今月のトピックス

 

 December ’05 

12/24(土) NHK交響楽団 第1558回定期演奏会

 実は今年、N響の演奏を聴く機会を持てずにいたが、最後の最後でその機会が訪れた。ただし、曲目は、ハイドン、それもオラトリオ「天地創造」。なかなか今まで親しんできていないジャンル、宗教音楽、さらに1曲プログラム。しかし、広上淳一氏の指揮ということでの期待値も高く会場にに足を運ぶ。3階の自由席1500円での鑑賞ながら、迫力不足といった傾向も感じられず、遜色なく、演奏を楽しめた。意外にこれは今後使えるのではないか・・・。

 ハイドン最晩年の作。交響曲を全て書きあげ、ロンドンからウィーンに引きあげてきてから精力的に取り組んだのが、宗教音楽。混成合唱に独唱3人。オケの編成も、トロンボーン3本、コントラファゴット、さらに部分的にフルートが3本と、ベートーヴェンの第九を先取りしたような巨大なもの。
 そして、この作品での聴きどころは、管弦楽法の冴えであろう。聴衆に受ける、インパクトある手法を交響曲で培ってきた彼にとって、「天地創造」というテーマで、標題音楽的な方向で、持てる力を出し切った感がある。

 冒頭の、混沌の描写。調性の不確かさ、そしてやや無秩序に明滅する各楽器のパッセージ。そして、合唱がささやくような暗黒の描写ののち、突如出現するハ長調の主和音の爆発・・・それこそ「すると、光あった!!!」。
 その後、7日間の「天地創造」の経過での、水、あらし、稲妻、雨、雪・・・さらには動物たちの誕生・・・まるで「田園」交響曲の元ネタは既にここにあると言わんばかり。面白いのは猛獣が現われるところで、バス・トロンボーンとコントラ・ファゴットが最低音のBの音を強奏する瞬間。これは驚きます(広上氏も、かなり強調させていたようだ)。このおよそ楽音と言えない衝撃、ベルリオーズの幻想交響曲第4楽章の「断頭台への行進」で出てくるトロンボーンの低音の吹奏を先駆けるものとして注目。
 また、宇宙の創造における、神秘的な表現、ニ長調の音階をヴァイオリンが1小節づつ長い音符で上っていくなかに、対位法的な美しい絡みがまとってきて、メンデルスゾーンの「宗教改革」の一節を思わせるような美しさを出現させる。
 さらに興味深いところで、第2部の、ビオラ以下の弦楽器を各パート2分割して、バリトンの独唱を歌わせるレシタチーボの効果が、なんとも渋くて素晴らしい味わいだ。
 あと、第3部において、アダムとイブが愛という感情を芽生えさせるが、その導入部分は、フルート3重奏を基調とした和やらかなパッセージ。この美しさも特筆したい。
 全体で3部構成、具体的な事象を説明するような独唱と、神を称える合唱部分とが、おおよそ交互に出ながら、管弦楽の可能性を開拓しながら変化に富みつつ進行する。古典音楽の範囲内ではあるが、多彩な表現を伴って、飽きのこない配慮がされている。合唱も美しく、かつ力強く、全曲を歌い切った・・・東京音大の皆さん。指揮も、ハイドンの様々な仕掛けを的確に、明瞭に伝えてくれた。

 なお、演奏会終了後、舞台に残った合唱隊は、着席したまま、「きよしこの夜」を静かに合唱し、このイヴの夜を彩っていただく。なんと温かいクリスマス・プレゼントであったことか。感激。感謝。

 最後に、順番は逆になったが、演奏会前室内楽についても一言。若手を登用しての、メンデルスゾーンの弦楽八重奏曲より、第1、4楽章。左右で2群の弦楽四重奏といった趣向での配置が効果的で面白い。さらに、駆け抜けるような疾走感で、活力に満ちあふれ、心をグッとつかむ快演だった。トップは大宮臨太郎氏。N響、期待の星である。今後の活躍も期待したい。

 余談ながら、2006年のシューマン没後150年を記念して、廉価盤ながら、シューマンの室内楽全集(ブリリアント・レーベル)、管弦楽序曲集(アルテ・ノヴァ)など渋谷にて購入。新年に入って、かなり聴き込んだ。室内楽は、最晩年まで質の高い作品が続いており、知られていないのが不思議なほど。序曲集にしても、「メッシーナの花嫁」「ヘルマンとドロテア」などは、決して失敗作ではない魅力を内包している。

(2006.2.28 Ms)

