今月のトピックス
September ’06
9/30(土) ブルーメン・フィルハーモニー 第27回定期演奏会
毎回充実の演奏会にご招待いただいている、在京アマオケでもかなりのハイレベルな楽団である。今回はモーツァルト記念年に即して、モーツァルト周辺の作曲家の作品でプログラミング。
シューベルトの「ロザムンデ」序曲。サリエリの「ラ・ファリア」の主題による26の変奏曲。そして、ベートーヴェンの交響曲第6番「田園」。指揮は、ミヒャエル・ディートリヒ氏。
何と言っても目玉はサリエリ作品か。名こそ有名ながら滅多に作品を聞く機会はない。さて、どの程度の作品が飛び出るか?
主題自体は、有名な、コレルリのもの。クラとファゴットでのコラール風の主題提示に続き、弦に引き継がれ、和音の骨格はそのままに、分散和音やスケールを駆使した変奏が繰り広げられる。第3変奏あたりまでは、これは隠れた名曲では?と期待感を持って聴いていたが、第4変奏で、ハープが登場、その割には鄙びた感じで(当時のハープの性能が高くなかったのか)、そこにオケが和音で一発づつ合の手をいれるだけで、ちょっと稚拙さを感じた。その後も、トロンボーンのコラールによる変奏(そのコラールの休符部分にティンパニのトレモロ、そして和音構成音からティンパニの音が外れた時には何と小太鼓のトレモロが現れる。ただし、この数小節のみの使用だけ)、独奏ヴァイオリンの華麗な技巧の誇示による変奏、4種の木管が交互に呼び交わす変奏など、趣向が凝らされた変奏が続いてはいる。しかし、変奏から変奏へと必然性をもって構成されたとは言い難い。結局、興奮させ感情の高ぶりを感じさせる箇所はあってもぶつ切れ。そして、調性は全く変化なくニ短調のまま。26の変奏、20分の所要時間が、さすがにブラームスの、ハイドン変奏曲や、交響曲第4番フィナーレのような高次の構成力をもって結合していないのが難点。もちろん、1815年の作品ということで、その時代における管弦楽法の新奇性は認められようが、変奏自体が新たな局面を開く事無く並列され、あげくのはてに唐突に長調によるコーダが付加されてあっけなく終わるわけで、名曲とはいい難いという結論に達した。
しかし、この珍品を精力的に、そして丁寧に、我々に紹介していただいた熱意に敬意を表したい。そして何より、独奏ヴァイオリンの美しさは特筆しておきたい。プロでも取りあげないような作品をご教示頂き、意義深い演奏であったことは強調しておこう。
「田園」、何度聴いてもあらたなる感動が沸き起こる名曲だ。今回の演奏においては、第2楽章なかばで聴かれたフルートとオーボエのアンサンブルの心地よさ、そして、雷雨が過ぎ去ってすぐに現れる第5楽章冒頭、第1主題を歌う1st Vn.の救いのような神々しさ、これらが格別に涙を誘うほどの感動を与えてくれた。いつも、どんな曲でも、新鮮な感動を呼び起こしてくれるアマチュア団体、今後も団員の異動などで大変なことも多かろうが変わらぬ幸福なる再会を望みたい。
アンコールは、ヨハン・シュトラウス2世の「田園のポルカ」。途中、ラララ・・・と歌が入るのが微笑ましい。
(2006.10.15 Ms)
9/21(木) 第75回日本音楽コンクール バイオリン部門 第3予選
毎年、日本音楽コンクールは各部門、NHKで本選の模様は放映されており、私にとっては毎年楽しみにしている番組の一つ。第1位の方々による披露演奏会も名古屋での公演があれば時折聴きに行ったもの(フルート部門、高木綾子氏による、ニールセンのフルート協奏曲の感動は特に忘れ得ぬ)。この度、初めて、そのコンクールの場に行って来た(トッパンホール)。
本選それも協奏曲だと、だいたいお馴染み(月並み)の選曲になってしまうが(確かに、続くこのバイオリン部門の本選は、全員、メンデルスゾーンの協奏曲だった)、今回のバイオリン部門第3予選は、2曲の課題曲が、シューマンの1番のソナタ、そして、ラヴェルのツィガーヌ、ということで、私の好みな、それも傾向も違う2曲ということで、何回聴こうが楽しめよう、と出かけた次第。シューマン記念年、こんなところでも盛りあがっていて嬉しい・・・シューマンのバイオリン・ソナタ、決して王道行く正統とも言い難いだろうに。
途中、昼休憩を長く取ることとしたため、2人は聞き逃したが、その他計8人を聴く。シューマン、さすが奏者によって歌い方も様々。アプローチも様々。温度の違いというのは強く感じ取られる。テンションの高さ、もしくはテンションの持って行き方など、個性もそれぞれ、8通りの演奏、すべて面白く聴けた(ちなみに、私の経験上、神戸のフルートのコンクールで、エマニュエル・バッハのソナタを8回くらい聴いたこともあったが、断然、比較にならないほど今回の方が楽しい!!!)。なお、ラヴェルも華麗な技巧が散りばめられ、それぞれに難易度の高い楽譜をしっかりと弾き切っていたのは素晴らしかったし、音色・テンポの選択などに各々のセンスも聴き取れ、これまた飽きることはなかった。
・・・既に結果も公表された後ではあるが、その時の個人的なメモを取り出して、8人の挑戦者の私なりの印象をまとめておく。
依田真宣氏。アクロバット的。ラヴェルは大層面白く聴くが、シューマンはやり過ぎか。ただ、2曲が同じ方向性では。
伊東真奈氏。重心の低い音色(古色?なイメージ)、そして丁寧なシューマン。ただ、流れが停滞する感も。故、第2楽章以降は単調か。しかし、ラヴェルは全く違う激しさを発散。
山岸務氏、藤江扶紀氏、両名は聞きのがす。
飯村真理氏。冒頭のG線からして濃厚でなく、意外に爽やかなシューマン像か。重くなく素直、すがすがしさも。ラヴェルは違う重いスルGの迫力、そして、スル・ポンティチェロの激しさ。
鈴木舞氏。シューマン冒頭から1音1音考え抜かれた音という印象。第2楽章も主題の回帰ごとにニュアンスの変化あり。第3楽章最後の第1楽章主題の回帰がドラマティック。早過ぎぬテンポで充分思いを込めたもの。ラヴェルも、あせらず、堂々たる間あいなども余裕ぶりを感じた。個人的に最も好感触。
黒川侑氏。音色が輝かしい。両曲とも奇をてらわず中庸。安定。細かな音符まで隅々、ないがしろにしない明瞭さがあった。
蜷川紘子氏。音色の輝かしさはあるも、シューマンが単調。余裕のなさが少々見て取れた。
中川直子氏。以前も入賞経験ある方と記憶する。シューマンに、狂気を見た。ラヴェルとあわせて、凄みと意気込みに満ちた、異彩を放つ存在感があった。
青木恵音氏。朴訥とした雰囲気で8人のうち最も印象に残っていない・・・こちらも疲労がたまったか・・・私の心に届く何かが不足していたか?
