今月のトピックス
September ’04
9/23(木) ロイヤル・ストックホルム・フィルハーモニー管弦楽団 横浜公演
島津製作所130周年スペシャル。田中さんのノーベル賞もあってか、ストックホルム・フィルが、その記念に来日ツアー。その初日の演奏会。我が地元での演奏会もあったが、メインがブルックナー「ロマンティック」なのでパス。北欧モノを堪能できるプログラムを、と。
まずは、お国モノで、ベルワルドの歌劇「ソリアのエストレルラ」序曲・・・???まず知られていない作品ながら、これが、熱演、そして、感動なのだ。
ベルワルドは、ほぼ、シューベルトと同世代のスウェーデンの作曲家。ただし、生前は認められず、発明家、実業家として生計を立てていたと言う。没後、スウェーデンを代表する作曲家として着目され、今や彼の名を関するホールもストックホルムにある。私も、北欧旅行で、バスに揺られてその隣を通って行った記憶があるが、指揮者ブロムシュテット、そしてサロネンらが活躍した、スウェーデン放送交響楽団の本拠としても有名。
それは、さておき、ベルワルドと言えば、比較的有名なのが交響曲・・・それにしたってまだまだ無名か・・・。私の経験では、東京にて、「エルムの鐘」というアマ・オケさんの演奏で、「風変わりな交響曲」(第3番、シンフォニア・サンギュリエール)を聴かせていただき、大変印象深かったのだが、そのフィナーレと同様な、激しさ、を感じた・・・とは言え、よくわからない比喩か、もっと砕いて言えば、同じニ短調だし、ブラームスの悲劇的序曲のご先祖様、みたいな作品。
時代的にも、作風的にも、ウェーバーあたりが近いのだろうが、さらに情熱的で、焦燥感を煽るような曲想。アラン・ギルバートの指揮も、ぐいぐいオケをひっぱっていて、爽快な心地よさがある。隙の無さがいい。また、オーケストレーションは弦を中心としたもので古典的な範疇に留まっている・・・が、金管やティンパニは、意外に存在感を与えている。シベリウス並に。
とにかく、使命感、を感じる。我々こそ、この作品を演奏しなければならない、そして、この作品の理解者である、という自信。知られざる作品を、より良く知って欲しい、という充実した演奏なのだ。
この演奏の後ゆえに、シベリウスのヴァイオリン協奏曲も、名手レーピンを迎えながら霞んでしまったか、というのが正直な私感。確かに、ソロは完璧な技術で、かつ、バックも、いかにも北欧オケとして、静謐な弦、密度の濃い金管・ティンパニなど、レベルの高さを感じさせてくれたが(特に、前日の日本のオケの印象をもってこの演奏会に望んだので、違いというのは、まざまざと感じてしまう。北欧らしさ、という響きは確かにあるもの。)、ベルワルドの感動がかなり自分にはすり込まれた感じ。
ソリスト・アンコールは、イザイの無伴奏ソナタの「バラード」。これはまた重厚なアンコール。シベリウスでは、余裕ながらも、ややオトナな、予想外に優等生的な雰囲気も感じられたが、イザイは、かなり激しく弾き込んだ印象。凄さ、を印象付けた。まあ、逆を言えば、シベリウスに凄さを感じさせなかったほどの余裕ぶり、こそ、今思えば凄いことなのだろうな、とも感じた。
メインは、ブラームスの交響曲第2番。こちらは、やや違和感もあり。ドイツ風な、堅さ、硬さ、とか、微妙な「間合い」とか、自分の思い描くものとはズレがあったか。綺麗ではあったが、もう少し重厚さが欲しかったかな・・・でも、これが、北欧的な風味をもったブラームス、ということで受け取ろう。
アンコールは、やはりお国モノで、アルヴェーンの「羊飼いの踊り」。弦が細かく動き回る、民俗的な味わいを感じさせるチャーミングな逸品。
今回のツアー、最後は京都にて、アルヴェーンの「スウェーデン狂詩曲第1番」も披露、とのこと。しかしながら、メインはチャイコフスキーの5番・・・ということもあって、この横浜のプログラムを選んだ。でも、東京公演2会控えてということもあってかお客さんが少ないのは残念だった。さらに、今回のツアーのプログラム、北欧モノのメイン・プロがなかったのはやや寂しい。やはり、北欧サウンドで、北欧の交響曲なども聴きたいもの、またの機会を待ってます。
(2005.6.29 Ms)
9/22(水) 東京都交響楽団 第594回定期演奏会
上述のストックホルムを聴くべく上京する前夜に寄らせていただく。昨年の年末の都響、ベートーヴェンの7番のレベルの高さもあり、また、不穏なリストラの動きなども気になり、都響さんへのささやかなる応援の気持ちもあり。
指揮、ジャン・レイサム・ケーニック。Vn.独奏、渡辺玲子氏。
ムソルグスキーの「モスクワ河の夜明け」。ショスタコーヴィチのヴァイオリン協奏曲第1番。そしてムソルグスキー「展覧会の絵」。
渡辺氏の骨太なショスタコーヴィチは、十分にロシア的。女性としてのハンデなど感じさせないたくましいもの。
逆に「展覧会」は、とにかく、スマート。ロシア的な濃さ、というよりは、スピード感重視で、プロムナードからして「展覧会」を鑑賞するゆたりとした心地は不足気味ながら、軽快に、躍動感をもって、ウキウキした感覚で新鮮。トランペットのパリっとしたサウンドも、日本離れした輝ける存在で良い。
さて、そのスピード感、最後の「キエフの大門」でもまさに全開。堂々とやりすぎて主題が出るごと停滞感が付きまとうように曲が出来てしまっているが、その停滞感を消去。極端に言えば、歩けるぐらいのテンポ感で進む。曲の欠点を補っている演奏、という感じに捉えたがどうだろう。さて、この演奏による「大門」、個人的には、ショスタコーヴィチの作品3の「主題と変奏」の最後の主題提示の金管コラールのような、ボロディン風でもあり、またリムスキー的な貴族の行進の音楽を思い出す。金管の和音も密度の濃い重厚なもので、テンポが遅くなくたって、音楽の重さは表現できるわけだ。最終的には金管群の充実を堪能するコンサート、ということでしたか。
(2005.6.6 Ms)
9/12(日) トリオ・アクエリアス 演奏会
名古屋は、しらかわホールの自主企画、若手演奏家シリーズ。
Vn.上里はな子。Vc.唐沢安岐奈。Piano、竹内功。
個人のソロ、デュオ、トリオと盛りだくさん。バロックから20世紀まで、いろんな時代、いろんな編成で聴けて興味深い。
バッハ、無伴奏チェロ組曲第1番。パガニーニ、パルピティOp.13。リスト、ハンガリー狂詩曲第12番。
以上、ソロを堪能。
マルティヌー、Vn.とVc.のための二重奏曲。
休憩を挟み、最後に、ブラームス、ピアノ三重奏曲第1番。
バッハ、無伴奏。第1番のみながら、始めて生で意識して聴く機会を得た。最も有名なものだが、第一印象として、なかなかに聴かせる演奏というのは難しいと感じる。淡々と音が並ぶ印象で、超絶技巧があるわけでなし(無伴奏Vn.との比較をするのは酷だが・・・)、純粋に音楽を聴かせるとなると、曲が単純、シンプルなだけに、ちょっとした音程のずれも気になってしまう。決して不満に思う演奏ではないのだが、腑に落ちない・・・・感情を豊かに表現できる曲、勢いで圧倒できる曲・・・などは、いろんな演奏に出会いながら、なるほど、こんな演奏もありかあ、などと思えようが、バッハのこの手の作品、これで良し、などとそうそう簡単に思えないようで、難しいなあ。
それに引き換え、あとの2曲は、パガニーニ、リスト、ととにかく技巧の凄いのを見せつける典型で、単純に、「おお、すげえや」と思えてしまう。その、技巧を獲得するのが大変だろうけれど。
パガニーニは、素朴な主題が、変奏曲を経るごとに、重音やら、ハーモニクスやら、細やかな装飾で難曲に仕上げられるさまが面白い。ハーモニクスの重音とか、トリルとか、よくやるなあ。上里さん、豊橋にて2年ほど前、地元でのコンサートで始めて知ったわけだが、素晴らしいバッハの無伴奏に感激してから、当方、気にしつつも、やっと再び拝聴でき幸せです。パガニーニの難曲を果敢に攻める姿も好感大。
なお、作品の詳細は解説に寄れば、1819年作曲の「我が心うつろなりて」の主題に基づくもの、らしい・・・・「パルピティ」というタイトルで完全なのかが、個人的にはよくわからない・・・・、もう少し細かなタイトルがついていそうな気もする。
リストは、嬰ハ短調という調性が、一番有名な2番のラプソディを思わせる。とにかく華麗で迫力あり。リストのピアノ作品、昨年、今年と広瀬悦子さんで聴く機会もあり、生で接すると、エンターテイメント的に聞いても見ても充分楽しいと感じつつある。今回も、ラプソディ、で絢爛豪華なテクを披露する曲種だけに確実な技巧に裏付けられた演奏は聴き応えありあり。
マルティヌー。二重奏ながらも充実した世界だ。チェロの五音音階風なテーマが、郷愁を誘うなか(「新世界」「ドヴォコン」などの名旋律の構成要素だけ取り出したようなもの。チェコつながりは充分感じられる)、Vn.が、調性を変えて、まるでバルトーク風に絡む。マルティヌーの位置、として、ドヴォルザーク、バルトーク、二人の東欧の作曲家を引き合いに出すのは決して唐突じゃあなかろう。
緩やかな第1楽章と、リズミカルな第2楽章からなる。この7月に聴いた(デュオ・モリタの素晴らしい演奏と、作手村の爽やかな風!)チェロ・ソナタ第1番のフィナーレと同質な運動性は興味深い。途中、長々としたチェロのカデンツァがあり、高音の重音が、ショスタコの2番の協奏曲の第1楽章も思わせる。大太鼓をドカンと入れたくなるな。カデンツァの後に、活発な運動性がさらに発揮され、興奮度を高めいい感じ。まだまだ未知なるマルティヌー。今回も佳曲をありがとう。
ブラームス。かつて、TVの恋愛系ドラマ「恋愛偏差値」で、常盤貴子扮する主人公が、思い出の曲として語る、ブラームスのピアノ・トリオ第1番。私の好きなこの曲をトランペットで旋律を吹いてくれた、なんて言ってたが、ホントにそんなトランペットで吹くようなキャラの曲なのか?ブラームスの室内楽で????とこの2年ずっと疑問だった。ブラームスの室内楽を生演奏で少しづつ聴き進む中で、大きな山場、としてこの曲と向き合うのを楽しみにしていた。正直、ああミーハーなもんだ。
ブラームス20歳の作品らしく(晩年の改訂もされてるが)、若々しくみずみずしい、歌心あふれる旋律が冒頭から耳を捉える。ひょっとして、こいつをトランペットで吹いたんか?節回しの一部が、確か、ディズニー映画の何かのテーマに似てるような。「アラジン」だったけか?
