今月のトピックス

 

 December ’03

(HP更新中断中のコンサートにつき、簡略化。・・・・半年空けてしまうと、記憶も鮮明ならず、申し訳ありません。)

 12/19(金) 東京都交響楽団 第580回定期演奏会

 下記のN響の上京に合わせ、都響のコンサートにもお邪魔した。この8月の「アフィニス夏の音楽祭」で偶然その存在を知った、チェリスト江口心一氏の所属団体ということもあり、興味あり。東京文化会館にて。

 曲目は、個人的には、さほどそそられるものでもなかったが、在京オケの状況なども興味あるし・・・・また、小泉内閣の国家主導・霞ヶ関官僚丸投げ・地方ないがしろ政策「三位一体」で地方自治体の疲弊の加速化の波をもろにかぶりつつある文化行政への不安もあり、都響改革の展望も私自身よくつかめてはいないのだが、今、都響、聴いておくべきとの判断も確かにある。2005年度あたりから、全国的に自治体の文化行政からの撤退が始まるのは財政上必至(公共事業の徹底見直しがあれば別)なわけで、そのあたり、芸術音楽にかかわる人々は、十分注視し、もの言わないと将来に禍根を残すだろう。・・・・・閑話休題。
 メイン・プロはベートーヴェン7番。勇ましく、勢いに満ちた快演。指揮、アンソニー・ブラマル。満足いくものであったが、記憶にしっかり残ったのは他の2曲。

 まず、ウェーベルン「管弦楽のための6つの小品」Op.6b(1928年版)
 12音音楽、どうもこれだけは、なかなか自分的にしっくりこない。人間性の不在、を感じる。しかし、今回の経験で、音響上の興味はあった。一部、ショスタコーヴィチの交響曲第8番の両端楽章のクライマックス、打楽器群のトレモロで音楽を高揚させる手法が、強烈な形でウェーベルンにも見られた。特に小太鼓のみの弱奏のトレモロの緊張感、息をのむ瞬間だ。ショスタコが、この作品を知っていたかは定かならず、でもマーラーの2番のフィナーレでも見られるし、ウェーベルンとタコを結んでよいかは断定は避けよう。でも、12音の緊張感、ウェーベルン独自の室内楽的な手法の中にあって、爆発的なエネルギーが一部見られたところがおおいに印象深かった。「母の死」を、時間を追って6つの心象に分けて表現したとの解説も読み、いわゆる「不条理」にたいする人間の感情の表現としての「12音」という技法、私は否定しない。積極的に聴くところまでいかないが、シェーンベルクの「ワルシャワの生き残り」などとも共通の、12音技法の必然、必要性は認めたい。
 下記のN響でもふれたが、ショスタコを中心に据えることで、20世紀の音楽への理解、橋渡しがいろいろ可能、それも(他の作曲家に比較して)容易だとの思いは強く持っている。

 続いて、梯氏のピアノ・ソロによるシューマンの協奏曲。確かに奇跡、感服される演奏だ。ただ、ロマン派のダイナミックさ、繊細さについては、やや残念な面もなきにしもあらず。ハンデは承知の上ながら、和音の濁りとか、好きな作品だけに当方も気になる点はある。
 ただ、アンコールで奏されたリストの「ペトラルカのソネット」、この繊細な細やかな音色の煌き、宝石のような、でも可憐な花のような柔らかさ、協奏曲の中では十分披瀝できなかったかもしれない彼の実力が十二分に堪能でき、この感激は忘れられない。音楽に対する集中力の高さを強烈に感じさせるもの。
 (個人的には、最近、ソリストの、協奏曲における演奏と、独奏曲における演奏と、随分音色の違いを感じるようになったようだ。自分の耳の変化かな。)

(2004.6.2 Ms) 

(HP更新中断中のコンサートにつき、簡略化。・・・・半年空けてしまうと、記憶も鮮明ならず、申し訳ありません。)

 12/18(木) NHK交響楽団 第1504回定期演奏会

 ちょっと下にある、11月のN響富士公演の感激もあり、せわしく師走に上京。11月から随分精力的に東へ西へ動き回った年の暮れ。今年の締めというべき演奏会。ショスタコーヴィチのチェロ協奏曲第2番目当て。演奏の機会もほとんどない作品だけに期待も高く、また、その期待に添ったもの。他のプログラムが、ヤナーチェク「シンフォニエッタ」、そしてストラヴィンスキー「火の鳥」組曲と続き、演奏会の冒頭からして、あの暗い思索的なチェロのつぶやき、というのは、聴衆のとまどいもあったろう。・・・そもそも世界的作曲家ショスタコの60歳記念作ながら、この渋さ、苦しさ、彼の息づかい、生き様がよく聞き取れる。祝祭色のかけらもなく、彼の晩年の作に相応しい、重い作品。

