今月のトピックス

 

July ’02 

 7/19(金)オーケストラ・アンサンブル金沢 第125回定期公演

曲目

バッハ       前奏曲とフーガ イ短調 BWV453
ハイドン      交響曲第104番 ニ長調 「ロンドン」

ラインベルガー  オルガン協奏曲第2番 ト短調 作品177
ハイドン      交響曲第45番 嬰へ短調 「告別」

指揮 : ニコラス・クレーマー
オルガン独奏 : 荻野裕美子

(2002.7.21 Ms)

 この夏第1回目の小旅行は、北陸金沢へ。昼は観光、夜は、アンサンブル金沢のホームグラウンドでの定期など楽しむ。県立音楽堂は金沢駅前という立地の良さがよい。室内オケの本拠の割には大きなホールだ。1000人以上のキャパシティあり。パイプオルガンも備えた立派なものだ。今回は、そのオルガンもたっぷり楽しむことができ、満足。
 開演前は、ソリストの方が出てきてオルガンの構造やら今回の楽曲を説明。コンサート前にちょっとしたプレトークがあるのは丁寧で親切だ。関係薄ではあるが、山本直純氏の訃報を期に、彼の活動など思い起こすのだが、ただパンフレットが配られ、音楽が演奏されるだけのコンサート、というスタイルだけではクラシック音楽のファンは育たないような気もして。外来オケの日本公演はともかくとして(ただヴァンスカ指揮、ラハティ響は来日時にカンテレのプレコンサート、ヴァンスカへのインタビューと盛り沢山だったが、これは例外中の例外)、こういった地元密着の地方オケにあっては、ある意味「オーケストラがやってきた」的な丁寧なフォローもあったほうがいいかな、と思うところ。ポップス・コンサートもいいけれど、本格的なクラシカルなコンサートへの導入方法として、何らかの言葉による説明、というのは有意義なことかと思う。そういった点で、かつての小松一彦指揮「セントラル愛知」での、ピアノまで揃えての楽曲のレクチャーなどとても興味深かったもの。

 さて、パイプオルガンのコンサートはハズカシながら未だ聴いたことが無いこともあり、冒頭のバッハには圧倒された。私の体験上、サン・サーンスの「オルガン付き」くらいでは、オルガンを満喫しきれていたわけもなく、さすがに足鍵盤まで相当な運動量を擁するフーガのような作品は、そのソリストの技量もいかんなく発揮され、充分に堪能させていただいた。
 続く、ハイドン「ロンドン」、スマートかつ精緻な演奏で、こんな演奏ならもっといろいろ聴きたくなる。104曲全部はとてもだけれど。最近、BSで見た「熊」や72番などもお気に入りである。機知に富んだハイドンの軽やかな、そして緩急つけた小気味良さ、意外性のある展開などなど惹きつけてやまないところ。まだまだ、面白い曲は眠っているに違いない。主題の展開、というポイントで聴いても、精巧に構築されているのがわかり易くて楽しめる。旋律自体も結構、ひとなつっこい。突然のフォルテ、またはピアノ。さらには突然の休符。いろいろ仕掛けがある。ずっとフォルテが続いていると思いきや突然の休符、そのたびに客席から、ファスナーの音とか、咳の音とか、よりによって聞えて来る。安心していると大間違い。曲の中の「沈黙」を台無しにされるのは曲が曲なら怒りも感じるが(シベリウスなり、ショスタコなり)、ハイドンのこの「沈黙」、彼のイタズラ心の発露のようにも思え、天国で「200年経ってもまだ私のひっかけが通用しているんだね」なんて笑っているかのようで微笑ましくも感じる。

