今月のトピックス
May ’03
5/30(金) ぺテルブルク建都300年をめぐって
4月に引き続き、ロシア、それもサンクト・ペテルブルグねたを。
建都300年のイベントも、5/30から始まり、TVでもさかんに紹介されている。NHK−BSハイビジョンでも、3夜連続の特番。その2回目、5/28放映分が優れもの。「サンクトぺテルブルク 音楽の都300年の物語−ゲルギエフが語る栄光と苦難−」。ゲルギエフとともに、300年のロシア音楽の歴史を振り返るという趣向。
ピョートル大帝が、西洋に開かれた新首都を建設、エカテリーナ女帝が、西洋の音楽を積極的に導入、オペラや宮廷音楽は、西洋の模倣に過ぎないレベルながら、続く、ロシア独自の芸術を開花させる準備は整う。ロシア正教の賛美歌、バロック調の当時のロシアの管弦楽作品など、BGMも凝っている。最近のキーロフでの演目と思われるヴェルディの「椿姫」なども、いかにも、という西洋芸術の導入の象徴として(やはり、誰でも知ってる「乾杯の歌」)、挿入されていた。
そして、グリンカ「ルスラン」の登場。国民主義。しかしまあ、あの、超スピードの序曲に乗って、オペラの中で歌が入る部分、仰天だ。ムラビンスキーのあの名演以上の速さで(きっと終幕のめでたい部分なのかしらん)、イヤがおうでも興奮させてくれる。ただし、初演では、ロシア皇帝が、途中退席したとかで、卑俗な民話を元にしたオペラがお気に召さず・・・。
続く5人組。チャイコフスキー。ロシア民謡を素材とした作品が、堂々と、劇場で、ホールで鳴り渡る時代の到来。興味深かったのは、有名な民謡「白樺」。チャイコフスキーの交響曲第4番フィナーレの第2主題。これが、民謡そのものと、さらに、5人組のバラキレフの「3つのロシア民謡による序曲」での引用と比較された部分。いかにバラキレフがロシア的で、チャイコが、ロシア土着から普遍性へとシフトさせたか、個人的にはよく分る例である(ちなみに、ストラビンスキーの「ペトルーシカ」で使用される民謡もバラキレフの序曲では使用されており、これまた、ストラビンスキーのロシア離れ的な側面が見て取れるような・・・・じつは、このネタ、我がHP開設当初より「隠れ名曲」の候補として温めていたのだが、紹介されずじまい。NHKに先を越されて口惜しい!!)
「ルスラン」では、まだ認められなかった民話の世界、5人組で成功を収めた例として、Rコルサコフの「雪娘」とは、これまたシブイ。・・・きっと、ゲルギエフ・キーロフの演目から映像をいろいろ持ってきているから、と思われるが、選曲がどうもマニアックだなー。ムソルグスキーは、「モスクワ河の夜明け」が紹介されていたし。さて、ロシア帝国最後の爛熟期、しかし、次の時代の到来もまじか、「悲愴」のフィナーレとともに一区切り。
続いて、「革命」。番組最後の30分ほどは、ソビエトが生んだ天才児、ショスタコーヴィチと、第2次大戦の「レニングラード」攻防戦の大特集。300年の歴史の中でも、最大の危機、そして、その危機を乗りきった、市民そして、その街の名を冠した大交響曲の物語。
ショスタコの初期のピアノ曲(前奏曲第4番・・・作品2のものと思われる)を紹介していたり、歌劇「マクベス夫人」の映像、その歌劇の演出家が、ショスタコの才能を彼の面前で称賛する映像など、お宝映像の数々。そして、レニングラードの2年間の包囲のなかの体験談、その戦場で書かれた、交響曲第7番「レニングラード」の初演を聴いた人、軍役から呼びもどされ初演に参加したクラ奏者等々、「レニングラード」初演の感動物語が、昨年のキーロフとN響の合同演奏会の映像とともに綴られてゆく。ショスタコが自らピアノで第1楽章の中間部を弾く場面、も興味深い。自筆譜の中に、「爆撃」の文字が見られたり、最後のタタタター、と連呼する部分は、モールス信号のV,つまりはヴィクトリー、勝利を意味する、なんてナレーションも入って、おいおい、そりぁ誰が確認したんだ、と思いつつも、まるで、ショスタコが戦場で、命と引き換えに勝利を信じて創作活動していた、なんていう雰囲気を感じさせる内容だ。