 演奏自体は、とても楽しめる。特に打楽器の、びっくり箱的な、効果的な扱いは、聴く者の耳を捕らえて、印象も深まる。
 木琴の乾いた笑いのような響きが生で飛び、第2楽章では、断定的に言い放つ硬いリズムのティンパニが炸裂し、また、曲の最後では、時の刻みのような無情なリズムが、でもコミカルに曲をシラーっと支配。そんな打楽器群のなかでも、特に、第1楽章のカデンツァにおける大太鼓の心臓発作的衝撃は、壮絶な効果だ。大太鼓というのは、少なくとも20世紀以降(ベートーヴェンの頃は違うだろうが。マーラーの交響曲以降顕著。)、場合によってはティンパニをも凌駕する衝撃を、芸術音楽において、主張するわけだ。この部分の存在感は、聴くものを圧倒し、かつ、作曲家の何かしらの訴えをストレートに伝えてくれる。ただ、なかなかに、聴衆にとっては、この異様な、非音楽的とすら映る突然の爆発に不快を感ずる者も、現時点において多かったようにも思えた・・・客席にての感想。確かに、楽音を超えるような、凄い音ではあった。後で確認したTV電波上も、めったに聞かれないことだが、歪みを感じるほどの音であった。こんな大太鼓は、なかなか本番で聴かれることはない、はず。

 最近読んだ、18世紀中頃フランス・ブルジョワたちの音楽受容の変化を描いた論考はとても面白いものだった。ハイドンあたりしか知らない人々を相手に曲を初演し続けていたベルリオーズ、失敗の連続で、興行主たちからも劇場の破産をもたらす存在として忌み嫌われていたが、結局、世代が1つ進んで、最初から、衝撃的なベートーヴェン作品を自然のものとして受け入れた聴衆たちが育ってからようやく、ベルリオーズも認められつつあったものの、その頃にはもう彼は他界していた、という話。

 21世紀現代日本においても、ことにショスタコに関しては、そんなベルリオーズ的な立場にあるかもしれない。今コンサートに足を運ぶのは、比較的時間と経済的な余裕のある高年齢層等がそこそこの割合のようだが、やはり、古典に親しみ育ってきた大先輩方の中には、ショスタコがやや奇異に映る方々も多かろう。古典こそ待ち望む気持ち、良く分ります。ただ、このところ、ショスタコも交響曲から協奏曲と、さまざま取り上げられてきているが、まだまだ過渡的か、古典とこういった作品を同じ土俵で、演奏方法、バランスなどを論じるきらいもなきにしもあらず。

 ショスタコの楽譜から読み取れる思いとして、打楽器の雄弁な楽器法は、かなり特徴的だし(クライマックスを打楽器だけに託す等々)、N響としても、数年前までのやや上品な貴族的なイメージから、幅広い表現が可能で時として、衝撃的、情熱的な演奏すら聴かせつつあり、その文脈においても、今回の大太鼓など、ショスタコの真意に迫り得る豪快な打撃で、私などは共感するのだが、なかなかそこまで、音楽の範疇を拡大できない聴衆もママ見られはするだろう。
 (一例として、ベートーヴェンの交響曲を同時代で聴いていた人に与えた衝撃を、現代においてどう表現するか・・・・この辺り、最近の若手指揮者なら、例えば山田和樹氏あたりの演奏が、一つの目安になると思っている。彼の演奏を否定する感覚も確かにあろうが、その否定には、私は組みすることは出来ないな。ある種、奇を衒ったかのような演奏として彼たち(彼の演奏スタイルを積極的に受け入れている私をも含めて!)を評価した否定的な見解は、よく耳にするのでここで余談ながら挿入した。音楽の解釈に対する「否定」とは単なる壮絶な「ワガママ」でしかあるまいに。正解が一つと決めていて、「音楽」って楽しいんだろか?????)。

 人それぞれではある。東京でもそうであるなら、我が地元、東海地区などさらに保守的なわけで、聴衆よりも演奏者にその古典オンリー、古典的演奏法オンリーな断定がままみられるのも当然といえば当然、しかし、今を生きていながら、随分狭い範囲の音楽だけを見て、自分みずから「井の中のカワヅ」宣言しているのもかわいそうな気もする。ショスタコが、20世紀の音楽という大海(私も全ては知らず、また、怖くて入れない領域も多々あるけれど)への水先案内人になり得るのは、少なくとも私は保証しますし、その気概あってこそこんなHPもあったりするわけで、特にあの「大太鼓」に関する弁護をここでしなければ・・・と思いつづけていた私の気持ちも汲んでいただければ幸い・・・・・。