 今回の注目株、ドイツ後期ロマン派の忘れられたオルガン奏者兼、大作曲家ラインベルガー(1839−1901)のオルガン協奏曲第2番。なかなかに面白く楽しめた。複雑な転調や、凝りに凝った装飾的な動きといった毒気の失われたR.シュトラウス風で(ちなみに初演は彼が指揮とのこと。1894年)、楽天的及び祝祭的なムードに満ち、伝統的ながらもやや粗めなブラームス、もしくはブルッフ風な作風といったところか。
 弦と金管(Tp.Hr.2本づつ)とティンパニとオルガンという編成でサウンド的にも意外とカッコイイのだが、わざとらしいまでに壮大さを繕っているようでもある。聴きやすくて、かつ忘れやすい曲か・・・。ただ、第1楽章第2主題の冒頭が、エルガーの「エニグマ」の主題と同じ動きで面白い。ホルンで高らかに吹奏されるに至っては(調性も同じで)、「エニグマ」の最終変奏とそっくりで笑えた。ドイツ音楽からの影響の強いエルガーのこと、ひょっとして当時は巨匠であったラインベルガーの作品、「エニグマ」に何気なく(引用ではなしに)反映されてしまった・・・のかな。オーケストラとオルガンとの組み合わせとしては当時の第一人者であったと思われるラインベルガーである。エルガーも、オルガンを自作で愛用しているし、なんらかの接点はあったかもしれない(また、第2楽章を筆頭に全体的にティンパニの前打音付きの音符がクドイほど多用されていて、その辺りもエルガーとの共通点として認識できた。)。
 ちなみに、ラインベルガーは、大指揮者フルトヴェングラーの作曲の師でもあったとのこと。しかし、いまや無名の音楽家である。プレトークでは、オルガン奏者の間でも名のみ知られるだけでなかなか演奏する機会も無いと。没後100年の昨年、ドイツですら目だった動きは無かったと。今後、再評価がすすむのかどうかはわからない。ただ、オルガン付きの地方ホールも増える中、オルガン作品はもっともっと注目されてよいだろうし、オケとの共演となったときに、いつもいつもサン・サーンスではなくて、たまには彼の作品なども取り上げてはいかがだろう。プレトークで、今回の協奏曲、演奏も楽しみだし、貴重な機会でお客さんにも楽しんで欲しい、という紹介もあり、観客の鑑賞態度も集中していたようで演奏後の拍手も盛大であったと思う。聴き栄えはするし演奏効果もいい。内容的には19世紀末とは思えないほどの優等生ぶりを発揮しており(伝統的な書法、世紀末の不健康さは皆無)、個人的にも、比較的保守的だったデンマークにおけるニールセンの学生時代の時代的雰囲気なども、こんな作品から伺えるのかもしれない、とも感じた。それは余談だけれど。
 
 これで演奏会を閉じてもいいくらいの時間ではあったが、最後を飾ったのは「告別」
 「まだ1曲あるの」的なムードを払いのけるかのような超高速で第1楽章は始まる(曲の趣向は知っていても旋律その他詳細は全く覚えていない作品だが、この速さには驚き)。これが凄く感動的な開始。なんだかヴィヴァルディでも聞いているかのような軽やかさ(雰囲気的には短調ということで「四季」の「夏」とか「冬」の速い部分を思わせた)、とにかくずっと快速なテンポ感がキープされていて引き込まれた。そして、展開部でやや緊張を解く(第2主題提示が提示部では行われないという破格さ)ものの楽章を通じて一気に駆けぬけたかのよう。
 第2,3楽章は、やや冗長とも感じた。古典派よりも前の感覚だろうか?とにかく遅くもどかしく、旋律的にも訴えかけられるものも少ない。ただ、第3楽章に変な和音が聴き取れる。調性も嬰へ長調ということで異次元的な感じ?妙な浮遊感は感じた。当時としてはかなりの大胆さが、曲全体にちりばめられているとも考えられる(フィナーレのコーダだけではなくて)。(さらに第4楽章の主部以外全て3拍子というのも珍しい趣向か)。
 そして、最後のフィナーレ、これがまた快速で情熱的でいい。モーツァルトの40番のフィナーレを既に先取りしているようでもある。その快速さが展開部で中断、・・・・・コーダ・・・最後のストライキの場面に突入。照明はどんどん落ちるは、奏者たちがウチワ持ってパタパタあおいで退場したり。はたまた、いつの間にやら浮き輪をもっての退場・・・「そこまでやるか」との会場の囁きもありつつ、くすくす笑いを交えつつ、ホームグラウンドならではのリラックス感の中で演奏は終了と相成る・・・・・そしてホールは完全な暗闇である。いつの間にか「まだ1曲?」といった時間の長さは忘却。完全に見入ってしまった。
 それと同時に、浮き輪を見たら、そうか、明日から夏休みだっけ、というわけだ。いいタイミングでこの「告別」聴かせていただいたな。そもそも、夏休みをなかなかくれない領主さまへのストライキの意志表示としてのこの交響曲、を再認識。アンサンブル金沢さんも、これで夏休み前の仕事は終了なのかな。いいなぁ。夏休み。今年の私は細切れの休みしかないものなぁ。それはさておき、最後は照明を担当したと思われる方にも拍手拍手。確実な演奏と洒落た演出、いいコンサートでした。梅雨も明けたし、このアンサンブル金沢さんのコンサートをもって、私も気分だけは夏休み突入といきたいところ・・・なのだが。

(2002.7.27 Ms)