さて、このうち4人が本選へ。そして、後日知った結果は、1位黒川氏、2位鈴木氏、3位青木氏、入選藤江氏。
陣取った席がステージに近く、客席後方の審査員の方々とは、音の飛び方、という点ではかなり印象が違ったのだろうか?やや意外な結果と感じたところもあった。個人的には鈴木舞氏に着目したい。また、中川直子氏の協奏曲を是非聴いて見たかった。
結構面白く聴けたので、今後も課題曲によっては是非とも体験してゆきたいものだ。ただ、それにしても、審査というのは随分大変だろうなあ。
(2007.2.14 Ms)
August ’06
8/25(金) 第32回 木曽音楽祭 フェスティバルコンサートT
夏山シリーズ第3弾。愛知県新城市作手、そして、長野県飯田市、そして今度はさらに我が家から遠く、木曽福島へ。
JR18きっぷ、鈍行の旅。
朝、そう早く出たわけではないが、昼過ぎには木曽福島到着。多治見、中津川と途中下車し、内陸部特有の酷暑を体感した後、木曽で待っていたのは、一転、スコールのような土砂降り。さすが山の天気は変わりやすい。とりあえず駅前で腹ごしらえして天候回復を待つ。そして歩いて予約した旅館へ。
何とも鄙びた、昔ながらの宿である。軽く町並みを歩いた後、宿屋にこもって、自分に課したこの夏の宿題である楽譜の最終校正などして、芸術家気取りである。静かな町並みではあるが、我が部屋の外は川沿いの比較的交通量の多い道路で意外に騒々しい。ちょっとあてが外れた、などと思いながら、その内に、宿のおばあさんが茹でたてのトウモロコシを持って来てくれた。ありがたかった。甘く、そして思いがけぬこころ尽くしに感じ入るものあり。正直なところ、事前の宿の予約の電話の際に、少々耳の遠そうな感じで不安を感じていたが、体中に都会のテンポが染み付いていたようで、田舎のテンポ・優しさに改めて気付かされたような気がする・・・そうギスギス生きなさんて・・・。
夕刻、バスに乗って木曽駒高原へ。名物のアルペン・ホルンのお出迎え。単純な構造故に難しい音楽を奏でるわけにはいかないが、素朴でまっすぐな音が、霧霞む木曽の山々をバックにこだまする。なんと心洗われる光景であったろう。
演奏会の開始、そして休憩後の再開時にも、このアルペンホルン、ステージ上で鳴り響く。やはり野外の楽器である。屋内での迫力、ホールの器からこぼれるような音響だった。
会場周辺では、地元の五平餅やらおこわなど、ちょっとした腹ごしらえができる。確かに、夕飯抜きで演奏会に来ることになり、みんなそれぞれに夕闇迫る晩夏を思い思いに過ごす。そして演奏会は始まる。
日本トップレベルの奏者たちのアンサンブルである。私も、NHK−BSでかつての演奏など何回かみており、是非一度は、と思いこの地にやって来た。今回のプログラムは、記念年絡みでモーツァルトの協奏交響曲変ホ長調(木管九重奏版)。フォーレのピアノ四重奏曲第1番。ショーソンの、ヴァイオリンとピアノと弦楽四重奏のためのコンセール(=協奏曲)。
それぞれに充実した演奏を聞かせていたが、何より、それを支える観客の真剣な姿勢、暖かな眼差しを感じた。曲が終わるたびに拍手の密度が何と濃いことか。わめきちらすような熱狂とは違う、静かな熱狂とでも表現すべきか、私のかつての経験で最も近い例は、ヴァンスカ指揮・ラハティ響の初来日、シベリウス交響曲全集演奏会。何としても聴きたい、という聴く側の執念のような緊張感、そして、充分な静寂の後にその緊張感を破って満足を伝える拍手。言葉はなくともそこに演奏家と聴衆の信頼、そして感謝の応答があるようだった。
率直な感想を述べれば、特に後ろ2曲のフランス音楽が、洗練、オシャレ感覚よりは、激しさ、感情の高ぶりを前面に押し出したような演奏で、やや違和感を持ちつつ(それぞれに、1st Vn.の加藤知子氏、ソロVn.の久保陽子氏のキャラクター)も、こういうアプローチもあり、と納得はできた。ただし、ショーソンのフィナーレについてはリズムの複雑な絡みがやや勢いで押さえこんだ感じで、もう少し精巧な造型を期待したかった。また、ピアノもショーソン冒頭からして深みよりは荒さを感じさせ、私の思うところとは相違していたか。
もろもろすれ違ってしまう点はあるにせよ、フォーレにおけるチェロ・山崎伸子氏の、伸びやかで、アンサンブルの中心として推進力を持ってしっかりと存在感を示した演奏が、作品に活力を与えていたのは好感大であり(私にとってのこの作品のモデル演奏たる、ピアノに野原みどり氏を迎えた演奏での、ピアノのきらびやかさ、そして繊細さが印象に大きく残っており、ピアノ主導というイメージが強いが、今回はチェロ主導、といってよい状況か)、そのせいもあってか、ピアノの圧倒的存在ではなく、弦楽の充実した響きこそが前面に出てきた点で私にとってはかなり新鮮さを感じさせた。第2楽章のピチカートなども、静かなる囁きではなしに、軽やかな舞踏のようですらあった。
ショーソンにおいては、序奏における弦楽四重奏の無色透明さから一転、主部に入り生き生きした表現へと移行する様など、ハッとさせられ、全体にソロに対する好サポートが目立っていた・・・1st Vn.は川田知子氏。一度、ソロでも聴いてみたいplayerである。あとチェロは、昨年の日本音楽コンクールで3位入賞を果たしている門脇大樹氏。今後の飛翔を期待したい。
最初のモーツァルト作品は、偽作とも言われているらしいもの。ホルンのN響、松崎氏はいつもハイレベルな演奏で安定感抜群である。作品にさほどの熱狂を私は感じなかったものの、演奏には敬意を表したい。
会場では、夏というのに、ひざ掛けを無料で貸与、確かに涼し過ぎるのがちょっと気になった。それはさておき、帰りのバスも、演奏の感想など述べあう人々で活況。それぞれに宿に散りゆく。閉店間近のスーパーで夜食を買い込んで、我が部屋もささやかなる祝宴。
宿の風呂では、全く違う目的で関東からやって来たこの宿の常連と思しき壮年男性と語らう機会もあった。地方の低迷、格差社会にあって木曽には今の風情を保って欲しい、昔はもっと活力があった・・・そんな中、私は、がんばる「木曽音楽祭」の話題もした。決して、木曽、悲観すべき所にあらず、である。これだけのレベルの音楽祭が、この小さな山あいの町に存在し、存続している様こそ、頼もしい。
がんばれ日本・・・つまりは、地方こそ日本の本来の姿、この山村、おだやかな時間・空間をこそ日本は今後守って行かねば。東京や都会にはない、この日本の姿こそ、いつまでも応援してゆこう。
3回にわたる、夏山シリーズ、今年はこの辺で筆を置こう。返す返すも、山々に響くアルペンホルン、あの響きは忘れ得ぬ思い出。
(2006.9.21 Ms)
8/17(木)〜19(土) 第18回 アフィニス夏の音楽祭より
夏山シリーズ続きます。例年恒例の長野県飯田市への旅行。私の訪問は2001年以来もう6年目となる。長いおつきあいだ。だんだんいつ何があったか失念してゆくので、備忘的意味を兼ねて今までの記事を読み直してみよう。
2001年(こちらへ)。全国のプロオケ・プレイヤー選抜が、主にドイツ人講師たちとともに室内楽の演奏会に向けて1週間ほど合宿。その練習風景が開放されているのが売り。個人的には、そもそもは、ショスタコーヴィチの室内交響曲(ハ短調)に惹かれての訪問。日帰りで、リハーサルを見て来た。ただ、飯田と東京演奏会に向けての練習以外にも、個人のマスタークラスというレッスンがあって、そこにもショスタコーヴィチの弦楽のソナタなどの選曲を見つけ、翌年から本格的に泊まりで出かける。