とうとうこんな時代になりましたか・・・・私は感慨無量。高校時代、名曲辞典のたぐいなどを見ても、この作品は、交響曲にあらず、終戦後は色あせて人気凋落とか、名のみ高く、傑作じゃあない、というのが批評の主流だった。それが、いまや、建都300年を期に(今年を待たずに人気回復の兆しはあったが)、堂々たる存在として、報道番組のほぼ主役になって放送されている・・・・マーラー、ブルックナーなどでさえありえない持ち上げた紹介のされ方、(こんな、社会的な、関わりの中で紹介される余地もなさそうなのだが、)ショスタコは、英雄として、ぺテルブルク300年の歴史の中で、最も重大な役割を担った人物として、紹介されていたのだ・・・・これ、やり過ぎると、ソヴィエト時代の英雄視されたショスタコ像の復活にも見えてくるから、ちょっと用心しておきたいのだが。
それにしても、ショスタコの持ち上げ過ぎ、昔からのファンとしては嬉しい反面、複雑なる心境。ただ、「レニングラード」、真面目に語れる時代になった、というなら、おおいに歓迎するところ・・・・・ずっと、下手すりゃお笑いネタでしたからね、この作品・・・・。
番組最後は、プロコフィエフのオペラ「戦争と平和」。独裁者スターリンとまさに同日に亡くなった悲劇の作曲家、晩年12年の歳月をかけて完成させた大作。まさしく、ぺテルブルク300年の総括に相応しい「戦争と平和」、が壮大にこの番組を閉じる・・・・最後までマニアな選曲ありがとう。
そう言えば、ゲルギエフ、現代のカリスマとして大人気である。この300年祭にしても、通常のニュースにもインタヴューなどいろいろ放映されている。「レニングラード」も盛んにそのバックで流れているし。CDもいろいろ新譜で出てるし、ちょっとしたブームといった様相。さて、BSでは、さらにロッテルダム・フィルのプロコフィエフ「スキタイ組曲」のリハーサルの1時間番組も先週放映、私はスキタイ人の末裔だ、と言うことで、とても大切な作品、という。プロコの次男との対談なども興味深い。相変わらず、堂々たる演奏で、圧倒される。第4曲の最後の日の出の場面に最大のクライマックスを構築、全編うるさいだけの浅い作品ではない、感動の作品として丁寧に細部にこだわって音楽を作り上げるゲルギエフの態度に脱帽である。
もう、ロシア三昧なこの2003年の初夏、私自身の自分史の中でも、この数日間の雰囲気は、忘れられない思い出、になりそうだ。次から次へと、こんなに、私好みの情報がどんどん流れてくるんだから・・・・。この時代、この場所に生を受けた事、ほんとに感謝したい。
まだまだ、ロシア・ネタは続きそうだが(Rコルサコフのオペラ「金鶏」も録画したが未見。歌舞伎的アプローチで面白そう。作品自体も、ロシア帝政末期に、帝政批判を込めたとかで興味深い。)、とりあえず今日はここまで。
おっと、追加すべき情報を忘れていた。朝日新聞5/29(木)朝刊には、ムラビンスキー特集「頑固一徹 なぜか人気」「胸がすく 強靭な「父性」」などど紹介。宇野功芳氏、吉松隆氏らが、語っている。ムラビンスキーが、新聞紙上をにぎわすだなんて、ホントに時代は変わったよなー。
(2003.5.31 Ms)
あと、5月の「だぶん」もロシア絡みなのでこちらに移設。
銀行の国有化、なんて話きいてると、いつの間に、日本は社会主義国になったんか?と思うこの頃。政権与党の方たちも、党がなくなれば国がなくなるなどと、およそ一党独裁的な国家認識を披露していて、日本のソビエト性は、ますます顕在化しつつ、また、ソビエト崩壊と同じ破綻の道筋を転げ落ちているかの様相。そんな世相ゆえか、ソビエト政権下の苦悩をにじませるショスタコーヴィチの音楽は、ますます巷に広がりをみせているようだ(曲解ですよ、本気にしないで・・・・と言いたいところだが、この話題を出すそのたびごと、曲解度が低下、真実味を帯びているのが怖くて・・・)。
アルゲリッチ音楽祭で、キャンセルした彼女が、追加公演。朝のNHKニュースに流れるピアノ三重奏曲第2番。中村紘子氏のNHK教育「人間講座」でも、ショパンコンクールに出場したショスタコの話、さらには第1次大戦の映像のBGMで、交響詩「十月」と、この2日ほどで何気に耳に飛び込む。セントラル愛知演奏会でもピアノ協奏曲第2番(このネタはまたおって)・・・・。