 7/6(土)アマデウス・ソサイエティー管弦楽団 第20回記念演奏会

曲目

ニールセン       ヘリオス序曲 作品17
ラフマニノフ      ピアノ協奏曲第2番 ハ短調 作品18

ニールセン       交響曲第4番 作品29 「不滅」

指揮 : 山田和樹
ピアノ独奏 : 木野真美

 とりあえずの速報。また、新たな凄いアマオケに遭遇できた。嬉しい限りです。7/6(土)、アマデウス・ソサイエティー管弦楽団。第20回定期演奏会、として、「挑戦的なプログラムにいたしました」とのプログラムの挨拶のとおり、なんと、ニールセンの交響曲第4番「不滅」をメインに、同じくニールセンの「ヘリオス序曲」そして、ラフマニノフのピアノ協奏曲第2番というもの。指揮は、山田和樹氏(1979年生まれという!)。東京は大田区民ホールにて。
 とにかく、「不滅(本来は「消し難きもの」などと表記したい所だが、長いので従来どおりの表記で勘弁していただきたい)には感激した。個々のプレイヤーのテクニックも凄ければ、全体としての一体感、アンサンブルの精緻さ・・・・ニールセンの難曲中の難曲を、難曲と感じさせない安定した演奏で(プロにしろアマにしろ、こんな演奏が出来る、というのが驚きなのだ)、ニールセンの楽曲の凄さを見事表現しきったという感じ。テンポも全く妥協の無いもので、ともすればCDで聴かれるプロのものよりも速く(第一部そして、弦の速弾きで始まる第4部など圧巻!!)颯爽と駆け抜けるようで、とにかく惹きつけて離さない演奏。
 アマチュアオケの良さ、として、ビジネスではないが故の真剣さ、とにかく演奏したいという前向きな姿勢、そして、半年なり1年の間みっちりと腰を据えて曲作りが丁寧に出来る点などがあり、また、アマ故の、プロに無い豪快さ(特に金管や打楽器に見られる)を感じ取ることもあり、私は、確実なテクニックを持つアマオケの与えてくれる感動、というのが好きで好きでたまらない。今回のアマデウス・ソサイエティ&山田和樹氏の演奏は、ニールセンの「不滅」という概念、主張を素晴らしいまでに感じさせて、もう私としては涙なしには聴けなかった・・・・とにかく凄いよ・・・。打ちひしがれました。

 ホルン及び中低弦のレベルの高さは全曲とも光っていたが、メインにて、その辺りの安定ぶりが実に心地よいわけだ。金管も随所で朗々たる吹奏あり(ニールセンの場合ややもするとトランペットにあまり光が当たらないのだが、第3部中間の息の長い旋律や、第4部前半の決めの旋律(EとGを行き来する)などこれ以上ないというほど高らかに飛び込んで気持ち良し)、木管と弦の一糸乱れぬアンサンブルそして、さらに弦は第3部冒頭の張り詰めた悲歌のテンションの高さ・・・・。などなど語り尽くせぬ感動の数々、そして、やはり何と言っても、二人のティンパニストの素晴らしさ。第4部のインパクトはとにかく言葉にならない。音楽作品に私が完全に飲みこまれてしまった感じ。圧倒されまくり。もちろん爆発的なデュオだけではなく、最後のコーダのティンパニの含蓄の深さもいい(2台のティンパニだけで「不滅」たる意志は壮絶に感じられるではないか)。もちろん、半音階で進行する第3部の落ち着いたバスの旋律線もいい。また詳細は是非書きたい。心には深く深く刻まれた。また思い出すことで感動を噛み締めたい。今日のところはここまで。

(2002.7.7 Ms)

 「不滅」はご存知の通り、単一楽章制。しかし、明確に4つの部分からなり、それぞれが従来の交響曲の四つの楽章に対応する。即ち、アレグロの両端楽章の間に、スケルツォ(というよりブラームス的な間奏曲か)と緩徐楽章が挟まっている。そして、第一部の第2主題に当たる部分が全曲を統一する核となって、両端部を密接に関連付け、かつ第4部のコーダで幅広く再現されて曲を閉じるという仕掛けになっている。
 オーケストレーション上のポイントとしては、編成は標準的な3管編成。ピッコロとコントラ・ファゴットが使用されている。ピッコロはニールセンの常としてかなり独特な(オケの中で独立した動きを担当することも多く目立つ・・・・今回の演奏ではフルートは4本使用、適宜、ピッコロ、もしくはフルートを重ねていたが、すこぶる適切な処置であったと思う。オケの大合奏の中で第一部の途中、ピッコロ一人が冒頭の「タラッター」というリズムを刻むあたり、ちゃんと埋もれずに聞こえていました。また、コントラ・ファゴットは単に音域の都合上ほんの一瞬使われるだけであまり活躍する場はない。ニールセンのオーケストレーションとしては、管楽器の特殊楽器は1900年前後という当時としてはあまり使われていないほうだ。あくまでオーソドックスなベートーヴェンと対して変わらない楽器を使用している。シベリウスの交響曲と似たスタンスである。)
 当然忘れてならないのは、ティンパニの使用法。第4部において二人の奏者を必要とし、ティンパニの二重奏による暴力的なパッセージが随所に折り込まれ、第1次大戦という時代的背景を象徴するかのように聞えて来る。ただ、第4部に限らず全体としてティンパニの活躍ぶりは顕著であり、第3番までに見られなかった傾向として、ペダル・ティンパニを前提とした書法となっていて、第4部コーダの手前で二人の奏者共に、上昇のグリッサンドが聞かれ、かつ、全体的に音変えが頻繁である。特に第3部冒頭の、低弦のピツィカートとのユニゾンは、半音階的進行で出来ていて、ペダル・アクションとしては演奏しやすい配慮がされているとは言え、最大の難関である。このティンパニのパートは古今東西、(現代曲は別として)最も難しいパート譜と言えよう・・・唯一双璧をなすのは「春の祭典」くらいだろう。だが、ペダルの瞬時の切り換えという点では「不滅」の方が数段レベルが高い(ちなみに「ハルサイ」経験者としての感想)。
 このティンパニをミスなく見事演奏しきったお二人にはホントに頭が下がる。楽しませていただいた。感謝感謝。こんな演奏が出来るんだったら私もチャレンジしたいもの・・・と身のほど知らずの発言ではある。でも、これだけの演奏をしていただいた意義は大きい。とりあえず在京のオケの皆さんにはにはプロアマ含めて、「不滅」を手掛けてもらいたい。生演奏でのこの興奮を味わったのなら、きっと演奏したい、と思われた方も少なからずいたのでは、と期待したい。