 個人的には感動した演奏会ながら、重箱の隅をつつくような感想に終始して恐縮です、が、ご容赦くだされば幸いです。偽らざる自分の思いです。
 さて、大太鼓絡みが続いて、さらに恐縮、生で聴いて初めて気がついたんですが、第3楽章で、大太鼓、小太鼓、タンブリンが、比較的簡単なリズムパターンを延々と伴奏するのだが、これが、妙に、ドラムセットによるポップス、ロック的な雰囲気で(大音量ではないけれど)、サントリーホールという視覚的な映像にミスマッチな感じで面白かった。欧米の大衆文化、ブルジョワの退廃文化を排斥したソヴィエトのコンサートホールで、同時代的には、さも、これからビートルズあたりが歌い出しそうなリズムパターンが密やかに、でも長いことこの協奏曲の背後に流れていて、ちょっと笑みがこぼれた私であった。CDではあまり気にしなかった点だ。やはり、生で聞いてこそのショスタコ、という感は常にあるな。

 指揮は、マルク・アルブレヒト。チェロ独奏、マリオ・ブルネルロ。
 他の2曲も、オケの醍醐味を十分堪能させていただき、楽しく聴きました・・・がコメントはこの辺で。ちょいとショスタコ話がつかれたか。

(2004.5.30 Ms)


 November ’03

(HP更新中断中のコンサートにつき、簡略化。・・・・半年空けてしまうと、記憶も鮮明ならず、申し訳ありません。)

 11/28(金) グリーン・エコー 第47回演奏会

 珍しく、合唱のコンサートへ。名古屋フィルを伴奏に、ラテン・アメリカの合唱曲3曲という、たいへん珍しい選曲。
 メイン・プロは、「ミサ・タンゴ」。最近はやりの「タンゴ」と、ミサを合体。バンド・ネオンの独奏者つき。バカロフ(1933生れ)というアルゼンチンの作曲家で映画音楽の分野で活躍しているとか。想像どおりの、「ミサ+タンゴ」であり、まあ深追いも避けよう。聴いて損はなかろう、という程度。
 第1曲目が、ヒナステラの「詩篇第150番」。ヒナステラといえば、こちらもアルゼンチンの、最大の作曲家の一人。「エスタンシア」というバレエは、熱狂的ファンもいるし、オケによるラテンのノリを最も感じさせる名曲ですね。そのイメージで臨むといけません。何せ、詩篇なわけだし、彼が22歳、アルゼンチン国立音楽院の卒業作品というわけで、ラテンのノリとは無縁な現代的な音響のシブイ作品(1938年)。合唱パートは比較的穏健だが、オケパートは12音技法もみられるらしく、なかなかに難しい印象を持たせるのも確か。ただ、児童合唱が効果的に現れ、最終的には、12音的な緊張感からは開放され、聴後感は悪くない。

 2曲目こそがお目当て。ブラジル最大の作曲家ヴィラ・ロボスの「ショーロス第10番」。これ、彼の作品でもかなりの優れものと思うのだが。合唱曲とはいえ、合唱は、意味不明な掛け声を発する(歌にはなっているが)のみで、何らかの詩的な、叙述的なムードは皆無。ようは原住民のお祭り、といった感じ。オケのみの長い序章は、アマゾン版「ハルサイ」。管楽器を中心に、鳥や動物の鳴き声、うごめきが断片的に現れ、アマゾン奥地の雰囲気が濃厚に立ちこめる。その雰囲気の延長から、タイコ系打楽器のリズムパターンが現れ、原住民的祭典が繰り広げられる。これはもう聴いていただくしかない。こんな楽しく、また、現代的な作曲技法が、生き生きと、命を与えられ、躍動している作品、そうそうないよ。
 ちなみに指揮は、井上道義氏。こういう作風の作品、彼ものりのりで。オケの側面から拝見したので、彼の表情もよく見て取れたが、序奏のあたりで、ヘビがニョロニョロっと土からでてくるような仕草をしたり(指揮とは言えないだろうが、でも、その部分はそういう音楽である。)、とにかく見てるだけでも楽しい。少なくとも、今後、ニョロニョロっと両手をからませながら上昇させる仕草を演奏中にする指揮者をお目にかかることはないだろうなあ、この指揮を見られたのは絶好の冥土の土産になると思うなあ。