革命後70余年で崩壊したソビエト。日本もその例にならうなら、敗戦後70余年、2020年頃に崩壊しそうだ(堺屋太一氏の「平成30年」なる小説も意味深で。)。2003年の日本、ソビエトで言えば1975年くらいのレベルか。ブレジネフの停滞の時代。現代日本と同じく、改革を許さぬ惰性の全盛時代か。こんな世相の中、人生を振りかえりつつショスタコは世を去った・・・という時代。
NHKBSの「迷宮美術館」では、メディチ家による独裁に反抗する友人たちとの共同歩調をあきらめ、芸術を通して独裁体制に従いつつ命ながらえたミケランジェロの姿を、代表的な絵画・彫刻のみならず、政治的活動と関係ある秘密地下室なども公開しての大特集・・・ショスタコ最後の管弦楽を使った作品(声楽入りだが)「ミケランジェロ組曲」を思い出しながら、作品に込められた思い、「最後の審判」に見られる自画像、注文主の不平に屈せぬ態度などなど・・・ぎりぎりの選択のなかで創作活動を続ける彼の姿に感動した。ショスタコもまた、自らをなぞらえて最後の大曲を仕上げたのだろうか?博物館のガラスケースに入ったような、古典にはない、生々しい感動を呼ぶ、ショスタコの作品なしに、もう、21世紀の日本の音楽シーンは語れないような気さえする。
そんな時、タワーレコードの店頭冊子の「musee」、「バイヤーからのおすすめ」。ショスタコの「ラヨーク」再販。独裁者たちの演説をパロディーした、生前秘匿された作品・・・・「某団体が、管弦楽伴奏で来年だか再来年だかに上演しようと画策しているとかいないとか」って・・・・まさか?オーケストラD,Sかしらん?未確認情報です。
(2003.5.19〜26 Ms)
5/16(金) セントラル愛知交響楽団 第61回定期演奏会
「時の贈り物」と題された演奏会。目当ては、ショスタコーヴィチのピアノ協奏曲第2番。親しみやすい作品なのに、まして、ショスタコ作品、かなり取り上げられる時代になりつつあるのに、どうもこの作品は忘れられた感じか。同じピアノでも、1番の協奏曲は、トランペットの独奏も伴うという独創性もあって、ちょくちょく演奏会でもやられるし、ヴァイオリン協奏曲第1番など、最近の若手の力ある人たちは、こぞって取り上げている、諏訪内、庄司、ヒラリー・ハーン・・・・。
やはり、内容の軽さ、そして、小ぶりな感じが、ソリストにも不満を感じさせるのかな。確かに、今回、初めて生で聴いたが、物足りなさがなかったわけじゃない。あっという間に終わってしまう。せっかくのショスタコ作品ながら、彼の毒も薄いものだし・・・と思いながらも、やはり、この作品の核心は、第2楽章の、あまりに古典的、前期ロマン派風な叙情性かな。このナイーヴさ、特筆したい。息子への暖かな眼差し、そして、その向こうに、自らの少年時代への懐かしさ・・・何かしら切なく、胸を打つ。ハ長調の主題が、再現でハ短調で再現されるのも、失われた「時」への思い、とも感じられる。素直に感じ入ることのできるこの緩徐楽章、単なる、ショスタコお得意のパロディでは済ませたくないような気もする。
書き忘れたが、ピアノ独奏は若林顕氏。
さて、「時の贈り物」なるタイトルの由来が判然としないのだが(ショスタコの第2楽章が、私的にはそう感じられないでもないが、随分なこじつけにはなろう)、他のプログラムは、リストの「メフィスト・ワルツ第1番」、グリーグの「ペール・ギュント」抜粋、語り付き。
リストは、数年前の北欧旅行の飛行機の中で何度も聞いて頭にこびりついたもの。ハープの独奏が、ピアノの超絶技巧を模倣しているかのようで、当時としては前衛的だったかも。この成果が、チャイコのバレエにも生かされるか。
グリーグ、大概、アマチュア・オーケストラで、「ソルベイグの唄」が、かなりボロボロに聞こえてしまうのが難点でもあり、その印象が拭えない、不幸な作品。本当は、こんなに美しい作品なのだ。
アンコールで、指揮者、松尾葉子氏のピアノを入れて、「山の魔王の娘の踊り」が聞けたのが、儲けモノ。組曲から漏れて、なかなか聞けないが、グリーグにしては、木琴なんかも使って(ピアノも入って)、結構、面白いオケの響きがよろしい。