 さて第1部からスコアを片手に、感動を呼び起こしているところだが、とにかく、テンポの妥協のなさは聴く側としてはとても快感。そして、演奏上の問題点を感じさせずに、曲そのものに没入できてとても良かった。35分ほど、ノンストップで続くのだが、長さは全く感じなかった。もっと聴いていたい、とすら最後は感じた。
 全体的には、テンポや楽想の変化が甚だしく、気分がどんどん変わってゆくところにニールセンの特徴はあろう。その切り換えも素早くて、誰一人乗り遅れなくどんどん前へ進む。また、調性や拍子感としても、安定と不安定を交互に繰り返し、「滅」を主張するもの、そして「不滅」を主張するものと入り乱れて格闘しつつ、曲が進んでゆくのがよくわかった。その在り様は「ゾロアスター教」的な二元論みたいだ。その戦いの中で、ティンパニが、2つの在り様を時に応じて、かなり重要な役割として演じられているわけだ。

 冒頭からして衝撃的、である。トロンボーン、チューバの装飾音符付き打撃に既に感激。凄い存在感だ。ニールセンの若い頃からの特徴として一つの音符を装飾音符とする音の多用がある(2つ以上ではなくて)。比較的、素朴な農民の踊り的な軽いものから発していると思うが(第3番のフィナーレなどどうだろう)、ここにおいて、この装飾音符は不安の象徴的に提示され、その後もいろいろな場面で聞えて来る(第ニ部ではやはり、素朴な感覚を取り戻しているけれど)。
 その衝撃に続けとばかりティンパニが増4度の音程を撃ちこむ(Es−A)。この不安定な増4度は第4部でティンパニのニ重奏でさらに強調されることになる。スコアを見るとフラット一つという調号。文献によってはニ短調という表記も見られるがはたしてどうだろう。Cの音の持続の中でEs−Aという増4度が挑戦的に鳴り響き、古典的調性からの離脱の宣言とも聞えて来る。ただ、第一部再現部においては、ティンパニもD−Aという音程に変わり、金管もDの音を主音として認めてはいるが、ニ短調を交響曲全体もしくは、第一部の調性としては認めがたいような気がする。
 (ニールセンの最大の特徴の一つ、進行的調性についても、改めて詳しく書く機会を持ちたい。ただ、この「不滅」においては、第一部の第2主題で初めて持続的な調性感は確立し、それは、イ長調という調性である。それが第一部の再現部ではホ長調という五度上の調性(シャープが一つ追加)へと進行して行く。同様に、第4部も概ねイ長調で提示部は推移、ただしコーダはやはりホ長調。スタートから始まって五度上の調性へと収斂するというのは、シャープが一つ追加となるのに象徴されるように、明るさが倍化されるような気が私にはする。彼の楽器、バイオリンに例えれば、A線を主音とする調性からE線を主音とする調性へ移行する訳だ。この辺りでもうお気づきの方もいらっしゃるでしょうが、五度上の調性への収斂は、彼の第2,3番の交響曲においても見られる傾向である。
 第2番のフィナーレにおいて、ニ長調開始、イ長調終止。第3番の第1楽章において、ニ短調開始、イ長調終止。同フィナーレにおいてニ長調開始、イ長調終止。これらも全て、バイオリンのD線からA線への移行ともとれる。中期ニールセンにおいて、五度上への収斂は大きな特徴と言えないだろうか。そして、5番以降は、さらに自由な調性の扱いが出てきて、かなり現代的な和声感も取り入れて、難易度も高くなるわけだ。)