2002年(こちらへ)。ブリテンのシンプル・シンフォニー。そして、Vn.のマスタークラスでのブラームスのソナタ第1番が印象的。読響の荒川以津美氏。昼神温泉での1泊も楽し・・・プールにも入ったり。
2003年(こちらへ)。都響のチェロ奏者、江口心一氏の、シューマン、チェロ協奏曲のマスタークラスに感銘。この年は、下野竜也氏を迎えてのオーケストラ演奏もあり。R.シュトラウスの「町人貴族」など。また、夜、滞在先のホテルのロビーにてラップセッション(講師、受講生入り乱れての即席のアンサンブル大会。わきあいあいな雰囲気が良好。)も初めて訪れる。
2004年(こちらへ)。今回は素晴らしい作品との出あい満載。プロコフィエフの五重奏曲。ブラームスのセレナード第1番(9重奏版)。これらはすぐCDを探すことにもなった。そして、そのブラームスでのN響フルート、甲斐雅之氏の雄姿は忘れ得ぬ。また、ストラヴィンスキーのダンバートンオークス協奏曲の練習風景も面白かった。ラップセッションもかなり長居をして楽しませていただく。バッハのブランデンブルクの甲斐氏の演奏も好感。
そして、昨年2005年(こちらへ)。オネゲルの交響曲第2番が目当て。指揮は高関健氏。室内楽では、ブラームスの弦楽六重奏曲第2番に感激。2nd Vn.を担当した都響、遠藤香奈子氏に注目。マスタークラスでは、N響Vn.奏者、大鹿由希氏のイザイ、無伴奏ソナタ第4番に感銘(いまでも4番が流れれば彼女の演奏が目に浮かぶ。曲の良さを知らしめてくれたという意味でも忘れ得ぬ)。ラップセッションでは、メンデルスゾーンの弦楽八重奏曲、バッハのブランデンブルク3番に満足。
さあ、今年2006年は・・・やはり最大の注目は、ショスタコーヴィチの弦楽八重奏のための2つの小品。そして、R.シュトラウス「メタモルフォーゼン」。あとは、現地でどんな出あいが待っていますか。
(2006.9.5 Ms)
今回は、初日の午後に現地入り。昼食を、我が家からのほぼ中間点にあたる、愛知・長野県境の漬物屋兼食事処、「角井」さんにて・・・と目論むも、まだ盆休み真っ只中のせいか大盛況にて入れず、結局、飯田までおあずけだ。毎年寄らせていただく、本格的インド・カレーの「クリシュナ」さんにて遅い昼食。そしてホテルへチェックイン。3時間のドライヴの疲れを癒す間もなく、まずは、4時半からのマスタークラス。ヴィオラのレッスンを見学。
京都市響の五十嵐美果氏で、ヘンデル(ハルヴォルセン編曲)の「パッサカリア」。
通常、Vn.とチェロのデュオだが、今回はチェロの替わりにヴィオラで。バッハの同種の曲に比べると変奏がシンプルな印象あるも、力のこもったいい作品である。編曲としても、2人だけなのに充実した響きが味わえる佳曲だ。単純な主題が徐々に複雑な変奏へと進化するなか、華麗な音型で彩られる部分あり、そこの演奏法について講師の方から、小節をまたぐ部分に向けて、滑らずに最後の数音をマルカートで演奏する、といった指示が出、そのように2人が演奏した時の、音楽のテンションの違いが如実に顕著にあらわれた時の感動は忘れない。この、ちょっとした意識の違いが音楽の印象を随分変える。音楽を創る過程の面白さ、こそは、この音楽祭の最大の魅力で、毎年足を運んでいるのだが、今年も最初の枠から、グッと私の心を捉えた。来て良かった、と。
Vn.は大阪シンフォニカーの田村安祐美氏。ヴィオラのマスタークラスへお手伝い参加とは言え、十分に存在感を発揮、腕も確かだ。期待の注目株として気に留め置く。
続いて、同じくヴィオラ、フリー奏者、冨田大輔氏。実は彼は、今年最初の、紀尾井ホールの「プロジェクトQ」で、シューマンの2番の弦楽四重奏を演奏した、クァルテット・クライゼルのメンバー。果たしてソロではどんな感じだろう。ヒンデミットの無伴奏ソナタOp.25−1。いかにも、ヒンデミットという旋律線が主題として繰り返されて耳につく。悲壮な叫びのような曲調であり演奏。
初日は以上2時間の見学の後、遅い昼食の後の夕飯、市の中心部へ出掛け、軽めに「串屋 長右衛門」で鳥をつまみに一杯二杯とふっかけて。その道すがら、今回の指揮者・下野竜也氏と、今回始めての企画、指揮のマスタークラスの研究員と思しき集団とすれ違う。指揮者の卵たちとワイワイ町を行く姿、なんとざっくばらんな音楽祭だろう、と改めて飯田の町と一体となって楽しむ音楽祭の在り様が嬉しく感じられる。彼らとの出あいが今回の最大の収穫であったことを知るのはまた後の話。
そして、ほろ酔い気分で、ホテル・ニューシルクのロビーで繰り広げられるラップセッションへ。
講師たちによる、シューマンのピアノ四重奏曲1,3楽章。記念年、よく聴かれる作品だが、いつ聞いても第3楽章の美感は秀逸。またも缶ビール片手に程よいアルコールの酔いに加えて、音楽の陶酔・・・なんと贅沢な夜。さて、まだ初日の夜ということで、ラップセッションもまだまだ積極的参加も少なめか。そんな中、唯一のブラス系、ホルンセクションは、四重奏、三重奏と連続登場・・ただし曲は不明。
そして、弦楽器に戻って、ロッシーニの有名な弦楽ソナタの第1番。先ほどヴィオラ・マスタークラスで登場のVn.田村氏中心に。滑らかな音の運びが麗しい。続いて、これまたお馴染み、シューベルトのピアノ五重奏曲「ます」の第4楽章。奇しくも、コントラバス参加の有名室内楽そろいぶみ。バス奏者も室内楽にレパートリー不足気味なれど大活躍とあいなったわけだ。
2日目、朝からディープに、R.シュトラウス「メタモルフォーゼン」。今年は、本番の演奏会で取りあげる曲の練習会場に曲目解説が1枚用意されており、それを集め読むのも面白い。参加者のコメント、聞きどころ、なども書いてあり、より聴く側を意識した試みとして良い。「メタモルフォ―ゼン」は、ベートーヴェンの「英雄」の葬送行進曲と、楽譜が比較できるよう掲載されていて分かりやすい解説。下野氏の指揮も、この複雑な巨大室内楽(何せ23の声部があるわけで、それも全部同質の音色の弦楽器のみ、意外に指揮者の手腕が問われる作品だと思います)を、細部に渡りニュアンスの統一、微妙な声部間のバランスを磨きあげ、興味深くその過程を体験できました。
午後はシューベルトの交響曲第3番・・・ですが、この日は朝から深夜まで予定あり、ここらで失礼して休憩・・・ショッピングの後ホテルでくつろいだり・・・そんなマイペースさも私にとって大事な条件。意外に酷暑続く今年の飯田、日中はおとなしくするのも重要か。
そして、マスタークラス、午後4時過ぎから。昨日から注目の、田村氏、ブルッフのヴァイオリン協奏曲第1番。なかなか選曲がふるっている。コンチェルトだもの。最初の冒頭の一節から濃厚に歌い始めるのには、講師の方から、もう少し後にとっておいて、という指示。やり過ぎてこそ直す、というのが気に入った。もっと歌って、歌って、と急かされる姿より面白い。そのやり過ぎ、の演奏に生々しい音楽の姿が感じられて、それがあってこそ磨きをかけ、洗練という過程に移行する。歌いたい、表現したい、という心がダイレクトに伝わる姿に感銘深し。
続いて、指揮者のマスタークラス、これはまとめて改めて書きます。
昨日に引き続き、居酒屋にて夏の夜を楽しむ。そして、ラップセッション。2日目とあって、だんだんノリが良くなってくる。と、なれば管楽器も幅をきかせてくる。曲としては、曲名が分からないモノだらけ・・・。
きっとモーツァルトと思しきピアノ四重奏曲。弦楽四重奏とホルンの作品。ベートーヴェンのセレナーデ的作品だろうか、ホルン3、Ob.Fg.の五重奏。作曲家未知のピアノと木管五重奏の作品。そして弦楽四重奏・・・初耳、メンデルスゾーンあたりだろうか?