12/21(水) ATMアンサンブル 第12回碧南演奏会

 地元愛知県での演奏会が続きますが、今回は車で1時間のドライブ、碧南市(へきなん)での演奏会。トヨタ関連企業の多い、愛知県中部。その臨海地区にあたる碧南市は財政的にも裕福で立派な「芸術文化ホール」がある。名古屋から来ても1時間を越える距離で、決して大都市とは言えないコンパクトな市ではある。その文化ホールは、その建物だけでなく、ホールの文化活動もまた県内トップクラスの充実度を誇る。水戸芸術館や、N響とのつながりがそれを可能にしているが、その水戸芸術館専属のATMアンサンブルが碧南で定期的にコンサートをしているというのだからなかなか凄いことだ。その存在は知りつつもなかなか足を運ぶ機会はなかったがようやく今回実現。

 そもそもの事の発端は、「皆様のリクエストにお答えします」というチラシ。リクエストに応じて、ピアノ五重奏曲という編成の範囲でプログラムを編成、ということで、最近の個人的な室内楽ブームもあって、メールをしたわけだ。昨年の野原みどり氏のピアノで感化されたフォーレへの愛好からフランスもの、そして、同じく昨年、DUO MORITAによるマルティヌーのチェロ・ソナタ第1番の感動(滅多にやらないなあ)からそれを目当てにチェコもの、それぞれに具体的なプログラムをリクエスト、その結果が必ずしも自分の提案の一部がプログラムとはなっていたので、これは是非、ということに。

 ドビュッシーのチェロ・ソナタ。フランクのヴァイオリン・ソナタ。そしてドヴォルザークのピアノ五重奏曲。
 チェロ独奏、上村昇氏。ヴァイオリン独奏、小林美恵氏。ピアノ、上野真氏。
 他のメンバーは、ヴァイオリン、加藤知子氏。ヴィオラ、原田幸一郎氏。

 やはり日本のトッププレイヤーたちの演奏。感銘深し。特に、小林美恵氏には心奪われた。フランクのソナタは既に何度も生で聴いているが、こんなにも激しく、また深く、感じられた演奏はない。第1楽章からして、さりげないフレーズが徐々に力を帯び、テンション高くフレーズの終わりに向け息もつかせず一気に持ってゆく様は圧巻だった。こんな曲なんだ・・・今まで第1楽章はまだ芽出し、優しい雰囲気で捉えていたが、さにあらず。すでにスケール感の違いを感じた。そして、さらに第2楽章が、その上をゆく激しさ。とは言え、荒さ、はない。美しい激しさ。G線の低く深い音色と、何者の邪魔も遮断して断言するかのような表現。そのテンションは第3楽章においても継続し、フィナーレ冒頭において、ふっと優しさが立ち昇る。ここの安心感が、胸を締め付けられるような感動。もちろんフィナーレも最終的には大団円を迎えるのだが、息切れとかは見せず、とにかく、ヴァイオリン・ソナタという世界の限界を見せない、まるで管弦楽作品といっていいくらいの大きな演奏。

 チェロの上村氏も、低音の充実した響きが印象的。ドビュッシーのソナタには、どちらかといえば高音のイメージが強く、細かな動きと軽い感覚を曲自体に求めていた自分であったが、随分と違う側面、安定感ある大人びた、落ち付いたイメージをこの作品に持てたのが面白い。
 ドヴォルザークは、とにかく自己主張のぶつかりあいが激しい。好き勝手やっているわけではもちろんなく、一体感は当然にしてあるものの、1st ヴァイオリンはもちろん、他のパートであれ、ここぞという容赦ない主張が作品全編から感じられ、全く目の離せない、耳の離せないスリリングなものだった。ちなみに加藤氏が1stを担当。小林氏に比べれば、やや音色や演奏自体に荒さは感じられたが、それがドヴォルザークの土俗的な雰囲気には相応しい感もある。

 昨年までは、大垣音楽祭がこういった、日本のトッププレイヤーが集合しての真剣勝負を堪能させてくれたが、財政難かどうか知らないが、こういった貴重な機会がひとつ消えたのを惜しんでいたところ。あの興奮が、碧南にはまだ残っていたわけだ。もっと早くATMとの出会いも果たしたかった・・・ちなみに前回はブラームスの弦楽六重奏曲の第2番を取りあげたはず。今後も聴ける限りは聴いてみたいもの。碧南市の皆さんは幸せですよ。こんな素晴らしいホールと企画。今後も期待は高まります。

(2005.12.30 Ms) 