なんて邪心を感じつつ聴いていた。ロ長調という、何とも言えず重さを持った明るさ・・・ほの暗さもまたブラームスらしさ満点。第2楽章のスケルツォも、ピンピン飛び回る運動性は、後年のブラームスとはやや異質な雰囲気も。馬で駆ける感じ。リズムは軽い。でも、旋律や和声は重いな。第3楽章のピアノのコラールは、彼のピアノ協奏曲第1番の緩徐楽章の雰囲気をちょっと思わせた。第4楽章が意外や、短調主導で、短調終止・・・・3番の交響曲の前兆か・・・。長調作品を短調で情熱的に締めくくる。冒頭の主題からして、調性の安定性に欠き、意欲的な作品だ。不安をかきたて、そのまま、情熱的に幕。
3人のアンサンブルも申し分なく、今回即席のトリオだろうが、まとまりを見せて安定して良い。ちなみに、冒頭、チェロの無伴奏の演奏後、チェリストから軽いあいさつ・説明があって「アクエリアス」なるトリオ名、「清涼飲料水」じゃあなくって、偶然3人とも「みずがめ座」だったから、とのことでした。星座が同じ、また、血液型も、なんていう話もあり、でもみんな考え方、感じ方は違って、まとめるのは大変・・・ながらも、面倒な箇所も次の練習で合わせをすると、何げにうまくいってたりする、のだそうな。
最後に、アンコールは、ピアソラの「リベル・タンゴ」。ヨーヨーマほどにグイグイとチェロがひっぱって主導権が握りきれなかったのは惜しいな。でも、チェロは、マルティヌー、ブラームスをどんどん尻上りに調子を高めていい感じだったんだが・・・。ピアソラに関してはVn.がちょいと頑張り過ぎたかしら。
この手の趣向のコンサート、面白い。ソロからアンサブルまで、様々な時代の音楽が楽しめるのは良い。是非、また聴かせてください、しらかわホールさま。
(2004.9.30 Ms)
9/5(日) オーケストラ・ディマンシュ 第20回演奏会
我がHPが立ち上って初期の頃から相互リンクをお願いしている、アマチュア・オーケストラ、ディマンシュさん。ショスタコ・オケの「ダスビダーニャ」との関係も深そう。一度、お邪魔したいと思い続けて、もう数年となっていたが、「火の鳥」全曲と「不滅」という、とてつもなく野心に富んだプログラム。とうとう、初体験とあいなった。
ストラヴィンスキーとニールセン、どちらも、どっきり、びっくり箱的な、仕掛けが多々。そんな仕掛けを、まさしく聴衆に仕掛けてくる、楽しい演奏会となった。
まず、特筆すべきこととして、配置が興味深い。Vn.を左右両翼に。そして、チェロ・コントラバスが舞台下手、客席から見て左手。普段見慣れた配置とは逆に低弦がいる。N響でも、例えばブロムシュテットあたりはこういった配置だが、現在決して主流な配置ではない。やや古風な配置。
それだけにあらず、金管楽器が、真正面の後段に来ず、いわゆる通常の配置のコントラバスの位置、ようは、舞台上手に位置。奥から、トランペット、チューバ、トロンボーン。つまり、トロンボーンが客席最前列のすぐ目の前で斜め横向きに座り、指揮者と同じライン上にいるわけだ。その他楽器は、ほぼ通例どおりか。あと、打楽器は最上段。今回、「火の鳥」全曲は、ハープ3台、チェレスタ、ピアノを使用するが、それらは、チェロの後、コントラバスよりは、舞台中央に位置。
これらの配置によって生み出される、生のオケ・サウンド、なのだが、他のアマオケと、力量の差、ホールの差などあって一概に言えないだろうが、個人的感想として、各セクションのバランスの良さ、音楽全体としての安定性を感じた。
弦の少なく弱いアマオケにおいては、多々、クライマックスにおける吹奏団(吹奏楽団ならぬ吹奏団。応援団のなかの団体として例示したが。)風な状況に出くわすのだが、そういったアンバランスは全く感じない。もちろん2曲ともに金管群の充実は目だっており、その存在感も相当なものと感じていたのだが、実はうるさくはない。うっとうしいものでは全くない。昔、真正面からの直接的な音の塊に辟易した経験もあるので、やはり、斜めから飛ぶ音響的な配慮による結果かなとも想像する。もちろん、奏者の力量に負うところ大と思うが、華やかでありながらもうるさくなく、質感としては厚みと深さを感じさせ、個人的技量と配置の両輪でのあの素晴らしい結果になったんだろうな。
また、金管とのバランスといったときに、弦の側の問題も当然でてくるが、総じて、弦の頑張りは感じられた。とにかくスケールの大きな両曲なわけで、その巨大なパワー、まさしく「不死鳥」「不滅」なエネルギーを、主に金管が放出するなかで、充分その存在を主張し得た弦にも祝福を。
さらに、配置の問題としても、右に金管低音、左に低弦、という形で、低音がオケを包み込むような状況、これが、いい効果として現われたと想像する。音楽全体に安定性を与えたと思われる。
やや細かい話ながら、一風変わった配置をとりながら、それが意外や良い効果をもたらしていると感じられたので、他の団体の参考にもなるかも、と最初に指摘させていただいた。
「火の鳥」だが、やはり、多種多様な音響、これを堪能させてくれなきゃ聴く意味なし、といった曲と思っている。今回、役者揃いの感は強く持ったのだが、そんな中、弦の存在は大きかった。スル・ポンティチェロ・・・・コマの近くでこすって音を出して不気味な効果を出す。コル・レーニョ・・・弓の木の部分で弦を叩く。こういった効果が、実に思いきりも良く、かつて聴いたこともないほどに強調されて、面白い効果を引出す。特に前者、かなり多用され要所で耳をはっとさせてくれる(ヴィオラ・パートのソロの部分でいい感じの場面が印象に残る)。びっくり箱的な作品だからこそ、管打はもちろん張り切るのだけれど、弦もこれだけやってくれれば言うことなしですね。
その他、コントラ・ファゴット2台の不気味でやや汚い音響も、怪物たちを思わせるに充分な貫禄。金属バチを使ったシンバルのロールも効果的。
また、バンダで客席左右後方の3箇所から鳴るトランペット。一瞬のみの出番ながら、テナー・チューバ2本の怪物の雄叫び・・・ホールがその音のみで埋め尽くされたかのような叫び・・・まさしく怪物のうなり声。最後の大団円で、全曲版のみ付加される、トランペットの高音の鋭いロングトーン。
挙げていけばキリがない。あ、そうだ、ハープも3台の豪華な響きを堪能。これも、舞台中央に近づけた効果もあろう。一番隅っこで反響板にへばりついているようじゃもったいない、この曲は。
さらに、奇をてらった音響ではないが、ホルンの安定ぶり、これも紹介したい。王子の登場など、象徴的にホルンのソロも見かけられるが、そのソロ、この作品の中においては珍しく実直な感じなのだが、いい雰囲気でした。
「火の鳥」全曲を生で体験したのは初ながら、今までのTV体験だけでは、この楽しさ面白さは伝わらなかったようで、いい体験をさせていただいた。
「不滅」はおってまた。(2004.9.19 Ms)
休憩を挟んでの、後半、ニールセン「不滅」。
最初の一撃、金管の装飾音符一つからして、気合たっぷりな、意気込みを感じさせ期待度、大。さらに、続く弦のユニゾンのガツガツした雰囲気。かなりいい感じだ。正直なところ、弦のまとまりにおいてより強烈に、そしてオケ全体の集中度が、断然、前半と違う。「火の鳥」では、何となく合っている、といったムードのまま曲が進行している部分も見られたが、「不滅」に至って、そのようなアバウトさよりは、合奏体としての方向性が強力に打ち出され、その点で随分、聴きやすさが高まる。
さらに、これは指揮いかんにかかってくるが、テンポ設定も、極めてスタンダード、奇を衒わず、また、無理なく、また、妥協なく、私としては安心できる曲の展開であった。指揮は、金山隆夫氏。初めて拝見します。上智大から、卒業後、渡米、セントルイス響での研鑚、と、かなりユニークなキャリアではなかろうか。
さて、第一部、第2主題の最初の駄目押し、最初の山場、「不滅」の主題の高らかな吹奏、これも気持ち良く決まりました。この「不滅」の揺るぎ無い宣言が決まることで、曲の展開自体、安定性を増すし、「滅ぼし得ない」力が聴く者を勇気付ける。いい場面だな。
その後の展開部、緊張感高まる弦の鋭い響き、やや、乱れを感じたのは惜しいところながら、金管が増殖、ブルックナー的なうねりがまた豪快に。ティンパニもかなり野蛮性を主張していて、面白く聴けました。もう、第一部の後半は、勢いも止められず、一気呵成に、「不滅」の主題再現への道をひた走り、息もつかせぬ展開、うまくまとめられました。
第二部の木管による田園的な間奏曲を経て、第三部の、弦による悲歌。この弦の張り詰めた雰囲気、素晴らしい。また、ティンパニの半音階的パッセージの、ペダル・テクニックもおおいに気になる所ながら、4台使わず、3台で見事に叩き上げたんだから、凄いことです。この心意気、おおいに買います。見事なものでした。
あと、第三部は心に残る部分も多いのだが、中間で、宗教的な境地が現われ、安らぎを得、「救い」を感じるのだが、その「救い」がしっくりと染み入る演奏で好印象。特に、トロンボーン・チューバのコラールの美しさは特筆すべき。アマオケの良い部分、と私は常々思うのだが、緻密な練習の成果、これが感じられると大変嬉しい。この部分の今回の演奏については、金管の命、和声体としての一体性を自然に感じさせてくれていた(緻密な練習の成果ではなしに、軽々とこのアンサンブルを聴かせていただける能力の持ち主であるならこの指摘はお恥ずかしい限り、なのだが、私の耳には、綿密な練習の繰り返しの成果としての立派な完成品と聞こえた次第)。ここの安堵感もまた、「不滅」なる宣言を確信に持って行く過程の重要なプロセスと感じるのだが、ここの安定が、とても嬉しい。
その後、力を得、第三部におけるクライマックスを築くのだが、そこに持っていくまでの道程の、トランペットの息の長い旋律の朗々たる歌心もまた、いい感じでした。
そして、第四部、冒頭のVn.のパッセージも両翼配置というリスクながら、何とかテンポにしがみついて、スリルを味わいながらも、セーフ。続いて、2nd Timp.の一撃。やや、深さより荒さ、という点が気にはなったものの(ティンパニの楽器そのものの差が、1stと2nd奏者でしっかりと聞き分けられたような気がするのだが)、その存在感は充分であった・・・なお、2nd奏者に至っては、ティンパニ2台での奮闘、恐れ入ります。よくやっていただいた。ティンパニの壮絶なデュオも、舞台最上段の両隅で、というアンサンブルしにくい位置関係ながらも健闘。さらに、グリッサンドは派手に決めてくれました・・・・休憩後にあった、演奏に先立つ指揮者ご自身の声による説明でも、この点には特に強調が見られたので、この、当時として画期的なティンパニのグリッサンド、今までにないほど強調して演奏されていて楽しい。
最後の、「不滅」のテーマの再現も、最後を飾るに相応しい迫力と壮大さを備え、また、弦も負けじとの頑張り。「火の鳥」の大団円を凌ぐ広がりを思わせていた。
アンコールは、これまた嬉しいことに、同じくニールセンの歌劇「仮面舞踏会」から序曲。弦の速弾き、アンコールまでご苦労様でした。金管はややはじけ過ぎた気がしないでもないが、爽快に演奏会を閉じてくれました。
「火の鳥」「不滅」という、超重量級のプログラムながら、充実した演奏を披露していただきました。「永久に滅せざるもの」というコンセプト、ありがたく感じます。特に、ニールセン、元気でます!素直に、ありがとう、と言える音楽、素晴らしいですね。
あと、こちらのオケの特色で一点。子供の入場制限なし。そのコンセプトは徹底されていて、プログラム解説も、子供用の、軽い、噛み砕かれたものも併記。場内アナウンスも、子供たちにも呼びかけていた。一つのアマオケの存在理由として、私はおおいに評価したい。比較的、大迫力の作品を取り上げ続けている団体のようで、子供に訴えかけるものも少なからずあろう。団員の家族とか友人の観客動員を意識したものかもしれないが、共感をもってこの試みは紹介したいと感じた。意外に、子供たちもそんなに態度は悪くなかった。最近、忍耐を忘れつつある日本人、こういった場に子供がいるのも立派な社会勉強でよいのでは。
今後の「ディマンシュ」さんの活躍を祈念しつつ、またの再会も楽しみに。
(2004.9.24 Ms)
9/4(土) 佐々木絵理子&羽石道代 デュオ・リサイタル
〜2つのBをめぐって〜と副題されたリサイタル。
佐々木さんがVn.羽石さんがPiano。バルトークとベートーヴェンというプログラム。
上述の「不滅」上京の前日、例によっての18切符の旅、東京都区内に入る途中、茅ヶ崎にて北上、立川市の女性総合センターへ立ち寄る。
東京芸大大学院を卒業、室内楽のコンクールでも入賞しているお二人とか。羽石さんは、室内楽の演奏会シリーズ「Sempre vivo」(常に生き生きと)を主催する、Octaveという団体を主宰、今回が6回目のコンサートという。
佐々木さんは、この夏の「PMF」にも参加、コンサート・ミストレスも務められたとか、現在は英国の国立音楽院在学中。
前半はバルトーク。ラプソディ第1番と、Vn.ソナタ第1番。後半は、ベートーヴェンのVn.ソナタ第7番ハ短調。
なんと硬派なプログラム。しかし、聴いての印象、強く惹かれるものあり。強い求心力。集中力。
まずもって、佐々木さんの鋭い目の力に感じ入ったのだが、演奏もそれに相応するように、とにかく凄かった。ラプソディの冒頭から、粘着質なムード、たっぷりとした音色で素朴でありながらも力のみなぎる旋律を歌い上げるのだが、そこからして尋常ならない雰囲気があった。余裕さ、貫禄も心憎いほどに見え、どっしり大地に根を張った野太さ、微動だにせぬ確信が音楽を貫く。
民俗的な音楽、と簡単に言うけれど、ここで聴き取れたバイタリティ、生命力の謳歌、これこそ血肉に染み付いた音楽、という雰囲気がバルトークの音楽そのものと、佐々木さんの演奏両方に感じられる。作品の方向性と演奏の方向性、この一致、十分意識させてくれた。
一方のソナタは、とにかく、難解。第3楽章に至って、やっと、民俗的な雰囲気もあり、舞踊的なリズムと若干の親しみやすさが感じられるが、前2楽章はとにかく緊張感だけ強いられる・・・・でも、演奏家の気合、これがジンジン伝わるのだ。決して、退屈はしなかった。充実した演奏だからこそ、私にとっても(むずかし過ぎるが、あきらめず)鑑賞の対象となりえる。ちなみに、フィナーレ、民俗舞踊風なものだが、ピアノの強烈な和音打撃、さらに一心不乱に動き回るVn.の音符の連続など聴き応え、見応え満載。このリサイタルに先立ち、我が家にオイストラフのCDあり(ショスタコのソナタと併録。実は今までバルトークの方はろくに聴いたことはなかった。)、予習して行ったが、音色やら、質感やら、オイストラフに充分匹敵するものを感じ、凄いです。
楽器そのものも王立音楽院から貸与のものとのことで良い楽器なんだろうけれど、また、300人ほどの小ホールということもあるだろうが、とにかく、楽器の音がホールを充満させ、鳴り響く、鳴り渡るという感じ。輝かしく充実したVn.の存在を全身に浴びて、快感でした。ピアノの完璧なサポートも好感度高し。