 衝撃的な開始に続いて、音楽自体は混沌としている。調性も確立しないし、持続的なモチーフの確保、発展というよりは、提示されるばかりという印象。
 ソナタ形式にしては破格の開始、といったところか。少なくともベートーヴェン的ではない。しかし、これほどではないにせよ、次々と主題をというか、モチーフを提示するパターンは以前より存在していた。それこそ、ニールセンの敬愛するブラームスに特徴的な手法である。最も有名なのは、ブラームスの交響曲第4番第3楽章。冒頭、全く異なる三つのテーマが脈絡なく連続している。@ドシラソファーソー。Aタタタン・タタタン・というリズム。B3連符による突然の変ホ長調によるファンファーレ。なかなかにユニークな作りをしている。ちなみに、最近私がよく聴く機会を持ったピアノ五重奏曲の第3楽章も同様。ただ、ブラームスはこの三つの要素のみで見事一つの楽章を作り上げていて凄い。テンポを緩めた中間部ですらBの音程に基づいているわけだ。
 ニールセンにおいてはブラームスほどにその後、徹底した展開をしているわけではないが、ふとブラームスとの関連を思い起こしたので紹介してみた。
 不安定な冒頭部分(一応第1主題提示ではある。例のピッコロでも途中出てくる「タラッター」というリズムはかなり重要である。)は、Eの音のかなり長い連打に収斂して、とりあえずは力を弱めてゆく。このEの音が最終的なこの「不滅」の結論たる音になるのだから覚えておこう。ニールセンの場合、曲の最初の辺りで結論への伏線をちゃんと引いていることが多いようでこれも注意点。交響曲第1番の冒頭のハ長調の主和音など最たるもの。交響曲第3番の冒頭のAの音の執拗な打撃もしかり。

(2002.7.28 Ms)

 動乱の時代の只中にあることを思わせる、冒頭の、激しくかつ変転する曲想が颯爽と駆け抜け、執拗なEの音の連打に収束し、秩序を求めるかのように強調されつつも、そのEの音が全体を支配するには至らず勢力を弱めてゆく。あぁ、なんとドラマティックな交響曲の幕開けだろう。思い出すだけでも身震いが。一点の曇りもない明快な輝かしい演奏ゆえにこそ、と本気で思う。ここで、すでに圧倒された。
 チェロのみ残り冒頭の「タラッター」というモチーフが繰り返されつつ、木管が不安な囁き。この、アクセントの微妙な位置も、聞き手に拍子感を失わせる不安さをアピール。こんな些細な点ですら、感動的。パートごとにアンサンブルが精緻に組み立てられている。隙のない演奏だ。
 そして、第2主題。いわゆる「不滅」のテーマ。曲全体を貫く美しいもの。長調の下降スケールを基とした、調性感の安定したもの。ここでの救済感がとてもいい。しかし、中音域の弦楽器が冒頭のショッキングな装飾音を背後で鳴らし、気持ちを安住させない。ビオラの同音連打も常に激しく主張をしている。その不安を取り除くかのように、突然、曲想は活性化、なだらかな「不滅のテーマ」はニ拍子で鋭角的に変容、さらに金管の圧倒的で対位法的な主題提示をもって、「不滅のテーマ」のテュッティによる第1回目の高らかな宣言を導く。ここまでに至る「テーマ」の変容もまた聴き所。「滅ぼされてなるものか」というメッセージとして受けとめてしまう。ホルンを始めとする金管群の充実ぶりに満足。
 「不滅のテーマ」の雄叫びの後、弦楽器がイ長調の主和音を美しく流す。ここに一瞬、北欧的な清涼感がある。グリーグやシベリウス始め、弦楽器の美しいサウンドは北欧音楽の一つの象徴的なものであるが、それがニールセンからも聞えて来る。しかし、ティンパニの不気味な胎動、そして、低音ホルンとフルートの「タラッター」の掛け合い、と清涼感はいつしか遠ざかる。展開部に入って、弦による不気味な断続的な無調的な世界が、ピーンと張り詰めた緊張感を持続させていて良かった。そして冒頭主題の素材を存分に使用してテュッティで押して押して押しまくる(この轟音の狭間でピッコロの主張も私の耳にちゃんと届いて感激)。このダイナミックさ、さらには、「不滅のテーマ」冒頭が木管それぞれでちらりと再現される対比が効果的。展開部後半は、ハ長調の空虚五度の低音をバックに、木管が田園的な素朴な世界を繰り広げる。交響曲第3番のフィナーレの真ん中辺りでも同様の曲想は見られるもの。
 その束の間の幸福感を、また「タラッター」動機が破り、再現部。今度はDの音に主導権有り、ニ調的な雰囲気もあるがそれも長続きせず。提示部と同様、様々なモチーフが入り乱れつつ曲は進展するものの、第1主題提示の最後に出たEの音の執拗な強調が、今度は徹底的にいろいろな楽器で、音域で、徹底して展開的に扱われ、何某かの揺るがぬ確信をも思わせ、その感情の高ぶりが、一気に「不滅のテーマ」の第2回目の高らかな宣言へと突き進む。第1回と比べ5度上の調性、ホ長調。低弦と、トランペット、トロンボーンそれぞれ二番奏者による下降スケール旋律が揺るぎ無い「不滅」感を堪能させてくれる。1番奏者は高音域のロングトーンを担当し、2番奏者が旋律!奏者の層の厚さ、を感じる。個人プレイとしても凄いが、限られた人だけではなく全体に隙のない奏者の配置がされていているようで、その辺のアマチュア団体との差がこういう点でもよく現われていた。

