今月のトピックス

 

 June ’05 

6/22(水) 第37回愛知むさしの会 新人演奏会

 6月初め、東京音楽大学の「レインボウ21」の演奏会に感銘受け、若手の気合い充分な演奏に魅力を感じたこともあり、名古屋での仕事のついででこのような演奏会にも初めて足を運ぶ。電気文化会館にて。

 武蔵野音大の同窓会主催のコンサート。一概な総括をしづらいけれど、練習の成果を真摯に我々に問う、という情熱は充分感じられる。選曲にそれもあらわれている。意欲的な作品が並んでいるのに惹かれて、私としては聴きに行ったということでもある。
 私の興味は、プーランクのフルート・ソナタ、ヒナステラピアノ・ソナタバーバーの「遠足」Op.20(ピアノ曲)、ストラヴィンスキーのイタリア組曲(Vn)、ブラームスピアノ・ソナタ第3番などなど。

 プーランクは、この4月に、クラリネット、ヴァイオリンそれぞれのソナタを聴いていい感触を得たばかり。フルートも、憂いを秘めつつもオシャレなムードが漂い、いかにもプーランクという逸品。

 リズムでガンガン押しまくるヒナステラは好感大。ただし緩徐楽章は、宗教的いや呪術的なムードが印象的。高音の和音をカーンと鳴らしペダルの効果もあって、普段聴き慣れないような音の余韻をしみじみと意識付けた。ピアノは長谷川藍子さん。

 バーバーの聴き慣れない作品は、いかにもアメリカ的フィーリング。ポップな感覚が、こういう堅苦しいクラシカルなコンサートにはやや違和感すら感じさせる。が、こういう作品こそもっと演奏されるべき、と思う。今の、ちまたの音楽との近似性を思わせる音楽をもっと取り上げることで、クラシックをより身近に感じることにもなろう。第1曲など、一昔前のTVゲームの音楽のようにも思えた。左手が同じ音型を繰り返す上にやや即興的に軽めなメロディ断片が続く。最終曲はジャズのアドリブと、ストラヴィンスキーの「ペトルーシカ」の雰囲気が混ざった感じ。最後もお洒落な終止、気の効いた作品だ。作品の魅力を充分伝える演奏が嬉しい。ピアノは中垣友希さん。

 ブラームスは重厚ながら、情熱ほとばしる作品。若さ一杯のブラームス像。一種、リストを思わせるような不安な和音の運びが衝撃的ですらある。半音階的に進行するのが私にはリスト的に思える。また終楽章のリズムは、シューマン風かな。でも、硬派なリズム、重い和音は充分に後のブラームスを思わせる。
 やはり、交響曲を書いた以降のブラームスとは違うテンションの高さがこの作品にも刻印されている・・・初期室内楽に傾倒し始めたこともあるが、ブラームスの原点、このソナタでも垣間見られたようだ。今回は残念ながら両端楽章のみだったがぜひ全曲聴く機会を持ちたい。集中力ある安定した演奏が、このコンサートの最後を引き締めた、といった感じ。ピアノは都築玲子さん。

 その他、ショパンのバラード第4番へ短調、結構有名な作品ながらちゃんと全曲聴いたのは始めてか・・・いい曲ですね。こういう作品とあらためて向き会えるのもこういったコンサートの利点ではある。
 今後も、こういう演奏会は注目したいもの。ただし、選曲にある種、凝りやひねりがないと私的には物足りないので、次はまたいつの機会となりますやら。

(2005.7.12 Ms)