(2005.6.29 Ms)
5/4(日) 第9回 大垣音楽祭 ダイナミック室内楽U
5/2下記の記事の最後にて、「また足を運びたい」などと書いて、結局来年が待ちきれず、2回目の「ダイナミック室内楽」堪能。ただし、今回は、本番直前のゲネプロ無料開放。 曲は、まず、シューマンのピアノ五重奏曲。チェリストが時間を間違え30分遅れのスタート。1st Vn.が渡辺玲子氏。美しい音色が印象的。その傍らの2nd Vn.久保陽子氏が、内声ながらもかなり主張が強く、ややピアノ重視な曲の作りを感じさせる作品だが、作品の奥行き、立体感を感じさせていたのが面白い。第2楽章のムードがとても良かった。ぼそぼそと途切れ途切れな旋律、ヴィオラ(店村氏)の雄弁さが良い。それに続く、穏やかに流れる高音域Vnの旋律の素晴らしい歌も感激。ピアノのつけ方も絶妙のニュアンスで。中間部のクライマックスの緊張感も惹きつけられる。終始2nd Vn.が刻みを前面に押し立てて起伏をつける部分の効果の凄さ・・・ショスタコの交響曲第5番第3楽章クライマックスすら感じさせる激しさ。そこに回帰するヴィオラのテーマ、身震いするほどの感銘を受けた。
続いて、ヴィヴァルディの「四季」。4曲それぞれに独奏者を変え、それぞれの個性も感じさせ、また、超有名曲ということもあり、リラックスした、余裕さの中でのゲネプロ、笑顔も絶えず、音楽の楽しみに満ちた至福の一時といったところ。ただ、当然緊張感もって演奏は進み、「夏」「冬」のアレグロ楽章の激しさは、「ダイナミック室内楽」の名に相応しいもの。「冬」の第3楽章では、幼稚園児が、立てノリで揺れて音楽を楽しんでいたのが見えて、納得だ。結構乗せられる演奏ではあった。演奏面の詳細としても、かなり自由な装飾が施され、また、ロマン的でさえあるテンポの細かな変動、5/2のブランデンブルクに比べ、現代的なアプローチが伺えた。特に「秋」は、ある種、やれることは全部やってしまえ、と言わんばかりのソロ(服部譲二氏)の自由奔放さにはあっけにとられた。ソロは当然ながら、それにつけるチェロのアンサンブルの力、は、さすがだ。ゲネプロ中、最初の「春」で、ソリストの位置を決めるため試行錯誤していた時、結局はかなり前方に移動したのだが、チェロ奏者(毛利伯郎氏)が「秋」だけは離れないでくれ、と言っていた意味は良くわかった。また、新人さん二人(小林朋子さん、古川愛さん)も参加し、eyeコンタクトもしつつ、時に先輩方の遊び心に微笑しながら、アンサンブルを存分に楽しんでいるようで頼もしい。
最後に、木管五重奏。ピエルネの「絵画的組曲」。未知である。標題があり、「蜜蜂と花」「平原の夜」「小鳥と猫」の3曲からなる。近代フランスの作品のはずだが、かなり難解な感じではあった。ストラビンスキー「春の祭典」第一部第二部それぞれの冒頭あたりの世界に近いと感じた。曲そのものはなかなかに楽しみにくかったものの、弱音のニュアンスには、はっとさせられるものあり。静寂と楽音の境界にある、緊張感ある、しかしそれでいて甘さを感じさせる、オイシソウナ音色!!この絶妙の息づかい。普段、アマチュアの中にいると、こういう音にはなかなか出会えない。無造作で、甘さどころか「弱音はアマでは出来ません」と最初から開き直って、努力の感じられないピアノ、例えば、弦の密やかな刻みの雰囲気を平気で壊す音、これだけは勘弁して欲しい。出来なくてもいいけど努力は見せてくれ!と感じてしまう私としては、もっとこういう音に出会いたいね。・・・・ふと、山本正治氏(新日フィル首席)奏でるプロのクラの音を聴きつつ、ダスビの「メーデー」冒頭(2002年2月の演奏)がよぎった・・・・あれこそ、クラの音だ、アマでもプロと同じく、本物のクラの音。そんなアマオケももっと聴きたい。・・・おっと脱線か。
やはり、身近に本物を聴く機会を持てるのが何よりの幸福。大垣音楽祭。今後のさらなる発展を願います。そして、ここに集う音楽仲間(奏者のみならず聴衆もまた。もちろん私も含め。)がそれぞれの胸に感動を焼き付けて、さらなる自らの活動の推進力となりますように!!!