12/1(木) 魅惑のピアノカルテット 二橋洋子と仲間たち

 地元愛知県の某商工会議所の主催によるコンサート。地元出身のヴァイオリニスト、二橋洋子氏は、神戸市室内合奏団コンサートマスター。
 時節柄、クリスマスコンサートということで、クリスマスメドレーなど軽いものも演奏したが、ピアノ四重奏曲としては、シューマンのもの、さらに、トゥリーナのものを取りあげた。
 トゥリーナは、スペインの近代、ファリャあたりの雰囲気。ただ、フランス音楽の影響はもろに感じられ、フォーレ、ドビュッシーや、ラベルを思わせる和声感、楽器法も。20分弱、3楽章の小さな作品。各楽章がどれもいわゆるスペイン的な情緒あふれるものではあるが、楽章間の対比が明確でなく、同じような雰囲気に思われた。聞きやすく馴染めるものだが、感動の度は必ずしも高くはない。まあ、スペイン風な室内楽、というのはあまり聴く機会もなく(ギターはもちろん、ピアノ曲やオケはさまざまな名曲があり聴く機会も恵まれている)、その点では面白い物が聞けたとは思う。

 シューマンはやはり素晴らしい。個人的には彼の室内楽ではピアノ五重奏曲が、馴染みで、旋律の美しさ親しみやすさのみならず、精巧なフーガを置いたフィナーレなど、音楽的魅力に満ち聴き応え満載でいい位置を占めている。同じくシューマンの室内楽の年の所産のピアノ四重奏曲は比較的最近知ったもの(BSで2年ほど前に木曽音楽祭での演奏が放映)ながら、これもまた素晴らしい。特に第3楽章、緩徐楽章のテーマそのものは、音楽史上の名旋律のひとつだろう。この「うっとり感」は至福の時である。また第1楽章のテーマはふと「フィンランディア讃歌」を思わせる音の動きが印象的。五重奏の気張ったような雰囲気よりは、優雅さ、軽みが感じられ心地よい。第2楽章スケルツォはいかにもシューマンらしい細々とした音符の続く(弦では演奏し辛いような)神経質なもの。その後に置かれた第3楽章が絶妙。第4楽章は、モーツァルトの「ジュピター」終楽章のフーガから主題を採ったと思われる、対位法全開な、やや堅さ、頭でっかち風な気がしないでもないが、堂々たる力作。
 全体に、五重奏よりは、ピアノ過多なぶ厚さはなく、すっきりした楽器法。また、第3楽章の最後で、チェロが最低音のC線を1音下げて調律して長い持続音を聴かせる。今回は第3楽章に入る手前で調弦していた。この効果がそこまでしなきゃいけないものなのかはやや「?」なれど、面白い趣向なので触れておいたまで。
 また、トークもはさんでのコンサートだったが、シューマンはやはり弦楽器奏者にとっては弾きにくい、と。でも第3楽章を始め、音楽そのものの魅力あって是非演奏したいと。ただ、弾きにくさは視覚的にも、特に第4楽章最後にかけてのヴァイオリンの弓の動き、これは超絶でしょう・・・見ている分には面白いが、弾く方は必死、でしょうね。

 来年はシューマン没後150年。その先鞭をつけたわけでもなかろうに、11月は4番の交響曲、そして今回の四重奏と聴く機会を得た・・・大学時代は交響曲の2,3番に相当の熱をあげ、さらに、ピアノを習っていた子供時代も、「子供のためのアルバム」のいくつかの曲はかなり好んで弾いていたっけ。オーケストラ活動のなかでは、シューマンはやや疎遠な作品ではあったが、ここへ来て急浮上の感あり。そういえば、昨年末に、チェロの小品(アダージョとアレグロ)をN響の桑田歩氏で聴き、その未知なるシューマン・ワールドの幸福な開花を素直に喜んだ時点で、私的なるシューマン・ルネッサンスは準備されていたのではないか。今、ブリリアント・レーベルのシューマン室内楽全集など入手し片っ端から聴き始めたところ。来年は結構シューマンに注目することになるか、どうか。

 最後に、演奏は、二橋氏の他、同じく神戸室内合奏団のヴィオラ奏者、増茂和美氏。やはり地元出身でドイツ在住のピアニスト、宮路なのつ氏。そして、チェロは、ピアノ四重奏団Opus1での活動でもおなじみな林裕氏(そのOpus1として、林氏は、東京オペラシティでのBtoCコンサート・シリーズでも今年、シューマンを演奏している。聴きに行けなかったのが残念なコンサート)。「仲間たち」とうたっただけはあり、アンサンブルの精度も高く、そして「クリスマスコンサート」ながらも充実のプログラム、高く評価したい。小坂井町フロイデンホールにて。

(2005.12.29 Ms)

