今月のトピックス

 

 February ’03

 

2/22(土) NHK交響楽団 第1483回定期演奏会

R.シュトラウス 13管楽器のためのセレナード 作品7 
ニルセン     クラリネット協奏曲 作品57

シベリウス    交響曲第2番 作品43 

クラリネット : 磯部周平
指揮 : ヘルベルト・ブロムシュテッド 

 上京再び。N響定期。
 今月は、ブロムシュテッド指揮によるニールセンが続いているが、最後のCプロでは、最後の管弦楽作品である、クラリネット協奏曲が取り上げられた。滅多に聴けない作品ということで、Cプロ2日目、土曜日2/22のコンサートへ。今月最後の定期である。これが終われば、指揮者は我が家へ帰ることとなろう・・・・などと普段は考える事もないのだが今回は・・・・。来日中の2/8に亡くなった彼の妻との面会・・・・。
 さて、こちらの興味は、当初はそのニールセンにあったのだが、聴いての感想、とにかく、メインプロのシベリウスの交響曲第2番に泣いた。ホントに。
 スケールの大きさ、感情のほとばしり、颯爽たるすがすがしさ、これほどに魂を揺さぶられる体験をさせていただけるとは。
 彼の妻の死、という状況が、私のこの主観的な感動に関連しているのは否めないとは思うのだが、それにしても、「凄い」演奏ではあった。具体的には、金管打の強烈なインパクト。N響からこの凄まじさが引出されているのに驚き。以前のスヴェトラーノフのロシア音楽プロも、TVを見ながら思ったのだが、それと同質な印象を生で体験できたということか。特に第2楽章そして、フィナーレ、それも最後の凱歌の高らかな金管の吹奏(トランペットの対旋律の絡みがここまで強調されている演奏もそうそうないだろう)。さらに、第3楽章の疾走感、殺気だった雰囲気すらあり。また、第2楽章の不安定なテンポの変動も、かなり重量感を持った重さをたたえつつ、激しい感情の爆発を随所にちりばめ、また、中間部の祈りに似た清澄な雰囲気との対比も鮮やかに、曲を知り尽くした巨匠ゆえの説得力が感じられる。
 ただ、第4楽章の冒頭主題については、違和感を覚えるほどの速さで、否定的見解も多かろう。私自身も違和感がないとは言えない。トロンボーンのタタタタン、という運命動機と同じリズムがテンポに収まり切らず、チューバやティンパニとの伴奏型同士のアンサンブルは完璧な正確さではなく、旋律との関係もしっくりいったとは言い難い(ただ、あの速さで、クリアかつ存在感あるトロンボーンが聞けたのは凄いとも思う)。しかし、その異常なほどの前向きなテンポ感から生み出されるすがすがしさはあった。そして、そのテンポ感は、結果として確かな必然性をもっており、このフィナーレの構成上の欠点を補っていたということも出来るかもしれない。即ち、「運命」「第九」の欠点と同質の、「歓喜のどうどう巡り」という構成上の欠点(あくまで私感だが。)。先行楽章の苦悩を突き抜け歓喜にたどり着いてなお、形式的にはソナタ形式のスタート地点であり、再度、同じ歓喜の到達点への道程を進むという白々しさ・・・・。これを構成上解決できたのは、ブラームスの1番が最初の例だと思うのだが(ソナタ形式における第1主題再現の省略。さらに、コーダにおける既出主題を展開させたクライマックス構築。)、そのブラームスの例と同様なコーダにおける既出主題展開による圧倒的クライマックスの最大限の強調が決してクドク感じられないためにも、主部における安定感がもたらす印象をあえて薄めていた、と分析したい。フィナーレ突入時に達成感、うまくやり過ぎると、コーダが白々しく聞こえるのは私だけかな?コーダでさらに高次な歓喜が来ないと私はこの作品に素直に感激できないと感じてしまう。その高次な歓喜がビシビシ伝わったのが今回の演奏だった。
