今月のトピックス

 

 June ’03

 6/28(土) 愛知県立芸術大学管弦楽団演奏会

 久しぶりに、自宅から徒歩でコンサートに出掛けた。このHP立ち上げ直後の「カルミナ・ブラーナ」以来だっけ。
 プログラムは、モーツァルトの「ドン・ジョバンニ」序曲と交響曲第31番「パリ」、そしてチャイコフスキーの交響曲第4番。指揮は関谷弘志。

 とにかく弦の統率感、こんなに揃っている演奏、プロでもそうそうあるまい。モーツァルトなど圧巻だ。トレーニングの甲斐あってという雰囲気。気持ち良くなる。しかし、これが、チャイコになると、整然とし過ぎ、美し過ぎ、物足りないわけだ。ロシア的な、重厚さとか、チャイコ特有な病的なものがまったく演奏から立ち昇らない。冒頭最初の弦の和音からして、こってりこない、あっさり風味。このあたりは多少の弦パートの中のズレとか、奏者同士の個性の相違とか、そういった要因が、チャイコらしさを醸しだしているのではないか・・・完全なる演奏が、逆に、音楽らしくない(決して非音楽的というわけではありません。チャイコの音楽っぽくない、ということ。)という感を強くした。でも、これはこれで面白い体験ではある。この整然たる演奏を土台として、是非学生さん達には、我々に感動を与える要因がなんなのか、実践をよろしくお願いしたい。
 アンコールは、チャイコのエフゲニ・オネーギンのポロネーズ。そして、あとは、童謡メドレー?実は、豊川市施行60周年の記念コンサートという訳で、この豊川市、今年、童謡サミットを行うのだ。「かわいい魚屋さん」の作曲家が当地の出身ということで。しかし、童謡メドレー、これがあなどれん。作曲科の学生がアレンジしたのだが、気の効いた、楽しい、そして、意表をつくようなアイデアも満載。言葉で書くのは難しいが。一例として、「ふるさと」の旋律が、ファゴットとフルートのユニゾンだったり(「悲愴」のフィナーレか)、オーボエとチェロのソロを重ねたり(シューマンの4番か)、面白い効果ではある。

 なお、会場の後方に、ひとり、県芸の教授である、外山雄三氏が生徒たちの演奏を見守っておられた。遠くまでわざわざ出向いて・・・という姿が、個人的にはやや意外な感じもしたが、意欲的に後進の指導をされているのだ、と感じられる。

2003年7月頃の「たぶん、だぶん」用記事を加筆、転載(2004.3.28 Ms)

 6/15(日) 某K管弦楽団第15回定期演奏会  

 このHPを立ち上げて既に5年目、アクセス件数もこのたび、3万件突破、こんな一人よがりな偏ったHPをご覧の皆様には、ただただ申し訳なさと、感謝の気持ちで、なんとお礼を言って良いのやら。
 と、やや場違いな書き出しにはなりましたが、実は、5年目のこのトピックスも、自分の所属団体に関する記事は、あえて避けてきたところです。やはり、我田引水、自画自賛、というのも抵抗ありますし、逆に、身内に対して、厳しいコメントもしにくいもの・・・・書くスタンスが難しい・・・・。
 けれど、今回は書いておきたい、という気持ちが押さえきれず、少しだけ書こうかな、と。

 指揮者、山田和樹さん。まだまだ20台中盤の若い指揮者。この方を迎えての演奏会、私の長いオケ人生(とはいえ15年くらいなものだけど)で、尋常ならざる経験となった。
 彼との出会いは、ほぼ1年前の、東京にて、アマデウス・ソサイエティ管弦楽団の定演、ニールセンに「不滅」他。その時の模様はこちらへ
 とにかく、どんなプロの演奏よりも速く(不滅の第4部の難しさは、プロのCDを聴いても、楽譜どおりできないし、ボロが表面に出てくるほどのもの)、颯爽と流れ、そして、曲の持つ力を最大限に見せつけた、超カッコイイ、感動的なものだった。その指揮者の名は、私の心に深く刻まれ、気にはなっていたが、まさか、そのタクトのもとで演奏できるなどとは思ってもみなかった・・・・私の団も金がないとかで、地元志向の強い指揮者人選をしていた最中であったこともあるけれど。