6/5(日) アマデウス・ソサイエティ管弦楽団 第25回演奏会

 3日連続の演奏会鑑賞。最後を飾ったのは、アマチュア・オーケストラ。リストの交響詩「タッソー」ブラームスの二重協奏曲と交響曲第3番

 見所は、二重協奏曲。ヴァイオリン・ソロ、瀬崎明日香氏。チェロ・ソロ、藤村俊介氏。藤村氏はN響の次席奏者としても有名。
 ブラームス最後の管弦楽作品ということで、また、第2、3楽章のなんとも勢いのない枯れた姿が印象的で、どうも華やかならぬ協奏曲という先入観はあったが、見事それを払拭するような演奏で面白い。何と言っても、Vn、瀬崎氏の鋭く、華の音色、雰囲気に負うところは大きい。昨日の江口有香氏の存在感の記憶が鮮明なところにさらに同様な強烈なキャラクターと出会い、攻撃的なVn,に麻痺状態になってしまう。それに比較して、藤村氏は、攻撃性よりは落ち付いた感じ、重心の低い堅実な演奏を披露し、その対比も面白い。オケの伴奏も第1楽章の第2主題や、第3楽章の中間部なども弦を中心に豊かな響きを感じさせ、決して枯れた老いの境地だけではない、という感覚に充溢したもので、私の偏見を解いていただくのに一役かったもの。
 その他、交響曲第3番については、パッションを感じさせる演奏で好感を持つ反面、指揮者、曽我大介氏との齟齬がやや目立つのが気になった。かなりサクサクっと、重くならぬようにスピーディに処理して行く音楽の方向性を感じつつも、要所でそのタクトについて行けない点もあったか。
 リストについては、どうも曲自体が冗長で、主題自体も魅力が乏しい上に、同様な変奏が続く場面が多く、やはり「レ・プレリュード」ほどの説得力を持ち得ない、という感想は持たざるを得ないものの、演奏自体の安定感はかなりの出来を示していた。なかでも、中低弦の雰囲気は良かったのではないか。また、シンバルが音楽的であったことも特筆したい。パンフレットの解説にヴォルフの批判「ブラームスの3番より、リストのシンバル一発のほうがより音楽的」というコメントが紹介されていたが、ブラームスとの比較はともかく、その場に必要とされた打楽器の音色と音量、タイミングといい、かなり音楽的なシンバルを聴かせていただいたことに感謝・・・なかなかこういう奏者には巡りあえない。
 今後も期待をしたいオケとして注目したい。

(2005.9.19 Ms)

6/4(土) 中山良夫プロデュース 室内楽工房 その10「フランス音楽あれこれ」

 前日に引き続きの、東京での音楽鑑賞。都響ヴィオラ奏者の中山氏の企画による室内楽コンサート。代々木上原の、客席100程度の室内楽ホール、ムジカーザにて。

 「ショーソン生誕150年に寄せて」と副題された今回の企画、ショーソンの「コンセール」をメインプログラムに、前半は、ラベルの「ヴァイオリンとチェロのためのソナタ」ドビュッシーの「弦楽四重奏曲」を配した、フランスの香り漂う、良いプログラムだ。
 ショーソン作品は、詳しくはタイトルが「ヴァイオリンとピアノと弦楽四重奏のための協奏曲」という風変わり、ユニークな発想な編成である。弦楽四重奏は都響メンバー、ピアノもそのつながりで。ただ、ヴァイオリン・ソロは、今回出演の都響チェリスト、江口心一氏の姉、江口有香氏。ゲスト参加、といった具合で、姉弟デュオをフューチャーしたラベル作品が聴けることとなった。この姉弟デュオによるCDがかなりいい出来でお気に入りCDのため是非、CDにも入っているラベルが聴きたかった、ということも個人的にあった。

 さて、小さなホールで、ステージは客席と同じ高さ、親密なる空間である。最前列に陣取り、ショーソンにおいては下手すればチェロの弓があたりそうな位置での鑑賞・・・楽譜も見えてしまう。こんな近くで聞かれちゃさぞやりにくいものだろう。しかし、聴く側はとてもスリリング。豊穣な響きに囲まれて、自分の体と音楽が一体になったかのような至福の時を過ごす。
 今回のメンバーでは年配の中山氏の小気味良いトークも好感をもつ。こういった奏者との近さ、が嬉しい。