(2006.9.11 Ms)
そして3日目。室内楽の練習をざっと見られるだけ見てゆく。
ロッシーニの弦楽ソナタ第3番。Vn.田村氏に惹かれて。手堅くまとめられていた。ただ、作品としてはあまり面白くないか。旋律と伴奏、が明確に役割分担されていて奥行きの感じられない、軽いもの。せっかくのこれだけのメンバーなら、もう少し重い内容のものでもいいのに、もったいない。と率直な感想。
ブラームスの弦楽五重奏曲第1番も気にはなるが、限られた時間ゆえに、廊下で漏れ聞こえる音だけ聞いて次の会場へ。
ショスタコーヴィチの弦楽八重奏のための2つの小品。ちょっと甘いか。スケルツォのテンポ感ももう少し危機感あおる位が望ましい。1st Vn.のプレリュードのソリスティックな早技は輝かしく心に残る。全体的には、スパイスの弱さが物足りなさの理由か。
なお、練習会場に置かれた曲目紹介、やはり、ヴィジュアル的にも「芸術統制」「激動の時代」「社会主義国家」などという言葉が踊っていて他の曲に比較しても物々しい雰囲気なビラである。ただ、第1曲のプレリュードが親友(クルチャヴォフ)追悼のためのものというのが興味深い解説。ただ、曲自体の解説は珍曲のため少ないようで、ロシア室内楽の「追悼」の系譜、チャイコフスキーやラフマニノフ、アレンスキーなどのお話にすりかわってしまうのは仕方ないことか・・・。
曲自体が短く練習も早めに終わってしまい、余りの時間は、シュポアの九重奏曲。弦と管によるオーケストラを思わせる多彩な響きは面白い。毎年好例のコントラバス講師、リノヴィツキ氏(元・北ドイツ放響首席)の雄姿がいい。体を大きく動かして、アンサンブル全体を支配するような存在感。
午後、私たちにとって最後の時間枠は、昨日充実を感じた、指揮のマスタークラス。
記念年ゆえか、また、講師・下野氏の得意とする所以か、シューマンの交響曲、として予告されており、何が飛び出すかは扉を開けて初めてわかる。前日の分も含めてまとめてその時の状況を書きとめておく。
前日は途中から中の様子をのぞく。入るとまず、第2番第1楽章序奏の冒頭。そして、第3番第1楽章冒頭。
そして3日目の方は、第1番第2楽章全体、第2番第3楽章冒頭。
まず、指揮マスタークラスの最初の枠であった2日目夕刻、会場に入るや、第2番冒頭の4分音符が並ぶ比較的簡単と思われる部分を研究員の1人が指揮し、他の研究員2人、交替でピアノの連弾で演奏していた(決してピアノは巧くないが、だんだん弾けてくるのが分かる。下野氏も、弾けるようになって楽しくなってくるだろう、なんてチャチャ入れて)。単純な1拍1拍の音楽に対する指揮棒に、下野氏が逐一、コメントを差し挟む。
フォルテピアノの前後でテンポが揺らがないこと。
主調から転調した部分でテンポを落ち着かせないこと〜家には早く帰りたいでしょう・・・という比喩も分かりやすい(帰りたくない人もいるけど・・・と付け加えるのがごあいきょう)。
和声的に解決していないところで収め過ぎだ〜刺繍音として解釈する箇所だ・・・和声の分析も当然指揮者の重要な仕事なのだなあ、それによって棒も変わるし音楽の進め方も変わってくるのだと痛感。
フォルテピアノを意識しすぎない方が良い〜教会で頭を垂れてお祈りしている時、ふと顔をあげるようなニュアンス・・・これまた比喩が秀逸。まさに、このシューマンの2番の冒頭部分のフォルテピアノはそんな風に感じられるなあ。
ホルンにつけられたアクセント、どういう意味があるか?研究員たちに意見を求める。低音に主音のドがないからホルンに強調を促す・・・うん、それもあるかもしれない、でも、僕はこう思う、と下野氏曰く、金管のファンファーレ主題の残像・・・なるほど、曲の開始を告げ、全曲に循環する重要な主題、そのリズムだけが刻印されて次に進んでゆくわけだ。その部分でかすかにファンファーレの面影が聞えて来る・・・この発想を、現実に遠近法的な管弦楽配置を施せばマーラーへと自然に思いは馳せる、そこまで下野氏がおっしゃったわけではないが、私にはあまりに意味深なお言葉、深く重い指摘だった。シューマンの2番を交響曲中もっとも愛する私としてはグググッと心が引き寄せられた。さすが、シューマンに定評ある指揮者の含蓄に富んだコメント。
続いて、何番やろうか?唯一の女性の指揮研究員に指名。4番を。4番の概要を説明せよ・・・ニ短調だが、5度の和音で開始、シューマンに特徴的なホルンの動機・・・ん、どこの話だ・・・と下野氏つっこむ。冒頭は和音じゃないぞ・・・初版は確かに5度の和音、まさにベートーヴェンの7番と同じ響きだ(ピアノで一節を弾く)・・・ちょっとスコアを見せて・・・おい、これは初版のスコアだ。サヴァリッシュさんしかやんないよ。どこで買ったんだ・・・てなやりとりがおかしかった。私こそそのスコアを見たいくらいだ。留学先のウィーンでこのスコアしか売ってなかったとの弁。
交響曲4曲全て勉強してきたはずなのにこの有様、4番はやめて、第3番「ライン」の冒頭。
大きな音の時の振り方。音量が大きくなればややゆっくりめに〜学生時代の運動会、拡声器で怒鳴る先生の言葉、早口だと何言ってるか分からない。
一生懸命動かなくてもオケは鳴る。力強さを見せれば良い。アジア系指揮者は音量が大きくなると暗くなる(根性系。しかめっ面)ので注意。ムーティを見たまえ。
同じテーマが2回出てくるが、2回目のほうがテンションが高いほうが良い。
3拍目を示すのが大事。テンポを定める上で、3拍目が重要。
第2主題の強弱。緊張と弛緩を感じているか。・・・タオルのしぼりかたの実演での比喩が大変わかりやすかった。
という感じで次々と研究員が同じ箇所を振りながら、下野氏が問題提起や、解釈のアドバイスなど絡めてゆく。こんなに面白い音楽講座、初めてだ。ということで、翌日の指揮マスタークラスは時間枠全てを見学することとした。
まず、第1番「春」第2楽章。今回は、プロの指揮者2人の連弾。とにかく、音楽が美しかったのが第1印象。ピアノの方がオケより巧く鳴っている・・・ただ、第2番第3楽章の方は、オケの方が巧く鳴っているような気がする。シューマンの進歩がそこにある。オケの書法で交響曲が書かれている。1番「春」の方がまだまだピアニスティックなわけか。
さて、一通り振らせた後、ピアニストに対して下野氏が厳しい質問。指揮者あった方が良いですか?相手はプロの奏者、シューマンのピアノ曲、歌曲伴奏等々、指揮者の卵より格段にシューマンの音楽を演奏している。その方に対して、何を伝えるのか?フォルテピアノで演奏する箇所は奏者だってわかっている。棒は、まず安心感を与え、その大きさ・ニュアンスを示す。また、装飾音のニュアンスも示せているか?
また、重要なテンポの設定について。ピアノで演奏していること、今回の会場の狭さ、等配慮してテンポを設定しているか?やや早めが今回は気持ち良いだろう。フルトヴェングラーの演奏が同じ作品でも色々なテンポだというのは、まさにこういうその場その場の状況に対応してのことだ。
その他、技術的な話として、チェロで主題が再現した時に、下の方で指揮をする、とか、木管に付せられたドルチェの歌い出しの表情など、指摘があったが、楽曲解釈上の注意深いポイントとして数点、面白いものがあった。
コーダに現われるトロンボーンのコラール。この2小節前が、1小節余分に音が引き伸ばされているが何故か?
宗教的な感興を象徴するトロンボーンを出すのに準備する時間がかかる。そして、その部分は棒は動きは少なく、緊張を保つ。
最後の1音、チェロだけにAの音が付加されているが何故か?