 そこへ、今回、チャイコフスキーの交響曲第4番、そして、ビゼーの「アルルの女」第1,2組曲のプロで、彼のタクトを目前とする経験を得たわけだ。
 とにかく、テンションが高い。まず、テンポ感。やはり、「不滅」と同様速かった。しかし、ただ、漫然と速いわけじゃない。その速さが際立つような、小細工も多々。オマケに、本番は何するかわからない、と公言しつつ、とにかく、指揮棒との一体感を強く要求。お約束じゃない、スリルが緊張と集中を生み出す。チャイコの4番フィナーレの最後は、練習の時も、「こんな加速が許されるのか」と(普段は人1倍切り込み隊長的な私ですら思ったもの・・・ただ、あとでビデオで確認すると、自分の演奏時の感覚より、ずっと自然なものとして感じられたから不思議)思いながらも、最後には納得。速さに関しては、他にもフィナーレの途中でフェイント的な重い部分を作ってから加速をしたり、突然たがが外れたような激しい棒がオケを追い立てて、と、とにかく変幻自在といおうか、意外性に満ちて、聞き手を退屈させないのだ。総じてアレグロの感覚は一般的なものより速いが、特に「アルル」の前奏曲の前半の速さは未経験のもの。こんな攻撃的なアルルは他には知らない。
 クレシェンドに対する感覚も、他の指揮とは明らかに違う。少なくとも、「アルル」の前奏曲やファランドールで、こんなにも太鼓にクレシェンドを煽動(先導)させる棒は初めて。とにかく、ビゼーなんて、可愛らしくこじんまりまとめりゃいいや、という先入観が過去の経験からあったのだが、最初の練習でいきなり血相変えて太鼓にクレシェンドを求めてきて(あの時の予想外の棒、私に正対して闘いを挑むようかの棒が目に映った時の衝撃は忘れられん)、妙にリラックスして軽く演奏していたものだからびっくりしたものだ。もちろんそれ以外にも、特にティンパニのクレシェンドの効果を強調したがるようで、何度も私は指(棒)を指されるわけで、普段からいろいろな指揮者の棒を見ながら演奏しているところだが、こんなに曲の最中で、ショッチュウ目が合う指揮者はかつていなかった。打楽器ごときを、こんなにも大事にしていただき、気にかけていただきありがたいものです。
 あと、歌をとても大事にする。ご本人が、どうも歌うのがとても好きなようで、とにかく、高音域で、かつての「尾崎豊」みたいな(私にはそう感じられた)声質で、切々と歌い上げる。同じフレーズの中でも、声張り上げるところ、泣きじゃくるところ、溜め息のようなところ、チャイコの第1,2楽章などは、とにかく団員にとって見本になるようにとにかく歌いまくって、そのニュアンスを楽器に移すべく奮闘していたのは印象的。アルルの前奏曲の後半部分なども、こんなにも濃厚に、ドラマティックに歌わせた演奏、初めてだ。当然テンポの揺れ、強弱、音色の変化、すべて総動員して、弦の歌を、劇的で魅惑的なものにさせていた・・・・「地獄をみせてください」・・・私のアルルの女のイメージからは程遠かった世界が、この前奏曲からフルパワーで発散していたのだが、目からウロコ。とにかく、圧倒されっぱなしなのだ。
 見た目も大事。特に弦奏者には、弓の動き、腕の動き、体の動き、要所要所で細かく指示。正直、「見て」も楽しかった。ファランドールの弦全体の動きは、すぐ後で演奏する私にもとても曲の愉しさが伝わって面白い。確かに、指揮者のプロフィールなど見ても、「聴いて感動、見て感動、演奏して感動」などとキャッチフレーズ的なものが掲載されているようで、確かにねえ、と納得しきり。