 この演奏の必然としては・・・・、第4楽章冒頭のやや速いテンポ設定故に、第3楽章の主部が、第4楽章との対比上、通常よりさらに速いテンポを選ばせた。その速い第3楽章が演奏能力の限界に近い尋常ならぬ雰囲気であり、第2楽章の不安定なある種病的な雰囲気と表面上はかつてないほどに鋭く対比すると同時に、尋常でない精神という面での共通性、連続性が感じられた。その第2楽章の異常さは、第1楽章の軽快な田園的楽想が軽やかに前向きにもたれることなく提示されていたため、第1楽章との対比上、第1楽章の印象を薄らげて、第2楽章の陰鬱さ重厚さが、曲の前半を強く支配していたと感じさせたか。・・・結果、うららかな幸福(1st mov.)が、圧倒的な恐怖(2nd mov.)で押しつぶされ、そしてその延長の不安定さ(3rd mov.)を生み落とすものの、安定をとり戻し、歓喜へと到達する(4th mov.)が、しかし、まだまだ仮の歓喜で、やっと最後に、払拭できないほどの存在と思われた圧倒的な恐怖と不安定さが、ここに文句なしの絶対的安定をもたらして終止する・・・・というプロットが最大限に有機的に音楽化されていて、単なる場当たり的、その場しのぎ的、全体を見据えない刹那的な演奏とは対極の、理知的な演奏という印象となった。コーダでの感激が最大の力を発揮し得るべき演奏と言えようか。
 何だか、長々と書いてしまったが、これは、帰宅後、演奏を思い返しての分析。この作品の最も説得ある構築の方法論、なのかな。・・・・しかし、実際に聴いている最中は、とにかく、音楽の力に圧倒されっぱなし、という感じ。
 「力」を感じた。ブロムシュテッドのイメージからは、遠いものだが、特に第2楽章など、デモーニッシュな力に溢れ、こちらも一種、忘我の境地といったところか。あと、シベリウス自身の作曲当時の、父として、夫としての自信喪失、そして切迫感など(実際、娘の死や、彼の家出騒動など、多難な時期ではあったようだ。)、こんなに音楽から感じたのは始めてだ。そのあたり、最愛の配偶者の死、と絡めるのは短絡的、としても(まさか早く帰りたくて速いテンポなんてことはないでしょう)、あえて、今、聴き返したブロムシュテッドのCDによる演奏と比較しても、やはり「凄み」に溢れたものと再認識。正直、第2楽章後半と、フィナーレのコーダには涙。コーダ手前の、弦楽器の高音のニ長調主和音の刻みの神々しさ、そして高次の歓喜の凱歌は、今思い出しても身震いしてしまう・・・・。
 これだけ書いてなお、自分のその時の感動が文章化されたとは思えない。陳腐なワザとらしい文章でしかない・・・とにかく、生で体験していただくより他はなし。
 ・・・・ただ、凡ミスが意外と多かったので、1日目の演奏がどうかはまだ知らないが(3/7頃のBSでの放映らしい)、茶の間で何気に聞いてしまうと印象も変わってしまうかもな・・・。その辺りやや怖いような。(オーボエ、トランペットのカスッた音や、第2楽章でのヴァイオリンの休符での飛び出しなど、2日目では気にもなったところ。だが、それを上回って演奏の凄さに圧倒されてはいた。)