 オケ離れ、クラシック離れは、1世代くらいのスパンで見るとかなり深刻だと私は感じているが、こういった音楽こそもっと親しんでいただければ、オケやら合唱やら、もっと面白く興味深くなるだろうと思うのだが。頭の固い従来からのクラ・ファンには本気で怒られそうだが、毎年恒例の第九の前座で、こういう意欲作を取り上げたらオモシロイだろうに。手を抜いて、ベートーヴェンの序曲あたりをやって、演奏会の雰囲気を高尚に仕立て上げるよりは、せっかく珍しくオケの演奏会に足を運んでいただく初めての方もいるだろうに、そういう人々に、クラシックも面白いジャン、ともっていくような趣向、もっと考えるべき時期と感じる。

 (話はドンドン脱線するが)特に、アマオケなどに従事していて思うのは、所詮、小学校の運動会・学芸会的な、参加することに意義がある的なムードで演奏活動をやっていると、たまに、外部の人が(奏者のなかに知り合いのいない人)来たりすると、正直、つまらなく、また、長時間、黙って座るしかない苦行を与えられるだけの印象だけもって帰り、「2度と行きたくないな」てなことになる
・・・事実、演奏者の知り合い以外のリピーターが少ない傾向のオケはあり、こんなオケは、オケ嫌い、クラシック嫌いを大量生産してたりして、とても辛い。また危惧すべきだ。
(私自身、2度と来るか!!と思わせたオケは多々あって、そんな団体については「トピックス」でもノーコメントではあるが、正直、これがオケだ、などと初体験されたら、哀しい。)
 それなりの厳しさをもって演奏に臨むのも当然ながら、それと合わせて、21世紀の日本社会にあって、クラシック音楽と離れた位置にある人々にも何らかのインパクト、好印象を持ちえる作品の選択、というのは、ますますこれから、プロアマ問わず必要と考える。急務だと思う。

 ・・・・そんななか、「グリーン・エコー」さんの今回の演奏会、私の心をぐっとつかむ、これぞ、21世紀の演奏会の姿、とも感じ入る。やはり、はやりの「タンゴ」、「バンドネオン」は目の付け所が良いと思うし、「ショーロス」のインパクト、客席の沸いた雰囲気も忘れられず、みんな楽しんで喜んで聴いていたのが客としても体感できた。自分としても、合唱の主役のコンサートということで不慣れな面はあったが、演奏会を終えて、こんなに面白いならまた来てもいいな、これが偽らざる感想・・・・・こう客に思わせる、これぞ舞台人冥利でしょう。今回の演奏会、実力そして企画力、両方で、大都市名古屋の文化の底力を見せていただき、とても頼もしく感じた(名古屋でそう感じさせるコンサートが意外と少ないので、正直淋しいンですよ僕は。愛知県民として、名古屋にはもっと文化面でがんばってもらいたい。今回、久々の大満足イン名古屋で嬉しい。)
 「グリーン・エコー」、名古屋の誇りとしてさらなる活躍、期待してます。
 ちなみに、次回は2004年11月、ウォルトンの「ベルシャザールの饗宴」、と意欲作。これもまた素晴らしい!

(2004.6.15 Ms)

 11/17(月) 音楽振興法推進会議 全国協議会 〜財団法人 音楽文化創造 顕彰制度 表彰式〜

 何やら、難しそうな、漢字の羅列をタイトルにしてしまいましたが・・・
 実は、こんな、ヘナチョコなHPを主催しているMsではあるのですが、表彰されることとなったのです。
 財団法人 音楽文化創造 様から、召集がかかりました。標記の会議の場で、貴殿を表彰したい、と。突然、とんでもないこととなりました。

 当日は午前中が名古屋への出張でしたが、午後は休みを得て、一路上京。会議終了間際の表彰式に駆け込みました。

 実は、(財)音楽文化創造主催の、音楽技能検定については、3級を受験した際、今月のトピックスでも紹介(こちらへ)したところですが、その翌年2002年には、2級も受験、おかげとそれぞれ合格したところです。その、2級の、最優秀成績者がどうも私らしく、今回、表彰制度の発足に伴い、私が初の受賞者の一人となってしまったということです。ちなみに、「音楽技能検定優秀賞」をいただきました。

 会議自体は、全国の生涯学習音楽指導員の方々の事例報告などの場であったようです。そんな場で、一体、どんなヤツが、音検のトップなんだ?という好奇のまなざしを感じつつ、3級の上位の方、邦楽部門の上位の方とともに壇上にあがりました。