 November ’05 

11/24(木) 愛知県芸術大学第16回オーケストラ定期演奏会

 北方寛丈・菅原拓馬の作曲による「2人の指揮者のためのコラーゲンU」。通常のオケの編成(3管編成)を2グループに分け、それを2人の指揮者に統括させる。仙台フィル200回定期の委嘱作。BS放映もされている。その様子は拝見した。
 県芸の作曲科出身ということで取りあげたんだろう。外山雄三氏と新田ユリ氏の指揮による演奏。コラールのコラージュをコラボレートした、というのがタイトルの語源みたいなものらしく、確かに、「コラール的」な楽想は判別されよう。ハイドンの「聖アントニーのコラール」などもちらりと聞こえた。

 うって変わって、シューマンの4番。ここからは、外山氏の指揮。それにしても、血の気の少ない、あっさりしたもの。イン・テンポに異常にこだわった演奏で。イン・テンポでやると、特に第4楽章のつまらないことは際立つ。この部分、ずっと同じテンポ感で伸び縮みのない演奏というのは始めて聴いた。こんな無味乾燥なものになるのか・・・。確かに、音量の強弱やアクセントは楽譜どおり存在していようが、情熱や込められた気持ち、が全く伝わらない。指揮者のスタンスの成せる技なのか。
 第1楽章の展開部など、何度もテーマが繰り返され、そのあたりに抑え切れない感情があふれでる様など私は感じているが、ただ漫然と、そのテーマがまた出た、また出た、としか聞こえない。音楽の展開の必然を感じさせない演奏の味けなさ、そして空しさ。音楽の繰り返しには、繰り返せざるを得ぬ必然、これを感じさせなければ、と痛感。
 音色も綺麗、まとまりもある。それだけでは音楽にならない、感じられない。巧いのになあ。外山氏がかなり抑制した表現を目指しているのだろう。こういうアプローチもないわけじゃなかろうが、よりによってロマン主義の権化、シューマンでやられちゃ、こちらも当惑。
 まあ、前回、外山氏&県芸で、私が聴いたのは、モーツァルトと同じ感触のチャイコフスキーの4番で、これまた、ねばりのない、激しさのないもの。今日、こうなるのは予想して来たのだが・・・。

 続く、R.シュトラウスの「変容」も、弦の巧さは大変よくわかる。しかし、とにかく先へ先へと急ぐテンポ感が、この作品の重要なモチーフである、ベートーベンの「英雄」の「葬送行進曲」の旋律線が聴き取りにくくさせて、一体、作曲家の思いをどれだけ伝達しようとしているのか・・・と不安になる。第2次大戦の悲惨さをあまり想起させてくれない演奏。

 最後の「ティル・オイレンシュピーゲル」などは、そんな指揮者のスタンスには無関係に楽しい演奏として鑑賞できる。ホルンのソロも、下手なプロより巧いくらい。最後の裁判の場面で、中太鼓がかなり強調されていたのは面白い効果。

 アンコールは、シューベルト「ロザムンデ」間奏曲。木管のソロの表情豊かさをじっくり楽しむ。こういう音楽性をシューマンや「変容」でも聴きたかったのだが。・・・まあ、きっと、学生なんだから変な色気を出す前にしっかり基本を抑える、というのが趣旨かもしれないが、観客としては、音楽をもっと感じさせて欲しかった。
 無料の演奏会だから文句も言いにくいが、「音楽」の本質は何か、と考えさせる絶好の演奏会ではあった。

(2005.12.10 Ms)

 

 October ’05 

10/15(土) フィンランド放送交響楽団 & サカリ・オラモ 岐阜公演

 北欧オケ、北欧指揮者、北欧作品、大充実のこの秋、
 
 サカリ・オラモに率いられるフィンランド放送交響楽団、これもまた素晴らしかった!!!

 来日初日に当たる10/15の岐阜公演、前半のシベリウス交響詩選集は感涙ものです。珍しい「夜の騎行と日の出」「吟遊詩人」などは、この水準で生で鑑賞できる機会はそう多くないでしょう。緊張感、静寂と、突然襲い来る爆発、他の追随を許さない孤高のシベリウスの世界、充分に堪能しました。切ないハープの響きはいつまでも耳を離れず・・・。その他は、「トゥオネラの白鳥」「レンミンカイネンの帰郷」「フィンランディア」と続き、徐々に馴染みのシベリウスとなりますが、特に「帰郷」の容赦ない疾走、そして「フィンランディア」のこれ以上ないほどの劇的な興奮など、完全に聴衆をノックアウト、前半だけで既に、まるで演奏会が終わったかのような熱狂に包まれました・・・メインはちなみに「悲愴」・・・濃すぎる味付けには閉口される方もみえるかも・・・とにかく、シベリウス交響詩選集は、あとは茨城、京都のみでの演奏です。これを聴かなきゃ、一生の損です!!!