(2003.5.5 Ms)
5/2(金) 第9回 大垣音楽祭 ダイナミック室内楽T
4月は、休日返上の仕事も続き疲労コンパイ。とりあえず、一山超えて、大垣まで遠征可能になり、正直、大変嬉しい。その内容も、その名に相応しい、ダイナミックな室内楽を堪能、感激だ。
大垣スイトピアセンター、音楽堂にてのコンサート。かつて一度、とある指揮者の方に会いに、某コンサート前日を捉えて、この音楽堂まで足を伸ばしたのは、かれこれ7,8年前になるか。だいたいの位置は覚えていたつもりだったのだが、いざ大垣駅から歩くと意外と遠い。道を間違えたかと思い、(さすが水の都、川沿いの散策ルートはキレイに整備されていたが、)川の傍らで夕涼みしているお爺さんにスイトピアの方向を尋ねてみた。すると「フィレイドー(ル)ケーテ」なる答えが返って、「?」。日本語として聞き取れず、再び尋ねると、「広い道路を超えて」ということと理解できた。そう言えば、あと少しで滋賀県、近鉄も走っているし、関西圏まで来てしまったか、と認識。ちょっとした旅行気分だ。それにしても、僕も、音楽求めて東西に奔走しているんだ・・・なんだかんだで、東海地方もいろいろな興味深いコンサートに恵まれているわけか・・・・ありがたや。と、ほとんど「だぶん」ノリな書き出しで失礼。コンパクトにまとめようと思いつつ、「今月のトピックス」も初心に戻り簡潔にいこうと思いながらも早速こんな按配では思いやられる事。
もう9回を数える音楽祭。プロの奏者を招聘しての室内楽専門の音楽祭。毎年GWにやっているらしい。ただ、「教育」的なコンセプトがあり、学校訪問コンサートや、公開レッスン、アマとプロのピアノ・デュオ、さらに、オーディションで募った新人のソロ・コンサート、そして、新人とプロによる室内楽コンサートと盛り沢山の内容である。地域住民との接点も多い音楽祭で、本物の音楽に接する恵まれた環境といえる。
コンサート冒頭は、プロと新人を交えて6人の奏者による、バッハ、無伴奏Vnパルティータ第3番から前奏曲。開始前に、裏方の人が客席から舞台に上がる簡易階段の位置を動かしており、また、僕の後ろに、市長・教育長の指定席も用意され、こりゃ長い挨拶でも聞かされるのか?と漠然と感じたのだが、予想外の展開。奏者が登場するや、2人の奏者は客席に降り、客席の半ばほどの位置に左右陣取り、照明が照らされるや、即座に、舞台上の奏者、久保陽子氏が大きく予動を与え、ホール一杯に輝かしいVnの音色が充ち満ちて、これぞダイナミック室内楽の開幕、と言わんばかりの趣向に感激しきり。あの距離感で、あの細かな音符の連続であるバッハのアレグロがすばらしく呼吸も合って、こんな体験させていただいた幸福感もまたヒトシオ。
続いて、バッハ、ブランデンブルク協奏曲第6番。ヴィオラ2人をソリストに、通奏低音(チェンバロ・バス・チェロ)とヴィオラ・ダ・ガンバ(チェロで代用)という壮絶に渋い取り合わせ。今年元旦のTV愛知のクラシック番組で、アーノンクールによる演奏を予め見たが、他のナンバーより旋律的にもサウンド的にも地味に過ぎて余り感じるところも少なかったが、やはり生体験だといろいろ面白さが発見できる。まず、Vnの輝かしい迫力に満ちたプログラムから一転、中低音のみ、それもかなり、スル・タストによる柔らかな響きが、前曲とのかなりの差、断絶を感じさせた。ホ長調というVnの鳴り易い、かつ、力みなぎる明るい調性から、変ロ長調というおちついた調性といった要素もあろう。ソロは、N響首席の店村真積氏と、水戸室内やサイトウキネンのメンバーでもある中村静香氏。二人のソロが対等に主張しあいつつ、細やかな掛け合いも見事一体感を持って演奏、退屈させる事はなかった。ただ、魅力的な旋律が見出せない作品とは思ったが、実は大発見?。第二楽章の主題だが、長調で提示されるも、途中短調に転調、それがなんと、ショスタコーヴィチの交響曲第6番第1楽章の重要なモチーフに類似している・・・。昨年11月のVnリサイタルで、無伴奏Vnソナタno.1のフーガの主題が、やはりショスタコの5番第3楽章の主題と類似していることに気付いたが、ショスタコとバッハとの切れない縁から考えても、興味深い事実だな。バッハはやはり聴くべきだなあと実感。ちなみに、第2楽章でショスタコが刷りこまれると、続く第3楽章のせわしない3拍子のソロ同士のスリリングなほどの受け渡しは、ショスタコのVn協奏曲no.1のスケルツオが僕の中ではダブってしょうがない(引用とかではないが)。