 会議ののちのレセプションにも呼んでいただき、財団法人の事務の方々、さらには、検定の出題の責任者の方々ともお話をする機会に恵まれました。出題の責任者の方は、とある音楽系企業でも、資格試験の出題などを担当されていたようです。私が表彰されるにあたって、HP検索したところ、この曲解HPにたどり着き、このHPはご存知のようで、「ラフマニノフの分析など、なるほど、と思いました」などとおっしゃていただき、大変嬉しかったです。(レセプションには、文化庁文化部芸術文化課長さま、音楽之友社代表取締役さまもご列席。このような場に、呼んでいただき、光栄、です。本当に、いろいろとありがとうございました。)

 また、当然、その場に知り合いなどいようはずもなく、他の受賞者の人と話などしていましたが、生涯学習音楽指導員の方々から、是非、どんな勉強されたのか知りたい、などというお声もかけていただき、なんとも気恥ずかしいやら、でも少し得意な気持ちにもなったり、とりあえず、自分の経験など、話をさせていただきました。
 吹奏楽、オーケストラ、と所属していて、いろいろな分野(クラシックのみならず、ポップス、ラテン、ロック、ジャズ、もろもろの音楽を演奏している)の音楽と親しんできたこと。その団体で、トレーニングを担当してきて、スコア、楽譜を見るのに慣れていること。作曲、編曲も好きで、その際に必要な、技術的な知識(例えば、管楽器の移調楽器のこととか)もある程度知っていること・・・・・など、自分のことをいろいろ紹介し、特段の受験勉強、といったものもなく、ただ好きな音楽の知識の集積の結果にすぎなかった、といったお話などさせていただきました。
 やはり、いろんな経験、子供の頃から雑多な音楽を聴きまくったこと、これが私にとって、音検突破の推進力といったところでしょうか。

 一度、音検については、細かく書いてみようかな、と考えています。指導員の方々も、お話を伺えば、いろいろ苦労されているようですし、受験勉強的な話は好みませんが、私の経験から、こんな風に普段から音楽に接していると、音検合格に近づけるのでは?といった話、まとめてみましょう。

 ちなみに、(財)音楽文化創造のHPはこちらです。今年も、音検、10月に全国であります。音楽愛好家のみなさん、自分の音楽知識を試す意味でも、一度、チャレンジしてみましょう。
 特に、アマチュアの、吹奏楽や合唱で、指導などされている方も、この受験を機会に、新たな自己啓発、となるかもしれません。さらに、アマチュアのオーケストラの方々もお薦めしたいところですが、クラシック音楽の知識だけでは、突破は無理です。音楽全般に趣味が広がっていればOKです。軽音楽、民俗音楽にも興味をもってないと、惨敗するかもしれないので要注意です。

 左の画像は、(財)音楽文化創造の機関誌です。表彰式の様子、私のプロフィール、コメントなど、興味ございましたら、2004年春号、一度、ご覧下さいませ。どんなヤツか、写真入でバレてしまいます・・・・あ、誰も興味ないか。

(2004.6.25 Ms)

 11/7(金) フィンランド・オストロヴォスニア室内管弦楽団 演奏会

 北欧音楽ファンならば、是非聴いておきたかった、オストロボスニア、初体験。

 冒頭のレスピーギ「古風な舞曲とアリア第3組曲」から、美しい音色に酔いしれる。もっと、大きな団体かと思いきや、少数精鋭、楽器の鳴りが違うわけだ。レスピーギは、かつてない速めのテンポ設定で、流麗によどみなく、あっというまに、その音楽に惹きこまれた。シチリアーナも、さらりとやってのけてしまう辺り並の腕ではない。バロックのアリアなども数曲プログラムを飾っており、長い盛り沢山の内容ゆえのアプローチとは思うが、この名演を聴けただけでも、平日に無理して横浜フィリアまで駆けつけたかいはあるというもの。
 前半のメインは、ソプラノの森麻季さんを迎えて、ヘンデルとバッハのアリア2曲など。「音楽の両親」(父と母と書くのが面倒くさかったが、逆に注釈せざるを得ないわけだ・・・音楽の両親じゃなんのことかわからんわな。)の音楽性の相違が際立って面白い。曲の形式は同じなのに、オケの役割が全然ちがうのだ。単純明快、ヴァイオリン1パートのオブリガートと通奏低音だけで、和声的にもこれ以上簡略化できないほどに必要最低限の伴奏で経済的な母ヘンデル、弦楽オケ全体で複雑な対位法を駆使して、豊かな奥行きを表現する哲学的な父バッハ、この2人の音楽は今の私にとっては必ずしもメジャーな存在ではないが、興味深い体験をさせていただいた。もちろん、ソプラノの歌唱の美しさも光る。
(演奏曲目は、ヘンデル「セルセ」より「オンブラマイフ」、「メサイア」より「神もし共にいまさば」「シオンの娘たちよおおいに喜べ」。そしてバッハ、「G線上のアリア」、カンタータ第199番「我が心は血の海に漂う」より2つのアリア「低くくずおれ、悔いに満ちて、我はひれ伏すなり」「いかに喜ばしきかな、我が心は」。)