とり急ぎ、オラモ感動を伝えたく(2005.10.16 Ms)

 オラモの指揮は、なかなかにクセもあり、いわゆる聴き慣れたものからは意表をつく場合も、ままあり。特に「悲愴」のような通俗名曲は特にそうだ。
 第1楽章のテンポの揺れ、旋律の歌い方など、お付き合いするのが疲れるほどの大袈裟ぶり。第2主題の歌い出しのファ・シャープの音のフェルマータ、気持ちはわからないでもないが、やりすぎ、と映るな。展開部の入りの壮絶な重さ、遅さ。そこから一気に加速。発想としてこれもわからないではないが、そこまでやるか・・・。例をあげればきりがない。
 でも、このかなりな「曲解」じみた演奏も、チャイコフスキーという器、見事に絶え得る音楽なのも確認できた。やはり、感情的なるものが曲の中心に座っている作品なのだ。マーラーの1番などもこういうアプローチ、楽譜に詳細に書かれている・・・が、なかなかこのオラモのような緩急自在なレベルで、マーラーの指示を忠実に聴かせる演奏も出会えない。プレイヤーの力量不足か、指揮者の羞恥か。そう思えば、オケと奏者の緊密な連携、信頼が全面になければ不可能なこの「悲愴」の演奏、かけがえのない、他に追随を許さぬものという評価はしたいところ。疲れはしたが、面白い演奏、である。
 なお、細かい所ながら、第1楽章の展開部直前の最弱奏、クラリネットからファゴットへ移るパッセージ、慣例的にバス・クラリネットで代用する箇所が、私は初めて、楽譜どおりのファゴットでの演奏を今回聴いた。他のプログラム(夜の騎行と日の出)でバスクラを使っていながら、あえて、である。クラの弱奏から違和感なく緊張感を持続させつつファゴットが演奏する。なあんだ、ちゃんと、できるんじゃないか。
 どうも、バスクラでやるのも、弱奏が演奏しやすい、という理由ながら、チャイコフスキーは、あえて、バスクラという楽器を知りながら(「こんぺい糖」の絶妙な効果)、ファゴットを指定しているのだ。演奏できない人はしょうがないが(アマチュアとか)、やはり、楽譜どおり演奏してもらいたいもの。とある本で読んだが、第1楽章冒頭のファゴット・ソロが絶望を表現しているとすれば、ほのかな明るさに満ちた第2主題が、クラの音色からファゴットに変化する事こそ、その後の展開部の「嵐」の必然性を呼ぶのでは・・・。安易な妥協はこの辺でやめて、楽譜の忠実な再現、目指したいものだ。
 ファゴット奏者と、因習を打ち破ったオラモに拍手、である。

 さて、「悲愴」での、ある意味、違和感、は、やはり「フィンランディア」のような通俗作でも感じてしまう。かなり速い。アレグロが通常より速いのは別段、気にしないが、中間部いわゆる「フィンランディア讃歌」が、さらりと歌われているのは物足りなさも感じる。まあ、交響詩を5つ続けての演奏の最後、50分近い前半プログラムの最後ということで、たっぷりやられてもこちらも疲れはするのだが・・・。ただ、その分、コーダの「讃歌」の再現は通常よりたっぷり演奏、このバランス感は納得。

 その他シベリウス交響詩選集だが、何しろ暗い。その発散が、暴れまくる最高速な「レンミンカイネンの帰郷」で大爆発という訳だが、かなり緊張を強いる作品ばかりが前半続く。
 演奏会の最初を飾る「夜の騎行と日の出」の冒頭からして、不思議な感覚。ただひたすら、タッカタッカ、馬の駆けるリズムばかり。それも大変速いテンポで。旋律的要素が希薄。あっても断片的。そのリズムの上に、駆けぬける景色だろうか、和音がとおり過ぎたり、打楽器のアクセントがあったり、意表を突く、意味不明と映る、とっつきにくさが、かなり現代的な感覚。「夜」の不安さ。見通しの立たない恐怖。刹那的な、一瞬一瞬がつながって曲は進行してゆく。抽象さ、は「タピオラ」などにも共通しそうだ。その割に、哀しげな旋律の断片は、初期の「エン・サガ」みたいなムード。シベリウスの作風の変化といわれる交響曲2,3番の断絶を通して構想された作品らしい性格である。まさに、一番最初と一番最後の交響詩の中間点に位置する交響詩と言えよう。
 最後の「日の出」の部分などはもう少しゆったりと欲しかったし、田園的な情景も、のどかさを感じたかった。朝を迎えてなお、あせった感じ、先を急ぐ感じが、自分には残念に感じられたものの、作品の姿を生でじっくり体感できたことに感謝。やはり、お国もの、慣れた指揮者、奏者によるレベルの高い安心できる演奏であることに違いない。