これは私も気がつかなかった音。トロンボーンがイメージさせた象徴的な雰囲気、緊張を解くための1音。暗闇にローソクの灯がともる・・・といった比喩が面白い。私もその場で考えた。第2、3楽章ともに4度の上行で開始する・・・その4度をアタッカでつなぐ第3楽章の開始前に暗示させているのか・・・などと考えた。それにしても楽譜の隅々にまで様々な解釈を他人に示せる指揮者・・・さすがである。私の少ないアマオケ経験から言っても、こんなレベルの話はなかなか体験していない。もちろんアマがそんな「解釈」以前の問題でウロウロしているだけなのかも知れないが。音楽の楽しさを思いきり味わえたという充実感しきり。
さらに、ふと現われる、ブラームスの3番冒頭主題と全く同じモティーフが出てくるところもしっかり指摘、なーるほど。
続く第2番第3楽章はさほど時間も少なく。1番ほどに興味深い話が聞けたわけでもないが、Adagio expressivo と来て、さらに、cantabile。
経験少ない研究生たちと下野氏の振り方には歴然たる差があって、さすが、という感じ。また、ここでもフォルテピアノが話題となっていたが、あんまり事前に棒を振りあげすぎると演奏する方が逆にやれなくなる、という指摘は、ごもっとも。
・・・ああ、ここで、今年のアフィニス音楽祭ともお別れというのがあまりにも哀しい。この土日、地元の人々との演奏会も催され、今回の指揮者の卵も経験を積むようである。そういう意味でも、今回の指揮マスタークラスは有意義だろうし、また、大局的な観点での音楽作りの現場を見せてくれるのが大変に面白かった。この企画、是非とも今後続行を望みたい。
指揮者マスタークラスの研究員のみなさんの今後の活躍もおおいに期待したい。数年後、大成する人材がこの場にいらっしゃればこんなに嬉しいことはない。参考までに、パンフレットから転記・・・石毛保彦・垣内悠希・岸本有理・松村秀明・道端大輝・宮川健太郎(敬省略)の皆様方。
また来年も、飯田にて充実の日々を期待したいもの(2006.9.18 Ms)
8/6(日) デュオ・モリタ サマー・コンサート
2003年7月の「つくでの森の音楽祭 Duo
Morita コンサート」での演奏が素晴らしく、こちらでトピックスとして紹介させていただきました。
その後、なんとご本人様よりメールをいただき、今回、再度来日され、同じ場所でコンサートを行うとのこと。
また、前回の終演後、私がマルティヌーのソナタへの共感をお話させていただいたことも覚えておられ、今回、2番のソナタを取りあげる、とのメールでした。
北海道から関西までツアーで巡られた後、また、涼を求めての作手の高原にて、大自然の中、演奏に接することが出来るということで楽しみにしております。
さらに、ロシア音楽ファンを標榜する私としても、ミアスコフスキーやシュニトケのチェロ・ソナタは未聴、なんとも硬派(?)なプログラムではありますが興味津々、
前回のマルティヌー同様に未知なる世界を教えていただけるのでは、と期待も高まります。
当HPとしても、是非是非、お勧めのコンサートとしてイチオシです。世界で活躍するデュオ・モリタさん、日本で聴くことの出来る数少ない機会として皆様もいかが、でしょうか?
(2006.7.27 Ms)
Duo Morita Summer Concert チェロ:森田満留 ピアノ:森田竜一 2006年8月6日(日) 13:30開場 14:00開演 プログラム ヴィオラ・ダ・ガンバとチェンバロのためのソナタ 第3番 J.S.バッハ チェロとピアノのためのソナタ 第1番 シュニトケ チェロとピアノのためのソナタ 第1番 ミアスコフスキー ロマンス、パピヨン、シチリアーノ フォーレ チェロとピアノのためのソナタ 第2番 マルティヌー 全自由席 3,000円 |
デュオ・モリタ 1992年の結成以来、日本とヨーロッパの各地で幅広い活動をおこなっている。 (コンサートのチラシからの転載) |
素晴らしい演奏会でした。またおって紹介してゆきます。
シュニトケやマルティヌーの政治的メッセージ、まさに広島の原爆の日に相応しいものでした。(2006.8.6 Ms)
まずは、バッハ。前回の無伴奏の6番がかなりの衝撃であったが、今回のガンバ・ソナタは、あまりに寡黙な世界で、随分と印象が相違する。とにかく抑制された音の選び方が緊張感を高めている。特に終始弱音とも言えるピアノの表現にその傾向が強かった。
そのバッハとの断絶が壮絶な効果をもたらしたのがシュニトケ。この作品と最初に出会った時の衝撃が忘れられないと語ってみえたが、「戦争」を描いた作品かどうかは解からないものの、それと関連付けられるような悲惨な光景を思わせる表現は確かにある。昨年、ちょうど終戦60年のまさにドイツで精力的にこの作品を取りあげたとのこと。戦争体験者ではない世代が意識をもって「戦争」のむごさを表現することに対し、ドイツでも聴衆の老人の方から激励の言葉をいただいた、という曲前の解説は印象的だった。
曲は極度に抑制されたLargoの第1楽章に始まる。旋律的な下降する音型が何度かあらわれるものの全体に黙した雰囲気が一変、第2楽章でひたすら追いかけてくるような切迫感ある展開となり、恐怖感をあおる。激しさを増し続けるその結末がピアノによる破壊的な打撃音。そして、ショスタコーヴィチをさらに苦しくしたような痛切な叫びに充ちたLargoに結ばれる。何とも言えぬ苦行のような、まさに戦争の悲劇を思わせる作品・・・それも、今回、山奥での半野外のコンサート、それも酷暑・・・この暑さの中に繰り広げられる惨劇は、聞く者も生理的にかなり苦しかったと感じるが、聞く側もかなり集中して鑑賞していたのだろう、パタパタ扇子をあおぐようなことはなかった。それだけ緊迫した作品、演奏であった。
続く、ミヤスコフスキーは、同じロシアではあるものの毛色の違うもの。ラフマニノフの後継的存在として、朗々たる歌が披露される。緩急の2楽章制。ピアノの華麗な技巧と相対するチェロは比較的中低音域で情熱的な旋律を歌う。シュニトケに存する人間不信、性悪説を吹っ切るような、たくましさ、明るさを持って、前半が結ばれたのは救いだった。
休憩は恒例、広々と山々を望む木製のデッキで、ジュースやクッキーをいただく。この瞬間の幸福感は何度も味わいたいもの。前回も忘れ得ぬ。これこそ作手の財産だ。酷暑の影響で、前回ほどの涼しさはないけれど、この雰囲気は、そしてこの経験は、そこにいる人々にとっての宝物、であろう。夏の良い思い出の一つである。
ここで、チェロの森田さんの、プログラムでのあいさつから引用させていただきましょう・・・「日本に帰ってきてめまぐるしい都会を久しぶりに経験すると、作手が恋しく思われます。(中略)ここではヨーロッパのように時間が優しく流れていく気がします。」
後半最初は、フォーレの小品を3曲。柔らかな音色が美しい和声、旋律とともに心地よく響く。
そして、マルティヌー。前回の第1番と同様に、第二次大戦と密接に関係している激しい作品である。硬質なピアノの打撃と機械的な旋律の動的な動きが優勢な作品。シュニトケの作品よりは、主観的な、作曲家の思い、考え、そして、感情、特に、怒り、が端的に表現されているようだ。作曲家の、書かなきゃいけない必然、が曲の隅々にまで行き渡っているようで、作曲家の筆致が、勢いにのって生の演奏を通じて、ビシビシ伝わる。その頂点が、第3楽章の最後近くに置かれたチェロのカデンツァ。何者にも負けない、意志、が宣言されて曲は閉じられる。この部分が、今回の演奏会の全てを集約するような充実度を持って感じ取られ、苦しさを乗り越えて今後も生きる、というメッセージが強く打ち立てられていたのが、おおいに感動的であった。
プログラム自体は、第一印象としてもマイナーで、実際聴いてみてもヘビーな体験、となりましたが、でも、グッと心をつかむ魅力にあふれたもので大変満足でした。