 後半はお待ちかね、北欧音楽特集。ニールセンの作品1、小組曲は、初めての生体験。しっとりとした、でも北欧風なほの暗さも印象的な佳曲である。第2曲のワルツは、後年のニールセン独自の「競技的3拍子」を遙かに想起させ、でも、音色的には、北欧の先輩グリーグの世界にも近く、さらに、やや意表をつく旋律線や和声など、ニールセンのルーツと個性も確認できる。第3楽章の健康的で推進力溢れるアレグロは、モーツァルトを思わせるもので、彼の古典を愛する姿勢も感じられて微笑ましい。ただ、各楽器ともに勢い良く高音域に駆け上がって、コントラバスだけが浮いて低音域をさまよっているかの部分も散見され、まだまだ、熟練の作曲技術とも言い難い、か?やや辛口な批評かな、でも、この小組曲をもって、ニールセンを評価してもらっても困るわけで、作品2以降の彼の豹変振りも是非是非ご体験願いたし。そういえば、思い出深い、ニールセンの作品2、オーボエのための幻想的小品も、まさにこのフィリアホールで、名手シェレンベルガーの演奏(2002.2.23)を聴かせていただいたっけ。私にとって、ニールセンの殿堂だな、フィリア。

 続いて、シベリウスの、弦楽のための即興曲。シベリウスの作品5のピアノのための即興曲を編曲したもので、これも、ニールセンの小組曲同様、作曲家としての出発点を伺わせる作品だが、先ほどの、ヘンデル・バッハの聴き比べと同様の興味をそそる選曲といえる。ニールセンが、北欧らしさを香らせてはいながら、多楽章における循環主題の採用など構成面も含め、ドイツ古典と固く結びついているのに比較し、シベリウスはどっかり、北欧まるだし、民族主義といえるかは微妙だろうが、例えばロシアものなどと同列な、音楽の中心地ドイツとの立脚点そのものの相違を深く感じさせる作品、という思いを強くしたのだ。まして、お国モノとしてオストロボスニアも並々ならぬ共感で演奏したという点もあろうが、今回のプログラム上、バッハからニールセンという流れよりは、ニールセンからシベリウス、という流れに、より大きな断絶、断層を感じたのだ。それだけ、シベリウスの独創が光り輝く結果ではあったといえようか。まるで、ヴァンスカ指揮ラハティ響を思わせる、囁くようなピアニッシモの緊張も、ニールセンでは決して味わえない。一瞬、アルヴォ・ぺルトすらよぎるほどの緊張だ。簡素な響き(ドイツ的感性からすれば、貧しい響き、かもしれない)のなかに、人の心に深々と訴えかける旋律と和声がにじみ出る・・・・素晴らしい音楽、そして演奏。これぞ、広告にもあった、「白夜のアダージェット」の世界なわけだ。

 最後に、オストロボスニアのために書かれた、ノルドグレン「民族楽師の肖像」。どんな現代音楽かと思いきや、何とも愛すべき、ユーモラスな、そして活気に満ちた、サービス満点な作品であることか。演奏自体も、このオストロボスニアのために書かれただけあって余裕に満ちた安定感あるもの。初めて聴く現代ものながらも、もう一度聴きたい、と思わせる作品であり演奏であり、なかなかに稀有な体験と言える。民族音楽的な親しみやすさと、スパイスの効いた、現代感覚との絶妙なバランス。現代という血と涙に縁遠い機械化文明の中にも確実にある、ヒューマンな感覚・・・・これが、北欧の文化そのものを貫く精神・・・・福祉国家として世界を先駆ける、個々人の人間的なる価値を最大限尊重した社会のありかたと、現代の音楽作品とに確かに相通ずるハートを体感できた幸福な一時だった。

 アンコールは、モーツァルトの、ロンド・アレグロの楽章・・・何の作品の一部かは失念・・・ただ、愛嬌満点な面白さ、聞けばまた思い出せるのだが。
 さらに、シベリウスのカンツォネッタ。美しい佳曲だ。しかし、抒情だけに溺れず、何かしらの硬質な厳しさが前面に出ていて驚き。半音でぶつかる不協和音の響かせ方が、辛辣な感想をもつ。今までにない感触だった。単なる夢見ごこちとは一線画したもの。
 さらに鳴り止まぬ拍手に応え、ピチカートだけで何とも素朴な旋律が1分も満たないほどに演奏され、?????。帰り際にアンコール曲の張り出しを見ると、ただ、「フィンランド民謡」と書かれ、思わず微笑んだ。鍛えぬかれた、芸術性高い感動と、しかし、崇高さゆえの排他性、とっつきにくさとは無縁のヒューマンな機知、ユーモアと。このバランスと。満足いく一夜であった。ラハティ同様、またの再会を楽しみにしたい。