 これが全てじゃない。まだまだ、この演奏会及び演奏会に至る練習での思い出は多々ありますが、またの機会に。

(2003.6.18 Ms)

 チャイコフスキーから順次思いつくまま。

 冒頭ホルンの「運命の動機」。練習のたびごとに、チャイコフスキーの時代の民衆の側じゃなく、貴族的な雰囲気で、と。パーじゃなくポーってな感じ。確かに、格調高く聞こえた方が素敵だなあ。力んで力一杯吹いてしまう心理はわかるが、雰囲気を大事に。個人的には、身分制社会であるロシア帝政下における、インテリ層の苦悩って感じですし。フィナーレでそのインテリは民衆の力強さを思い知る・・・世界史で習った<ヴ・ナロード>(民衆の中へ)というスローガン。第1楽章は、まだまだフィナーレほどの野蛮さは不用、と私も思います(一部、ティンパニがインテリっぽくない、との指摘も聞こえないわけじゃないけど、その辺りはおって書きます)。そう言えば、このホルンも含めて、ホールでの練習、客席での音響チェックは、かなりさかんにやっていましたね。キャパも小さく(7〜800人ほど)、特に金管は、吹き過ぎちゃ、お客さんが辛い、と。指揮者によっては、指揮台での判断でしかバランスを見てない方もいて、どうも信頼できないのだが、彼は、一度二度ならず、要所要所で客席まで駆けていっては確認。本番直前にも、倍管の重ね方を変更したり、テンポを変えてみたりと、ホールにあった演奏を求めていたのが好感度Up。

 第1楽章主部に入ってからの弦の歌い方はクドイくらいに練習。早くから熱くなり過ぎず、情熱を秘めて、と。さらにワルツ好きなチャイコの、ワルツ風のニュアンスは忘れずに。そして、今なお彼の歌声で第1主題は耳にこだましている。伴奏の声部まで含めて、歌と、歌にならない溜め息を混ぜながら、絶叫を混ぜながら熱唱していましたっけ。その歌のテンション少しづつ盛り上げて、という緻密な作り方はなかなかに効果的。実は本番では、その盛りあがりの矢先、思わぬアクシデント、さすが、このヤラシイ9/8拍子、ただではすまんだろうと思ってはいたが,意外と早い時点で崩れてオヨヨと、本番はびっくり。フルートが1拍ずれて出たんじゃないか・・・ユニゾンのクラも一瞬ひるんで、旋律が判明せず・・・。しかし、続くオーボエは確実に楽譜どうり出て事無きを得た。打ち上げでは、さんざん言われっぱなしなフルートtopではありましたが、あの小事故を軽く乗りきったことで、吹っ切れた人はかなり多かったとみた。あのおかげで大事故が回避できたとすら思います。個人的にも、9/8拍子を乗りきるのがかなりオケ全体として不安だったので(慣れないホールでの演奏、一瞬でも聴き慣れないものが聞こえてひるんだだけで致命的なズレも生じかねないし)、あれで楽になったのは確か。ベートーベン7番1楽章のリズムの1拍ずれリズムの応酬は、指揮者も、どうも振りにくいとおっしゃっていたが、私も正直叩きにくく、チョット気を緩めるとすぐベートーベンに聞こえてしまうのだが、本番は楽譜どおりのリズムとして迷いなく演奏できてめでたし。それも、あのフルートのおかげと感謝してます(?)。