アンコールは、・・・作手はもっと涼しいと思っていたんですが、熱い(暑い)曲ばかりですみませんでした・・・と、涼し気な曲として、ラフマニノフの「ヴォカリーズ」を選んでいただきました。夕刻迫る夏の瞬間にふさわしい音楽と感じました。
演奏会後は、今回の演奏会をメールで教えていただいたお礼を一言させていただき帰路につきました。また、充実のコンサートを日本でお待ちしております。
・・・そう言えば、そのお礼の瞬間、外人の方々がみえて記念写真、といった流れになって、あまり長くお喋りもできませんでしたが、デュッセルドルフからみえたお二人に、今年のシューマン・イヤーの本場の様子がいかがかお伺いするのを忘れてしまったのが悔やまれます・・・。
(2006.9.3 Ms)
8/2(水) 東京大学音楽部管弦楽団サマーコンサート2006 大阪公演
当HPも、もう7年余り続き、数々のコンサートの感想など書き連ねてきたが、アマチュアの学生オケについて書くのは始めてかしら・・・。大学時代はとにかくやみくもに学生オケを聞いていたが(名古屋から早稲田オケを聴きにサントリーホールまで遠征したこともあったなあ・・・20年前!!!)、卒業後、縁遠くなるや足を運ぶことも徐々になくなり、また、田舎に越した後このHPも立ちあげてからは、皆無だったような気がする。
そこへ今回、舞い込んできた東大オケの情報。何かと我がHPでもお馴染みなN響チェロのフォアシュピーラー(次席奏者)、桑田歩氏の独奏ということも手伝って、久しぶりに学生オケを聞く機会を得た次第。
とにかくオケの水準に驚きである。これがまた巧いのである。特に、弦楽器のレベルが高い。管楽器はパート、個々人によりややばらつきはあろうが、それにしても、オケ全体の一体感、そして情熱あふれる演奏に、全く隙はない。今回選ばれたプログラムの、その音楽の本質を、そして素晴らしさを堪能させてくれる演奏、との出会い、というのが本当に嬉しい。アマの場合、縦のズレや音外しも度を越すと、音楽に集中させてくれなくて、哀しくなることも少なくない。その哀しさ故に随分、学生オケから遠ざかったか。
まず、グリンカの「ルスランとリュドミラ」序曲。
パンフレットには、「4割増し」のテンポ、なんて書いてありましたが、とにかく速い。レニングラード、ムラヴィンスキーを彷彿と。
冒頭から、圧倒的な、弦の、狂おしいばかりの音の洪水に翻弄される。よくもここまで音を並べられるものだ。かなりしっかり練習したことだろう。ひたむきさ、真摯さが伝わる。それでいて、なおかつ、荒れていないのだからたいしたもの。速いのだが整然とした音楽。アマオケでなかなかここまで聞かせられまい。プロでもここまでのレベルにはそうそう達しないだろう。
ロシア音楽ならではの勢い、これが前面に出た演奏で心地よい。妥協無く、多少のことがあってもひるまず進み続け、推進力にみなぎり、いやがおうでも演奏会全体への期待を高まらせてくれたオープニング。
なお、全体的に弦楽器のピチカートの明瞭さも印象に残る。ティンパニのソロの活用とともに、ピチカートの打撃的な効果が曲にアクセントを付けている。また、私の座った位置(1階中央付近)によるのかもしれないが、全体に弦が主導的に聞こえ、金管はそれを突きぬける瞬間があるものの、木管はややトゥッティのなかで埋もれ気味・・・ながらも、曲の後半でのベルアップなど果敢に攻めの姿勢が見えたのが好感をもった。これは、学生らしさ、かな。年を経るとこういう姿も見られなくなる・・・グリンカあたりじゃ、すねて白ける木管奏者は少なくないな。ソロがない、強制労働だ、と文句タラタラな人々よく拝見してきた。今回の、この姿勢は随分新鮮だった。
続いて、ドヴォルザークのチェロ協奏曲。
第1楽章冒頭のクラリネットそしてファゴットの陰鬱なムードから、すっと曲の世界に惹きこまれた。cresc.そしてdim.の持って行き方が良かった。さらに続くフルートのたった2小節のフレーズ、ここの切なさが、グッと来ました。蜃気楼のような、はかなさ。この一瞬をもって、私のなかに、アメリカの草原に、チェコの草原の面影を見て孤独にたたずむ作曲者の姿がよぎる・・・恥かしくもポエティックな書きぶりになってしまうが、ここの音楽(スコアでわずかに1ページ目だけの話ながら)の寡黙さが、作曲者の思いを想像させ、「郷愁」、という気持ちが常に私のなかに存在しながら鑑賞できる土台があまりに自然体としてできあがる。続く2小節の、弦による主題も、そんな自分の気持ちをさらに深まらせる美しさ。
この冒頭部分をこそきっかけに、ほどなく提示されるホルンによる第2主題の名旋律・・・泣けました。こんなにも心に染み入る旋律、ドヴォルザークの神髄、ここにあり。ホルンの安定した歌いっぷりに感激。そして、個人的には、ここまで自分の気持ちを持って行かせてくれたのは冒頭のフルートの2小節の存在、と感じた。曲の中にどっぷりとつかってしまえる演奏ほど嬉しいことはないのだ。
さてチェロ独奏。桑田氏は決して、豪快にかき鳴らすタイプではなかろう。どちらかと言えば地味、端正で、内省的なアプローチか。独奏の開始部分の張り詰めた雰囲気、もう少しかぶいた歌舞伎者的な存在感はあってよかったか。しかし逆に、第2主題のしみじみした歌い方などは、むせび泣くような、微妙な音程感をもって心に迫ってくる。
またこの第2主題における、クラ、フルートの点描的な伴奏、この優しげな、柔らかな音色、独白者たるソロを慕ってやまず、そっと見守るような存在感、この絶妙なスタンスが心に残る。
同様に、展開部に入って速度を落として独奏が哀しげな旋律を長く歌いあげるが、その背景にあるフルートのオブリガートもまた美感あふれるもの。そう、全体に、フルート、クラリネットは独奏チェロとも時に対等に会話して、その存在は一等抜きん出ている。
第2楽章も田園的な朗らかさが全般的に心地よいが、特に主題再現部での、ホルン・トリオの雰囲気は格別なものだった(他にも、第1楽章のファンファーレ的パッセージなども含め、トリオとしての一体感もハイレベルだ・・・特にアマオケは、オーボエ、ホルンでこける例をよく聴いているので、そのウィークポイントがクリアされていると、グッと信頼感も増すもの。)。
また、中間部の短調のパッセージにおける独奏(43小節目)が、やはり内面的な苦悩を訴えるような面持ちなのが、いわゆる桑田トーン(かつてN響ファンHPで、よく語られていたフレーズだ)、と感じられたがどうだろう。私のイメージとして、この部分、ヨーヨーマがかつてTVCMでやっていたり、また、デュプレを主人公とした映画でのワンシーンなどが強烈な体験として、映像とともに頭にこびり付き、情熱的で、聴く者を翻弄せんという「うねり」を感じさせるものとして意識されていた。その部分が意外にも、上部へとエネルギーを発散せず、ジワジワと下に向かうベクトルを感じたのが新たな指向に思えた。
この意外性という点では、例えば、第3楽章の中ほど、ロンド主題の最後の再現にあたるチェロ独奏部分(246小節目)もかなり強烈に感じられた。疲れ果てた男の寂しげな、ヨロヨロした足取り、そして、マーラーのユダヤ的な貧相さをも感じさせる歌い方は、やられた・・・という感じだった。ここまで、この部分を一人舞台にしてしまう演奏、他にはない・・・かな。
第3楽章と言えば、冒頭だけ存在するトライアングルも不思議な使い方だが、今回、かなり豊富な音程感(和音として聴いた時に、低めな音もしっかりと)が用意されていて、とかく、緩徐楽章からフィナーレに突入した際の、聴衆に対する目覚し時計くらいの軽率なイメージ(高音だけしか鳴らされないとホントに情けない薄っぺらい存在になってしまう)しか湧かなかった部分ながら、それ以上に雄弁な何かを語っているような存在であったことも特筆しておこう。具体的には、例えば、ドヴォルザークの先輩たるスメタナが、「モルダウ」のトライアングルの楽譜に「鐘のように」と記したイメージの延長として、多数の鐘が同時に鳴り響く光景、といったものも、やや大袈裟に表現すれば感じ取れるだろうし、また、(唐突ながら)ショスタコーヴィチの交響曲第11番のフィナーレのタイトルでもある、「警鐘」といったイメージ、を私としては提示しておこうか。確かに、悲痛な叫びを思わせ、また日本人が口に出して歌えば、もろ演歌のような通俗的なロンド主題だが、何度か繰り返されるうち主題は解体され、後半では、動機として部分的にしか活用されていない。その主題解体の過程で、トライアングルも姿を消しており、曲が終わりに向かうにつれ消滅してゆく何かを象徴しているのかもしれず、その「何か」はわからないが、今回のトライアングルには、私に大きな問題提起を改めてしてくれたようだ。