さらに休憩前にもう1曲。フンメル(1778〜1837)の七重奏曲作品74。全く未知の作品。ただフンメルなる名は、ピアノを習っていた頃、曲集のなかにあったように記憶。ベートーベンとほぼ重なる世代、所詮、モーツアルトの亜流か?などと考えていたら大間違い。まず編成が特異。Fl.Ob.Hr.の木管3種に、Vla.Vc.Cb.という中低弦、そしてピアノ。形式は標準的4楽章で、ソナタ形式や変奏曲など型どおりの作りながら、和音の雰囲気、落ちつかない転調など、ロマン派を感じさせる。ピアニストによる作品だけに、ピアノの細やかなパッセージなど、リストみたいだが、他の楽器も、Cb.を除いて花を持たせている。特にVla.Vc.の高音域のソロなど、古典派ではない使い方。ホルンも旋律的な動きがいろいろ見られる。和声もそうだが、初期ロマン派を思わせるものとして、Vc.とOb.の重ね方など、シューマンの4番のロマンツェを想起。あと、ニ短調という深刻な調性ながらも、長調の勢力も強く、特に、第1楽章の終結は短調で終わると見せかけておきながらも、長調に強引に持って行くやり方はほとんどドボルザークの7番の最後とウリ二つ(調性が同じということもある)。作品の持つ雰囲気、ややチープな(?)印象も、そういえばドボに似ているような。ただ、ドボほどのメロディメーカーでなかったところが、いまいち有名になりきれなかったか。しかし、1816年の作とは驚き。20年ほど先駆けて、ロマン派のムード漂う前衛的な作品と感じた。
演奏面では、2人の新人さんに敬意を表しましょう。ピアノの黒岩悠さん、ヴィオラの坂口翼さん。ちなみに悠さんが男性、翼さんが女性。ピアノの繊細なタッチは光っていたし、ヴィオラも、弦3人を好リードし主張も堂々たるもの。今後のご活躍を期待します。あと、プロの側もN響のHr.松崎氏はさすが、という存在感だ。高音の旋律のソロの安定性、全体の中での絶妙なバランス感覚、柔らかな音色といい、素晴らしかった。
休憩をはさみ、ブラームスの弦楽六重奏曲第1番。情熱的で熱い演奏。大オーケストラに匹敵せんばかりの迫力と奥行き。1st Vn.の戸田弥生氏の、幾分攻撃的な、そしてシャープな切れ味、全体を統率する支配力が、ビシビシと伝わる。テンポ設定が基本的に速かったせいもあるか。さらに、他のメンバーも、負けじと要所要所で、主張が前面に突如と現れる。さながら、バトルの様相。アンサンブルのあり方としても、eyeコンタクトが頻繁にとにかく場所場所で各方面に行っている様が、ある時は余裕で楽しそうに、ある時は虎視眈々と次の獲物をぶんどるかのような厳しさで、まさにバトル。まったく目が離せない、耳が離せない演奏で、感動体験のオンパレードで書ききれないが、一点だけ。第2楽章の有名な主題。伴奏の和音が、もっと重厚で張り詰めたもの、とのイメージがあったが、意外と、あっさり、アクセントだけつけてややdim.で全ての和音が統一。その分、旋律は充分浮き出ている。ただ、恨み節のようなねっとりとした歌ではなくスマートでキリリとした旋律造型で、面白い解釈だと新発見。旋律パートに出てくる重音も、その伴奏の和音のアクセントにあわせて、スピーディーな切れ味で奏され、カッコイイ。さらに最後に一点、全面的にヴィオラには目が行ってしまった。店村氏は当然ながら、中村氏もかなり情熱的な演奏を聴かせていたのが印象的。
鳴り止まぬ拍手に応えてアンコール。曲は用意してないので第3楽章を、と。前半2楽章の充実ぶりばかりが突出した印象をもっていたが、3楽章の、スリリングな舞踊性もまた楽しいものと改めて感じる。
とにかく大満足で家路についた。これだけ充実した内容の音楽祭、これからも継続してほしいもの。また、足を運びたいものです。
(2003.5.3 Ms)
April ’03
4/20(日) ロシアにおける日本文化フェスティバル開幕
別段、ロシアまで出向いて、フェスティバルを見て来たわけではない。ま、ネタ切れで、こんなニュースがあったので、というのが正直なところ。しかし、ショスタコーヴィチ始め、ロシア音楽及びロシアそのものに大きく傾斜した我がHPとしては、トピックスとして取り上げてしかるべき話題ではある。