 第2部は、のどかな田園的間奏曲。木管のアンサンブルでほとんどを占める。かわいらしく、またセンプリーチェ。ホントに一息つける。あとの部分がとにかくテンションが高過ぎるから、ここまでに禁欲的な控えめなセクションが必要となろう。
 そして第3部の悲歌。最初の高弦のフェルマータは長過ぎず。全体的にも、もったいぶった感じは皆無で、どんどん前へ前へと突き進んで行った。細かな点にまで、その前向きなテンポ感、曲の構築など統一されていて細部まで考えぬかれた曲作りであることは伺わせる。
 弦の濃厚な旋律、途中から中弦によるハイポジションな対旋律と、大変にレベルの高い音楽性を醸し出したもので感動・・・・しかし、それを堪能したいのだが、ティンパニの超絶的なペダル・アクションによるバス旋律へも意識は当然ながら行くし・・・・・。こんな体験は私は始めてだ。弦を集中して聴きたい、そしてティンパニもまた然り。聖徳太子のようには聞き分けられない。それぞれのパートから奏される音楽をそれぞれに集中して聴き、見たかった。もちろん、それぞれを一体として見聞きしてはいたけれど、私の耳と目は自然とティンパニに贔屓していたようで、この部分が終わった時、弦をもっと聴きたかったなぁ、と痛切に感じた。大好物が所狭しと並んだバイキング料理のような演奏で、受け手も贅沢な悩みを抱えてしまうもの。
 悲歌の後、弦楽の渋いソロの部分などとても心に染み入るものだ。そして、木管群による警告的なパッセージ。その一体感もよい。さらに、その警告がどんどん増殖、クライマックスを築くのだが、その過程でのトランペットによる警告の吹奏がとても感銘的だ。こんなに目立った演奏は始めて。朗々としていて、感情にまかせた勢いあるもののというよりは、何かを説得し、諭し、そして訴えかけるような、落ち付き払った、しかし心に深く刻まれた、トランペット・ソロであった。この部分のトランペットに釘付けになるとは、ちょっと今までのCD鑑賞では体験したことのないことで、とても印象深い。緩徐楽章的部分ながらも、全く退屈させることのない劇的なもの。この第3部あってこそ、全曲が冗長なものと感じる事無く、また、緊張感溢れる厳しい凛とした印象を全体として思わせているかもしれない。全曲を通して生で聞いてみると、以外と第3部の存在が気になった様に思う。

(2002.8.1 Ms)