 続いて、「吟遊詩人」「白鳥」と、禁欲的作品。弦の寒々した感じが、決して日本のオケや、ドイツ、フランス、アメリカ・・・その他、フィンランド以外では感じさせられないであろう、独特な響きを堪能させている。やはり、お国もの。
 さらには、「吟遊詩人」、ハープの存在感がかなり前面に出ていたのがいい。このバランス感、今まで感じたことがない。オケの中のハープ、もしくはハープ協奏曲にあっても、これだけの目立ち方は例がない。シベリウスの精緻なオーケストレーション、それと、やはり作品を理解し尽くした指揮者、奏者のなせる技か。もう一生このレベルでの「吟遊詩人」には再会できぬかも。ありがたい体験だ。まさしく「有り難い」。
 作品の後半の、ティンパニと大太鼓の、弱奏の鼓動の効果も、CDなどとは違う、音だけでない、「空気」として、かつてない感覚であった。体に来る。耳だけでなく皮膚に。こういう大太鼓、ティンパニの使用はシベリウスならではだ。実演で感じるしか方法はない。
 さらに最後に吹きぬける大風。金管のクレシェンドする和音。諸井三郎氏の著作に「シベリウスの原始性」について触れている部分があるが(交響曲第4番の感想として)、まさに「原始」「有史以前」「自然」「人知を超えた存在」が一瞬立ち現われるこの部分は、不可思議さもあれ、聴くものを異次元に連れて行くような感興を催す。返す返すも、得がたい体験、こころに深く刻まれる。

 この静けさと暗さを中心に据えた選曲から「帰郷」「フィンランディア」と続く前半プロだけで、客席はかなりの盛り上りを見せ、カーテンコールも4,5回。まるで演奏会が終わったかのようだ。比較的小さなホール、1000人くらいか。迫力あるオケサウンドはまさに全身シャワー状態。さらに、息をこらすほどの弱奏も手に取るような感覚で、このホールが、シベリウスの感動を演出する一つの楽器ですらあったかもしれない。岐阜市サラマンカ・ホール。シベリウスにおおいなる祝福を挙げたホールとしてここに大書したいところ。

 その後の「悲愴」の方が、実は客としてもテンションは低かったかもしれない。第3楽章終了後の拍手もごあいきょうながら、一気に強引に余韻もないままに第4楽章へなだれこむやり方もやや乱暴か。個人的には、「悲愴」を前半に持ってきた方が演奏会自体の印象は良かったのかもしれないとも思うが、さて。
 アンコールは、シベリウス「悲しきワルツ」、シューベルト「ロザムンデ」間奏曲。

 この得がたい体験、シベリウスの秘曲「夜の騎行と日の出」「吟遊詩人」の素晴らしさを世の現実のものとした、オケと指揮者とホールに幸いあれ。 

(2005.11.4 Ms)

 

10/14(金) minimums マリンバ&パーカッション・コンサート

 前週に引き続き静岡県ネタ。浜松市のアクトシティ音楽工房ホールほぼ満員にしてのコンサート。ニューアーティストシリーズの一環として。
 女性3人組、マリンバ2台と、民俗楽器も含む各種打楽器を使ってのグループ。

 クラシックのアレンジから、ジャズ、アフリカン、アイリッシュダンスまで、様々に楽しめ、ポップさ満載。
 冒頭は、「赤とんぼ」をしんみりとマリンバで仕上げ(こういう世界はマリンバには良く似合う)、あとはもっぱら、リズムの面白さでグイグイ押してゆく。
 「アフリカン・クリスマス」、アラビックな要素を含んだワールド・ミュージック。
 シャンソンの「枯葉」を、エジプトのタンバリン「Riq」をフューチャーして。皮を素手で叩くだけでも多彩な表現が楽しめる。
 チック・コリアの「スペイン」。アランフェス協奏曲を混ぜながらのフラメンコのリズム。

 後半では、バッハの「主よ、人の望みの喜びよ」を変拍子にのせて、アフリカンにアレンジ。木の棒に木の実をジャラジャラつけて床に叩きつけて鳴らす演出も面白い。
 「サウンド・オブ・ミュージック」の「私のお気に入り」(JR東海CMでもお馴染みな)を6/8と5/8を交錯させた拍子感で。
 カッチーニの「アベ・マリア」(16世紀イタリアの音楽)を、アフリカの親指ピアノ「カリンバ」で幻想的に、哀しげなサウンド。
 アイリッシュダンス、リバーダンスのナンバーで「アメリカン・ウェイク」。
 その他、浜松出身の作曲家、村松祟継氏のオリジナルも3曲。アンコールは、冒頭の雰囲気に戻って、マリンバだけで「アメージング・グレイス」。