プーチン大統領の出身地、サンクト・ぺテルブルクの建都300年である今年、小泉首相と昨年のカナナスキス・サミットにおいてこのフェスは合意、実現の運びとなったという。そう言えば、昨年秋の、N響・キーロフ合同演奏、さらに、今年2月のオーケストラ・ダスビダーニャと言い、ショスタコの交響曲第7番「レニングラード」は、高らかに日本でも鳴り響き、建都300年祭の前夜祭のごとく盛りあがりの中にあったわけで、なかなかに、ゲルギエフといいダスビといい心憎いね。また、私自身も、ショスタコが第2次大戦の戦場で使命感に燃え「レニングラード」を書いたその年齢になるわけで、こじつけながらも因縁を感じつつ、壮年ショスタコの偉大さを改めて感じるとともに(自分とは比較にもならない、何という大きな存在である事か)、「レニングラード」で描かれた、暴力、悲劇が、今まさに、日本を含む北東アジアで現実のものとして再現されないことを切に願う。
一方、スターリン没後50年、さらには、スターリンの死んだ日に絶命したプロコフィエフもまた没後50年。そして、もう一人の、ソビエトの大作曲家、ハチャトリアンは、生誕100年(今年3月の、下記記事のコンサートの、交響曲第3番も壮絶な印象を与えてくれた)。とにかく、ソビエトの三羽烏そろっての記念年たる今年、逆に日本でもおおいに、ロシアづいていただきたい。私個人としても、今年の目標、3人の作品を自ら演奏したい、と画策中。さてはて。
そんななか、N響アワーも、4月のヨーロッパ公演のうち、サンクト・ぺテルブルク公演を放映。
武満徹の「セレモニアル」。笙をフューチャーした作品。この作品は、N響もよく取り上げているようで、かつて定演でもTV鑑賞。笙の、まるでパイプオルガンのような深い響き(迫力こそないが)、そしてオーケストラの美しく漂うかのような、はかなささえ感じる夢幻的なムードが特徴的だ。ただ、ロシアの聴衆にとって熱狂的に受け入れられたかは、映像を通してのみでは不明。メインとして、「展覧会の絵」。ロシアでの演奏に恥じぬ立派な演奏である。面白かったのは、カメラ・アングルが通常の定演とは違っていたこと。ただ、余りうまくはなかった(休んでる奏者が前面に来たり)。あと、番組で、そのフィルハーモニーホールが、1839年の設立で、「悲愴」の初演などもされていると紹介。私的にも、ムラビンスキー、レニングラードフィルの本拠でもあり、彼の指揮したビデオや、ショスタコ作品の初演の写真などでもお馴染のホール、というのが嬉しい。
蛇足。ロシア・イヤーの触発されて、ではないが、今年もまた、教育TVのロシア語講座、とりあえず、1ヶ月分は見た。毎年ではないが、社会人になってから、何度か語学講座を見始めては三日坊主、なのだが、とりあえず、1ヶ月経過。重要表現のマスター、そして、ロシア民謡「トロイカ」を1番のみ、ロシア語でそらんじて歌えるようにはなった。今後継続するかは、未知数だが・・・。
(2003.5.7 Ms)
March ’03
3/2(日) ジャパン・グスタフ・マーラー・オーケストラ 第2回定期演奏会
このところ、上京ネタが続くが、今回は、3/2に、ジャパン・グスタフ・マーラー・オーケストラ第2回定期演奏会。ハチャトリアン生誕100年記念としてのコンサート。
青春18きっぷによる、鈍行の旅。片道6時間かけてのコンサート鑑賞。
充分それだけの価値はあり。指揮者は、アルメニアで活躍中の井上喜惟氏。
まずは、団体名にその名を冠した、マーラーの10番のアダージョ。丁寧な演奏だ。アマオケながらも、要所にプロも配しての団体ということで、技術的には安心して聞ける。ただ、やや弦がもう少し厚く響いたらなあとも思った(トロンボーンが弦に対しやや優性か)。しかし、禁欲的、抑制的なムードは全体に立ち昇り、また、弱奏の部分(冒頭その他のビオラ、クライマックス直前のバイオリンなど)の緊張感、また集中度の高さ(奏者も観客も)は特筆すべき。さて、クライマックスも、予想外に禁欲的で、発散を期待した自分にはやや迫力不足に感じた。三和音を集積した、どぎつい不協和音の強奏も自分の持っていた悪魔的なイメージとは相違。ハイトーンのトランペットの持続音も圧倒的に鳴り響くといったわけでもなく、逆に、ふとマーラーの最初の交響曲で最初に鳴らした、フラジオの弦のAの音のイメージと重なりさえした。指揮者の個性が充分に感じられた。プログラム・ノートにある、許光俊の解説による、第1回定演の6番の演奏評・・・「マーラー特有と信じられている大げさなまでの劇的な葛藤や、生々しい感情の吐露は姿は消し、代わりに抑制され洗練された響きの神殿が現出したのだった。」