さて、この作品の最も重大な、「心」、それこそ、第3楽章後半にあると思われるが、その最も象徴的たる部分、それが、ソロ・ヴァイオリンとチェロとのデュオ、だろう。ト長調で出た主題がふっと勢いを得て、3度上のロ長調で歌われ出す部分の麗しさ、とうとうと流れ出す憧憬に充ちた前向きな希望を体現するその主題こそ、最も感銘を受けた部分である。ソロ・ヴァイオリンの美しさは、気高く、そして聴くものを幸福感あふれる土地へと誘うような魅力にあふれ、まさしくドヴォルザークの郷愁が、現実的な帰郷の喜びへと転換してゆくさまを思わせてもくれた。この幸福感が、作曲者、演奏者、そして鑑賞者共有されているだろう、この瞬間の、ああ、いとおしさ。感動の頂点がここにあった。
そして、あとは、ほっと一息、緊張感を緩めた数々の主題の断片が歌われ、その最後を飾る独奏チェロが、ロ長調のDis音を重ねて強調しつつ、最後に半音下げてD音に万感の思いを込めて歌い終わるや、華やかなコーダがこの重厚な協奏曲を結ぶ。この492小節目のD音のいやらしいまでの丁寧な歌い方も、忘れぬ印象を与えた・・・確かにこの1音にドヴォルザークの万感の思いが宿っていそうだよなあ。
桑田氏のしみじみ訴えるようなソロと、独奏Vnやフルート、クラ、ホルン等を始めとするオケの好サポート、「郷愁」を思う存分味わった感動の演奏とあいなった。あらためて、名曲たる所以、認識させてくれた素晴らしい体験となった・・・・。
是非、今後も、シューマン、エルガー、ブロッホ(ヘブライ狂詩曲「シェロモ」の渋さを桑田トーンで・・・)などなど聴けたらな、と思う。
さて、メイン・プログラムは、チャイコフスキーの「悲愴」。
感極まった。激しい感情の発露に翻弄され続けた。チャイコフスキーの一生の重みをいやがおうにも体感させ得るような、充実した時間が、演奏者のみなさんと共有できたことに感動を感じる。
まず、なんといっても第4楽章の素晴らしさ。弦楽器の歌心に心打たれる。特に第2主題、単純に、ドードシラソー(移動ドによる表記)、と音階を降りてくるだけの旋律だか、ここになんと表情豊かな歌が宿っていたか。アウフタクトはたっぷりと、そして同様の動機が繰り返される際の自然な加速、感情の高ぶり、けっしてイン・テンポでは推移しない緻密なテンポ感、間の取り方がオケ全体に共通認識としてある。そして、その歌い方は、わざとらしさが全くなく自然である。指揮者の感性、もまた素晴らしい、と思う(終身正指揮者の三石精一氏)。チャイコフスキーは、いろいろと、いじれてしまうので、時に、テンポを変えすぎて違和感を感じるほどにやり過ぎてしまう演奏も多々見て来た。また逆に力量不足で、まったく微妙なテンポ変動まで設定できないでつまらなく何げに流れてゆく演奏も・・・・・。
今回の演奏は、いろいろいじっているものの(基本的に楽譜に沿ってのいじり方だと思うが)、それでいて自然なのだ。第4楽章の各部分の様々な感情、これがピタリと自分の感情として一体化して鑑賞が進んでゆく。また、最後の第2主題の短調による再現の、Sul GのVn.のむせび泣くような壮絶な歌いっぷりには感激した。この最後の部分には、確かに「生」の重み、私には感じられた。第3楽章で盛大な拍手が贈られた後の、第4楽章終了後の緊張した沈黙の長さ、・・・その第4楽章最後の、会場を包む息も飲めないほどの張り詰めた雰囲気からも、各々の聞き手に重くのしかかった何か、が想像できよう。
さらに、歌、に注目するなら、第1楽章序奏の寂寥感あふれるファゴットからして心に食い込んだ。そして、その背景にあるコントラバス、そしてヴィオラの和音。聞こえるか聞こえないか、という弱奏から始まってcresc.というニュアンスの徹底が、ファゴットの旋律を見事に生かしていた。最初のコントラバスのニュアンスからして、曲に対する集中力を高め、「沈黙こそ雄弁」なるシベリウスの言葉もふと、思い起こす。最初の1音の重要性、再認識した。また、全般的にヴィオラの充実も、曲に奥行きを与えていただろう。「悲愴」は何度も聴いているが、ここまで徹底した弱奏は未体験だった。地の底から這いあがってくる主人公、といった趣に冒頭から惹きこまれた。・・・とにかく、各曲とも、曲の開始、さらに最後に、説得力高いものを感じたところに今回の私の感激の原因の主たるものがありそうだ。アマチュアとしても、こういう配慮はとても大事なのでは、と思う。
「歌」続きで、第1楽章第2主題の、心休まる歌も良し。フレーズの最後の音の微妙な音の切り方などにも繊細な心づかいを感じ取る。
続く、第2楽章中間部。この旋律の、1小節ごとの山の作り方が丁寧。そしてフレーズ最後の小節の6度上昇の歌い方の情感のこもり方が良い。この部分の強調はなんとも切ない雰囲気を醸し出していた。率直に、いいな、と感じたパーツであったが、後日楽譜をみると、ちゃんとsfと書いてあった・・・。
また、この部分への意識が契機となった、今回の発見のひとつなのだが、結論としてのフィナーレのロ短調を導く重要な経過点として、第2楽章中間部を認識できた、という点。つまり、ベートーヴェンの「運命」を例にすれば、結論たるフィナーレのハ長調の凱歌を導くべくベートーベンは、第2楽章の第2主題にハ長調のファンファーレ、そして第3楽章のトリオにハ長調の躍動的なフーガを置いた。それと同様に、チャイコフスキーも中間楽章(第2楽章)にフィナーレを予告させる部分をしっかり用意していたわけだ。ニ長調の不安定な5拍子ワルツ以上に存在感を増した、トリオのロ短調、まさにフィナーレの主題を予告するような旋律造型(下降順次進行)でもあるのだが、この第2楽章の哀しい歌をしっかりと丁寧に歌い込んだが故にフィナーレの必然性も高まり、曲に対する説得力を多いに増していたのは確実だ。こういう全体を見通した構築力こそ交響曲演奏に不可欠な要素。
その他、書き連ねればきりがない・・・第1楽章展開部の強烈な表現。ティンパニの突然の強打も効果的に決まった(前半がやや、打点の甘さを感じていたが、その点は「悲愴」においては問題無かった)。終始(フィナーレまで息たえることなく)パワーが衰えない金管もさることながら、やはり弦楽器の激しさに舌を巻く。鋭利な刃物のようなリズム強打。その果てに待つ、悲痛な息の長い旋律においても、充実したオーケストラの分厚い響きがネットリと。金管ティンパニの圧倒的な音量の中にあっても、弦楽器はアクセントのついた長い音符一つ一つが必死な形相でしがみついているかのように確実に私のところにまで届いてくる。必死さ、聴く側を巻き込む迫力、音量以外の音圧、そして気迫、それらが入り混じった第1楽章のクライマックスの壮絶さは忘れ得ぬ。地獄の血の海にでも放り投げられたかのような戦慄・・・このドロドロがあってこそ、第2主題再現の救済が生きてくる。
同様に第3楽章の一糸乱れぬ行進も強烈な印象を残した。大太鼓、シンバルの効果的な一発一発にエネルギーを貰いながら、奈落の底まで突進してゆくような恐ろしい力に満ちた行進の凄まじさ(大太鼓の、深くずっしりと鳴る様はおおいに満足いくもの。長いトレモロも殺気だった低弦の刻みとの相乗効果もあいまって、ゾクゾクしました。)。そんな中でも、細かな3連符の連続が、一本の線となって、複数のパートが織り成してゆく様など冷静に丁寧に作られているし、また、ヴィオラのピチカートとトロンボーンによる4度下降の旋律のバランスがヴィオラにウェイトを重く、打撃的な効果が聴きとれて(一種マリンバのような音色と感じた)新鮮な色を見出したり、とにかく飽きない。