ベートーヴェンは、バルトークほどにガツガツ弾き込む曲種のものでもないが、骨太な雰囲気は続く。凛とした、鋭角的な表現。
始めて、全曲を意識して鑑賞する。音楽検定の出題問題で冒頭を聴き、また、昨年の長野、飯田市での「アフィニス夏の音楽祭」の公開レッスン、など、自分にとっては、部分的に聞いた程度のもの。
例によっての、ベートーヴェンのハ短調。第1楽章は、冒頭、はるか「運命」の冒頭を想起させる、曲頭に置かれた2つのぶつ切り状の主題提示。第2主題は、「アフィニス」でも講師の方が言っておられたが、当時の政治情勢を反映した「軍隊行進曲」の曲想。Vn.ソナタにまで、持ち込むのが彼らしい。
第2楽章は、美しいカンタービレ。主要な旋律が戻る時、本来、変イ長調の主題が、へ短調で和声付けされる部分のなんと切ないことか。美しい。第1楽章との対比という側面では、同じくハ短調の「悲愴ソナタ」の第2楽章もちらりと思い浮かぶ。そして、「第九」の緩徐楽章をはるかに思わせるような、平和な世界への警告のようなコーダ付き。しかし、どうも、この作品においては余分な部分とも聞こえる。
第3楽章は、プログラムによれば、「少し酔っぱらったような千鳥足、うた、笑い声」。リズムの面白さ。
フィナーレは、2つの主題ともに、あまり独創性を感じさせない、正直つまらないものだが、先行楽章を統合するに足る、緊張感を感じさせる短調主導の楽想。
このソナタを聴くことで、ベートーヴェンが初期から書き続けたハ短調諸作(ピアノ・ソナタ、Vn.ソナタ・・・それ以外にも私は未確認ながら、室内楽なども少なからずある)が、「運命」に向かって少しづつ前進していく様がおぼろげに浮かんできた。最近の私の相言葉にもなってきた「限られた人生」、ベートーヴェンの全作品を聞き通すことは叶わないだろうが、せめてハ短調だけでも制覇したいもの、と思った。ベートーヴェンの境地、最近、惹かれ始めている。文献も読みあさり、彼の「不羈性」に興味を持っていることも手伝って。
アンコールは、ベートーヴェンのロマンス、へ長調。ただ、これはもう少し可憐な、簡素な雰囲気で聴ければ、というのが正直な感想。ここでも、貫禄が全面に出て、堂々とし過ぎてたか。
全体としては、やはり、満足度の高い、素晴らしいリサイタルであった。特に佐々木さん、留学卒業後、また聴く機会あれば是非とも。さらなる成長を待ち望みたい。覚えておいてよい逸材とお見受けしました。
あとは、余談。
立川から中央線、吉祥寺にて、懸案だったスウェーデン料理「アルトゴット」にてディナー。美味しさは「ガムラスタン」から変わらず。
翌日は、東京都庭園美術館にて、「幻のロシア絵本 1920−30年代展」。ショスタコーヴィチの書いた映画音楽「おろかな子ネズミ」の元になった絵本も見ることが出来て感激。復刻版も購入。
ロシア・アヴァンギャルドが注目浴びる時代と、最近とみに感じる。ロシア・アニメ。ポスター。デザイン。そして、今回の絵本。いろんな企画展を日本各地、追っかけてきたなあ。一度それらを総合してまとめてみたいもの。
(2004.9.20 Ms)
August ’04
8/19(木)〜21(土) 第16回アフィニス夏の音楽祭 より
先週に引き続き長野県ネタとなります。
飯田で行われるこの音楽祭を訪れるのも今年で4回目。そもそもの発端は、ショスタコーヴィチの室内交響曲(弦楽四重奏曲第8番の弦楽合奏用編曲)をやるので、公開練習を聞きに行ったのだが、ドイツ人講師陣の演奏を間近に見聞きし感激しきり、決してそんなに遠くないし、と毎年の年中行事となり、訪れるごとにみっちりと音楽祭をくまなく楽しむ。
弦・管を指導する講師陣は、日本人の四方恭子氏(ケルン放響コンマス)含め、ドイツの現役奏者、教授たち。彼らが、日本のプロオケ奏者に、個人指導、さらに、一緒に、オケや室内楽を練習し、その成果を、飯田での2回の演奏会、東京での1回の演奏会として披露。飯田での2週間ほどの滞在のなかで、地元での、病院、学校でのコンサート、さらには、滞在するホテルのロビーでの深夜に渡るセッション、と盛り沢山の内容。
今回、見学させていただいたのは、以下の通り。
室内アンサンブルとして、
ブラームスのセレナーデ第1番作品11の九重奏版
プロコフィエフの五重奏曲作品39
ストラヴィンスキーのダンバートン・オークス協奏曲
シューマンのピアノ五重奏曲作品44
オーケストラ曲は、シューマンの交響曲第4番
その他、マスタークラスとして、Vnの個人レッスン2人。
弦楽四重奏の公開講座。
飯田病院での「ふれあいコンサート」。
ホテル・ニューシルクでのラップ・セッション。
室内楽の練習が、いつも楽しみであり、かつ満足度も高い。広いホールではなしに、会議室などを練習会場として、下手すれば2,3mの距離で、音楽を全身に感じさせてくれる。もう、これはやみつきです。日によっては、ホール練習も見学しますが、普通に聴くホールでの音響が物足りなく感じてしまうほど。
ブラームス、プロコフィエフは、特に感激。
ブラームスは、本人が最初に書き上げた九重奏版が現存しないため(ブラームスは、オケ版のみ残した)、後世において編曲しなおしたものでの演奏ながら、弦4種に、Fl,2Cl,Fg,Hr,を加えた編成、これが、オケに匹敵するほどの豊穣な世界なのだ。要所に講師陣を配して(メンバーとしては、Vn.Vc.Cl.Fg.の4人)音楽を引っ張りつつ、細部にこだわりつつ音楽を作ってゆく過程を見られるのも嬉しい。その中で、受講生、N響、Fl奏者の甲斐氏、さりげない主張もあったりで、そんなやりとりも面白い。(ちなみに、帰宅後、オケ版のCDを久しぶりに聴き直すが、断然、室内楽版のほうが優れている。室内楽での演奏が主流になれば、このB級あつかいの作品ももっと普及するんじゃなかろうか。後の交響曲(特に1番)、協奏曲(特にピアノの2番)などのブラームスを思わせるパッセージ、和声、リズムなど満載で、捨て置くには惜しい、名曲!!と、今回の演奏に接して痛感。)
プロコフィエフは、始めて聴くもの。Vn,Va,Cb,Ob.Cl.の5人という珍品。
1923年に書かれたバレエ音楽からの編曲らしいが、私が今までに聴いた彼の作品のなかで最も前衛的。どぎつい和声と、不気味なまでの楽想の連鎖。これは、隠れ名曲の発掘現場に久しぶりに立ち会わせていただいた、感謝。ただ、前衛なれど、リズム、旋律線はわかりやすいし、歌になっている。その根本があって、不協和音を塗り重ねた感じ。こちらも講師陣が要所におり(Vn.Cb.Ob.)、激しい演奏を繰り広げる中、受講生も匹敵するくらいのがんばりを感じ、音楽全体としてスリリングな興奮に満ちたものとして素晴らしいものだった。・・・付記。Cb.の使い方が尋常でない作品である。プロコに関心を寄せる方々は、一度、生で聞くことをオススメしたい。
(プログラム・ノートからの抜粋も参考に・・・「曲は6つの楽章からなるが、いずれもコントラバスの重低音に支えられたどぎつい色彩の音響が特徴。とりわけ奇怪な旋律が支離滅裂な発展を遂げる第1楽章、市場の喧騒を思わせる第3楽章、ほとんどジャズのような第5楽章は印象的だ。」)
これは凄いよ。講師の方も、その難曲を軽々とこなしつつ、そして、音楽づくりにおいても主体的・主導的に役割を果たし、演奏の要所要所で、隣の受講生であるVa奏者側に傾いてアンサンブルの確認を促したり、練習風景としては、このコマが一番心に残っている。
ということで、メンバーに敬意を表して、ここに掲げておこう。
Vn.シュテファン・ヴァーグナー (北ドイツ放響第1コンサートマスター)
Va.池田美代子 (群馬交響楽団)
Cb.イエルク・リノヴィツキ (元・北ドイツ放響ソロ首席)
Ob.ヴァイト・シュトルツェンベルガー (ザールブリュッケン放響首席)
Cl.糸井裕美子 (ケルン音大卒)
ストラヴィンスキーは、さすがに人数も多く、指揮者付き。若手で将来の有望株、下野竜也氏。彼のほぼ1m真うしろでの鑑賞。こんな経験はまずないでしょう。
複雑な変拍子が最大の特徴であり、また難所でもあろうが、まとまりの良い演奏を聴かせてくれた。細かいニュアンスへのこだわり、例えば、影響を受けたであろう、ジャズ的なアクセントの、何気ない部分での強調、フーガ的な部分の効果的な聞かせ方の処理、てきぱきと限られた時間でこなしてゆく。また、第2楽章冒頭の、ぶっきらぼうな、低音Fg.の一発の繰り返し、この1つの音をとっても十分に音楽的な表現をする受講生に向かって、指揮者は、「プロの方に対して大変失礼ですが・・・」との前置きの後、「始めて素人の人がFg.の音を出したような雰囲気でお願いできませんか・・・」、・・・なんとも下品でコミカルな雰囲気へと早変わり。この辺の、引出しの多さ、奏者には要求されるが、あまりに、指揮者の要求にはまり過ぎで、私自身、笑ってしまった。うまかったな、あのFg.は。それにしても、人形劇場(ちなみに、飯田は人形劇が盛ん、とのこと)という狭い会場で、奏者が10人超で、4人くらいしか聞いてないシチュエーションは、こっちも緊張してたが、その緊張を解くFg.でもあったか。ただ、全体としては、講師の割合が少なく、特に低弦がいなかったので、迫力、総合力としては、上記2作品に比較して、感激の度合いはやや少なし。
あと、個人的な耳の問題だが、プロコの「前衛」と、ストラヴィンスキーの「前衛」の質の違いが、よく聞き取れた。後者には、前者ほどの連続する「歌」はない。調性的な旋律の断片はあるが、プロコがどんな前衛となっても、ずっとついてまわる「歌」はない。ストラヴィンスキーは、絶え間ない変拍子も手伝っているのだろうが、歌わせない、といった感を強く持った。
こちらも、敬意を表して・・・Fg.は、新日フィル、石川晃氏でした。
オケ練習、シューマンの4番は、始めての顔合わせを見学。にしても、いきなり、これだけ指揮のタクトの元に収斂した立派な演奏なんだから、さすが、というしかない。弦も重厚に鳴りつつ、美しい。ホルンの壮麗な存在感も感激。突然のピアノ(弱音)の効果なども、今までの体験以上に強調されていたのが良かったし、フィナーレの第2主題の、同じ音系の連鎖のなかに異なった色彩感を次々紡ぎ出すさまなど、ほれぼれしてしまう。繊細さと大胆さ、見事にバランスの取れた魅力ある、シューマン。こんな演奏ばかりなら、「シューマンのオーケストレーション不器用説」など出る幕なし。一期一会の演奏、それに賭ける奏者たちの意気込みをおおいに感じた練習であった。ちょうど、時期を同じくして一期一会に賭けるオリンピックとも重なり合う、人間存在の美、をこのシューマン演奏に見たようだ。
(2004.8.28 Ms)
マスターコース、Vn。私の見学させていただいた枠では、講師、ヴェルナー・グロープホルツ氏(ミュンヘン・フィル第1コンサートマスター)によるもので、受講生は、藤村政芳氏(東京フィル)、小森絹子氏(セントラル愛知)。
まず、藤村氏、シューマンの1番のソナタ、とのスケジュール表だったが、行って見るとブラームスの2番のソナタ。もう既に完成された演奏、といった貫禄すらある。音量もあって豊かで野太いイメージだ。講師の方も、いきなり「I’m sorry.」言うことなし、といった感じか。(英語はあえて訳してくれなかった・・・詳細まで聞き取れず。ドイツ語は、ピアノ伴奏の方が見学者のために訳してくれるのだが)ただ、姿勢だけが気になったらしく、演奏中も、肩に手を差し伸べて、姿勢を正そうとしていたのは面白い。曲は、ソナタの1楽章と思われる。田園・牧歌的なムードのもの。技巧誇示的な要素はほとんどない、柔和な作品との印象・・・まだまだ私もこの作品は未知なるものにてコメント少々でご容赦。
続く小森氏。次週(8/25)は、名古屋に帰って、ショスタコのソナタを演奏することもあってか、そのソナタを課題として選曲したようで楽しみにしていたのだが、いざ始まってみると、どうも様子が変・・・フランクのソナタじゃないの。ガックリ。でも、女性ながらも、精力的なタフな演奏。十分に楽しめた。特に第2楽章はそのタフさが全開で魅力的だった。フレーズの最後の音処理がテヌート不足で、やや甘さも感じないではなかったが、概して不満残るものではない。
弦楽四重奏公開講座は、講師、シュテファン・ヴァーグナー氏(北ドイツ放響第1コンサートマスター)で、受講生は、都響メンバーで構成されたオロール弦楽四重奏団。ベートーヴェンの10番「ハープ」第1,2楽章。確かに、ピチカートが多用されて、「ハープ」の愛称はなるほど、と。ただ、曲の魅力にやや欠けるなあ。
飯田病院ふれあいコンサート。8/20(金)午後6時30分開演。
1時間ほどのミニ・コンサート。講師、受講生による地元還元のコンサートの一環。土日には小学校体育館でのオケのコンサートもあるが、私は、飯田駅近く、宿泊ホテルから近いこともあり、この無料の室内楽コンサートに顔を出した。
@ハイドンの弦楽四重奏曲「日の出」第1楽章。
飯田病院1Fロビー、吹き抜けの広いホール状の空間、ガラス張りで、飯田を取り巻く山々を見ながら、落日の雰囲気を感じながらの「日の出」である。確かに、アレグロながら、静かなロングトーンの和音の中、上行する1本の旋律線が立ち昇り、「日の出」のイメージは喚起されよう。ただ、こういった、演奏会用の空間でないところで、やや緊張感の高い、弱音と休符の支配する主題提示という作風の作品は、聞く側に、なかなか辛さもあったか。解くにコンサートの冒頭の曲だし。ハイドンなら「ひばり」とか、の方が聞きやすかったかな。勝手言ってすみません。
演奏は前述のオロール弦楽四重奏団。
AモーツァルトのVn.とVa.のための二重奏曲 K.423。
講師二人による演奏ながら、やや不調、という感触。曲としても、シンプルに過ぎ、全3楽章、10分、残念ながら私の耳では興味の持続ならず。
Bグノーの小交響曲 第2、3楽章
管楽合奏による作品。作品自体さほど魅力溢れるものとは感じず。中庸に過ぎる。何らかのインパクトが欲しくなる。中間楽章、ということもあるか。
Cサン・サーンスの「白鳥」
講師の方のソロで、かなり、ロマンティックに堂々たる演奏を聴かせていただく。もっと簡素にシンプルに流す方が「白」のイメージで自分の耳には馴染んでいるが、高音域に上昇する線もおおいに歌いこんだもの。これはこれで演奏として成り立っている。自分の中の既成概念を崩す演奏で、興味深い。自分にも曲によって様々な思いこみはある。いろいろな経験、必要ですね。
毎年のこの病院のコンサートでの定番曲とのことです。
Dメンデルスゾーンの弦楽八重奏曲 第1楽章
講師勢ぞろいによる演奏。ロビーに組んだひな壇の狭さもあってか、左右に広がり過ぎてややアンサンブルの乱れも感じられたが、室内楽ながらも豪快な豊穣な響きを堪能させ満足いくものであった。
ロビー一杯に、どうだろう500人前後の聴衆を集めてのコンサート。入院している患者さんも優先的に前の方で鑑賞。この病院では、結構本格的なコンサートをこのロビーで定期的に行っているようだ。その姿勢におおいに感銘を受ける。無料でこれだけのレベルのコンサート、定例的に行われているのだ。全国でもそうそうないでしょう・・・北ドイツ放響やザールブリュッケンのトップ奏者の演奏をこんな至近距離で聞けませんて。
