え直したらどうか。1時間として、回数を増やす。つまみ食いが可能なスタイルはあってよかろう。もちろん従来どおりの2時間演奏会を廃止する必要もない。そして、もっと現代にフィットする選曲も本気で考えよう・・・別に、ポップスや映画音楽をやれというのではない。常々思っているところだが、20世紀の音楽をもっと細かく検証してみても、現代人の共感を得る作品がまだまだ埋もれてはいないか?ストラヴィンスキーの「結婚」しかり。その他、プロコフィエフ、ショスタコーヴィチはもちろん、例えばヴィラ・ロボス、日本では黛、芥川等々、リズムが命の音楽などは、もっともっとコンサートホールを沸かせてもらいたい。・・・これはプロへのお願いでもあるが、アマチュアも、そういう観点は欲しいもの。日本中で、クラシック音楽の姿を身近に聴衆に提示しているのはアマであろう。その入口が、あまり敷居が高いのはマイナスだろう。
ふと思う・・・マーラー・ブルックナーは今や時代遅れになりつつあるか。それらを拝む人々の存在こそ、現代人のクラシック離れを引き起こす・・・?ついて行けないだろう。1時間以上黙って座ってろ、という傲慢さは時代と乖離してないか?今の大半の人々にそれだけの我慢、強いることできる?
さておき、あまりに充実のラインナップ。半日の体験というのは惜しかった。来年以降、可能ならもう少し長期滞在といきたい(シューベルト特集のようだが)。ちなみに、今回は前日に、甲府入りしてからの上京・・・前日は山本勘助の足跡を訪ね、彼の出生地の一つとされる三河から甲斐まで流れ着いた次第。
おお、そうだ、最後に、感激の「結婚」を見事まとめあげたメンバー紹介はしておこう。繰り返しになるが感動をありがとう。
ソプラノ・・・キャロライン・サンプソン アルト・・・スーザン・パリー
テノール・・・フセヴォロド・グリヴノフ バス・・・デイヴィッド・ウィルソン=ジョンソン
合唱・・・カペラ・アムステルダム アンサンブル・・・ムジーク・ファブリーク(ドイツの現代音楽演奏集団)
指揮・・・ダニエル・ロイス
(2007.5.13 Ms)
April ’07
4/14(土) トリオ・クオーレ 名古屋公演
ヴィオラ、クラリネット、ピアノの3人による演奏会。2年前も、地元でこの編成の演奏会を聴く予定があったのだが、父の容体悪化を知らせで急遽演奏会場から飛び出した経緯などあり、自分にとっては因縁深いものを感じる。それも、この3楽器の名作といえば、シューマンの晩年の作である「おとぎ話」。これを一度自分の耳で、生の演奏で確かめておきたかった。
まずは、3人の編成で、モーツァルトの「ケーゲルシュタット」。そして、ピアノ独奏により、バッハの「半音階的幻想曲とフーガ」。真剣勝負といった面持ちの作品で、無伴奏ヴァイオリンのシャコンヌと並んで、バッハ器楽作品でもお気に入りのモノ。
休憩を挟んで、珍しいヴィオラの独奏で、ペンデレツキの「カデンツァ」。無伴奏チェロによる作品もペンデレツキのものを過去聞いたことがあるが、それに比べてもかなり穏健な感じ。ただ、悲愴味が感じられ、一瞬、ショスタコーヴィチのチェロ協奏曲第1番のカデンツァを想起させるような雰囲気もありかなり好ましいものと思えた。ただ、この演奏会全体の雰囲気からすると、かなり思いきった選曲ということではあったか。名古屋の聴衆にはかなり違和感をもって受け取られてしまったかもしれない。
クラリネットは、ピアノの伴奏を伴って、ロッシーニの「主題と変奏」。いかにもロッシーニといった快活な作品。クラリネットという楽器が急速に発展普及して行った時期の作品(1809年)ということだろうが、モーツァルトの次の世代、ウェーバーと並んで、ロッシーニも意外とクラリネット界に貢献をしているということか。
最後に、シューマン。晩年シューマンの、スムーズに流れない何かしらもどかしさを感じさせる展開が、聞いていて複雑な思いを起こさせる。素朴なようでいて、しかし、単純ではない。かといって、小難しいような雰囲気をみせながらも、熟練はしていない・・・捉えどころのなさ、は確かに感じる。美しい瞬間はあるのだが・・・この感覚の延長に、遺作となったヴァイオリン協奏曲の世界が視野にはいってくる。ただ、演奏会の最後を締めくくるにはなかなかに収まりがつきにくい印象はあった。
その点、アンコールのモンティの「チャルダッシュ」は安定した作品と言えよう。ジプシー的雰囲気が、クラとヴィオラでも充分に発揮される。そう言えば、浅田真央のフィギュア・スケートで一躍有名となった音楽でもあり、客受けは良かった。途中で手拍子でも起きるかしら、とも思ったが、それはなかったけれど。
演奏者は、東京芸大の卒業生らで、クラ・岡村理恵氏、ヴィオラ・高山愛氏、ピアノ・後藤友香理氏。
個人的な話ながら、4月から仕事環境も大きく変わり、全く今までと違う組織への出向を命ぜられ、かなり、緊張を伴う毎日となった。休日もひたすら勉強しなければ、仕事が追いつかぬ。体調もいきなり壊しながら、結構大変ではあった。そんな中、シューマンの苦難の行程を思うと、勇気付けられ、また、いや、それ以上に、バッハ・・・そう、バッハの「小川」ならぬ「大海」の、超然としたスケールの大きな世事に全く同じない芸術性に深い感銘を受けるのだ。
(2007.5.15 Ms)