 我がTimpaniと指揮者との、練習の過程で、初対面での初対決ともなったのが、提示部が終わって、金管に「運命の動機」が再現したあとのTimpaniのクレシェンド。FFであって、FFFでないのは百も承知だが、ここだけは、極端な表現が必要と私は判断。毎度、団員には苦笑されつつつも、ガツンといてまえ。私の感覚では、この部分のこういう音楽性はロシア人の気質なのか、と思うのだが、とにかく楽曲のなかで極端な場面転換がある。ショスタコには顕著だが、オケ全体が大クライマックスを構築、さあ最後の一撃という所で、全員で行かずに打楽器だけでその頂点を形作るところがある(わかりやすいところで、ショスタコの5番の両端楽章の銅鑼が入る箇所を参照のこと)。打楽器が、これ以上はこのまま前へ進めない、という壁を作る。もしくは、このまま前へ進ませず、崖に突き落とす。そんな場面がある。これが、ロシア人のソナタ形式にはまま見られる。過酷な自然状況のもと、あるいは、アジアとヨーロッパの接点でたえず異民族の襲撃に恐怖していたロシア人たちは、強大な権力をもった支配者のもと統合され、それが、ローマ皇帝の末裔を自称したロシア皇帝であり、また、共産党一党独裁、レーニン・スターリンである。その超越した支配者の絶対的な権力のもと、どうにも個人の力ではどうしようもない時が来る。チャイコにとっては、自殺を命じられた時か?ショスタコにとっては、大ヒットオペラの上演禁止を決定されて「人民の敵」と呼ばれた時か?しかし、その壁を乗り越えなければならない。その崖の下から這い上がらなければならない。その過程を表現したい。私はロシアの作品(全てじゃないが)からそんなバイタリティを見出したい。その、壁であり、崖が、あの箇所であると思う。強烈なダメージを受けて消沈、そこから長い長い潜伏と復活への道程が始まる。そのためには、あのTimpaniから、ロシア皇帝やスターリン(後者はチャイコの預かり知らぬ話)の恐怖を語らせたい、と目論んだ。
 (余談ながら、チャイコとショスタコ、それぞれに立ちはだかった壁、崖、だが、それを超越して、それぞれ、チャイコは6番、ショスタコは5番という大傑作を生み出した、と考えたい。この、社会と芸術との関係に思いを巡らせるだけで、今、俺は猛烈に感動しているのだ・・・社会と芸術のせめぎあいこそ、私の人生のテーマの一つと言って過言ではなかろう。)
 こんな思いを込めつつ、指揮者初来団に臨んだのだ。ここの音量のワンランクUpは、自分の演奏上の主張。何か言われても、直談判でとくとくと語る用意はある。自分にとって、指揮者初来団は、自己主張を明確化させておいて、本番に向けての指揮者との駆け引きのとっかかりとなる大事な儀式でもある。ということで、思いきりガツンとやったところ、予想通り棒は止まって、団員の苦笑のなか、指揮者は語りだす。「出る杭は打たれる、というのが嫌いなんです。」「確かに、音量は大き過ぎる。でも、演奏したいという気持ちは大事にしたい。」・・・私に言葉での主張をする暇は与えられず、そのまま、私の演奏は、指揮者の演奏となった。練習のたび、その部分は、棒は私を向いて、そのクレシェンドを引出すこととなった。最初は、指揮者も笑いながら、しょうがねえなあ、的な雰囲気すらあったものの、だんだん真剣にそのクレシェンドを引出させ、最終的には、私が当初想定したより上をいく要求を棒がしだしていたとすら感じた。
 (Timpaniのクレシェンドの到達点たる打撃に続く、弦の苦悩に満ちた展開部のピアノ、これは、「ディスコ効果もあるからそんなに意識しなくても」ということで、かなりの音量の落差が、弦にとっては比較的ナーバスになりすぎずに演奏できる側面もあるようで、指揮者からのお墨付きも、曲の構成上の問題としても、確実にもらった、ということか。)
 さらに、このクレシェンド体験、他の場面でもいろいろあったが、まさしく私と正対し、棒は正確なテンポを刻みつつ、片方はオラオラとクレシェンドを煽動しつつ、腕が大きく上部に上昇、あの1対1の感覚、Timpaniもしくは、その他太鼓のクレシェンドを受けて立つ、といった気迫に満ちたもので、その指揮者の大きな姿に自分が体当たり、突撃するかのような錯覚すら覚え、こんなスリリングな体験、そして、音楽が共有されたとすら感じられる体験、いまだかつてなかった。それら複数の瞬間、Timpaniと指揮者は強烈な引力によって結びつけられ、自分に宿った音楽の本質の何かが、指揮者によって吸い上げられ、客席に飛んでゆく・・・・あの感覚、忘れられない。いままでに感じたことのない音楽が、そこにあり、数百の聴衆のもとへと飛翔していった・・・。
 ・・・自分の演奏が受けいれられた、というのが、よほど嬉しかったようだ。興奮して自分のことばかり書いている・・・・この辺が、自分の演奏体験が書きにくい由縁でもある。ちょっと筆を置いた方が良さそうだ。まだまだ、何にも書けてないのにね。