 とりあえず、シベリウス2番のショックだけは、速いうちにとにかく書きなぐっておきたかった。推敲もなしに思うところ、乱文承知で。
 ニールセンのクラリネット協奏曲も楽しく聴けたのだが、また後日、加筆したい。

 PS.ついでにN響アワーのネタ。2/23放映分で、故スヴェトラーノフの、マーラーの7番フィナーレ。なかなか熱くて良し。ただ、構成の破綻をあまり感じさせないな、と漠然と思ったものの、よく確かめたら、後半でかなり思いきったカットをしている(第1楽章再現のクドイ部分など)。コーダも楽譜からは読み取れない解釈もあって独壇場だ。真面目にみれば「?」ではあるが、面白く聞けた。巨匠なら何でもありか?
 さて来週のN響アワーは、2月定期からの紹介、それもニールセンを取り上げるとのことで、今から楽しみだ。

(2003.2.25 Ms)

 

2/12(水) NHK交響楽団 第1482回定期演奏会

モーツァルト   交響曲第24番 K.182
ベートーヴェン  ピアノ協奏曲第1番 作品15

ニルセン     交響曲第6番「シンフォニア・センプリーチェ」 

  ピアノ : ブルーノ・レオナルド・ゲルバー
  指揮 : ヘルベルト・ブロムシュテッド 

 2/11のダスビに引き続いて、2/12はN響定演。ニールセンの6番目当て。
 2/8に、指揮者ブロムシュテッドの奥さんが亡くなったとの張り紙あり、本日のモーツァルトの24番を、妻に捧げる演奏としたい、と。
 先日、教育TVにてブロムシュテッドの生活を見、施設に入っている病身の妻の世話の様子など始めて知った直後だけに、ショックであった。この2月は、N響定期に貼り付き、きっと死に目に会うこともままならなかったと想像する。その彼の心中を思えば、やりきれなさも感じる。しかし、精神的なダメージなど微塵も感じさせぬ精緻な演奏に感動した。
 特にニールセンの6番、シニカルでユーモラスで、現代音楽の手法をからかった感さえある、人をおちょくったようなふざけた作品。これを、見事、一気によどみなく、爽快さをもって、描ききった。第2楽章始め、打楽器の名人芸の数々もまた楽しく(特にトライアングルは凄い)、クドイほど出てくるトロンボーンのグリッサンドの存在感も笑い。ヴァイオリンの神経質なこまごまとした音の並びも緊張感を帯びつつも正確さ安定さがあり目を見張る。数々の木管のソロも楽しませてもらった。最後を飾る、ファゴットの最低音の強奏も驚異的な音量でびっくり、その音を長く引っ張るブロムシュテッドの楽しそうな笑顔も良かった。クラシック音楽をきいて、これほどに笑いが込み上げて来る作品、なかなかないですよ(ショスタコの先駆者としてのニールセン像が明らかだ)。

 今回の上京にての収穫。永らく待望しつつ音源がなかった、芥川也寸志の歌劇「ヒロシマのオルフェ」CD。大江健三郎の原作ということで、彼のノーベル文学賞が決定した頃、TVオペラとして番組が放映されたいたのを記憶するのみ。そう言えば、彼の授賞式で演奏されたという曲こそ(by朝日新聞記事)ニールセンの6番。これも何かの縁か。センプリーチェを聴くべく上京した機会に発見できたというのも。
 帰りに立ち寄った横浜タワーレコードで試聴もできた、ショスタコーヴィチの映画音楽「ベルリン陥落」CD。スターリン個人崇拝音楽。戦闘シーンの音楽の安っぽさがたまらん。ピアノの場違いな登場がなぁ。アトヴミャーンによる組曲のオーケストレーションは、かなりカッコイイのだがなあ。一応、組曲の内容については、こちらにコンサート体験録あり。
 移転新装なった、輸入楽譜のアカデミアも立ち寄り。以前と比較し随分広くなった。ニールセンのピアノ曲楽譜など購入。
 食事ネタとしては、北欧料理探索。青山のアンデルセン2Fはオススメ。広島の本店には及ばないけれど、北欧料理の片鱗は確かに。でも、ロシア系で、ボルシチも良かった。あと、横浜のスカンディヤのランチもオープンサンドが良い。
 結局、音楽、料理ともに、北欧、ロシア三昧・・おっと、銀座のルーマニア料理店もいったっけ。しかし、この旅の締めは、やはり日本人じゃ、浜松での、鰻茶漬。・・・・・とりあえずは、余談系にて失礼。また、落ちついたらさらに加筆を。