 演奏会後は、新横浜にて泊。アジア系飲食店にて食事を楽しむ。翌日は新宿まで出てショッピング、そして、小田急でJR御殿場線松田まで特急で。そこからは、ほぼ静岡県内を乗り放題の切符で鈍行の旅。リーズナブルな料金の旅行経路を開拓。また、相変わらずの中古CD探索は、行きに横浜ディスクユニオンにて、マルティノンのサンサーンス交響曲全集、ナンバーなしも含め全5曲。「オルガン付き」を演奏するということで、参考に。面白かったのは、第1番。サックスやバスクラを大量投入した、オルガンサウンドのオケにおける探究。ハープ4台の優雅なフランス的たたずまい。しかし、楽曲構成におけるベートーベンの影響(フィナーレは、「英雄」の調性かつ、主題の類似、さらに、「運命」の第4楽章的な展開。)、そして、管楽器中心の主題提示といった場面のベルリオーズ的サウンド(参照・葬送と凱旋の交響曲)など、聴きどころ満載。18才の神童の、ただならぬ才能、第3番を先取りしたかのような重厚さ。しかしながら、先人からの影響の大きさ。サンサーンスの出発点の確認という意味でも楽しい。
 その他、シューマンの「レクイエム」、ニールセン研究家で、20世紀の音楽とブルックナーの精神を合体化させた交響曲で名を馳せたシンプソンの交響曲第9番、これらについては、機会あればまた。

2003年11月頃記載のものを加筆(2004.3.30 Ms)

 

(HP更新中断中のコンサートにつき、簡略化。・・・・半年空けてしまうと、記憶も鮮明ならず、申し訳ありません。)

 11/2(土) NHK交響楽団 富士公演

 準・メルクルの指揮による、東京での定期演奏会(第1498回)と同じ演目での、静岡県富士市での演奏会。(ロゼシアター開館10周年コンサート)
 曲目はまず、グラネルト(1960年生れ)の「ブルレスケ」。2000年の作品で、翌年メルクルがドイツにて初演。そんなに分りにくい作品でもなく、調性的な雰囲気も無い訳ではない。20世紀後半のひたすら人間性を排除した、非「音楽」的な「音学」ならず、「道化」なるタイトルからしても、人間性の回復はあろう。多数の打楽器群が面白い効果をあげていた。例えば、「ライオンズ・ロアー」(ライオンの叫び)。アフリカの「トーキング・ドラム」の音をもっとワイルドにした感じ。「トーキング・ドラム」は、かつての教育TV「できるかな」の「ゴン太」君のフガフガいう声を想起していただこう。そのフガフガ、って感じをもっと長く低く、「グヮーーア!」(よくわからん表記だ)と音程を低くグリッサンドさせるような独特の音がでる楽器なのだが、後日、定演のTV放映を確認するも映像的にはよく判明できず、もう少しTV的には配慮が欲しかったか。珍しい楽器だし。私も初めて見、聞きしました。

 あと残る曲はすべて、リヒャルト・シュトラウス。
 まずは、最初の曲と同じタイトルの「ブルレスケ」。単一楽章のピアノ協奏曲だが、曲の冒頭始め、ティンパニ4台の旋律が、独奏ピアノと掛け合うユニークなもの。一度聞いておきたかった作品。交響詩を書き始める前の、まだ、後期ロマン派に染まる前、ブラームスの影響を受けていた時代の、古典的、絶対音楽(標題性はなし)。しかし、ティンパニの扱いは随分前衛的なもの。曲想としては、やはり、後のリヒャルトほどの芳醇さ豊潤さはないが、第2主題あたりに、ブラームスにはない甘さ、も感じられないわけでもないか。
 休憩後は、「ティル」と「薔薇の騎士」組曲。さほどの興味もなく。ではあったが、いざ、なまの演奏に接すると違うんだな。さすがオーケストレーションの才人だ、見事な演奏で、見事、オケ・サウンドを堪能させてくれる。メルクルの指揮の卓越さ、オケを自在にコントロールし操り、華麗なる音絵巻を届けてくれる。無論、華やかさの要、ホルンの卓越した技と、迫力も、一気に心をつかむ。さすがだ、N響。TVで見た定期の演奏より、随分、オケも鳴らしまくってる感じ。見事にしてやられた。素晴らしかった。
 21世紀の日本、これだけ、恵まれたクラシック音楽文化に囲まれ、N響というすばらしいオケを、TVでそして、生で、こんなに気楽に接することができ、この幸福感はもっと味わいたいし、愛知県の東端にいる地理的条件も(上京も面倒ではないし)、N響をもっともっと聞きたいと思わせる。あまり、「ブルレスケ」以外のリヒャルトに気がなかっただけに、そういう思いを強く持った。今まで、珍曲や、自分の特に好む曲を選んでN響をTVや生で聴いていたが、それ以外にもいろいろ聞かなきゃ損、という感じ。今回の経験以降、N響定期は、必ずBSにて全て確認するように。