文章中、クライマックスが打楽器にまかされる、というショスタコの特徴がありますが、逆にクライマックスを休符にまかせてしまうのがブルックナー御大。
そのあたり、どうも私の性にあわん由縁か。
(2003.6.19 Ms)

 第1楽章展開部は、正直、壮絶に細かな緻密な音符の噛みあわせが困難で、アンサンブルも辛い。楽譜どおりには当然いかない。ただ、ある程度の速いテンポで流して、詳細をあわせるような手間ヒマかけず。そのかわり、展開部最後のクライマックス、頂点へ向かっての段階的な構築性に焦点を合わせたのは賢明な判断か。特に弦のがんばりは良かった。熱かったし、厚かった。弾いてて気持ちいい、という自己陶酔も伝わる。圧倒的な迫力、気迫を指揮者が弦から引出していたのには舌を巻く。

 第2楽章、個人的には、第1楽章の濃厚な世界に対して、間奏曲的な軽さを感じてはいたが、指揮者は容赦しない。これまた濃厚に。第2楽章中間部のクライマックスも、私に課された指示は、全て両手で叩く。とにかく重さが欲しい、と。確かに、そこに至るまでに、第1楽章の再現部と同様に、これまた弦が自己陶酔して全開で臆面もなく発散してるから、それを受けて、演奏しなきゃならんわけだが、あらゆる場面で、全力投球という指揮の姿勢は、とても新鮮。ま、チャイコだから・・・間奏曲的アプローチは撤回した。
 さて、緩徐楽章に対する思い入れもかなりあるようで、主題そのものに対する歌い方も、かなり細かく作っていた。冒頭Obも当然。・・・ただ、楽譜に書かれた、スタッカート、レガート、忠実に再現しているのは分るが、その楽譜の形が見えすぎて、歌になってない、と。楽譜の要請にしたがっているだけではまずい。・・・こういう指示は、合奏の練習をしている最中も、一段階次元の高いもので、その試行錯誤を見守るのも楽しい(ご本人には申し訳ないが)。単なる「音」の洪水になりがち(特に、チャイコは、音の羅列だけでも曲には聞こえがちだし)なアマオケにあって、「音楽」を見つけた貴重な時ではある。さらに、その主題が、最後にFg.で再現するところ。・・・最初は「痴呆」がかって。express.の記号の部分から、だんだん失われた記憶が蘇るように・・・。確かに、楽譜には、フレーズの途中からその指示がある。最初から、「表情豊か」ではないのだ。深い読みだなあ。本番前日に、指揮者から要求され、見事本番は、「痴呆と目覚め」が聞き取れた。指揮者と奏者の感性には、ブラーヴォ。
 あと、前後するが、第1主題の後半で、弦を中心に4分音符で同音で3つ並べるモチーフを繰り返す部分。・・・・飛べない鳥・・・・という比喩には感動した。翼をおおきく広げるが、飛べない、翼を閉じよう・・・この繰り返し。その切なさ。確かにそんな音楽に聞えて来る。指揮者の感受性の豊かさを感じる。暗中模索の我等アマオケ奏者に対しては、的確なイメージ伝達だ・・・・こういう場面が皆無の指揮者は、つまらないと思う。いかに奏者に音楽的な演奏をしてもらうか、といった時に、音量が大きい小さい、テンポが速い遅い、だけでは意味なし。具体的な「イメージ」の「言語化」、これが必要か。それが、奏者のなかに眠っている音楽性を引出す鍵とならないか。自発的に、音楽的な表現を求める出発点にならないか。そんな、きっかけを与え得る指揮者との、互いに音楽を求める時間の共有、なんと素晴らしいことか。こういう思いにさせてくれる指揮者こそアマオケには必要ではないか。音の羅列で良しとしてしまっている者に対する憐憫の情こそ湧いてしまう。音が音楽になる瞬間、これを限られた練習時間で、どれだけ体験できるか、指揮者の力量です。