 まず、ラベル。これは、フランス的というよりは、新古典的、そして鋭い和音とリズム。ラベルの普段のイメージからはやや遠い作風。しかし、弦楽器2人でこれだけの多様な世界が描けるのはラベルの手腕の冴えだ。やたら音符の多い初期の「ダフニス」あたりとは正反対の、やがて「ボレロ」のシンプルさへ移行して行くであろう彼の作品の転換点にあたる作品だけのことはある(ラベル自身が、作風の転換点として位置付けている)。
 さて、終始、ヴァイオリンの鋭く攻撃的でさえある演奏が緊張感を高めていた。張りのある存在感に満ちた演奏家だ。スケルツオ的な第2楽章のスリリングさに圧倒されっぱなし。
 ドビュッシーのカルテット。さすがお互いを熟知した仲間同士の演奏というまとまりを感じる。我が家のCD、アルバンベルク四重奏団の激しさを感じさせる武骨なムードとは違って、冒頭からして、柔らかさ、深さを感じさせ、あの時の思いがけない驚きと納得は忘れられず今も感覚が残っている。
 ショーソンは、幸福感一杯(もちろん暗い楽想もありますが)。フォーレが提起した、今、フランス的と感じられている和音の趣味が、さらにドビュッシーによって展開されてゆく、その中間に位置するような重要作だ。ただ熱血なフランキストらしく、フランクらしい雰囲気がポロっと要所ででてしまうのも愛敬か。
 楽章ごとに明確にキャラクターが分かれているのも聴きやすい。第1楽章の和風な5音音階のテーマは随分と人懐っこい。第2楽章のシチリアーナの切なさはフォーレ風であり、また、フランスらしい趣味のよさが心地よい。第3楽章の深刻さは、フランク的であると同時に、その背後にあるワーグナーの無限旋律あたりも思わせる、重い内容を持っている。第4楽章は、基本的に6/8拍子かと思うが、3/4や、4/8といった拍子感も混ざり、ロシアのボロディン、ムソルグスキー的変拍子を感じさせ、ストラヴィンスキーを生む下地という感覚もないわけではない。
 全体的に、ピアノがもう少し華麗な雰囲気を持っていれば、という感想を持ったが、弦楽四重奏は比較的地味な役割で(和音の充填とか、みんなでユニゾンとか)、独奏ヴァイオリンの存在感があまりに強烈だった、という裏返しかもしれない。

 アンコールは、有名なフォーレの「シチリアーナ」。ショーソンの編成にあわせて今回編曲されたバージョンで。

 昨年、フォーレのピアノ四重奏曲第1番に感激して、その延長上として、今回さらに、ショーソンとの幸福な出会いにも恵まれた。中山氏と、この出会いを素晴らしく演出していただいたホール、ムジカーザさんに感謝の念を表したい。

(2005.9.12 Ms)

6/3(金) レインボウ21「近代ハンガリー<五人組>の饗宴」

 サントリーホールの小ホールで行われた、東京音楽大学プロデュースによる、「サントリーホール デビューコンサート2005」の一環。
 音大の選抜メンバーによる企画コンサート。ロシアならぬハンガリーの五人組とは聴き慣れないが、有名なバルトーク、そしてコダーイのみならず、その周辺の作曲家も含めた五人の作品を、音大ならではの企画で、さまざまな編成で聴く。

 まず、ドホナーニ(1877−1960)の「ハンガリー牧歌」 Op.32c(1924)。五人の中では一番生れが早く、プログラムノートによれば、ブラームスの影響を受けた作曲家らしいが、今回の、ヴァイオリンとピアノのための作品は、ブラームス的には感じられず。もろに、民俗的だ。まあ、ハンガリー舞曲の雰囲気をもっと粗野に素朴に、そして武骨に表現したようなもの。3楽章からなるが、冒頭の五音音階の主題は、私YMO世代としては、坂本龍一の「千のナイフ」を思わせる。全体に、動き回るパッセージと重音を駆使した、技巧誇示作品。ノートによれば、「軽業師のユーモア」。ハイフェッツ、クライスラーといったヴィルトゥオーゾのレパートリーだったというのもうなづける。
 Vn.ソロの黒木健太さん。たくましく、また、華麗にこの作品を魅了してくれた。客席もノリに乗った感じ。聴き慣れない作品が続くコンサートながらも、期待を高めさせるいい雰囲気を作り出したのが好感。

 続く、ライタ(1892−1963)の「マリオネット」 Op.26(1937)より「メヌエット」。五人の中で今度は一番若い。フルート・ハープそして弦楽三重奏によるもの。文字どおり「操り人形」の踊り。ハンガリーらしさよりは、楽器法のイメージも強く、フランス印象派風。1曲だけというのはやや物足りず。もう少し抜粋していただければ。