(2003.2.16 Ms)
(3.3加筆)

 

2/11(火) オーケストラ・ダスビダーニャ 第10回定期演奏会

ショスタコーヴィチ  勝利と葬送の前奏曲 作品130
               〜スターリングラード戦の英霊に捧げる〜 
ショスタコーヴィチ  組曲「黄金時代」 作品22a
モソロフ        鉄工場 作品19

ショスタコーヴィチ  交響曲第7番「レニングラード」 作品60

 2/11、毎年恒例の、オーケストラ・ダスビダーニャ。
 言わずと知れた、ショスタコ専門のアマオケである。過去においても「ステパンラージンの処刑」、交響曲の2,3番など、日本では滅多に取り上げられない作品にも果敢に挑戦、日本のショスタコ音楽受容の歴史にその名を深く刻み込んでいる脅威的な存在である、と私は思っている(「処刑」の日本での楽譜出版は、彼らの演奏に合わせてなされたものであることは、楽譜を見てみればわかります)。
 今回は、交響曲第7番「レニングラード」をメインに、「黄金時代」組曲、葬送と勝利の前奏曲(晩年の機会音楽である小品)、そして、ショスタコの初期のソ連の音楽シーンをリードし、スターリン独裁により抹殺された、ロシア・アヴァンギャルドの作品から、モソロフの「鉄工場」が取り上げられた。

 なんといっても、「鉄工場」が素晴らしい出来だったのが特筆される。ようは、機会音楽ならぬ「機械音楽」。機械的な音型の連続のうえに、強暴なホルンによる吹奏が重なり、大太鼓、ドラ、ティンパニといった打楽器が、強烈なアクセントをぶち込んでいく小品ではあるのだが、その迫力に圧倒されたのはもちろん、完全にオケが一体化し、一分の狂いもズレもなく、容赦なく、感情の余地もなく、機械の非情さを音楽化していたのだ。逆に、その冷徹さが、機械という非人間的な存在の(人間からみた主観ではあろうが)悲しささえも表現し得ていたような気さえした。
 倍に増強されたホルンの立奏も衝撃的で、大小の鉄板がうなりをあげているのも見ごたえ聴きごたえがあった。しかしながら、私に最も印象を与えたのは、いきなり冒頭のビオラ、であった。3連符の機械的な音型だと思われるが、不協和音のなかから、ゴツイ機械的リズムが正確に、勢いをもって立ち現れたとき、すでにこの作品の「こころ」というのだろうか、本質というのだろうか、これが私に飛び込んできたのが、とにかく印象的であった。

 演奏会全体の感想は、また、改めて書きたい。ただ、いつも、アマオケとしては脅威的な完成度、あるいは、印象、を誇る団体だと思わせ続けていただくのは素晴らしいことだ。「鉄工場」以外その他、今回の印象を総括するなら、まず、「黄金時代」のソロ(トロンボーン、木琴、及びアダージョにおけるクラを始め、ピッコロなども含めた木管群など特に)のテクニックの確かさと、指揮のセンスの良さ(特に第1曲のテンポ設定の気のきいている事!隅々まで考えぬかれた細かさ)。あと、「レニングラード」は、ダスビの「レニングラード」と呼び得る、勢いのある(多少の無理も押して突き進んでいた)ものであったが、さすが、10回を数える演奏会の歴史、ということもあってか、私には、「円熟」といおうか、何かしらのステップアップを感じる瞬間があった。オープニングの前奏曲からして、重厚な弦の響き、が、耳をとらえていたが、「レニングラード」も、弦全体としての醸し出す雰囲気の重さ、いや重さのみならず場面場面における表現力にはっとさせられることも多かった。第3楽章の雰囲気。さらに第1楽章冒頭の雄大な、雄渾な雰囲気。華やかな個人技と違い、弦の一体感は年月を経て作られていくのだと思うが、そのオケとしての土台が揺るぎ無いものになっている、という手応えを弦の中に感じたのだ。

(2003.2.24 Ms)


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