続いて、今回のコンサートの山ともいうべく、伊福部昭の、ヴァイオリンと管弦楽のための「協奏風狂詩曲」。ソロは、ニールセン研究の音楽学博士でもある、緒方恵さん。昨年のリサイタルでのニールセンを始めとする北欧作品演奏も素晴らしかったが今回もブラーヴォ。たっぷりと野太く伊福部の野性的なダイナミックな世界を表現していた。特に第1楽章のゆったりとしたカデンツァ的部分の存在感溢れる演奏には感激。音も美しく、それでいて迫力もあり、余韻も豊か、ふくよかで、一気に惹き込まれた。曲自体は、2楽章制で、緩−急という構成ながら、楽章間の対比がやや希薄(第2楽章があまり速すぎない楽想ということもある)で、その辺り、タプカーラ交響曲や、同じく協奏的な、リトミカ・オスティナータ(ピアノ独奏付き)の熱狂からは程遠く物足りなさもあり。ただ、軽率ならぬ落ちついたテンポ感は、信念の強さ、流されない意志をふと思い、今流行りの「スローライフ」とか個人的に想起したり。最後は、太鼓軍団(トムトムやらコンガ)も含めて、かなりな迫力でオケが押しまくる中、ソリストの音ははっきりと存在を示し目を見張る。・・・・曲そのものは、全体の雰囲気としては、リトミカ・オスティナータとの類似(冒頭の和音や、最後のフェイント的GPなど)も見られる点があるが、最大の特徴は、一瞬、あの有名な「ゴジラ」のテーマがそのまま登場することかな・・・・この作品こそゴジラの生みの親、ということか?客席でも一部どよめきがあった。そりゃモロだからなあ驚くよな。
驚きついでに、伊福部氏ご本人も会場に臨席され、演奏後は盛大な拍手を一心に受けていた。彼の姿を拝見できたのもまた感激だ。一生忘れ得ぬ思いでとなろう。
休憩中、ロビーにて、販売されているCDや本をのぞいていたら、彼が杖をつきつつ、客席の手すりにもつかまりながら、ゆっくりと客席の坂を上がってきていたのを見かけ、さすがにお年を感じさせた。日本音楽界最大の功労者の一人だ、まだまだお元気でいて欲しい。自作の演奏会にも足を運び、音となった自作との対面を果たしていただきたいものです。
最後は、お待ちかね、ハチャトリアンの交響曲第3番。アルメニアからオルガニスト、アルトゥール・アダミアン氏を迎えて。とにかく迫力に押された。凄い曲だ。トランペット15本のバンダという発想も凄い。ただ、支離滅裂、荒唐無稽な構成感は体感・・・・。機械的な音型・モチーフの単純な繰り返しも多く、生で聴いても飽きてしまう面は確かにあった。でも、アルメニア民謡風とされるアジア的な流れるような旋律と、豊かな、大地に根を張ったかのようなその伴奏も含めた雰囲気には、素直に感動できる。・・・そこで、今回のプログラム・ノートにある、ナチスのユダヤ虐殺の先駆ともなる、トルコによるアルメニア虐殺(1894〜96,1915〜23年、100万人以上の規模で)という史実が、心に去来する。第2次大戦の単純な戦勝記念、だけを背後にもった作品なのか。不協和音に彩られた、血塗られた戦争交響曲なのか?最後に大爆発するアルメニア民謡風主題の絶叫は、戦勝というより、民族のアイデンティティーのただならぬ宣言にも聞こえないか?いろいろな思いがよぎる、当該作品との始めての対面となった。アルメニアのことがもっと知りたくて、休憩中、後援団体(アルメニア協会?)から、関連の冊子も購入(アルメニア特集を組んだ「地理」2000年5月号)。1939年、「今日、アルメニア人絶滅の件を誰が話題にしようか!」と檄を飛ばしてユダヤ虐殺へと走ったヒトラーの話など、現代人として知らないでは済まない史実ではなかろうか?
音楽そのものにも感ずるところは多かったが、それ以外の要因でも、私の糧となり、また思い出となるコンサートで満足。次回は、来年夏、マーラーの3番とのこと、大曲に挑戦です、期待したいですね。
スターリン及びプロコフィエフ没後50年の命日に記す。プロコへの敬意と賛意を込めつつ新たな試みの成功を祈りつつ。(2003.3.5 Ms)