 第3楽章は、指揮者の独壇場。スケルツォが、体中から発散していた。これは見ていただくしかない。軽く他人の頭を叩くような仕草やら、ぶんなぐるような、また、1世代前のゴーゴー的な体の揺れ、などなど。音楽が視覚化されていた。オケがそのように音楽を聴覚化できてない部分は多々あったが、それを指揮者がカバーしていたということか。

 フィナーレは最初に書いたとおり。だが、追加の感想も。個人的には、大学時代、コンパ、イッキ、か。
 それこそ単なる音の洪水に過ぎない部分が多い訳で、指揮棒が、それをどう音楽化させたか。この手のものとしては、ホルストの「火星」とか、レスピーギの「ローマの祭り」の最後とか、ショスタコの12番の第1楽章とか。中身がなさそうに思われがちな「音の洪水」作品たち。とにかくがむしゃらに速ければいい、というわけでもない。今回は、聴衆への一種、脅しとか、凄み、を見せつける演奏ということで面白く感じた。随所にペザンテ的な部分を置いて、そこから加速。また、場所によっては逆に前ぶれなく加速。それらが、前もった指揮者と奏者の予定調和的なお約束によらず、本番のその時の雰囲気に委ねられたこと。これが、スリルを呼び、また、その音楽の持つ凄みを最大限強調、「音」の洪水は、より確かな「音楽」として聴覚化されたと思うのだ。しかし、こういったアプローチを当団にぶつけてくるというのは、ある意味信頼の証として解釈してよろしいだろうか。
 Timp.としても、普段は、指揮者が手綱をしっかり握っているはずなので、それに甘えて、こちらとしては、自由奔放に遊びを仕掛けたり、余裕を感じながら演奏できるが、最初から手綱なしの暴れ馬にのっかるとなると、こちらが、指揮者の自由奔放さを明確に聴覚化しないとオケが崩壊するわけで、通常の余裕はないわけだ。
 見事に、指揮者がコンパの主導権をにぎって、あらゆる場面で、「♪ちょっといいとこ見てみたい」てな感じで、イッキを煽動、手拍子がどんどん加速するわけだ。普通、指揮者は、冷静な幹事役で、酒の追加の注文に気を使ったり、脱落者の介抱したり、こまごまと働くはずなのに、今回はコンパの輪の中心だ。それだけ、大酒のみかつ乱れない酒乱ばかりのコンパゆえに指揮者は安心して遊んでいた・・・などと感じたのだが(くれぐれもホントのコンパの話ではない。酒乱などいない、おしとやかな団体ですから)。
 私は、それでも指揮者・幹事役の与えた場で、楽しく時を過ごしつつも、実は驚くほど冷静でいられた。最後のコーダに入って最後の加速に入った時、やはり、場所柄(1番隅っこなのはつらい)その場を読みちがえて、やや出遅れたシンバル等がオケ本体とずれ始めた時、指揮棒は、自由奔放さをやめて確実着実な、拍を強調したタクトに変わり(ちゃんと、介抱すべきところは心得ていたわけだ。ただ一人よがりにイッキ煽動してるわけじゃない)、そこで全体が同じノリになったのを確認して、最後、8分音符の連続は棒は時を刻まずひたすら上に向かって上昇するのみ、そして充分な音量が確保されたところで、最後の最後の和音打撃の連続は、地面に叩きつけるような激しさと、ムキになったような速さで大爆発。
 指揮棒が時を刻まず、大きく両腕が広がっていく瞬間の神がかりな雰囲気は忘れられぬ。自分の魂が、その大きな指揮者の姿の中に吸い寄せられて行くような感覚。自分の音楽は、指揮者の音楽と一体であるとの感覚。この強烈な体験は忘れられぬ。