 マリンバで、1時間半のコンサートを構成するのは、変化を持たせるのもなかなか大変だ、というのが個人的な今までの感想だが、今回は、ワールド・ワイドな観点で、さまざまな民俗性、リズムパターンがクロスオーバーする、見事に飽きさせない構成が素晴らしかった。マリンバ音楽の可能性、かなり掘り下げた、いいグループだ。打楽器パートが、ドラムセット風ながらも、素手で叩く楽器を多用している(もちろん多種多様なバチも様々に駆使しているが)あたりに、普通のジャズやロックのリズム隊とは違う、エスニックさ、さらには機械的ならぬ民俗音楽の持つ素朴さ、人間的な暖かさをも感じ、素手が直接奏でる打楽器の生き生きした表現力に改めて感銘を受けた。私の打楽器感にも大きな影響を与えた一夜であった(どうも、ロックのドラムスには、機械打ち込みにも通ずる無味乾燥さを感じる場合が多い。素手の打楽器の新鮮な感覚、面白く聴けたな)。
 
 こういう打楽器アンサンブルなら、もっと世間に認知され得るのではないか。 CDデビューも近いと伺う。今後の精力的な活動を是非期待したい。また、新しい音楽の形、ジャンルとして今、オススメしたい。

 (2005.11.1 Ms)

 

10/8(土) 伊賀あや&青木祐介 第5回演奏会

 上京し、感動の読響、ヴァンスカによるニールセン交響曲チクルスの完結編を見届けた帰路、静岡県三島市において、ピアノ・トリオの演奏会に立ち寄る。ヴァイオリンとチェロそれぞれのソロによるソナタと、休憩をはさんでトリオを1曲。最近、注目している晩年のシューベルト作品ということで、どんな奏者かは知らないままに演奏会へ。
 チェロによる、アルペジオーネ・ソナタ、D821。ヴァイオリンによる、幻想曲、D934。そして、ピアノ三重奏曲、D929。

 アルペジオーネは、チェロもしくはヴィオラで演奏される有名なソナタだが、恥ずかしながら、今回初耳。確かに美しい旋律が特徴的。フィナーレがやや単調な舞曲調なのが難点かとも思うが、前半の美しさ、未完成交響曲と共通の感性はありそう。最後のチェロのギターを思わせるピチカートが意表を突いておもしろい。

 幻想曲、これは傑作だ。事前に、レーピンによる演奏をTV録画したものを聴いていったが、最晩年の弦楽五重奏曲や、最後の弦楽四重奏曲ト長調と並んで、続くブルックナーやマーラーへの影響を多分に含んだ重要作である。また、構成の面では、メンデルスゾーンやシューマンにみられる多楽章を接続する発想を取る事もまた特記事項だろう。
 冒頭のピアノのトレモロの上にVnがなだらかに旋律を奏でるところは、まさしくブルックナー開始だ。この序奏は、第3楽章フィナーレに相当する部分の序奏で再現もされる。第2楽章に相当する緩徐楽章的な部分はこの世のものとは思えぬほどの名旋律と名伴奏、この美しさは抜きん出ている。ただ、この主題が、大変技巧的に変奏されてゆく。シューベルトも、巨匠的な技巧誇示の作品を書いているとは。また、この名旋律は第3楽章的部分のコーダでも再現され、その驚きと、この心地よさといったら・・・。名旋律という自覚もあったのか、シューベルトも心憎いね。

 ピアノ三重奏曲は、いわゆる第2番といわれるもの。40分を越える、さすが晩年シューベルトらしい大曲。しかし、冗長さはあまり感じなかった。
 第2楽章の、うら寂しい主題は、一度聴けば心にしっかり染み入るもの。第1楽章の第3主題にあたる旋律は、同じくシューベルトの「アヴェ・マリア」を思わせるもので、その部分につけられた和声がなんとも言えぬ美感。第3楽章は、やはり、ブルックナーやマーラーへと続くレントラー、田舎の素朴な踊りといった雰囲気。第4楽章は、フィナーレとしてはやや弱い、軽さが肩透かしではあるが、展開部、そしてコーダで、第2楽章の名旋律が回帰するのが、「幻想曲」と同じ趣向ながら、効果的だ。果たしてどんな意味があるのか?ベートーヴェンの主題循環を真似してみたのか?でも、あまり必然性は感じないな・・・でも、フランクやブルックナーあたりに比べれば、なぜか安心する。落ち着きが良い。またかよ、という脱力感を感じさせない。結局は、旋律の存在感、美感、魅力に尽きる。幻想曲にしろこのトリオにしろ、この美しい歌謡主題の回帰が作品の円満な解決におおいに貢献しているように感じる。聴き終えた後の幸福感、これは文章では説明つかない。ただ、トリオにおいては、うら寂しい第2楽章主題がコーダで繰り返されるうち、長調へと転調することで作品を終わらせている。あの主題に明るさが備わって、ああ良かった、と思ううちに幸せな終結があらわれる。ホント、幸福感一杯で、生きてて良かった、辛いことも乗り越えられる、と素直に思ってしまう。不思議な魅力だ。