 第4部
 高弦の細やかなトリルの中に、か細いオーボエの嘆き節が独り残る。しかし、弦のトリルは次第にEの音へと収斂。この微妙なニュアンスが好き。来るべき明るい世界、トンネルから抜け光がじょじょに差し始めるかのような感覚。
 そして、弦の速く駆け抜ける32分音符のパッセージ。速いぞ。容赦無く速い。凄いスリリング。しかし一糸乱れずついてゆく弦。低弦に移ってもその勢いは減じることも無い。もう感激だ。そこへ、とどめの第2ティンパニ登場である。女性の奏者であったが、第1第2ティンパニともレベル高くまたバランス、ニュアンスの統一も申し分なし。ただ、この四つの決めの32分音符の後のGP。この休止は個人的にはもう少し待ちたかった。やや先へ急いでしまったのは指揮者の若さ、なのだろうか?
 第3部の悲劇性は完全に払拭され、ニールセン特有の競技的3拍子による、イ長調による喜びの楽想が始まる。ここの安定感がよい。しかし、この安定した明るさも長続きはせず、変拍子的な不安定さが現われたところで、低弦による無調風なぐるぐる回り始めるような第4部における第2の主題がフーガでどんどん出てくる。不安感を増しつつ、また変拍子的なムードとなるや突然、二人のティンパニが怒涛のデュオを繰り広げるのだ。全く異質なものである。ここの違和感はとても聞き手に印象付けられる。3拍子で書かれてはいても、2拍子的な書かれ方をしていて、かつ、二人がかなり難しいリズムの掛け合いをやっているもので、ここで全く音楽の進行が妨げられたかのような感覚となる。まして、二人のティンパニは曲冒頭と同じく増4度の音程で調律され、拍子感のみならず調性感までもが喪失されて、正直何が何やら理解できないのだ。「戦争」なのだろうか?命を「滅ぼそう」という邪悪な力だろうか。そのティンパニのデュオの背後に、曲冒頭の「タラー」という装飾音符が悲鳴のように聞こえる。金管のリズムそして弦楽器の音階が邪悪な力に対抗しようと必死に戦いを挑む。拍子感の回復、そして調性感もまた。ティンパニもオケ全体の中での調和を図るような音符に変わり、音楽の流れが安定を取り戻そうとするや、再び、怒涛のティンパニ・デュオ。今回も音程は違うものの増4度である。しかし、第1回目の時と違い、長続きはせず、また、弦の抵抗も盛んである。
 そして再度、オケは第4部冒頭の安定感を手にいれる。ここへ至る道程の感動的なこと・・・・。全く異なるものが衝突し、戦いの中で、邪悪なるもの、滅びをもたらすものは猛威を振るいながらもそのたびに撃退され、ここにようやく「消え難きもの」なる宣言が打ち立てられる。このイ長調の輝かしさといったら涙ものだ。ニールセンの署名でもある半音下げられた第7音。トランペットによる高らかな吹奏、G−E,G−Eなどこれでもかと「不滅」を宣言している。ティンパニも増4度、そして、半音階的な進行からいつの間にか安定した5度の音程でイ長調の調性をゆるぎないものとして枠をしっかりと作る。その部分の瞬時のクレシェンドもいい味だ。
 第4部前半の衝突、葛藤、これがまったくボロが出ず、音楽そのものに集中させてくれた演奏に感謝だ。CDを聞いてもここまでに音符を完璧に並べているのは珍しいと思う。演奏自体がスリルを演出しやすい部分だと思うのだが、音楽そのものの持つスリルを純粋に味わわせてもらえたのは、凄いことだと思う。
 さて、緊張感は緩められて静かに主要主題を回想しつつ、落ちついた幸福感の内に音楽は推移するが、再び暗転。コントラファゴット唯一の部分、低音の持続音の中にティンパニの不安な音色は胎動し始める。第3回目のティンパニ・デュオである。しかし、ここで、増4度の音程は捨てられて、6度の音程にそれぞれが調律されており、二人でニ短調の主和音を醸し出している。さらに3拍子のリズム感もしっかりと感じ取られる。ここにおいて、邪悪な力も最早、往時の凶暴性は発揮できない。秩序の中に当てはめられてしまっている。そこへ、装飾音符が激しく主張を重ね、また、「不滅のテーマ」の一部も現われ、テンションをどんどん高める。その後、邪悪なるものが爆発をおこし死んでしまうかのような、強烈なティンパニの上昇グリッサンド!!この効果も絶大だ。
 さらに、無調的な第2の主題も再現しながらも、やはり「不滅のテーマ」が押さえきれず出現、コーダにおける大団円を準備する。
 ほぼ、第一部における主題提示を大オーケストラに置き換えたような形でコーダは作られている。なんと雄大でがっしりとした安定感をもった音楽だろう。ここに匹敵し得るのは、シベリウスの5番の最後くらいか?圧倒的な感動を与えてくれたヴァンスカ指揮のラハティ響の日本公演もちらりとよぎった・・・・終わらないでくれ・・・と本心で音楽を聞きながら思ったのはヴァンスカ以来である。このコーダ、とても素晴らしい。例えば、チャイコやショスタコの5番の最後のように、とにかく押して押して押しまくれ、ではなくて、フレーズの終わりで一度弱めてまた復活して、さらに、駄目押しの下降スケールの主題吹奏、さらにそれも弱めて、最後の最後に第2ティンパニの雄弁なソロ、ともう「不滅」の「不滅」たる由縁の如き、踏まれても踏まれても立ち上がる、真の強さ、芯の強さ、心の強さが音楽に満ち満ちている。もう、この音楽は何もかも超越しているよ。
 最後に至るまでの第2ティンパニ、FFFでE−H−E−Hという安定した4度の音程を打ち込み続け、駄目押しの下降スケール吹奏部分でさらにFFFFへとレベルアップ。そして最後の最後は、完全なソロ。オケがロングトーンで支える中、FFで1回、そして抑えてmFで1回。そして最後の小節、音型が逆転して、「不滅」の高らかな宣言とも言うべきH−E−H−Eという上昇志向、未来への希望をも感じさせる雄弁なるソロで幕。ここへ持ってくるまでの計算されたバランス・コントロール。良かった。最後は伝家の宝刀、両手叩きで力強く重々しく締めてくれて、ティンパニ奏者たる私もこれぞティンパニの極意じゃと感涙。こんな風に演奏したいものだ、と痛切に思った次第。それはともかく、この最後のコーダ、生をいとおしく、また生きてて良かったと思わせる感動を与えてくれる。そんな音楽の持つ素晴らしさを十二分に引き出してくれた演奏家たちに再度くどいようだが感謝したい。
 その感謝の念と同時に、また聞きたいオケだ、またの再会を楽しみにしたい。

(2002.8.13 Ms)