また、興奮している。まだ、興奮している。筆休み。(2003.6.28 Ms)

 

 6/1(日) 京都フィロムジカ管弦楽団第13回定期演奏会  

 季節はずれの台風の影響もまだ去らぬ雨模様の中、関西行きを敢行。京都フィロムジカ管弦楽団第13回定演
 ニールセンの交響曲第3番「ひろがり」(シンフォニア・エスパンシーヴァ)
・・・私のニールセンHPのタイトルとしても借用しているところですが、・・・これを取り上げると団員の方からメールをいただき、自分のスケジュールと突き合せて思案していましたが、なんとか都合をつけて、日帰りで(朝5時20分出発!!)関西グルメ&楽譜CD探索ツアーを企画、会場の長岡京への旅とあいなった次第。
(他のプログラムは、シューマンのマンフレッド序曲及び、プロコフィエフの古典交響曲、という、かなり野心的なもの。)

 旅の話も好きなんで、そちらへ脱線する前に、まずオケの印象をさらっと紹介させていただきましょう。
 やや弦が少なく、バランスの面で不満もないわけではなかったです。特にコントラバスにいたっては3人、3管編成の大規模な作品にしては淋しい。せっかく、パンフレットでは、細かくニールセンのオーケストレーションの話なども読ませていただいたところで、フィナーレにおける低音の重視、なんて観点で興味深かったものの、演奏面でその観点が強調されにくい状況だったのは残念に思いました。ただ、アマオケらしい思いっきりの良さ、は両端楽章の曲想にうまく合致するものがあり、非常に好感を持ちました。指揮者のラフォンテーヌ氏(外国人指揮者とはなかなか凄いですよね)も、棒さばき及びその棒が生み出す音楽から拝察するに、ダイナミックな音楽を構築しようとする意図が伝わって、これも作品の持つ感動的要素を如何なく引出していたのではないかと感じます。
 個々のパートとしては、フルートのレベルの高さ、と、ホルンの安定ぶりが、全体の好印象に直結していたようです。ニールセン作品において、木管楽器の活躍はブラームスと肩を並べるほどのものがあると思いますが、作品の高音域の輪郭を形作るフルート・ピッコロの充実は欠かせない、と実感しました。第2楽章前半のフルートソロは心に染みましたし、ピッコロも、独自な動きを担う部分が多くそれらが、可愛らしく、また、ピリリとスパイシーに効いていて、これぞニールセンの世界、です。ホルンも重要な旋律や和声を巧みに浮き立たせ(第1楽章中間のワルツ的なメリーゴーランドを思わせる部分のトランペットとの応酬も面白い効果です。それ以上に、フィナーレのあの、幸福感に満ちた主題のムードを作るのは、当然に、包容力ある豊穣なる弦の響きと奥行きを演出するホルンであり、弦の頑張りを後押しするような効果のホルンの存在がとてもありがたかった!!)、まさに「ひろがり」を体現していたと感じました。
 声楽は、第2楽章後半からステージに現れ、やや唐突な印象ではあるのですが(出番の部分のみの登場ですと、曲全体の印象から、声楽がオマケのように感じられ、滑稽な雰囲気もしないわけではありません。)、第2楽章前半の暗さが払拭される明るさ、透明感、見晴らしの良い眺望が音楽に表現され、曲全体の中でもスポットライトのあたったかのような特別な雰囲気に満ち満ちて、その、曇天から一筋の光が差し込んだような瞬間あってこそ、第4楽章の幸福に繋がるのだ、とういう必然性が生の音楽を体験するからこその説得力で私の心をHappyにさせたんだなあと、今更ながら思い出しつつ、噛みしめつつ、ああ、また幸福感が私に充満してくるんですよ・・・不思議な音楽だ。こんな、「生きていることの喜び」を感じさせる音楽、他にないんです。