 前半最後は、コダーイ(1882−1957)の無伴奏女声合唱曲を3曲。「夕べの歌」「ジプシーはチーズを食べる」「聖イシュトバーン王への讃歌」
 コダーイが民俗音楽の権威で、合唱による音楽教育の権威でもあり、合唱曲が重要であるという知識はあるが、実際に聴く機会はほとんどなかった。貴重な体験となった。
 ハンガリーの言葉のリズムが、シンコペーション的な特徴をもっていて、それが音楽にもあらわれている、というのはこういう作品を聴く事で理解されよう。また、2曲目は、「ジプシーがチーズを食べる」という歌詞を何度も早口言葉のように繰り返すのがこっけいな効果である。

 後半に入って、まずは、ヴェイネル(1885−1960)の組曲(ハンガリー民俗舞曲)Op.18(1931)。どちらかと言えば教育者であった彼の作品、やはり、オリジナリティの面ではいま一歩・・・バルトークをややわかりやすくした、といった感じ。他者の収集した民謡を素材に作品を構築したようだ。本来はオケ作品だが、本人の編曲によるピアノ連弾版で。
 ピアノ連弾ながら、もとがオケ作品ということもあってか、和音打撃の激しさ、民俗楽団的なスリリングさも伴って、非常に迫力に満ちた演奏で、その点は評価したい。海瀬京子さん、佐藤圭奈さんによる演奏。

 最後は弦楽オケで重厚に閉めます。トリはやはり、バルトーク(1881−1945)。「弦楽のためのディベルティメント」(1939)。
 先入観として、この作品は、非常に密度の濃い弦楽四重奏に比較して評価も低く、かといって最晩年の「管弦楽のための協奏曲」やピアノ協奏曲第3番ほどの親しみやすさも感じず、自分の中ではかえりみられないもの、であった。しかし、今回改めて生で聴いてみて、違う印象を受けた。
 わかりやすさ、という点では、冒頭からして、単純なリズム打ちの上にいかにも民俗的な旋律が登場、その旋律線がいろいろ変化して行く様が比較的わかりやすく追って行ける。最晩年のポピュラリティへの前兆はありそうだ。しかしながら、そればかりではない。第2楽章の中間の緊張感の集積、これは鬼気迫るもの。高音トリルをバックに、なんとも日本的ですらある(時代劇のワンシーンのような感覚)、フレーズの最後に半音上昇を伴う特徴的な旋律を繰り返す部分は、聴き応え充分。けして、軽くあしらい無視するような作品ではあるまい。
 弦の各パートはソロが重要視され、バロックの合奏協奏曲的な趣向だが、その緻密なアンサンブルの堪能という点でも満足度が高いもの。

 さすが、音大の名を引っさげてのコンサートだけはあります。多彩な室内楽、そして弦楽オケ、これで2000円は安いもの。今後もこういった企画には足を運びたい、と痛切に思う。
 やはり大人数のオケが、プロであれ、アマであれ、練習不足で意気投合できない演奏を時間切れで仕方なく舞台に乗せる無様よりは、気合い十分、自分の将来を賭けて真剣勝負をいどむ学生諸君のひたむきさ・・・、すがすがしくも感銘大である。最近とみに、意思統一の見えない演奏が我慢ならない体質になっているようである。
 本日の「サントリーホール デビューコンサート」、という場での初心を忘れず、彼らの今後のご活躍を期待します。

 なお、この場を借りて、企画者である、石川亮太さんにも感謝の意を捧げましょう。クラシック音楽への、一般的にみられるハードルの高さ、を解消する試みの一環として、20世紀ハンガリーの、芸術性と通俗性をあわせ持つ作品の紹介を今回のテーマとしたとのこと。ちょうど、4月のプーランクやミヨー、ハチャトリアンの室内楽コンサート(トリオ・ルミエールさんによる)もそうでしたが、今、身近に聞えて来る音楽(TVやCM、ポップスなど、意識せずに耳にどんどん流れてくる、今、の音楽、です。)との共通性を、いわゆるクラシック(ハイドン以降の古典派音楽)よりは、随分感じることができます。
 こういった、今、を視野に入れた演奏会、こそが、クラシック離れを加速させない手段の一つ、と私も考えています。
 いつまでも、かつらをかぶった上流階級の音楽、という捉え方はねえ・・・特に、音楽を供給する側の怠慢でそのイメージがこびりついているなら猛省すべきでしょうね。