やや取りとめなく書いてしまったが、つい先日TVで聴いた、岩城宏之氏追悼の番組で紹介されたN響の演奏も、自然な流れの中に様々なドラマを詰め込んだ名演であったが、それに劣ることもない、遜色ない印象をもったこの東大オケの演奏、聴いて良かった、来て良かった、と思う幸福な体験であった。素晴らしい演奏に感謝します。
PS・・・パンフレットの解説中の、第1楽章展開部における「パヒニダ」の賛美歌引用についての論考は興味深く読みました。当「曲解」HPとしても見過ごせない指摘ですね。
アンコール。まずは、ドイツ民謡「歌声ひびく野に山に」・・・この選曲は恒例行事とのことのようだが、みんなで歌おう、という趣向。詳細は是非とも会場でご確認いただきたい。寸劇も良かった???お笑いに厳しい関西でも十分通用しましたか。私も結構むきになって歌ってしまいました・・・。輪唱って楽しい。
最後は、チャイコフスキーの、アンダンテ・カンタービレ。心憎く、しっとりとコンサートを結んでいただきました。
今回、仕事の都合で名古屋公演は見送っていたので、妻の積極的な勧誘もあって、大阪は八尾市、プリズムホールまで遠征。演奏会後は、宿泊先の難波にて、今夜の名演に祝杯をあげた。名曲の真価を真正面から正々堂々問いかける名演、こんなに楽しい体験はそうそう多くはないのだから。・・・なんばパークス、「AL AVIS」にてのささやかな祝宴も楽しかった。
翌日も、同所、「麺だらけ」にて、刀削麺など食して帰路へ。川崎モア―ズの刀削麺の方が香草の風味が利いていてクセがあり、こちらは随分食べやすいものだった。辛さも強過ぎず。
名鉄・近鉄・南海のフリーきっぷもこの夏限りということで、思う存分関西を楽しんだ盛夏の一日、でありました。
(2006.8.6 Ms)
参考までに、過去の、桑田氏の演奏体験などまとめてみましたが、ここまで来たら、専用ページまで手をつけようか・・・さて。
(仮)桑田歩氏と室内楽の森を歩む ’06 3月ブルーメン・フィルハーモニー特別演奏会 〜桑田歩、チェロ独奏・指揮〜 ’06 2月第47回なかよしコンサート アンサンブル・ノーヴァ岡山 (赤磐市にて) ’04 12月桑田 歩 チェロ・リサイタル 〜第9回KEKコンサート〜 ’04 10月日本室内楽アカデミー 第13回定期コンサート ’04 8月柏木ミュージアム コンサート ’04 4月ストリング・アンサンブル・ヴェガ 演奏会 |
July ’06
7/15(土) 朝の光のクラシック 第16回 清永あや ヴァイオリン・リサイタル
大阪は中之島。市役所の裏手にある、西洋風の重厚な建物、中央公会堂。そちらの中集会室での演奏会。内部は、やはり西洋の宮殿の大広間を思わせる豪奢な作り。広さは、学校の体育館ほどのスペースで、イスを並べて、それこそ体育館での演奏会みたいなアットホーム雰囲気でもあった。
清永さんは、昨年の第74回日本音楽コンクールで2位入賞を果たした新鋭である。その時の、高校生ながら堂に入った、雄渾なるシベリウスの協奏曲をTVで聴いて、これは!と思い、いつか機会があれば・・・と思っていたところ、今年2月の関西フィルとのプロコフィエフの協奏曲第2番は聴き損ねたが、今回、1000円という超破格プライスでの演奏会を知り、朝6時前に電車に乗り込み、名鉄・近鉄のフリーきっぷを駆使して10時前に現地入り、整理券95番をゲットして、広間の仮設ステージから上手より斜め4列目の席を陣取る。
音楽専用ホールでもなく、いわば鹿鳴館のダンスフロアみたいなイメージな場所で、音響的に遠い方が不利だろうし、また視覚的にも平間なのでせっかく遠路やってきたのだからと、気合いを入れて席も確保。果たして、その甲斐はあった。
プログラムは、イザイの無伴奏2番、くらいしか判っていなかったが、来て見て驚きの選曲。
シューベルトのロンド・イ長調。イザイの無伴奏ソナタ第2番。休憩をはさみ、武満徹の悲歌。クライスラーの小品2曲。才たけた貴婦人、プロヴァンスのオーバード。サラサーテのカルメン幻想曲。
とにかくヴァイオリン名手の作品を中核にして、コンサート専用ホールではない、比較的くつろいだ、堅苦し過ぎない雰囲気ながらも、安易に流れない、骨太なプログラミングに満足。そして、特に、イザイとサラサーテにおいて、技巧的なパッセージの華麗さ、そして、低音の迫力から高音の張り詰めた響きまで、ヴァイオリンの可能性を充分に引き出した演奏におおいに惹かれる。
シューベルトは19才の作品。まさに作曲者と演奏家が同級生である。彼女自身の書いたプログラム・ノートにもある、「子供のようなあどけなさや美しいメロディー」は存分に聴き取れた。気楽に聞けるほのぼのした作風。ただ、あいかわらず、冗長な長々した雰囲気はあった。もう少し構成的な詰めが作品自体に欲しい・・・と思ってしまうのがシューベルト器楽曲・・・。いいところもあるんだが。
さて、今回の白眉。イザイである。
室内楽を意識して聴くようになって数年。バッハの無伴奏に惹かれて3年ほど。その延長上にイザイの無伴奏も存在しようが、やはり私のような新参者にとって、イザイは、バッハほどにはなかなか親しめずにいたところ。しかし、2年前のレーピンのシベリウスの協奏曲でのアンコールでの第3番「バラード」に衝撃を受け、また、昨年の飯田(長野県)でのアフィニス夏の音楽祭でのマスターコース、N響の大鹿さんの演奏する第4番(講師の四方氏も凄かったが)、とイザイの作品を私に橋渡ししてくれる名演が続き、さらに今回、第2番を私の宝物にしてくれた演奏に出会えて嬉しい。全編に、グレゴリオ聖歌の「怒りの日」が組みこまれていて、不気味さを持ち、また、重音なども盛んに活用されたスケールの大きな作品だ。緊張感みなぎり、研ぎ澄まされた刃物のような鋭利な感覚が刺激的な逸品。
やはり、作品との出会い、は大切にしたい。自分に何かを気付かせてくれる演奏、こそ尊いもの。私の心に、イザイと言えば、レーピンそして、大鹿さん、清永さん・・・と曲と奏者が一体となって刻まれてゆく。
後半にいきまして、武満作品は残念ながら私には馴染めなかった。クライスラーは、ようやく、演奏会の中盤にみなぎっていた緊張感を程よく解く、軽めなタッチが好感を持つ。一種の間奏曲的な時間。これがあったのはありがたかった。プログラム・ノートでも「朝の光のクラシック」なる「今回のコンサートをイメージして選んだ」のがオーバード(朝の歌)とのこと、センスの良さも、朝の光と同様光ります。
最後は、お馴染み、サラサーテのカルメン幻想曲。濃厚な表現のハバネラ・・・低音のドスの聞いた歌いっぷりは貫禄あり。最後のジプシーの踊りも、加速に継ぐ加速も乗りに乗って、俊敏な弓の動きから目は離せません。若さ充溢した演奏には大変好感を持ちました。
アンコールは、同じくスペインもので、グラナドスの「アンダルーサ」・・・でしたか・・・。
外は35℃近くの真夏の様相。そのうだるような暑さのなか、カルメンにグラナドス、頭よりは体が反応するようなラテン的音楽が妙にあっているような気がした。地中海の熱波は、クーラーの効いた涼しいところより、今日のようなシチュエーションの方で聞いたほうが体も共感するのか。実は、やはりちゃんとしたコンサートホールでないだけあってか、冷房も効き過ぎることはなかったわけで(個人的にはこれくらいで充分だが。世の中、公共の場の冷房は効き過ぎだと思っている)、やや蒸した雰囲気でのスペイン情緒が何かしら心に響くのだった。
・・・でも、そう言えば、この暑さでホールの中の扇子でパタパタしていた人もいたが、演奏はじまるやスッとそれも止んで演奏に集中する姿勢にも私は感動した。良い聴衆あっての良いコンサート。幸福な一時を感謝します。
演奏の確かさと、選曲のセンスも良かった。清永さんの今後もおおいに期待しています。
(2006.7.18 Ms)