 パンフレットのなかの指揮者のコメントも良かったですね。「第4楽章は、先行する3つの楽章の内容への直截な回答です。それは、仕事、日常生活の健康的な楽しみ、日々の家事という当たり前なことへの喜び、我々の周囲が活動的で可能性に満ちていること、これらすべてへの讃歌なのです。」
 自分にとっては、まさに音楽によって人生が豊かなものになる、その事実そのものが音楽化されたかのような音楽としてこの、エスパンシーヴァは存在しています。その音楽を、この大気の振動として、現実の音として、音楽として再現していただいたフィロムジカさんに感謝の意を表したいと思います。そして、この勇気ある決断(!・・・確かに声楽2人の参加はネックでしょう。それも出番が極端に少ないし。それ以上に、第1楽章のニールセン独特な、フェイントだらけの、運動神経が試されるような「競技的3拍子」の恐ろしい緊張感!!アマチュアで手掛けるのはホント勇気あることですよ)に続く団体を是非ともに期待し、応援したいと思います。個人的には、フィナーレの豊穣な大団円のおかげもあって、充分に聴衆に満足を与え得る作品として、もっと演奏されてしかるべきだと確信もしました。ニールセンの6曲の中でもっともアマチュア向け、だと断言いたしましょう(4,5,6番の演奏上の困難さは、大部分のアマにとっては苦行でしょう。1,2番は、フィナーレの弱さ故に説得力をもった演奏が困難でしょう・・・・初めての聴衆にとって頼りない物足りないものと映るでしょうね。私の経験からも、これらのフィナーレが演奏会の最後を飾る重責を担えないような聴後感を与え、なるべく、休憩前に置かれた方がニールセンの名誉のため、とすら感じてしまうことが多いです。)。
 パンフレットの曲目解説にもあったように「まだ芥川也寸志が司会をしていたころの『N響アワー』で、「知られざる作曲家・ニルセン」という特集が組まれたことあったが、それから10数年たった今でもニールセンが「知られざる作曲家」である状況はほとんど同じである。」そんな時代にあって、日本の西洋音楽受容の歴史の中で、ニールセンの音楽の定着の長い道程の一里塚としての今回のコンサートは大きな意味を持っていると感じたんです。職業だから故に、生活のかかったプロが手掛けない作品も、アマの地道な活動でその真価が明らかになることもある・・・我がHPでもいろいろ登場していただいている「ダスビダーニャ」さん然り「新響」さん然り(前者は、ショスタコ専門オケ。彼らの10年の活動が、今の日本におけるショスタコの音楽需要を大きくしたと実感している。後者は、日本人作曲家、特に、芥川、伊福部作品の専門。)。ニールセンの交響曲の中核をなす3,4,5番。これらの傑作の森の入口への道筋を与えてくれたのがこのコンサートなのです。もっと、この幸福感を、演奏者の人にも、聴衆の人にも味わってもらいたいよな・・・・ささやかなる願望です。 やっぱ、いいよなぁ、時代の先を行ってくれるアマオケは。

ニールセンなんでついつい興奮して、コンサートそのものからは脱線気味。また、頭冷やしてから体験談を続行させてください。(2003.6.2 Ms)
(2003.6.18 「だぶん」より転載、加筆Ms)


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