 さて、最後に、私事ながら、4月なかばの実父の突然の死後、1ヶ月以上は音楽とは無縁に過ごし、その後初めての演奏会鑑賞となり、とても感無量でした。特に、バルトークが忘れ得ぬ思い出となりましょう。
 演歌専門で、クラシック音楽など全く感心のない父は、私の少年時代、ピアノの練習に対しては、TVのプロレス観戦の邪魔になるらしく「うるさいから静かにしろ」が口癖でしたが、唯一、私が、バルトークの「ミクロコスモス」の「ブルガリアのリズムによる舞曲」の第2を弾いた時だけは「それは何だ?なんだか面白いな」と声かけてくれたのが印象的で、何かしら、バルトークの持つ、日本人への共感、が自分のなかで気になり続けていました。父を送るにあたり、バルトークを聴きつつ、そんな思い出など想起し、感慨深さもひとしお、とあいなりました。

(2005.7.3 Ms)

 May ’05 

 喪中につきお休みします。

 April ’05 

4/9(土) ブルーメン・フィルハーモニー 第25回定期演奏会         

 驚異の演奏と言って良かろう。エルガーの「序奏とアレグロ」。弦楽オケと弦楽四重奏を絡めた精緻なそして、スケールの大きな逸品。弦楽のレベルは、以前(2001年11月)聴かせて頂いた、R.シュトラウス「変容」で愕然とするほどの感動(プロの演奏よりも完璧、さらに情感豊か、気迫十分)をいただいたが、さらに、今回は、室内楽的な緻密さに増して、弦の響きの豊かさ、重厚さ、荘厳さ、に満ち満ちあふれ、さらに変幻自在な楽想の変化を隙なくピシリと構成、さらにさらに、フル・オーケストラ以上に楽器が鳴りまくって、体を振るわせるほどの音圧の体感も混ざって、雑念何もかも忘れ去る、音楽だけと向きあえる至福の時間だった。冒頭の悲劇的な和音の、凝縮された密度、からして感動。この集中度は、ビジネス・ライクなプロオケでは再現し得ぬだろう。そこに賭ける気迫、全奏者が、ソリストたる使命感に満ち、演奏したいという欲求を全身で表現、視覚と聴覚が一体となって、魂の入った音楽とはこういうものなんだと感じさせてくれる。
 細かな感想を書こうにも、感動を言い表わす言葉につまる・・・。聴いていただくしかない。
 シベリウスの7番は、やや早めに押しきった感じ。また、エルガーの「エニグマ」は、弦がその他管や打楽器を終始押さえ(フィナーレにきてやっと、金管打にも華が与えられたか)、もう少し多彩なオケ・サウンドを堪能したかったきらいはあった。でも、それらは、聴く側の趣味の問題にすぎない。ともかく、プロでも、このレベルに達することはそう多くはない。
 特に、「エニグマ」の「ニムロッド」の感動、もう他では味わえまい・・・あの息の長いクレシェンド、クライマックスのスケールの大きさ。感極まった先の宗教的安寧、今、思い出すだけでも震えるほどの感激。(個人的には、私の父の突然の死の1週間前、この瞬間のこの演奏の存在は、私の心に大きく刻まれ消えることはないだろう・・・)
 また、まずもって、弦の作品を聴いてみたい。日本のオーケストラで異色の存在として皆様にも是非知って欲しい。そして、このスタンス、是非、保ちつづけていただくことを期待したい。
 なお、以前(私としては2回目に当たる演奏会)、指揮した山田和樹氏がこの団体を絶賛、是非、皆さんも「友の会」にご入会を、と宣伝していたのだが、今回のプログラムに、彼自身が会員になっているのが掲載されていた。
 曲目解説も、「エニグマ」の謎の解明なども詳細に紹介、その他にも作曲家の興味深いエピソードなどにも触れ満足度の高いもの。センスがよい。
 アンコールはやや意外に、王道をゆく選曲。「威風堂々」第1番。