(2004.8.29 Ms)
盛り沢山のアフィニス体験であったのだが、最後に、ホテル・ニューシルクでの、ラップセッションについて。
音楽祭の期間中、毎夜9時30分から、ホテルロビーにて、受講生、講師交えて、即席のアンサンブルを楽しめる、という趣向。ロビーに大量の楽譜が用意され、また、お酒やつまみも!!ビール片手に悦に入ってしまうなあ。
8/19のみ私は聞く機会を得ましたが、その内容としては、木管五重奏による、「くるみ割り人形」から「小行進曲」「トレパック」。Ob.Fg.3Hr.の5人による古典風なもの。2Ob.Eh.というオーボエ族のみの3重奏でジョプリン風なジャジーな一品。一挙に大編成の作品で、ドヴォルザークの管楽セレナーデより第1,3,4楽章。バッハのブランデンブルク協奏曲より、Vn.と2Fl.をソリストにしたもの。ドヴォルザークの弦楽三重奏(2Vn.Va.)。ベートーヴェンの「街の歌」(Cl.Vc.Pf.)。珍しいCb.の三重奏。このあたりで、日付が変わったので退去・・・。
編成としては、オーボエのジャズというのが面白い。迫力では、管楽セレナーデ、添え物のような、チェロとコントラバスが俄然がんばって、低音を支え、というか、存在感が前面に出ていて楽しい。講師陣の面目躍如だ。プレーヤーとしては、N響Fl.甲斐氏が、「くるみ」とバッハで、奮闘。特にバッハは、他のソリスト2人が壮絶なソロを聞かせるなか、一番地味な役割ながら、対等に張っていたという印象。また、昨年訪れた際に大活躍だった、都響Vc.江口氏、今回は「街の歌」のみ聞かせていただく。チェロがそんなに活躍するものでもないが、さりげなく、何気ないところでも美しいフレーズを聞かせてくれた。
3日間、生の音楽をたらふく楽しませて頂く。新たな作品との出会いも楽しい。普段耳にしない音楽も、集中して聴き込み、決して「大好き!」な作品でなかろうと、演奏という行為が私を魅了させてくれる。奏者と聴衆の近さ、このシチュエーションを体感すると、正直、ヤミツキです。実は、この3日間、もっとも物足りなく感じたのは、大ホールでの練習。他人事のように聞こえてしまう。室内楽特有の奏者同士の真剣勝負を、同じ高さで、狭い空間で間近に観戦。音楽創造の現場の臨場感、たまりません。今後も行ける限り、生ける限り、夏の飯田に通いたい。
さて、最後に、飯田滞在を支えてくれた、飲食店の皆様に感謝の意を表して紹介。地元情報誌などから仕入れて、話題の店で昼食、夕食を。
今回の体験ではダントツで、インド料理の「クリシュナ」(駄科<だしな>という地名。珍しくもユニークな)。ユニークなまだ若い30歳ちかいオーナーさん。インドから料理人連れてきて、かなり精力的に、こだわりをもって本当のインド料理をこの飯田の地にての紹介を努めてみえる。一度、訪れて、メニューをしっかりご覧いただきたいもの。面白いです。ちなみにアンケートに記載したところ、お葉書が自宅に送られてきました。心あたたまりますねえ。また、来年夏の再会を期して。
その他、イタリア系で、「南イタリア厨房 ひよっこ」(上殿岡)。夏野菜ペンネ。
洋食系で、「洋食屋 あんぶりん」(鼎)。トマトハンバーグが美味。
また、今回は、西洋割烹「吉祥寺」さんのディナーは惜しくも割愛。ただし、前週の蓼科行きの途中で昼に寄らせていただいている。
以上は、飯田市内編。
その他では、飯田へ行く道中、長野県の最南端、根羽村の「角井」。とろろが絶品。漬物もおいしく、また、帰りに寄っておみやげに。ネット上でも熱烈ファンがみえるようで、とろろの本場、静岡の丸子宿より美味しい、なんて意見もあったりで評判上々。
今年の夏は、長めの旅行も不可ということで、近場で簡単に。でも、この幸福感は忘れ得ぬ。そう言えば、今年の夏は、「室内楽」づいていた。夏休みの自由研究になりそうなくらい、いろんな体験して、思い出しつつまとめるのが面白くなってくるほど。実はまだ他の体験も書き切れてないので、おって、遡って、紹介したい。
(2004.9.2 Ms)
8/13(金) 柏木ミュージアム・コンサート
場所は、長野県の蓼科高原。標高1500m、蓼科ビレッジ、別荘地帯を縫って進み、山を奥深くどんどん登って、「化石の森」柏木博物館の展示室にて、魚竜の化石をバックに、アンモナイトが足元にゴロゴロ転がっているようなシチューション、驚きだ。そんな展示室にパイプ椅子を並べて80人限定のコンサート。何とも不思議な雰囲気ながらも贅沢に。
バリエールのチェロ二重奏曲。アレンスキーの弦楽四重奏曲作品35。シューベルトの弦楽五重奏曲。
曲目をこれだけ並べて、ピンと来たらたいしたものだが、・・・・・。チェロをたっぷり堪能するコンサートである。シューベルトの五重奏は、弦楽四重奏にチェロを1本追加したもの。ブラームスならヴィオラを追加しているのだが。また、珍しいアレンスキーは、通常Vn.が2本のところを1本のみ、チェロを2本にした特殊編成。プログラム通じて、チェロ2本が醸し出す豊かな響きが堪能できるというわけ。
Vn.佐分利恭子(「分」の字は本来は人偏が付きますがワープロで表記不可にてすみません)、森田昌宏
Vla.鈴木るか
Vc.桑田歩、原田哲男
(うち、森田氏、桑田氏はN響奏者としてもお馴染み)
今回、シューベルトしか出番のない森田氏の司会進行にて(いきなり、マイク故障とのハプニング付き)、まずはチェロの二重奏。曲紹介の時は「チェロ二重奏のためのソナタ」と言ってみえた。バリエールが何者かは??? 3楽章制で、多分にバロック的。特に第2楽章の主題における細かな動きは、バッハの無伴奏Vn.ソナタ1番第1楽章の最後の小節の動きにも似たもので、それをチェロにやらせてしまうのが凄い発想である。とてもわかりやすく、聴きやすく、こういったコンサートに向いたオープニングであった。
次のアレンスキーのセッティングまでの間、チェロ奏者お二人を捕まえて、チェロの魅力、などのお話。音域広く、合奏しても、オーケストラに匹敵する幅広い表現が可能、と。Vn.だけでは無理。なんてVn奏者を目の前に言い放っておられたが、確かにそうなんだからしょうがないか。
アレンスキー作品、果たして、チェロ2本にした意味がどれだけあったか?などと懐疑的に聴いてはいた。今回、始めて聴く作品ということもあり。
ただ、曲の冒頭に、ロシア聖歌風な、短調で厳かなコラールが置かれ、また、当初、弱音器付きでささやかながら、再現部では堂々出現、また、第2楽章の後半でも懐古的に再現など、何度か聴くうち、そのコラールが、チャイコの「1812年」冒頭の聖歌と同様、同音が延々続く形であることに気付き、そのイメージからか、チェロの合奏風な、さらに、男性合唱風な感覚をコラールから感じ取るに至り、この作品の中心的楽想の一つとなっている、この冒頭コラールのイメージが、チェロ2本、という編成を選ばせたか、と感じた。
ちなみに、この作品自体は、チャイコを敬愛していた彼が、チャイコの死を悼んで作曲したもの。第2楽章に、その思いは凝縮され、この楽章のみは、単独で弦楽合奏にも編曲され、「チャイコフスキーの主題による変奏曲」なるタイトルで演奏されていることからもわかる通り、チャイコの、あまり有名ではなさそうな、とある小品から主題を借りたものとなっているらしい。原曲は私は知らないもの。さらに、ちなみに、アレンスキー自身は、ラフマニノフの師でもあり、ロシアの両巨匠をつなぐ重要な作曲家、ということらしい・・・が、彼の作品自体、始めて聴く機会を得たもの。
第2楽章の変奏曲は、やや冗長な気もしないではないが、単純な、素朴な、いかにもロシア的な、悲しげなメロディから多彩な変奏としてつないでいて、これまたわかりやすい。
チェロの高音域に旋律が移って、その伴奏で、もう一人のチェロが低音のピチカートなど織り交ぜて伴奏するあたりは、通常の弦楽四重奏では不可能な、豊かさを感じる。
また、これまた、いかにもロシア的な、コサック・ダンス的な楽想の変奏は、チェロの硬質なピチカート伴奏が大変に印象的。楽想が変転する変奏曲という形式にあって、このチェロのイニシアチブは、曲の安定性を確かにするもので、好感大である。
最後は、旋律線が反転して、新しい旋律が生れ、カンタービレな雰囲気を全面に出してくるのだが、この伴奏が、チャイコの「アンダンテ・カンタービレ」の第2楽章中間部の伴奏そのものだったりして、興味深い。故人の追悼の気持ちを変奏曲形式を使用して押し進めた結果の、このあからさまな引用は、意外と心を打った。また、主題の旋律線をひっくり返す、という発想は、それこそバッハのフーガとかでも見られるが、アレンスキーのプロフィールを知ってしまうと、弟子であるラフマニノフの変奏曲作品たる「パガニーニ・ラプソディ」を思い出さずにはいられない。まさに、懐古的雰囲気に満たされたこの作品の、最も有名な変奏部分、これこそ、このアレンスキーの最後の変奏と同じ発想なわけだ。ラフマニノフも、この師匠の発想、知らぬわけはあるまい。このアレンスキー作品に、チャイコは当然ながら、ラフマの面影もチラチラ・・・音楽史上の重要性は確かに認識できた(蛇足だが、ラフマの「パガニーニ」において、<ラドシラ・ミ>という上向の旋律線が、例の変奏では<ラファソラ・レ>という下向きの線になっている。それと同じ発想で、<ミーミレ・ソー>と下る旋律線が、<レーレミ・ラー>という風に変奏されている。)。
長い変奏曲楽章の後、第3楽章で、沈痛な先行楽章までの雰囲気を乗り越え、祝祭的な、これまたいかにもロシア風な、5音音階的な性質を持った3拍子の楽想が出、余り長くなく、コーダも加速して、熱狂しつつもさらりと全曲を閉じる。第2楽章の長さとのバランスが悪いようにも思うが、さらに冗長な後続楽章であるよりは、随分救われた気分であり、曲全体の印象を悪くさせずにすんだのは幸いか。
休憩中は、各々、化石の展示を楽しみ(かなり、貴重だと思われるものが多数、見ごたえあり)、館長さんのお話などもサービス。化石収集の苦労話。
後半のシューベルト、これが、また、1時間近い大作。最晩年、最後の大曲という。そして、見事に、後年のブルックナーの作風を予見させる、後期ロマン派の香り高き、重要作、である。第1楽章の第2主題など、「ロマンティック」のそれに酷似した雰囲気だし、第3楽章、荒いスケルツォに対し、瞑想的な、それも、主部ハ長調に対する、半音上の変ニ長調のトリオも、ブルックナーそのものではないか!!
演奏に先だって、「作品の中に「晩年」らしさがいろいろ聞き取れるのでは」といった説明あり、私は、この「ブルックナー」的なるものが、「晩年」風かなと感じ取った次第。
また、この作品で特筆すべきは、第2楽章の主部の持つ、崇高なアダージョ楽章的性格。まさしく、ベートーヴェンの「第九」への接近が感じられ、この楽章の神々しさは、古典派を超越し、前期ロマン派からも逸脱した特異なものと感じた。(ただ、このアダージョには、短調の情熱的なパッセージが中間部に折りこまれ、これは、構成感としてはショスタコの「レニングラード」そのものだったりする。余談です。)
・・・・曲解だが、シューベルトの最後の交響曲「グレート」も、ベートーヴェンを意識した大作、なれど、下敷きに「第九」があったとは言い切れないような気がする。序奏付き、緩徐楽章にやや前向きな楽想を持って来た、となれば、ベートーヴェンの7番を元にしてるのか??、リズム・パターンの展開を主眼に、とりあえずは「ベト7」を超越せんとする大曲として仕上げた感があろう。
それに比較して、この五重奏曲は、曲全体の拡張指向に加えて、緩徐楽章に明らかなる「第九」指向を感じ、ひょっとして、シューベルトが、生き長らえたとするなら、この五重奏の成果を、交響曲に生かした、さらなる、「グレート」、つまり、「第九」を凌駕せんと言う野心に燃えた、一種、ブルックナーを半世紀先取りする交響曲が生まれ得たのではないか、とすら想像するのだ。・・・・ただ、私は、ブルックナー愛好者ならず、全くカン違いな話ならば、申し訳ありません。
一方、第4楽章の第2主題などは、主題がその調性の主和音から開始されないもので、例えば、シューマンの「ライン」のフィナーレ冒頭と同じ和声的特徴と、旋律線を持っている・・・この傾向は、シューマンの好んだ作風のようで、シューマンへの影響なども大きい、か。
そして、第4楽章は、展開部の冒頭で第1主題を再現させて、逆に再現部で、第1主題の再現を欠いているという点で、ブラームスの交響曲第1番のフィナーレの形式的な面における元ネタ、となっており、これまた興味深い。
シューベルトが、この作品において提起した数々の特徴こそは、ドイツ・ロマン派の推進力そのもの、といっていいほどの重要性を秘めていた、というのが私の結論。ショスタコとの関連は、この際、置くとして、「第九」そして、シューマン、ブラームス、ブルックナー・・・・これらと密接・直接結ばれた、この弦楽五重奏曲、これ知らずして、ドイツ・ロマン派交響曲を語るのは、シューベルトに対する非礼、やも知れぬ。一度、確認することをオススメしたいですね。
さて、演奏自体は、とにもかくにも、チェロの重要性の認識、これに尽きるくらい、その存在を感じさせた演奏。重要な旋律を、チェロで提示する場面も多く、さすがN響奏者(桑田さん)、と思わせる貫禄はあった(特に第1楽章第2主題は、心ひかれるもの。)。やや、音色としては素朴な味わいで、華麗さには欠けたか。でも、その素朴さに似つかわしい楽想であろう。・・・また、ただ、チェロの存在感に比して、ヴィオラが、弱く感じられ、その中声部の充実がさらにあれば、弦楽「五重奏」の厚さがもっと感じ取れたであろう。また、曲の長さ、ゆえ、かとは思うが、第3楽章以降の、1st Vn.の演奏に乱れが若干感じられ、アンサンブルとしても、まま不安を感じさせた部分も出てしまったのは残念。
曲そのものの話として追記。弦楽五重奏曲なれど、ブラームスほどの込み入った書法は見せておらず、比較的すっきりとした音符からなっている。旋律をオクターヴで重ねたり、機械的な音系があまり意味もなさそうに微かに聞こえていたり、ブラームス的・対位法的・重厚さは望むべくもなし。第3楽章スケルツォの和音の重ね方が、民俗土俗的な雰囲気もありつつ、ドイツ的重さ、は感じられたけれど。
第2楽章の、崇高なアダージョも、よくよく聴けば、内声3人が、ひたすらコラール。1st Vn.がメロディならぬ、動機断片を紡ぎ、2nd Vc.が、ピチカートで相の手、という、単純すぎるほどの作り。それでも、心を打つ雰囲気を醸し出している・・・・、旋律の力なくとも、和声だけでこれだけの世界を創れるのだから、やはり、天才のなせる技。複雑だろうと、単純だろうと、やはり、天才の仕事は違うものよ。シューベルト、交響曲や管弦楽曲だけで、判断されたら、かわいそうだ。機会あれば、まだまだ感激させてくれるに違いない。