 最後にアンコールも、シューベルトの三重奏で、通称「ノットゥルノ」と呼ばれるもの。これまた初耳だったが、これもまた素晴らしく美しい夢見心地な作品。このような音楽との幸福な出会いを演出してくださった伊賀・青木両氏に感謝したい。
 演奏自体も、曲の素晴らしさを前面に引き立たせる好演と感じた。前半のソロにおいては、ややソロとしての華に物足りなさも感じないわけではなかったが、後半のトリオは、ノリの良さすら感じ、乱れもない安定ぶりは、シューベルトの美的世界を存分に堪能させてくれるレベルにあったと思います。毎年、三島と東京でのコンサートをこなしてみえるようです。今後も充実した活動を継続していただきたいものです。地方都市での充実した演奏活動、というのが、個人的におおいに共感を持つところです。

沼津でおいしい寿司も食べれるし、静岡県内の旅はいつも楽しませていただいています(2005.10.30 Ms)

 

10/7(金) 読売日響 第471回名曲シリーズ

 

10/1(土) 読売日響 横浜みなとみらい名曲コンサート

行ってきました。読売日響、オスモ・ヴァンスカ指揮。ニールセン・チクルス。

交響曲第5番!!!

 素晴らしかった!!!繊細、そして大胆。シベリウスで見せた、魅せた,奇跡的なピアニッシモの表現はニールセンにおいても絶妙な効果。そして、とにかく、オケの鳴らし方の巧妙さ。金管群のパワフルさと、音楽の流れを大きく捉えて、うねるような、スケールの大きな、ニールセン特有な競技的3拍子とが相乗効果をもたらし、なんともテンションの高いステージとなりました。オーケストラの醍醐味を充分、これでもかという位に堪能させていただきました。

 やはり、オーケストラの神髄はこういう音楽にこそありますね。先だって演奏された、ベートーヴェンの5番、これも、繊細さと大胆さが心を強く揺さぶりました。聴き慣れた作品でさえ、新鮮な驚きと感動を与えてくれるんです。この「運命」が聴けたのは私にとってかけがえのない財産。今まで聴いてきた、自分の中にある「運命」、これは一体なんだったんだろう?とすら思います。

 続くニールセンチクルス完結編(2,3番)も、素晴らしい感動を与えてくれました。感謝です。

 待ちに待った、ヴァンスカのニールセン交響曲チクルス。昨年の4番「不滅」の感動も忘れ難いが、今回もさらに輪をかけての感動。私のかけがえのない財産である。

 演奏された曲は、やはり「名曲コンサート」というわけで、ニールセン以外は、いわゆる文句なしの有名曲たる名曲。
 まず、バーバーの「弦楽のためのアダージョ」。ヴァンスカのトレードマークとも言うべき「ピアニシモ」。シベリウスで見せている、デリケートな弱奏の表現、これが、随所にバーバーにおいても緊張感を持ってあらわれ、息をのむような集中力で演奏されていた。「魂を揺さぶるピアニシモ」である。
 曲の開始からして、無音と音楽の狭間をさまようような弦の響きが素晴らしい。
 また、クライマックスの構築も、まるでショスタコーヴィチの緩徐楽章を思わせるような張り詰めた雰囲気が否応無しに聴衆を音楽に引き込ませる。私の驚きは、そのクライマックスの最後の和音で、さらなる音量の増大と、明らかな音色の変化・・・と言ってしまうだけなら無味乾燥だが・・・とにかく、光が見えた!!!クライマックスの終着点の、神々しくも宗教的ですらある、快感。思わず頭を畏れながらも天に向かいあおぎ見ていた。そして、沈黙・・・そして、光は失せ、地を這う、諦観めいた低弦。
 この音楽の流れに、完全に自分は忘我の境地、を体験した。聞き古された感もある、「葬式の音楽」(バーバーは「葬式」で聴かれるのを嫌がっていたが)・・・機会音楽として堕したイメージ、または、映画音楽でのイメージ、それらを払拭させる、音楽そのものを私と対峙させてくれた名演奏であった。有名曲での、真剣勝負。適当にやっておけば客も喜ぶ、というような低次元さは微塵もない演奏に、感化されました。こういう、本物、こそ今後とも追いかけて行きたいもの。

(2005.11.18 Ms)

 

 


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