 会場は紀尾井ホール。ちょうど、堀沿いの桜並木は、宴会の季節。綺麗な桜の印象とともに、この夜は一生忘れ得ぬものとなろう・・・。

(2005.7.1 Ms)

4/3(日) トリオ・ルミエール 〜20世紀の作品を集めて〜         

 ピアノ、ヴァイオリン、クラリネットによるトリオ。3曲の三重奏、そしてその間に、ヴァイオリン・ソナタ及びクラリネット・ソナタが挟まれる選曲。フランスとロシアの20世紀作品による、自分好みで、かつ、よく考えられたプログラム。
 具体的には、まず、ミヨーの組曲作品157b(1936)、ハチャトリアンの三重奏曲(1932)、最後にストラヴィンスキーの「兵士の物語(三重奏版)」(1919)。ソナタは両者ともプーランクのもの(クラは1962。Vn.は1943)。

 このトリオは、京都市立音楽高校の同窓生3人がそれぞれに大学を卒業して1996年に結成とのこと。本格的なコンサートとしては始めてになるのだろうか(ロビーコンサートなどを活動の中心としているようで)。それだけに、選曲さらに演奏ぶりからも、意気込みも強く感じられ、また、しっかりと意志疎通を図った緻密なアンサンブルで、共感するところ大であった。
 やや、ソナタに関しては、ソリストとしては甘さも感じなかったわけでもないが(もっと思いきりの良い表現が、曲想からしても、期待されよう。軽妙なイメージが先行してしまうプーランクにしては「死」を直視した2つのソナタ、初耳ながら、なかなかに手ごわい作品だ。また、Vn,に関しては、重音の音程がやや気にもなった。)、総じて、ピアノの安定したサポートも手伝って全体を締まりあるものとしていたように感じた。
 三重奏に関しては、曲想も多彩で、20世紀音楽の様々な側面、現代的な表現はもちろん、民俗音楽、通俗音楽、もろもろの音楽的要素が入り混じり、その楽しさがまずストレートに伝わり、技巧的にも安心してその作品の音楽を純粋に楽しめた。特に、ハチャトリアンは秀逸。作品自体も、なぜに無名なのか理解できないほどに魅力に富んだ、彼のエッセンスがコンパクトに詰まった佳作。時に激しく、時に情感たっぷりに、アジアの心を堪能させていただき感謝。この出会いは幸福なるもの。記憶に留まるもの。

もう少し続けます(2005.4.13 Ms)

 昨年あたりから意識して室内楽を生で聴き始め、意外にミヨーに触れる機会が多かった。ヴィオラ・ソナタ、そして4台ピアノのための「パリ」。今回もまたしかり。そんななか、なかなかCDで聴くこともないのだが、生で珍しい作品に触れるたび、それぞれに、気の効いた、楽しませてくれる作品たちに好感を抱く。今回の組曲も、正直なところ通俗的なほど。軽い。特に終曲など、普通にこの21世紀の日本のTVから、バラエティ番組だろうと、ドラマだろうと、流れ出る音楽とさほど変わらない。リラックスしたスウィング風のリズムパターンのピアノに乗って、クラとVn.がお気楽な旋律を奏でる。なんて、「今」と違和感ない世界だろう。ミヨーの分りやすい作風、適度な近代的感覚、消費される現代日本の音楽でも盛んに同傾向の作曲技法を持って模倣されている証左か。

 さて、2曲のプーランクのソナタ、それぞれに印象的な旋律を持ち、「死」という主題が、緊張感を保ち、音楽を深みあるものにしている。
 まず、クラリネット・ソナタ。友人オネゲルの思い出に捧げられたもの。作風としてオネゲルを思わせるものはなかった。しかし、第1楽章「悲しみのアレグロ」からして、「悲劇的作曲家」たるオネゲルらしい配慮か。スケールの大きな、息の長い主題が提示され、焦燥感、先行きの見えない不安感など感じさせ、オクターブのゆったりとした分散和音をモチーフに持つエレジー風な緩徐的部分が、第1楽章にもかかわらず挿入され、その雰囲気は第2楽章にそのまま反映してゆく。第3楽章フィナーレはうってかわって楽天的なムードを発散させるが、和音連打にのってクラが動き回るさまは、プロコフィエフの交響曲第5番のフィナーレにようでもある。