さらに追記、シューベルトの作風、古典派からすれば、自由な転調、調性選択が面白いのだが、特に、第3楽章の、ハ長調の主部と、変ニ長調のトリオの差は、凄い効果をもつ。この意外性が、意外なフィナーレの終結法の伏線でもあろうと想像するが、ちょっと面白い終わり方なので、その辺も未聴な方は、お楽しみ、と蛇足。
(追記:後で、スコアを見る機会を得たが、第2楽章も、ホ長調の主部に対する、へ短調というなんとも野心的な調選択、そして、第3楽章と同じく半音の差、である。古典派においては、4度、5度という音程差の転調が一般的。ブラームスあたりで、やや離れた調関係にある3度などが幅をきかすが、まるで、半世紀以上後のR.シュトラウスが、「ツァラトゥストラ」で、冒頭、ハ長調で「自然の主題」を出してすぐ、半音差のロ短調で次の主題提示を行うくらいの前衛的手法が、この二つの楽章を貫くわけだ。シューベルトの和声感の先進性は、もっと強調されてしかるべし・・・・やはり交響曲だけでは、なかなかそこまでの先進性は見えてこぬ。)
アンコールは、「ウェストサイド物語」から「アメリカ」。気の効いた編曲で楽しく演奏会を閉じさせてもらった。
とても、充実した気持ちで、未知なる作品ばかりではあったが、また来年も、と思わせるコンサートで良かった。下界の暑さを忘れさせてくれたシチュエーション、夜8時からの演奏会、終わってみたら10時過ぎ、気温は18℃といい、寒かった!!。また、電灯の皆無な夜道、山道を下りつつ、ふと、車を止めて、夜空を見上げれば、満天の星空、天の川、何年ぶりに見たことか。流れ星まで・・・・。ついつい見とれて時間を忘れる・・・・、こんな雰囲気でのコンサート、幸福感に満たされてしまうな。
化石と星空と・・・・なんだか、少年時代の自分が心の中に大きく大きくその存在感を増してきたようでもある・・・この旅の前に「バック・トゥ・ザ・フューチャー」U、VとBSでついつい見てしまった影響もあるかもしれんが、自分の心の中のタイム・トラベル、をよく感ずる。自分の人生の全体像のなかで、今がどうなのか、過去がどうなのか、未来がどうなのか、ついついそんなことがよぎっていく。
(2004.8.15 Ms)
追加・修正(2004.8.18 Ms)
追加(2004.8.28 Ms)
演奏会以外のネタも少々。昼はのんびり、山岳ドライヴを織り交ぜつつ現地入り。柏木博物館近くの横谷観音、展望台にて蓼科の森と山々を満喫。演奏会前に、諏訪インター近く、ほうとうの「小作」の、冷やしほうとう(おざら)、珍しい一品。通常の、豚肉入りのほうとうも美味。
翌日は、ビーナスライン・ドライヴ。その途中、北欧料理「ガムラスタン」は、11時半開店前から、長蛇の列。東京、吉祥寺店も最近閉鎖され、懐かしく、この地にて、スウェーデンの思い出を想起させていただく・・・・・吉祥寺店では、夜、比較的空いている時ばかりが記憶にあるが、こちらは、時期も時期だったとは思うが、満員でおお賑わい。メイン・ディッシュが、北欧的ではなかったのがやや残念ながらも、マリネなど、いつ食べても、美味しいものだ。
また、この幸福を味わいに、そして、涼を求めて、この地を訪れたいもの。信州のお隣に暮らしていて良かった良かった。
(2004.8.18 Ms)
8/1(日) 加藤訓子 ソロ・コンサート・シリーズ 「大地へ」
2003年9月の豊橋市における野外コンサートを聴いて・見て以来、その存在・活動を個人的に気にしているパーカッショニストである。豊橋市の出身とのことですが、どちらかの親の出身地が渥美町ということだそうで、コンサートを開催。わが愛知県の最南端、常春の地、渥美半島の先端、渥美町まで出掛けた。・・・ちなみに、実際のコンサートから1年以上たってこの記事を書く事となってしまったが、今、その渥美町は地図から消滅しました。隣の田原市に編入合併したのが2005年10月。月日の流れるのは早いもの。感慨深く、このコンサートを振りかえろう。
さて、その渥美町との縁、ということで、数年前にもこの渥美町でのコンサートを行っているとのこと。今や、世界的な活躍を続け、その実力を引っさげて、国内においても精力的な活動を続けている加藤さん、こんなにも渥美町を贔屓にして、町民の方々、誇るべきことでしょう。
コンサートの開始は、真っ暗やみのなか、舞台中央に置かれたマリンバから、素朴な「椰子の実」の旋律が流れ出す。そう、「名も知らぬ、遠き島より・・・」というこの歌は、この渥美半島に流れついた「椰子の実」を歌ったものである。
そして、加藤さんの代名詞とでも言うべき、ログ・ドラム・・・大きな丸太をくり貫いたもの・・・による即興演奏。これは昨年の野外コンサートでもお馴染みの趣向。まさしく「大地へ」というコンセプトの象徴である。「ログドラムによるインプロヴィゼイション」。
暗闇から、照明が明るくなり、舞台の全容が判明するや、舞台上部から、風変わりな毛筆による文字の書かれた垂れ幕のようなものいくつも掲げられているのが分る。これは、豊橋市在住の書道家、浜野龍峰氏による書、だそうな。このコンサートに先立つ7/18に、豊橋市からほど近い音羽町の、とある神社の昔から伝わる「農民舞台」(地名をとって「赤坂の舞台」と言う。「赤坂」は、東海道五十三次の宿場としても有名だ。)で、加藤さんの演奏と同時にその演奏に導かれる形で制作されたものという。その様子はビデオで会場でも紹介されていたが、円形舞台がグルグル回る中で、打楽器奏者と書道家があい対して自らのアーティスティックな感性をほとばしらせている姿が印象に深く残る。
その後、その年の秋、私はその場を確かめに「赤坂の舞台」を探索しました。こういう場でのコンサートなんてのも面白いだろう。神社の境内、鬱蒼たる木々の下での演奏。ちなみに、この辺、飛島時代の持統天皇の行幸からみの遺跡も多く、そんな歴史を踏まえながらの、舞台、興味深いものだろう。蛇足、ですが。
前半は、マリンバのソロをたっぷりと堪能。ご本人の編曲による「アメイジング・グレイス」。イラク戦争絡みじゃなかろうが、この旋律、頻繁に聞かれる世の中になってきたなあ。静けさの中に、オルガンのような低音を響かせながらしんみりと音楽が心に染み入る。マリンバの奥深い音色を楽しんだ。
シュワントナーの「ヴェロシティーズ」。マリンバでは定番のナンバー。ミニマル的な、細かなモティーフの積み重ねで、かなりの神経を使いそうだ。1995年に加藤さんが日本初演とのこと、オーソリティある演奏ということか。生き生きとした快活さが終始持続する。
続いてご本人作曲の「マリンバ組曲」からの抜粋。衝突、や、飛翔といった象徴的なタイトルからイメージされた作品。昨年の野外コンサートでは、そういった詳細は説明がなかったが、今回、そういったキーワードを提示していただいたおかげで、何かしらのイメージを浮かべて鑑賞できた。この作品もマリンバの特性を生かして、細かなリズミカルなモティーフの連鎖の中から大きなうねりや旋律線が浮かぶ。
なお、この「組曲」の一部は、COBAのプロデュースによるCDにも挿入されていることは特筆しておこう。その後私もそのCDは入手した。
最後は、有名曲でシューマン「トロイメライ」。どうも、このピアノ曲は、有名過ぎることもあり、マリンバでの違和感を若干感じた。
後半、バッハのコラールによる編曲で、権代敦彦作曲「最愛なるイエスよ、我らここに集いて」。パンフレットによれば変奏曲、のはずだが、主題提示だけで終わったようだ。時間の都合か。
マリンバを離れて、パーカッションによる演奏。ジェフスキの「To The Earth」。これも、加藤さんの代名詞的作品。植木鉢のようなものを4つ叩きつつ、ギリシャ時代の神を称える詩を朗読。1997年加藤さんが日本初演。かなり、不思議な作品。やや単調を感じないでもないが、面白い効果を出していることは確か。
最後は、ダイナミックに、舞台後方上段に沢山配置された太鼓群に埋もれつつ、クセナキスの「ルボン」A,B両曲を続けて。まさしく、「大地」を思わせる、たくましく、根源的な生命力を思わせるリズムの饗宴である。リズムだけなのに、構築性、形式感を確かに感じさせる。作品そのもの、楽譜もそうような意図があるだろうし、演奏する側もそれもきっちり把握できていると思われる。
アンコールとして、これも昨年野外コンサートで聴いた「ソーラン節」のアレンジ。
マリンバ以外の本格的なマルチ・パーカッションの作品も今回聴き、確かな演奏技量を堪能させていただく。昨年は野外のミニ・コンサート風(1時間くらいか)、今回はフルのコンサート。盛り沢山の内容。変化にも富み、退屈はしない。ドライブで1時間半ほど、渥美まで来た甲斐はあるというものです。
まあ、ただ、後半の最初に地元小学生達とのログ・ドラムの共演なる趣向があり、それが内容そのものや、そもそも出来として、このコンサートの内容との齟齬が気になり(堅いコト言うなと指摘されるかな)、また、その趣向のおかげでか、特に、後半、小学生が演奏中に走り回るような事態もあって、無音と有音の微妙な狭間に位置する繊細な打楽器の表現に、かなり不適な鑑賞環境になってしまったのが、とてつもなく惜しい。渥美町という土地柄での経緯、子供達にとって有益な体験の提供という意義は認めつつ、その趣向とこのコンサートとの融合の方法論については、やや疑義を持たざるを得なかったのが残念。・・・ただ、個人的には、この残念さこそ、翌年の加藤さんの豊橋公演鑑賞への伏線、ともなったのだけれど・・・。
(2005.11.10 Ms)
July ’04
7/29(木) NHK交響楽団 掛川公演
このところ、N響づいて、TV放送も欠かさず聴いているところ。なかなかに生で接する機会は少ないが、せっかく我が家の近くまでおいでなら、ごあいさつせねば気が済まない。ということで、県境を超えて、掛川市までドライヴ。
ただ、意外と近いな。高速使えば1時間。
名古屋に車で鑑賞に行くことはないので(駐車料金のお高いこと。渋滞はご勘弁。)、電車を使って行くのと比較しても、掛川のほうが時間的には近い、ということだ。クラシック音楽における名古屋の求心力の低さには、常々閉口しているところだが・・・・、もっと、私を200万都市、日本第3の都市、日本で最も経済好調な名古屋圏、に惹きつけて欲しいのに、どうも、私の足は、名古屋を通り越すか、逆を行くか・・・。今回もまた、大都会・名古屋ならざる土地での鑑賞とあいなってしまった。
それは、ともかく、台風10号が南海上で停滞する中、とんでもない天候になるのでは、と心配しつつも、風こそ強かったが、雨にたたられず、何より。太平洋沿いのルート設定で、浜名湖周辺を走るや、海はとんでもない状態で荒れくるってはいたが・・・・それはそれで貴重な風景ではあった。
掛川市の生涯学習センターのホールでの演奏会。そんなに新しい建物でもなさそうだが、ちょっと変わっていて、建物に入っても、外気とつながっていて、風は吹きこむ、生暖かな雰囲気。軽スポーツのできる人工芝(?)の広場も建物の中にある(屋根付き運動場みたい)。その外気の入るスペースから、扉一つへだてて、もういきなりホールである。チケットもぎりは、ホール扉のすぐ手前。
さらに、ステージ後方に楽屋もあるが、スペースが足りないようで、男性出演者の控室は、その、チケットもぎりの場所から階段で登った吹きぬけ2階の部屋。控室とステージを往復する、奏者の姿がまる見え。
なかなかに、アットホームとさえ言える、奏者と観客の距離を感じさせないコンサートであったわけだ。
ホール自体も1000人ほど収容くらいか。N響を聴く環境としては、今までになく近い。私は、ホールのほぼ最後方の席だったが、遠くは感じず、むしろ音楽を全身で受けとめることができた。扇型の客席配置、私は、低弦と向かい合っての座席。
曲は、前半は、モーツァルト、「ドン・ジョバンニ」序曲と、Vn協奏曲第3番。後半が、ベートーヴェンの「田園」。アンコールは、シューベルト、「ロザムンデ」間奏曲。指揮は、マーク・ストリンガー氏。Vnソロは、神谷美千子さん。
前半のモーツァルト。弦の統率と、美しさに尽きよう。決してベスト・コンディションなホールでもないとは感じたが、演奏に不満を感じなかった。時として、古い建物で大ホール、2000人とかの収容だと、音が飛ばないとか、バランスが問題とかありがちながら、今回はその心配はなかったので幸いだ。
独奏者について。モーツァルトの協奏曲ということで、イメージとしては、もっとヤワな、軽い雰囲気かと先入観を持っていたが、なかなかどうして、凛々しい、骨のある演奏と感じた。決してガツガツしてたわけでもないが、凛と、すっくと気高く、背筋正しい雰囲気(立ち振る舞い、ではなしに、音そのものなり、演奏が)。オケも、低弦など、音量的にも充実して(演奏会全体として、低弦の優位は印象的)、全体に典雅なムードながらも、やや、ベートーヴェンも視野に入ったかのようなキリッと締まった演奏という感じだ。
ちなみに、3番の協奏曲は、始めてしっかりと聴く機会を得たが、フィナーレで3拍子のロンド主題に挟まってくるのが、2拍子の音楽(パンフレット解説に寄れば、パバーヌ。)。展開が予想外で、面白い効果だ。また、同音連打や、トリル、装飾音符などに、ふとニールセンを感じたのは・・・・うーん私だけだろうか。ただ、このユーモアを思わせる感覚は、モーツァルトを尊敬していたニールセンにつながっていっても不思議はないだろう。そう言えば、N響定期で、ニールセンの6番を聴いた際、同時に演奏された、24番の交響曲も、軽いタッチの音楽性に、ニールセンの一つの側面との親近性は確かに感じたものだ。
後半の「田園」。弦も大幅に増強して、迫力と、重厚さに満足。ただ、テンポが重いということはなく常に前向きで心地よい。
特に、ヴィオラ以下の気合、第1楽章から際立っていた。主題の確保の部分の、ヴィオラ・チェロの移弦のスピーディなアクションなど、光線が出てきそうな勢いだ。
第3楽章の、トリオに向かう部分の低弦のイニシアチブなども良い。トリオそのものの民俗舞踊風な荒さも弦全体として素晴らしく良い。
また、第4楽章「嵐」の低弦の壮絶なパッセージも、こんなに聞えて来ると、もうゾクゾクしてしまう。大地を揺るがすような効果。これがここまでの音量で生で聴けるのは、そうそうなかろう。ホールにも助けられているかもしれないが、やはりプロの腕の見せ所だ(逆に、ティンパニは、古楽的アプローチで、ハードなバチで、余韻を多く含まず、また音量も控えめ、低弦をより浮きだたせる形を取っていた。)。
とにかく、この「嵐」は圧巻。ヴィオラに出てくる、分散和音の刻みの中に、拍の裏に現われる強烈なスフォルツァンドの効果も絶大。見た目にも「嵐」していた。
この強烈さあって、フィナーレの、豊穣なる牧歌が幸福感に満たされる。この説得力、ベートーヴェンならでは。でも、「運命」とかが最近の世相からますます、ウソっぽく感じられないではないなかで、この「田園」のフィナーレは、「ウソ」であって欲しくないし、また、本気で信じられるものだった。この幸福感、やっぱりN響、本物の音楽を見せつけ、聴かせつけてくれた。こうでなくっちゃなあ。