 さて感動の「不滅」の演奏も終わり、指揮者が各奏者を立たせつつ、やはり二人のティンパニ奏者に対しては絶大な拍手の嵐。アンコールは果たして・・・・。
 指揮者が拍手を制して語り始める。・・・このような難曲に取り組んだため今回はアンコールを用意できることができませんでした。「不滅」の最後の部分を再び演奏させてください。ニールセンがこの作品を書いたのは第1次大戦のさなか。全曲通じて活躍するティンパニの戦争を象徴するかのような激しさです。暗い世相にあって、偉大な芸術、そして人間の魂もまた「不滅」(滅ぼし得ざるもの)であるというニールセンの思いは、今私達にも訴えるものが大きいのではないでしょうか?
 このような趣旨のことをお話になり、再度第4部の後半、コントラファゴットの低音ロングトーン、ティンパニの不気味な胎動、そして怒涛のティンパニデュオ第3回目、さらには「不滅」のテーマの大団円・・・・もう感激も新た、今の私達の置かれた状況に対するニールセンの励ましであるかのように、苦しみぬきながらも平坦ではない、私達に与えられた道を歩まねばならない、と思い至る。こんな気持ちにさせてくれる音楽、そして演奏、この場に立ち会えたことを深く深く感謝、だ。

 あと、これは今回の演奏を聴いての曲に対する認識がちょっと改まったという点で、書き加えておきたいのだが、「調性の不滅性」といったものも特に第4部で壮絶に感じた。増4度音程は5度、4度という安定した音程へと移り、「不滅」のテーマ自体は長調の音階をほぼ順番に下がってくるもの。調性の枠を外す楽想が何度も何度も現れつつも、結局は古典的な調性の枠へと回帰してゆくという音楽的な流れがとてもはっきりと感じられたのだ。この「ニールセンの調性」についても私の課題ということで今後もいろいろ考えてみたいもの。

 さぁ、感動の「不滅」の思い出を閉じるにあたり、プログラムの最後に掲げられた次の言葉も深く、音楽とともに私の心に刻まれたので紹介して筆を置きましょう。
 「今、世界中の至るところで戦争や民族紛争、テロなどが起こっている。そしてそこではとても多くの罪のない被害者が出ている。また、貧困や飢えで多くの命が失われている。そのような現状を踏まえて、この曲を聴きながら私達にとっての「滅ぼし得ざるもの」は何かを考え、それを共有していのも意味があるのではないかと思う。」

 感激のあまり「不滅」についてとにかく書きたくて書いた次第。やはりプログラム3曲中、もっともレベルの高い演奏を聴かせてくれた。もちろん他の曲も素晴らしかったのだが、メインが最もずば抜けていた。奏者も揃えた、という感じ。
 オープニングの「ヘリオス」も素晴らしい出来だった。冒頭の低弦の弱奏の膨らみしぼみでさえ、巨匠的な貫禄さえ感じさせ引きこまれる。雰囲気がある。集中している。真剣さが感じられる。続くホルンの応答はやはり弱奏は難しそうだが、高音もしっかり当ててかなりの善戦。テンポが全般的に速過ぎたのは私の趣味ではないが、確かに速い演奏の方がCDとか多いし、これは問題ではなかろう。ただ、壮絶な速さを設定しつつ、後半のさらなる加速を要する弦楽のフーガ部分が、ちゃんとさらにワンランク、テンポが上がっていたのに驚嘆。指揮者の棒の確かさと演奏者の技術力、並じゃない。恐るべし。全体に速い割には、スケールの大きさ、ひろがり、を感じることが出来た。地中海の太陽、を想像しながら幸福に満ちた瞬間を味わった。最後のクライマックスから次第に音量を下げ絶妙な転調をしていくあたりは何度聞いても涙もの。
 ちなみに、この団体、ずっと小編成のプログラムを組んでいたようで、その辺りで磨きぬかれたアンサンブル能力も今回の大編成でも如何なく発揮されたようだと感じた。やはり、こういった小編成の形態を重視したオーケストラは一味違う、ということか。音楽に対する真剣勝負、真面目さを感じて共感の度合いも大きいのだ。

 聴衆としてこういう演奏を求めたい。プロでも、そういうものは決して多くはない、私の経験では(東海地区では特に)。まして世間一般のアマチュア、せめて技術のなさを真剣勝負なアンサンブル、チームプレーでカバーしなきゃ2度とリピーターとしては来て貰えまい・・・・。小学校のお遊戯会のような身内のみ対象で無料と割りきっているのならいいけれどね。
 もっともっと感動を味わいたい。聴衆として切実に最近思う。ただ何気なく音を並べただけでは心になんか響かない。そんな演奏にも練習にも立ち会うのは苦しい。私自身演奏者としてのジレンマが苦しい今日この頃である。ただ、このコンサートにおいてはそんな邪心もなく音楽そのモノに集中させてくれていて幸福だった。今、このコンサートを思い返したとき、私が彼らと同じ「アマチュアオーケストラ」という名称を名乗るのに羞恥を感じるのだ。
 再び彼らの演奏を目の当たりにして、感動を感じたいものだ。ちなみに、このコンサートの後、夕飯が喉をろくに通らなかったのも感動体験のせい?単なる夏バテ以上だと思うよ。

(2002.8.18 Ms)


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