 一方のヴァイオリン・ソナタは、暗殺された詩人ガルシア・ロルカの思い出に捧げられたもの。鋭角的なリズムを持つ第1主題からして、テンションの高さを訴える。ドビュッシーの小組曲の「バレエ」の主題のリズムに似ているが醸し出す雰囲気は全く違う。メカニックな動きに勝り、これもプロコフィエフ的な印象も強い。全体に、上記のクラリネット・ソナタに比較し、悲劇性、劇的効果は高い。フィナーレのまるで、刃物を思わせる和音打撃など、背筋が凍るかも・・・。

 今回最も、演奏の素晴らしさにも支えられ、感銘深く鑑賞させていただいたのが、ハチャトリアン。とにかく、楽しい。1曲目の嘆き歌の即興的な絡みも、民俗音楽の臨場感を彷彿とさせるものだし、特に第3曲の素朴な旋律の変奏が、単純な旋律だけに心に残る。何せ、ドレミファ、の4つの音で出来たメロディ。正確には、最後に、ソとラが1回だけ出てくるが、そんな旋律が何度も雰囲気を変えて出てくる(相の手もまたコミカルな)。素朴さ、懐かしさ、さらに、この雰囲気はまた、先程のミヨーと同様、「今」的である。宮崎アニメの劇中音楽で使われて何らの違和感もない雰囲気。
 ハチャトリアン、バレエや交響曲の豪放磊落なオケ・サウンドのイメージが強いが、出発点としてこんな新鮮な魅力あふれる小品があったこと、忘れては可哀想。また、学生時代の彼のこの作品をプロコフィエフが認めて、パリで演奏したことも忘れないでおこう。
 さらに、また、西洋音楽の伝統の上に、ほぼ初めて根っからのアジアの血が注がれた作品としても注目しつつ、かつ、ほぼ同時期に、西洋から遠く離れた日本においても、アジアを標榜する作品群が生れたのも驚異的かもしれない。もちろん、伊福部昭氏のことではある。
 偶然、これを書く直前に、ヨーヨーマの「シルクロード・アンサンブル」のドキュメントを見たところ。アジアのアイデンティティのパイオニアとして、ハチャトリアン、もっと僕ら(日本人)も知っていてよかろうに。

 やや脱線だが、魅力満載なプログラミングと、その作品の魅力を的確に伝達してくれる演奏、そしてアンサンブル。いいものが聴けました。
 アンコールは、20世紀からは外れて、でも、フランスもので、グノーの女声の二重唱を編曲したもの。これも趣味の良い逸品。お洒落な転調がそそります。

 今回初めて、青山音楽記念館バロックザールを訪れた。やや町はずれの不便な立地でああるものの、素晴らしいホールと出会えて感激である。奏者との距離も短く、音楽を全身で受け止められる。満席、そして立ち見まで出るという盛況ぶりもまた良いもの。このホールで1年演奏された団体のなかで、青山音楽賞を選考するという試みもまた意義深いし、是非長く継続されることを期待したい。他の演奏会との比較はできないが、今回の演奏会も何らかの対象になるのなら、と個人的には思います。
 また、今回の室内楽の旅はその他もいろいろ収穫あり。CDも「なんば」「梅田」駅周辺にて、中古をいろいろ入手。ヴィラ・ロボスやヒンデミットの弦楽四重奏などなかなかいけます。特にヒンデミットは、初期ショスタコーヴィチへの影響が顕著なことが最近気になっているが、ヒンデミットの5番第1楽章は、初期のみならず、ショスタコの四重奏の10番の第2楽章へ自然に流れて行きそうなくらいな雰囲気だ。ますます注目したい、ヒンデミット、特に初期のとがった作品群。

(2005.6.6 Ms)


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