なお、第2楽章は、通常、冗長なつまらない雰囲気がどうしても漂いがちながらも、これも、決してもたれず、しかし情感豊かに、また、弦の中のバランスなども絶妙に統制しつつ、シューマン的なよどみに陥らない色彩感を感じさせ、これまた納得の作。絶え間ない音楽流れに「綾」を見た。その「綾」の立役者として、木管群も好印象。クラリネットの静寂スレスレの表現など絶品で。
今まで、私は「田園」を聴いてきたんだろうか?本物の音楽に気付かせてくれた演奏。「感謝」のフィナーレを聴きつつ、作曲家と演奏者に対する「感謝」に満たされた。このフィナーレこそは、何物を持っても替え難き幸福、である。
余談ながらそんな、掛川の幸福を、別次元で彩ってくれたのが、「本丸」のとろろ汁。数年前も訪れたころがあるが、掛川駅南、高速沿い。美味である。
(2004.8.8 Ms)
7/19(月) 颯田明子 マリンバ・リサイタル
この5月に、静岡にて山本晶子さんの打楽器コンサートを鑑賞し、おおいに感銘を受けたところ。前々から、たまに打楽器のコンサートも機会があれば聴いてはいたが、今、自分でも、打楽器の可能性などいろいろと模索していることもあって、コンサートに出向く。家庭の事情で演奏活動ができないという状況に追いこまれて、その穴埋めとしてのコンサート鑑賞でもある。本来は自分の演奏にあてられるべき1日であったはずだが・・・。
ロンドンでの王立音楽院留学の成果を発表する晴れの舞台。師である、リー・ハワード・スティーブンスの作編曲、及び、作曲家、マリンバ奏者として尊敬しているネボイシャ・ヨハン・ジフコビッチ(セルビア人で、ユーゴの紛争での経験が作品に色濃く反映しているという)の作品が、このコンサートの中心。
つまり、プログラムの最初と最後がジフコビッチ作品。実は演奏会終了後、2001年3月に私が鑑賞したマリンバ・コンサートにて、この颯田さん、留学前ながら、ジフコビッチ作品が大好きで、と、その作品を披露していたのだ。まさか、その奏者が、こんな形でまたお会いできるとは。
演奏会冒頭の「ウルティマトゥムT」はソロ作品。最後の「ラメント・エ・ダンツァ・バーバラ」は、マリンバ・ソロと3人の打楽器奏者のための作品。帰国記念で、この作品の日本初演を東京で行い、その成果を地元に持ってきたということ。
ジフコビッチ作品の全体像を知る由もないながら、セルビア出身ということで、変拍子の感覚などバルトークなども思わせる。マリンバの特性にあった作品を書いていると思うのだが、残念ながら、「ラメント〜」の方は私にインパクトは与えきれず。演奏自体、打楽器群がバランス感覚を欠き(どうもそういう傾向が、マリンバと打楽器のアンサンブルには付きまとう。打楽器奏者におけるデリケートさを再度念押ししたい)、また、音の華やかさ、華麗さのウラで、音楽そのものの存在が希薄に感じられる。
2曲目は、スティーブンス編曲による、ハチャトリアンの「イワンの冒険」。子供用ピアノ作品のアレンジ。片手で、同音連打、トレモロを要求する(普通、同音のトレモロは両手でするもの)高度な技術。音楽自体は、ごく普通の親しみやすいもの。
続いて、シュミットの「ガーナイヤ」。アフリカのリズムによる、いかにもマリンバのための、というハマリの曲。演奏効果も良い。
前半最後は、スティーブンスの作品で「リズミック・カプリス」。80年代に、自らの考案した各種特殊奏法を作曲家達にアピールする見本のような意味で書かれたようだ。具体的には、バチの柄の部分で、鍵盤の隅を叩いて音色を変化させたり、といったこと。
後半の2曲がかなり良い感触。大御所、パイオニアの安倍圭子作品。「竹林」。低音域のマリンバの奥深さ、これが堪能できる佳作である。今回のどの作品より印象深い。日本人としての感性が私に訴えかけるものが大きいのかもしれない。また、マリンバの特筆と楽想が見事に一致している。颯田さんも、是非この作品は聴いて欲しいとの意気込みも披露され、見事、「竹林」を描ききった。
続いて、バッハの無伴奏ヴァイオリンソナタ第1番からの抜粋。これは、5月にも、フーガを静岡で聴いたばかり。この作品もまたマリンバに適したものとして私は愛聴してしまう。ただ、今回、楽器やホールの特性などの相違で単純な比較もできないが、静岡での演奏の方が、マリンバの打音が極力控えられ、純粋な音が聞こえてきたような気がした。マリンバではないかのような不思議な世界を感じた。今回は、マリンバによる演奏、という意識が普通に感じられた。プログラムの最後の方で、耳がマリンバの音に慣れきったがための印象かもしれない。演奏自体は、心に響く、しっとりとしたいい演奏でした。
アンコールもまた、バッハの無伴奏からの抜粋。最後のあいさつにて、感極まっての涙、好印象でした。今後の活躍、期待しております。
(2005.6.6 Ms)
7/17(土) つくでの森の音楽祭 Duo Morita コンサート
ブルッフ コル・ニドライ |
なかなかに凝った選曲である。しかしながら、この演奏会、大都市ではなく、愛知県は東のはずれ、東三河地方それも奥三河と呼ばれる、山間部の作手村にて行われたもの。
作手村、「つくで」むらと読むのだが、愛知県にお住まいの方でも、読めないかもしれない、知らないかもしれない、まして、どこにあるかわからない。のではなかろうか。人口5千人ほどの小さな山村。私自身、育ったのは、この作手村のお隣の田舎町ではあるが、そこから比べても標高500mくらい登っていかなきゃいけないし、学生の頃は行った経験もほとんどない。自家用車を持つようになって、名古屋と田舎の行き帰りに通(とお)ったことはあるけれど。
なんでも、名古屋に住んでいたバイオリン制作者の方が、15年ほど前、この村に移住してきたそうで(その方は村で一番の有名人らしい)、その方の娘さんがチェリスト、森田満留さん。その森田さんが夫婦で98年にデュオを組んで(夫である、森田竜一さんはピアニスト)、ドイツで活躍されている、との縁で、この作手村で今回コンサートをすることなったとか。
昨年から、この「つくでの森の音楽祭」は始まったようで、予算も少なく、村民のツテで、アマチュアを呼んで来て、演奏会を年10回弱開いてきたが、今回は、始めて本格的な、プロによるコンサートが実現。私も、今までのことは全く知らなかったが、偶然新聞で取り上げられたのを見て、興味を持った次第。新聞には選曲は触れられず、後で作手村HPを確認したら、とんでもなく野心的な、媚びていない、本格的なプログラムで驚いた。これは行こう、と決心。まあ、いろいろゴタゴタしてしまっている日常ながらも、私の父が入院している病院から北へ15Kmほど行った程度のところでの演奏会、さほど問題なしということで。
行ってみて驚いた。会場は「作手村鬼久保ふれあい広場」のリフレッシュ・ホールということだが、演奏会用ホールではない。木造のログハウス風外観。入ってみると、窓は全部開放。そしてさらに、片側の壁はなくて、障害物なくそのまま板のデッキが、外部と続いている。オープンカフェみたいなもの。そこから見える風景、とにかく、奥深く山々が連なっている。人家なし。当然ながらそんな構造で冷房設備なし。
そして、ステージもなし。客席と同じフロアで境目なし。席は、パイプいすを並べて。100人程度のキャパシティ。
また、話は前後するが、ふれあい広場のなかに入って、車で進むなか、体育館では、中学生かな、何かの大会をやってるし、外では野球、ご老人皆様もゲートボール。ワーワーやりつつ、同じ敷地内では、小高い山の中腹のホールで、炎天下ながらも涼しげな風が吹きこむなかで、鳥と虫の声(うるさいセミたちはいなくて幸い)を遠くに聞きつつ、マルティヌーやプーランクが響く・・・・・
この雰囲気、この手作りの、何らの小難しさも、気取りもない、音楽との対話、・・・・・この環境にまず感動した。そのなかで、決して、田舎だから、と媚びたりせず、「愛のあいさつ」とか、通俗的な軽めのものでお茶を濁さず、大曲、難曲をずらりと並べて、(でも、決してむずかし過ぎる作品ではない。近代音楽でも旋律や和声、リズムを重視した聴きやすい作品だった。さらに、楽章単位でも長過ぎるものはなかった。その辺の具合が絶妙な選曲だった。)、正々堂々、本格的な、本物の音楽を、精一杯、我々観客にぶつけてくれたDuo Moritaのお二人にも感謝。・・・・最近、とみに思う。毎度、触れて恐縮だが、フィンランドの若手指揮者、ミッコ・フランクのドキュメント番組(BS)で、「一般の人々も見るような野外のコンサートこそ、オーケストラの醍醐味を味わってほしい。ワルツやタンゴだけでごまかしたくない。」と、その番組では、プロコの「ロメオとジュリエット」を野外でやっていた。日本のプロオケで、たまに見かけるとどうも、地方公演とかでも、特定企業の依頼演奏やら、何度もやり尽くした感のある名曲とか、かったるい演奏でやってて見てられないこと多し・・・って、名古屋周辺しか知らないが・・・・。とにかく、この山の中の演奏会のために、奏者が最善を尽くしている、真面目に取り組んでいる、という、そもそも当然のことが、こういう、普段のコンサート会場以外の場でも感じられるのは、とても気持ち良い。ホールを吹き抜ける風と同様の心地よさ、快さ、爽やかさ、いい雰囲気だった・・・・さて、その、私自身も未知なる音楽についての感想などは、またおって。マルティヌーのソナタに多いに感銘!!
(2004.7.21 Ms)
開場時間に現地に到着、まだ客もほとんどおらず、一番最前列に席を得る。独奏チェロから、3mくらいしか離れていない。こんな近くで聞けることはめったにあるまい。実際、演奏が始まると、奏者の息づかい、そして、弦から指が離れる時にでる弦の音まで、しっかり聞こえるわけで、奏者にしてみれば、随分やりにくかったことだろう。でも、チェロの豊かな響きを、文字どおり体感、全身に浴びた、といった感じ。
ブルッフが唯一の有名曲、といったところか。しっとりと、しかしふくよかに、歌を感じさせる演奏。曲間の解説も、チェロ奏者ご自身で、詳しく語っていただき興味深く。「コル・ニドライ」の出典を遡って、14,5世紀のポルトガルのユダヤ迫害にまで言及されて、随分と自分としては面白く聞けた。
バッハ無伴奏、6番はよく知らなかった。それもそのはずで、そもそも5本の弦を持つ、チェロ・ピッコロという楽器のための作品らしく、高音域まで音が及ぶこともあり、難曲中の難曲なのだそうな。「聞く機会の少ない曲なので、それを、あえて今回取り上げました」と語っておられたが、その心意気たるやたいしたモノ。有名曲である1番とかもってくるのが妥当な選択だろうに。曲が始まるや、一気に曲に惹きこまれる。開放弦との重音を含む充実した響きと生き生きとしたリズム(同音連打ながら、重音を使って深く重い表現となっている。しかしリズムは躍動的!)。やはり、バッハ、Vn.の無伴奏も感動的だが、チェロもいいじゃないか。一人で一つの楽器で、これだけ交響的な表現ができるんだなあ、烏合の衆になりがちなアマ合奏形態とは違う次元の「音楽」の純粋な姿にシビれました。
フォーレ。優しい、柔らかなハーモニーに裏付けられた佳曲である。晩年、聴覚を失った、という事実も始めて教えていただいたのだけれど、そういった、絶望も、強い表現として、後半に感じられつつも、節度は失わない、フォーレらしい作品といえそうだ。
さて、今回、どんな作品だろう、と興味津々だったマルティヌー。今まで、オケ作品とかをちらりと聞いた経験はあるのだろうが、全く記憶にない。今回、この作品は自分の感覚にひっかかるだけのパワーを持ち得ていた。
調性感と、無調感のバランスが良い。さらに、リズム、の面白さ、激しさ。室内楽だけに、きっとオケよりも鋭角的に際立って訴えるものもあったろう。そういった作曲技巧上的な問題以上に、曲の勢い、訴えかけるテンションの高さ、これに感銘を受けた。
基本は短調的な色調が強く、落ちつかないもの。それが、第3楽章で、ひたすら無窮動的な突進型、前進あるのみといった表現へと移り、その勢いが高揚するなか、ドの音にピアノもチェロも収斂していき、最後にやっと見つけた、といった感じの一筋の巧妙たるハ長調の主和音へと到達。20世紀の「運命」ソナタ、といった面持ちすら感じた。実は、私の席から、チェロの譜面の最後のページが半分ほど見えていて、その音符の壮絶な量に興奮、一体どんな終結が待ってるのか、という期待感はあった。風の吹くコンディションで、楽譜も洗濯バサミで挟んで、また、独奏チェロは、譜めくりを最低限にすべく、楽譜は数ページ一度に開かれていたため、その最終ページが垂れて私の目に入ったのだが、フィナーレの後半、突如、突風が吹きこみ、楽譜がパラパラと前のページに戻ってしまい、さあ大変だ。とっさに、ピアノの譜めくりの人に振りかえって、目で合図、演奏しているページを探すのも一苦労。とにかく、弾きずめな無窮動パッセージをこなしながら、楽譜がもとに戻るまではハラハラものだった。そして、体制は整い、そのアクシデントを超越するような、アグレッシヴなコーダへと突進。とにかく、そんな事故もあってか、白熱した幕切れとなり、拍手もより大きく激しく。
解説では、生涯、チェコの民族舞踊を愛し、そのリズム、旋律を作品の中核に置いているとのことで、また、1930年代のパリで活躍したこともあって、ジャズからの影響も受けた時代があるという。しかし、戦争に翻弄され、その作品の中に、その望郷の念と共にシニカルな表現も見られる、と。後にいろいろ調べると、このチェロ・ソナタ第1番は、チェコが、ナチス・ドイツに併合された直後の作品らしい。その時代背景にして、この作品のもつ「熱」が理解できたような気がする。また、余談ながら、大戦後は、母国の共産革命で、友人であった当時の外務大臣の謎の死が、帰国を断念させたとも。今後、気にしたい作曲家となった、マルティヌー。まだまだ、私の未知なる世界は広く広がっている。
とりあえず休憩前まで書き進む。(2004.7.26 Ms)
休憩は、ホールの外、青空の下、板のデッキにて、クッキーなどお菓子と、フルーツ系ジュースのおもてなし。
奏者の方も交えての和やかムード。山に囲まれ、涼しげな風を受けてのひととき。
司会進行の作手村の方も、「下界の暑さと無縁な、この風が村のちょっとした自慢です」と。なんと、贅沢なコンサートだろう。リラックスした雰囲気で、気楽に音楽を楽しみ。アット・ホーム的であり、また、「作手村」ゆえの「手作り」感・・・・・コンサートでのこんな体験は始めてだ。
もっと、こんな演奏会あっていい。きっと、夏の信州に行けば、こういったものも多々あるのかも。でも、私の家から、車で1時間かからず、この「涼」と「静けさ」、そして、こんな最高級の音楽があろうとは!! 東名高速のインターから30分強で、この、夏の信州的幸福がある。東名・名神含めて、東京から大阪まで、インターから30分で得られる「涼」と「静」、他には決してあるまいて。もっと、知られてよかろうに。いや、あんまり知られて殺到してもなあ。でも、この「作手村」のリッチ的立地、地の利は、生かせますよ。愛知県の宝、でもあろう。東京と大阪のど真ん中、豊川インターから30分強の、この閑村(地元の方、失礼です)、気軽な癒しの土地になりはしないか?個人的には、作手村に肩入れしたいな。何かできないか?