 さてさて、そもそも、リヒャルトごときで、何故に今回、富士までいったのか?東海道線で鈍行3時間の旅。
 実は、山梨県は石和温泉への、温泉旅行との抱き合わせで、途中、富士に寄ったという次第。初めての山梨観光は、ワイン工場での試飲づくし(おいしい果実のリキュールも沢山買いました。お茶のリキュールはチョイと・・・・(?))。食べ物は、武田信玄ゆかりの「ほうとう」、甲府駅前の「小作」はオススメです。まあ、この旅行、ワイン飲みつつ、「ロゼ」シアターにて、「薔薇」の騎士、という、オツな旅であったわけ。

その他、港町の由比、開花亭にての「桜えび御膳」のおいしいのなんの。半年過ぎた今でも忘れられぬ。(2004.5.27 Ms)


 October ’03

(HP更新中断中のコンサートにつき、簡略化。・・・・半年空けてしまうと、記憶も鮮明ならず、申し訳ありません。)

 10/2(木) フィンランド・ラハティ交響楽団 演奏会

 1999年10月の来日時には、シベリウスの交響曲全集を披露した、ラハティ響そして、指揮のヴァンスカ。この時の幸福な体験は、私のかけがえのない宝物である。さて、それから4年、再び、あの、緊張感あふれる、静寂と音楽との境界を体感させてくれる彼らの演奏を楽しむ。すみだトリフォニーにて。
 今回は、クレルヴォ交響曲1曲のプログラム。合唱も、フィンランドから、ヘルシンキ大学男声合唱団。やはり、母国語を歌う、という点で、今まで私の聴いた日本人によるフィン語の合唱より、迫力と抑揚が豊かに感じられる。当たり前のことではあるが、意味を感じながら素直に歌えるわけだ。過去における同曲の生演との比較において、一番感じたのは合唱の素晴らしさ。

 オケの方に目をやれば、やはり、(特に管楽器において、)世界一流オケの水準とはいかないのだろうが、全体の統一感、ここにこそ、このオケの凄みはあろう。確かに、このオケの最大の特徴、静寂スレスレの音響、これはオケ全体の力で作られるもの。そして、その対極にある、野蛮なほどに荒れ狂う場面(4年前の、交響曲第6番の演奏でも感じた、暴力的とすら感じられる迫力、これもまた、今回印象深く。)。指揮者の緻密な計算にもとずき、その設計図どおりにオケが「音楽」をスキなく作り上げる・・・・この総合力こそ、オケの醍醐味の最たる物。個人技のリレーだけの演奏、に留まらず、団体の総合力を前面に押し出して、音楽の快感が聞き手に伝わる。
 全体のテンポ設定はやや緩め。CDの演奏を踏襲。第2楽章などは、だれそうになるギリギリだと思うのだが、個人的には許容範囲か。音楽自体が、その丁寧な演奏に十分耐え得る内容を持っている。さらに、19世紀末において、これだけ、非ヨーロッパ的な雰囲気、ある種日本的とすら感じられる作品として成立している、この作品の重要な側面を、たっぷりと日本人にも知らしめていただいた、とも思う。

 アンコールは、合唱のアカペラにて、お国物を。ちなみに日本語での歌唱。美智子皇后の訳によるもの、・・・・皇后はシベリウスの「もみの木」などのピアノ曲もレパートリーらしく(ピアニスト・舘野氏のCDでも触れられていた)、皇室とフィンランド、の因縁なども、ふとよぎる。
 そして、オケと合唱とで、待ってましたの「フィンランディア」。ただ、やや粗っぽかったようで、残念か。ちょいと、張り切り過ぎた、金管打。

 全体的に、前回の感動を胸に抱く我々にとっても期待にそった演奏会ではあった・・・・でも、前回が凄過ぎた・・・・。初対面の印象を超えるのは何にしても難しいな。でも、また、是非、この組み合わせで、シベリウス、それも、比較的演奏頻度の少ないオケ作品など聴きたい。

(2004.5.26 Ms)


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