などと、晴天の青空のもとで、考えつつ、休憩後、演奏会は後半へ。プーランク。
暑い日本の夏にあって、フランスの爽やかな雰囲気を伝えられたら、フランスへの旅行気分を味わっていただけたら、とのお言葉の通り、フランスのカフェ的、お洒落さ、親しみやすさと、趣味のよい上品さ、さらに単なる安っぽさだけとはならぬ、近代的な和声、転調。興味深く、気持ちよく聴く事ができた。
アンコールは、ラベルの小品。これも、趣味のいい、気の効いたもの。お馴染みのハバネラのリズムに乗せて、やや即興的な、そしてスペイン風な旋律がアラベスク風に絡む。プログラムの前半の後半2曲から、フランス近代の流れで選曲されており、いい感じで演奏会を締めていただく。
せっかくなので、デュオ・モリタさんのCDも購入、きっと日本では入手困難か?ドイツのレーベルからでているのかな?ベートーヴェンの5番のソナタ、フランクのVn.ソナタの編曲と並んで、黛敏郎氏の「文楽」というチェロ独奏作品、これ面白いですね。和楽器風にチェロを使っている。
サインもいただきつつ、特にマルティヌーに感激したことをお伝え。2番のソナタや、ピアノ3重奏なども取り上げている、と伺う。この夏は、5年ぶりの帰国ということで、北海道や大阪でも演奏の機会があるという。今後もまたいつかお聴きしたいものです。せっかくのご縁でもあり、作手村での演奏、また体感したいものです。
ということで、演奏会の事務方の方ともお話、昨年から始まったこの音楽祭、ようやく軌道にのり始めたものの、折りからの市町村合併の波はご当地も直撃、このままでは「村」としては消滅。それに従い、「官」からの補助はなくなると予想される。やはり、人口5千程度の小回りのきく規模だからこういった補助も小額ながら可能であり、合併し、それも編入合併では、こういった地道なものも継続は困難、と。我思う、これが、K泉改革、「官」から「民」へ。正直なところ、この、素晴らしい環境での素晴らしい演奏会、「民」の力だけでは無理。ボランティアにも限界はある。そこで、みんなでお金を出し合った税金から、財源を付け足して演奏会を開くのだ。この演奏会に必要な、「官」の出費は、S保険庁の無駄な支出を1日見直しただけで、全国の山村でこの事業が展開できるだろうに・・・・・効率優先、それも裏のホンネとしては、国家組織存続優先のK改革によって、切り捨てられる山村過疎地域の今後を心配しつつ、また、自分が何をすべきか、何が出来るのか、考えながら山を下りてゆく。そして、下界の俗世間の夏の暑苦しさに満ちた大気へと沈んでゆく私であった。
(2004.7.31 Ms)
7/10(土) 読売日本交響楽団 第108回名曲シリーズ
雷に打たれたかのような衝撃。生命力に満ち満ちた楽曲、そして演奏。
とにかく、今、書こう。何をおいても。記憶の底に沈む前に。とにかく、書かねば。命をもらったんだ。消し難き命を。がむしゃらに、いきり立つ我が心のなかにその音楽は今なお渦巻き、その渦を、一刻も猶予はない、言葉としてよみがえらそう。とにかく、一刻も早く。早く。
昨年のラハティ交響楽団との来日の記憶もまだ新鮮な、今をときめくフィンランドの俊英たる、指揮者ヴァンスカ氏。満を持しての、待ってましたのニールセン・ツィクルス。交響曲第4番「不滅」である。
7/5(月)には、第429回定演として、オール・ニールセン・プロ。1&6番さらに、序曲「ヘリオス」。これも聴きたかったのだが、さすがにそこまでフットワークの軽い状況にもあらず。残念無念。ただ、この「不滅」聴けただけで、もう、感激。ラハティとの初来日時のシベリウスの5番も私の胸に永遠に刻み込まれた名演で忘れられぬが、今回さらに、記憶からも「消し難き」名演、この「不滅」で出会えたのが、もう嬉しくてたまらない。
とにかく、速い。勢いが、止められないほど。冒頭から、例えは悪いが、バサッと切れ味鋭い刃物で切り裂いて、鮮血が一気に飛び散るような、ショッキングな印象。ひたすら、前に向かって、振り向かず、ひるまず、突進するのみ。ヴァンスカ氏の棒も、狂気の沙汰とも思えるほど盛んにエネルギーを発散させ、正直なところ、危ない綱渡りじゃないか、と心配になるほどの音楽の作りながらも、カリスマ的なリーダーシップあって、オケを見事統率、「時間」を感じさせないままに、一気呵成に、全曲を全力疾走、という感じ。私もひたすら、その駆け抜ける音楽について行くのに精一杯だったといった感じ。
弦の鳴りも良いし、それ以上に、金管の重厚さ、華麗さも光る。最初の1分で、いや、最初の1小節で、全身がしびれた。ビビビときた。感電したかのような衝撃。この体験は、今までにもない。もう、ヴァンスカ・ワールドにいやがおうでもさらわれて行った、というわけだ。
さて、第一部、第2主題、いわゆる「不滅」のテーマとして、全曲を通じて表れる、重要な主題だが、これにしても、最初の主題提示部分で、穏やかに、落ちつかせるようなキャラクターを全面に出す事無く(クラ始め木管で田園的、牧歌的な雰囲気をかもしだすものの)、冒頭同様やや速めに進め、特にヴィオラの刻みなども、不安感をも煽るかのような攻撃性を1小節ごとのクレシェンドに感じたし、楽曲の一番最初の音である(また、ニールセンのトレードマークひとつである)装飾音と長いロングトーンがこの牧歌的ムードの背景で弦に執拗に出るが、背景ならぬ前景に出てくるほどの存在感で、まるで、冒頭の不安を払拭できないかのような表現であった。
その不安感を、さらに立ち切って、少しづつ確信を高めつつ、全合奏で「不滅」のテーマが高らかに鳴り響かせる曲のもって行き方に感銘。その途上において、「不滅」のテーマがクラだけに残って、それが新たな主題によりぶちきられるところ、予想外にテンポを遅くし、後で効果的なアッチェレランドをし、トロンボーン・チューバのカノン的な場面へ受け渡す・・・・この展開がしっかり把握できて(CDなどいろいろ聴いてもこのアッチェレが効果的に聴き取りにくいような気がする)、さすが、ニールセンに思い入れたっぷりなヴァンスカが、読響を完全に自分の統制下において、自由自在に楽譜から感じ取る自分自身の音楽を鳴らしているんだとよくわかった。
「不滅」のテーマの大合奏に続く、不安な場面、Vn.の無調的なパッセージ、そして、Vla.の不気味な同音連打、どれもこれも、音楽のオマケ的存在でなしに意味深長な存在で、また、クライマックスの後とはいえ停滞感もなく、その場面も前傾姿勢は保たれたまま、私の緊張感を解くことはなかった(音量的には弱い部分で、聴く側の緊張感が途切れてもおかしくはないがそうはならなかった)。
その後の、やや後期ロマン派的な、(個人的にはブルックナーを思わせる)金管の重厚な和音、弦の同一音型の連続が特徴的な部分へと、一気に曲は運ばれ、「不滅」のテーマが木管で順に断片的に奏されながらも、その重厚な金管に遮られる様もドラマティックな表現となっていた。木管も消されまいと、必死な自己主張を次々と投げかける・・・この部分、木管の弱さと金管の抑圧的な対比と捉えていたが、今回の演奏はそのイメージを覆した。「消されまい」「消えてたまるか」、この気持ち、楽曲の隅々にまで、曲に掲げられた「不滅(より正確には、「消し難きもの」というわけだが)」なるタイトルが浸透している演奏と理解できる。・・・・細かすぎる読みかなあ。
ここでちょっと不満一つお許しください。この展開部的な部分で、ピッコロだけが全合奏中に、冒頭の主題をピーピー演奏する部分あり、これがやや消えかけていたのは残念・・・・木管の、テュッティの場における弱さは、第3部のクライマックスでも気にはなったが、今回の演奏での不満といえば、それくらい。よく聴けば聞こえるから、これは個人的趣味の話かも。また、3階席の半ばほどという席でもあり、木管が聞こえにくかったのかもしれず、やむを得ないのかも。
第二部。木管主導の、牧歌的な、スケルツオというより、ブラームス的インテルメッツォ(間奏曲)か。ただ、必要以上にのんびりにはならず。ここもまた、前をしっかり見据えた曲の運び。そうそう、この第一部から第二部へのブリッジ、Vn.のピアニッシモと、ティンパニの密やかなリズム。この雰囲気も良かった。さすがに、シベリウスでピアニッシモを静寂すれすれの音量ながらも雄弁に語らせて感動を生ませた彼ならではの音楽。こんな細かな部分にも配慮が行き届いている。
第三部。いきなりの弦の悲痛な叫び。そして、12音的に1音づつ音を丁寧にかつ、衝撃を与えつつ置いてゆく、低弦ピチカートとティンパニ。このティパニのペダル・ワークも聴きどころ。ここも必要以上の遅さはなく、前へ進む推進力が勝る。弦の厚さがピーンと張り詰めた緊張感を持続させている。
そして、その緊張を解くのが、第三部における第2主題的な、祈りに似た旋律。弦のソロで出、また、木管、また、トロンボーンで、それぞれコラール的に出てくる。ここで、始めて、全曲中で音楽が緩む。後ろを振り向く余裕が存在する。そして、この祈りは常に、ヴァンスカ得意のピアニッシモ。この美しさは、例えようも無い。この部分に注意がはらわれようとは、想像しなかった。ふと、シベリウスの第2交響曲第2楽章の中間部の弦の祈り、を思い出した。
その美しいコラールに対し、木管の同音連打的なフレーズが警告風に鳴り、それがどんどん増殖し、その脅威的な病的なまでの執拗さの末に楽天的エネルギー爆発、この思いきりのよさも、その過程を含めて、ぐいぐい聞き手をひっぱる。そしてこの部分はフィナーレの予告ともなる・・・・ウーン、まさしくベートーヴェンの「運命」の第2楽章のファンファーレとか、第3楽章のトリオとかに相応する部分。この確信、揺るぎ無さ、感動だ。しかし、まだ時期尚早、静寂と緊張が再現・・・・・こういった曲の展開が、納得いくほどにうまいんだ、ニールセンは。
さあ、第四部。これまた、スリリングな弦の疾走。速い速い。それにトドメをさす第2Timp.ここで初登場。ここで、主席ティンパニスト登場とは心憎い。第1ティンパニを若手に任せ、実は最後に美味しい第2ティンパニ、ドカンとやってくれました。
その後の総休止(G.P)も必要以上の間はなし。一気呵成に、またまた、快速な曲の運び、怖いくらいのかっ飛ばし方で、ニールセン特有の「競技的3拍子」の、難しいリズムを引っ張るタクト、もうスリル満点。
そして、ティンパニの乱打。実は、ティンパニの配置、最高段の左右隅に置かれ、ステレオ効果抜群。その代わり、遠くなった分だけ細かなアンサンブルが不可能となり得るが、かなり好調に、ティンパニの掛け合い、できていた。これがなかなかしっくり噛み合わないCD演奏も多いが、ライヴでこれだけ聴かせていただければ素晴らしいことです。
最後のコーダ(「不滅」のテーマの再現)、これも遅くない。最後くらいはたっぷりと、などと個人的には思うものの、とにかく勢い重視か。まあ、スコアも、コーダに飛びこむところはrit.ならぬやはりaccel.・・・全体的に急いて(せいて)曲を運ぶ、というのがニールセン本人のイメージなのかもしれないな。
自分のイメージは、「不滅」のテーマは、ゆっくりたっぷり、堂々と、なのだが、このヴァンスカの猪突猛進型の演奏も意外と聴きこめば快感、かも。最後の最後も、ひるまず、必要以上の減速はなし、音量も極端なdim.もなし。堂々たる第2ティンパニのソロで、(最後の小節は、2台づつを同音にチューニングして一度に両手で叩き、派手なアクションで締めくくり)文句なし、一気呵成な「不滅」を楽しんだ。
聴いている間、邪心は何もなかった。その鳴り響いている音楽しかなかった。そう言えば、ヴァンスカの初来日のシベリウスの5番の際、コーダを聴きつつ、「この時間が終わらないで欲しい」という気持ちで一杯になったが、今回、そんな「気持ち」すら心に浮かばぬほどに、音楽に没頭していた私であった。・・・正直、こういった生演奏聴きながら、この演奏はこういう感想、といった整理を頭のなかで始めてしまう場合が多いけれど、演奏中にそんな頭、全然なかった。とにかく、ヴァンスカの音楽を受けとめ、追っかけて、それで、演奏は終了していた。とにかく、そのエネルギーに打ちのめされっぱなし、であった。とにかく、凄かったんだから。
聴きそびれた方、絶対、人生における痛恨事、だったと思います。
また、客席の雰囲気もまた、壮絶なものあり。とにかく、「不滅」を待ち望む、熱気。終演後の拍手もまた壮絶。聴く側の気合が充満していた芸劇。熱かった、です。
ヴァンスカ氏のまたの名演を楽しみにしたい。・・・・また、スコティッシュ・ナショナルのオケで出た全集CDを試聴した時はここまでの演奏とは感じられなかった。実は、読響の底力、これも凄かったのだろう。最近、BS日テレでもよく読響の演奏を聴く機会も増やしているが、なかなかいいオケですよ。個人的にも、10数年前、まだショスタコなんか(5番以外)生で聴くことのできなかった頃、ロジェベンがソ連からやって来て、毎年ショスタコを取り上げてくれ、上京して感激させてくれたのも読響さん。今後も、いい演奏、頼みます。
今回の2種類のプログラム、「ニールセン・ツィクルス」と歌ってあったし、今度の来日は、是非、2,3,5番と期待してよいかな。私的には、ブロムシュテット、サロネン、に次ぐ、ニールセン指揮者の登場を多いに歓迎。
今回、日本における「不滅」人気の契機となったトピックとして、将来、語られる演奏会、となるのではなかろうか、とも期待。もう、幸福です。来て良かった。・・・・・来れない状況にならなかった事実に感謝。・・・・・「消し難き生命」が私をこの場に連れて来たんだ。・・・・・「消し難き」生命が。・・・「消え難き」涙・・・。
ヴァンスカ氏との幸福なる出会い・・・こちらも懐かしく読み返そう
’99.10月、ラハティ響との初来日、
’03.10月、同、二度目の来日、
読響さんとの初共演、’02.1月。
(2004.7.12 Ms)
「不滅」の衝撃で、他のプログラムが吹っ飛んでしまうほどではあったが、若干の補足。
演奏会最初の曲は、ラウタヴァーラの、「カントゥス・アーティクルス」(北極圏の歌)。副題は、「鳥とオーケストラのための協奏曲」。
弦楽器を主体に、鳥の鳴き声をテープで流しつつ、緩やかに、穏やかに音楽を紡ぐ、といった趣向。環境音楽、といった面持ち。
作曲者は、フィンランドの代表的作曲家(1928年生れ)で、本作品は、1972年のもの。まだまだ、前衛花盛りの頃に、随分、美しい音楽を書いていたんだな。冒頭、フルートの細やかな動き、それが木管に波及しつつ、鳥の声がその影から次第に顕在化してくる辺りなど、面白い効果だ。
ヴァンスカとしては、現代作品への並々ならぬ意欲もお持ちで、前回の読響との初共演では、やはり、ラハティ再び、で、シベリウス中心プロとなって、「そればかりじゃないよ」と言いたげなインタビュー記事なども拝見したが、今回、シベリウス以外のヴァンスカ、の真骨頂を垣間見た、聴いたということだ。未知なる作品も、どんどん紹介していただきたく。
続いて、モーツァルトのピアノ協奏曲第21番。第2楽章が映画音楽にも使われた有名曲。ハ長調の作品。ソリストは、まだ若干二十歳すぎの小菅優さん。第2楽章の繊細な雰囲気が特筆すべき。オケの雰囲気も含め。ヴァンスカの指揮、とくれば、やはりピアニッシモの繊細さ、に耳が奪われる。ただ、フォルテにしても、指揮を見る限りかなり情熱的だ。モーツァルトであっても。
あとは、余談。今回、参議院選挙前、で、例のスペインでも選挙直前に大規模なテロが勃発、政権交替、イラクからの撤退、などということもあり、今回、日本もそんなことがないとは言えない・・・・ということで、東京中心部には近寄らず、久しぶりに吉祥寺に寄ってみた。スウェーデン料理の「ガムラスタン」が、「アルトゴット」という店に変わったとのことで訪れるも満席にて残念。途中、ネットで知った、永福町の「アンドー楽器」なるCD店にも寄る。90年代廃盤CDも多数との噂で楽しみに、ただ、私の探し物はなく、ただ、小さな店だし、せっかく普段来ないところだし、と、適当なネタを探し、現代エストニア、フルート協奏曲集をゲット。ヤルヴィ一家共演。娘がフルーティストとのこと。適度な現代性は備えつつ、十分聴きやすい。トゥビンの作品もあり。晩年の作ということもあって、簡素だな。地味。聞き流すには随分いい感じ。
ちなみに、その店に、政治評論家、俵孝太郎氏と思しき老人が、店の方と、随分長く音楽談義に花を咲かせていたようである。
(2004.7.28 Ms)
7/9(金) ヨウコ・ハルヤンネ トランペット リサイタル
上記のヴァンスカ「不滅」のための上京の前夜に、フィンランド放響の首席トランペット奏者のリサイタルが、白寿ホールにてあり、金管楽器のソロ・リサイタルというのは初めてながら、足を運ぶ。
「白夜の調べ 〜 透明なフィンランドの大気を思わせる、磨かれた音色と技巧が世界の名曲を奏でます」とのうたい文句で、リサイタルの選曲としては、シベリウスの歌曲をトランペットで演奏する、という趣向をメインに据えて、その他は、来日記念盤としてワーナーから発売されている「スラブからの響き」というCDのなかからのものを選んでいるようだ。そのCDには、東欧、ロシアの小品(編曲もの、オリジナル含め)が収録されている。
ソナタ、など、多楽章のものは、このリサイタルでは取り上られず、もっぱら5分以内の小品の連鎖で、そういった面での物足りなさは感じないではなかったが、興味深い作品も多く全く飽きはこなかった。特に、シベリウスの歌曲、幅広く、雄大な表現が、トランペットの音色に似つかわしい。交響曲の1,2番などでも、トランペットによる旋律は多々見られるが、そんなイメージとも重なるからだろうか?ただ、アンコールで、イタリア・オペラなども披露していただくが、いかにも安っぽい絶叫という雰囲気に感じられ、その比較においてシベリウスの持つ何らかの品格、といったものを深く感じ入る。
また、シベリウスの超有名ピアノ曲の双璧をなす、「ロマンス 変ニ長調」及び「もみの木」もピアノ・ソロで聴けてこれも満足。ピアノ伴奏は、カリ・ハェンニネン。金管楽器奏者にして、こういったリサイタルの伴奏ピアニストとしても活躍とのこと。演奏自体は、表情豊かにルバートも多く、思い入れも深そうだ。ただ、きらびやかな装飾的なパッセージは比較的あっさり速め、勢い良く流れ出るようなイメージ。
曲目は以下のとおり。
イリヤ・シャホフ スケルツォ 休 憩 バラキレフ グルジアの歌 <アンコール> |
(2004.9.3 Ms)
何曲か、ロシアの作曲家による、トランペットのオリジナル作品があるが、それらについての基本的な情報は、プログラム・ノートを見てもあまり得られず。
個人的感想を交えて触れてゆくと、まず、シャホフ作品、ショスタコのVn協奏曲第1番のスケルツォを思わせる、細かなリズムで緻密なアンサンブルと高度な技術が要求されよう。ゲオディッケは、「1877年モスクワでドイツ人家庭に生れた」らしい。世代的に近いと思われるのが、ラフマニノフ。彼のアレグロの硬質なリズム感との類似は感じる。トランペットのための作品だけあり、軍隊調の[タータタタター]といった同音連打が目立ってモチーフとなっていたのは特徴的。アルチュニアンは、「1920年アルメニア生れ」。ハチャトリアンの後輩的存在。トランペット協奏曲も有名。底抜けに明るく、ドタバタ喜劇すら想起させる勢いの良さは、協奏曲と同じだ。コンサートを締めるに相応しい派手なもの。
3曲のロシア製、トランペット・オリジナル作品に共通するのは、きらびやかな高音の華麗な音色の堪能。時に伸びやかで、また、時にこまごまとした音符(スピーディな音階や、鋭いスタカート)で技巧誇示。民族的な、ロシア的雰囲気も、それらと絶妙にマッチ。これらの作品が、全体に要所を押さえて、トランペット・リサイタルの選曲として、なかなかいい感じだったんではないか。
一方、シベリウス以外の編曲ものはイマイチ、パッとしない感じもした。特にグリーグはこの編曲による魅力は・・・・?原曲は作品17「25のノルウェー民謡」からのもの。素朴に過ぎて、キャラが合わないような。
リストの歌曲、ショパンのピアノ曲(「蝶々」という副題のもの)もさほど。
プロコはお馴染み。まさしくトランペットの音楽。最後の4分音符の連続で、ハイトーンの最高音の「ド」の音まで登り詰める部分が、結構快感に感じられ。達成感あります。
それにしても、ショスタコが、断然、今回のプログラムでは光る。もちろん、個人的趣味も多分にあるのだが、曲自身の持つ、凝縮された緊張感が、他の曲とは異質なムードを醸し出す。曲の流れを断絶させる休符の多用もその一因だろうが、そもそも、音楽の持つ和声やリズム、が他の作品(プロコも含めて)と一線を画した、現代的な、非情なる世界、なのだ。抒情、そして歌心のなさ(逆に、プロコは、いくら不協和音を多用しようと、歌、が存在している。「非情」になりきれぬ。)。
また、曲そのものに関して、編曲作品でありながらも、違和感が少ない、曲そのものの普遍性を感じる・・・・大袈裟な例えながら、バッハ作品がどんな楽器、編成であろうと一定の安定性を保持しているのと同様。私自身が、ピアノ独奏として、この作品をイメージはしながらも、トランペットで聴いてなお、説得力は確か。部分的に、音域の都合で旋律線が変わってしまう点はあるものの、それは気にならない。同じショスタコのピアノ曲「24の前奏曲」のVn版を聴いての感想とほぼ同様。
新たな発見が嬉しい。そう言えば、今年初の、生ショスタコ体験か・・・・。やはり、ショスタコ、私にとってかけがえのない存在であり続けているな。
珍しい体験を、偶然ではあるが、させていただいた。・・・今回の企画に尽力されていたのは、今をときめく、若手女流指揮者、新田ユリ氏と聞きます。北欧音楽のエキスパートで、精力的に日本でも活躍されている。会場でもその姿は拝見。今後も、こういった企画、是非お願いします。
ちなみに、「白寿ホール」。健康・衛生関係の企業の建物に入っているホール。客席は、リクライニング・シートにも出来るようで、寝ながらにしてコンサートを聴くなんていう企画もやっているらしい。面白い趣向ですね。
さて、こういった、フィンランド絡みのコンサート、よく、お国の方が集まられるのか・・・ラハティ来日の時も、シベリウス協会記念行事の時も感じたが、マメに、異国の地にあって、同国の演奏家が来ると応援に来てるように見受けられる。私の席のすぐ背後でも、ピアニストの名を、「ハェンニネン」「ハンニネン・No!! ハェンニネン」と、「ア」と「エ」の発音の中間の発音を強調して、読み方を他国の人に教えているような雰囲気が聞こえ、面白かった。
最後に、もうひとつ名前に絡んで、・・・今回のソリスト、「ヨウコ」さんですが、男性ですので念のため。
(2004.9.6 Ms)
(とりあえず、仮置き)
2004年、これだけは言いたい などと、大袈裟に始まったのだが、それも自分自身の偽らざる思い、この画面にぶつけたくなったのだから仕方あるまい。 ショスタコーヴィチ・ファンたる私Ms、最近は、なかなか、落ちついてショスタコの音楽を聴くこともめっきり少なくなったところである。忙しい毎日、正直なところ、ハードボイルドな、また、真面目に聞き始めたら神経をすり減らす、彼の音楽とは、今、疎遠な状況となってしまった。 全体主義の横暴のなかの、「個」の叫び、または、つぶやき。 イラク人質事件の、当事者、家族。自分の偽らざる気持ち、「自己責任論」を振りかざす国民的な批難の前に、果たして耐えられたか。 個人の悲しみ、怒り。まして、当事者ではないか。その、偽らざる思い、「全体」の中になぜ風前のともしび、なのか? ソ連なる国に生き続けたショスタコーヴィチが、作品に託した思い。私が、彼の作品から感ずる思い。ソ連を知らぬ私にとって、ショスタコーヴィチの音楽が、ソ連における個の嘆きと、日本におけるそれとをがっちりと結び付けてしまう・・・・・2004年の日本、まさしく、今の日本の音楽と言えないか、ショスタコーヴィチの音楽は? いまや歴史上のソ連なる国、の後を追う日本、なのか。・・・・遅々として進まぬ改革、地方主権は確立できず、自己目的化した官僚制の勢いは止むことはない。集団指導体制をとりつつも絶対君主制の如き、官僚制の揺るぎ無さに対する政治家の無力。 凄惨な独裁的権力のもと、辛酸をなめ尽くした国民が、新たな希望を胸に再出発を誓った、1917年の革命。1945年の敗戦。
この簡単な年表から何を見るか。 (2004.6.10 Ms) 原因はともあれ、ゼロから出発だ。前時代の支配階層が総退陣してしまった以上、新たな秩序の回復が優先、とにかく「上からの変革」で強引にも押しきらねば、との必要性。当然の帰結が、中央集権、国家統制。結果としては、前時代と国家スタイルはそう変わらない、でも、掲げる理念が全く違う。そんなシチュエーションも酷似。 効率よく、新国家建設を進めるための集権・統制。仮に1世代、四半世紀(25年)をスパンで考えよう。ちょうど第1世代から第2世代に移る辺りで、上からの変革は、ある一定の成果を挙げる。 しかし、一定の成果を収めた官僚制、時代の変化への対応も困難、自己目的化、前例踏襲などなど、弊害も。 ただ、やはり、変革を怠ったツケはじわじわと。 さて、日本の先輩!ソ連のその後、第3世代はどうなった? かたや日本の第3世代は?経済低迷、その他もろもろ、かつての日本とは思えぬ凋落ぶり。 安全神話は? 企業のモラルは? はたまた人間の質は? われ思う。道路公団民営化。これは、やりようによっては、亡国から救えたろうに。結果は、看板かけかえではないのか。結局、官僚制、既得権益の温存。 道路ばかりではない。もちろん、年金の問題やら、地方自治の話やら、亡国政策はいろいろ。でも、結果、本質は、自治体に比べ、国が権限と財力を持ち過ぎで、さらに、時代の変化を見極めず、過去の政策を反省することも無く自己保身、組織防衛に走る愚かさよ。 今の政権にそれをやる気概、実力、決断力ありや? 「J党をぶっこわす」=(イコール)「スターリン批判」に私は思える。 「J党ぶっこわし」も「スターリン批判」も、後世から見れば、その国の本質的変革とは評価できないのでは? (2004.6.17 Ms) かってきままな、例によっての「曲解」の「政治バージョン」みたいな展開になったが、とにかく、「党をぶっ壊そう」が、引っ付けようが、日本の政治は変わらない。いや、変わらなかった。 これが、実行に移せる政治家を国民は選ばねば。官僚に丸投げでは、官僚の権限は不動、何も根本的に変わらない。 ここから、音楽の話。 今年の、三位一体改革の初年度の結果、地方自治体は、国からの補助金、交付税交付金を大幅カットされた。本来、国と地方の関係を見直し、国の関与(補助金を交付する際の、口出し)を撤廃、補助金の税源を自治体に移し、住民に近い地方自治体の現場で、ことが完結する仕組みを作ってからなすべきことなのに、国家官僚は自分たちの保身を前提に、全ての痛みを自治体に投げつけた。今の政権も、その官僚の筋書きを追認した。 その結果、何が起こったか。 私の危惧は、危機的な地方自治体財政、音楽へのしわ寄せ。 まさか、とお思いでしょう。でも、この数年で、山間部や過疎地域から、そういう動きは徐々にでてきてしまう。都市部であっても、財政負担<過去、景気対策による箱モノ行政に邁進とか><公営ギャンブルの不振で、収益が減少>に悩まされていれば、事例はあり得ます(競艇、競輪を抱える自治体の苦境は深刻)。 皆さん、 とりあえず、その2点を見て、我が街が本当に大丈夫か、自分の目で確かめてください。 そして、 特に、職業としてみえる皆様、パトロンなしに、自分の活動は立ち行くとお考えですか?(当然、アマチュアも、パトロン支援率が高い団体などは同様の問題認識は必要。) 国民の血税が、ストレートに行政として反映する仕組みを、いま作らねば、先輩ソ連の停滞、崩壊、明日は我が身。 (2004.6.22 Ms) 失礼しました。ここで終わり、なんですが、財務省から正式な発表がありました。参院選公示の翌日の発表というのが、例の、北朝鮮への首相訪問VS年金未納、みたいな、姑息な、マスコミでの取り上げかたを小さくさせる、いつもの卑怯なタイミング操作に思えてしょうがない・・・・それはともかく、国家の借金の話、国家財政のみで700兆円、地方合わせ、1000兆円、とのこと、「国家地方合算で700兆」と記載しておりましたので、文章を訂正しておきました。不正確な記述でスミマセンでした・・・・・といおうか、正式な発表前に数ヶ月前から、私自身は、700兆の借金という情報は仕入れていたが、さて、どこで聞いたことか?記憶にない。ただ、国全体で700兆という数値より随分ひどい話になってる。 (2004.6.27 Ms) |