今月のトピックス

 

May ’02 

 訃報 その他

 4年目を迎えた我が曲解HP、なんやかんやでこのコーナー、こじつけつつも「トピックス」と称して継続してきたのだが、今回始めて穴を空けてそのまんまに放置してしまった。仕事の変化で、そう今までのように音楽音楽した生活とも立ちゆかなくなったわけではあるが(今までがある種、異常なまでの拘泥ぶり、という面もある)、この5月、トピックスとして取り上げるネタ、そしてネタをまとめる時間もなかったわけだ。ということで仕事に邁進?しつつもささやかな音楽との関わりという点で「だぶん」の記述をこちらに掲載しておこう。改めて読むと、まだまだ音楽漬けな生活ではある。であるか。
 4月に購入したBSチューナーは、確かにコンサート中毒になりつつある私の渇きを潤す役割もあってタイムリーではあった。
 また、必ずしも遠くない存在であった二人の芸術家、そして私個人の問題としてだが祖父の死、思うところも多々ある訃報・・・・。
 それらが私の2002年5月の仕事以外の生活面での大きな出来事であったということか。

(2002.6.16 Ms)


 BSチューナーを購入。先週、早速、ライプツィヒ・ゲヴァントハウスの今回の来日公演をチェック。シベリウスの7番。全体的にあっさり駆け抜けるようなテンポ感で、個人的にはもう少し落ち着いて堂々たる壮大な宇宙的な演奏を、と思いつつも、ブロムシュテットの個性もあるし、また、それ以上にブルックナーの5番の前プロ、ということもあるし、総合的に判断すれば、こういう演奏の必然はあった、ということか?
 それはともかく、ドイツオケのシベリウス、というのはまだまだ珍しいだろうし、弦の美しさ、そして金管の上品さなど、いいシベリウスが聴けたことは間違いない。冒頭近くの弦の頌歌などは、分厚い豪華な響きではなく、幾分、古楽的な、と形容できるような雰囲気で新鮮だ。オケ自身の個性が現われた部分だろうか?トロンボーンのソロは、華やかに目立ち過ぎず、かといって溶け込み、埋もれるわけでもなく、絶妙のバランスと存在感で素晴らしい。生で体験できなかったのは残念である。

 とりあえず、クラシック系の番組も意識してビデオに撮ってみたが、BSフジで、日本フィルの1970年前後の定演の模様を番組としている。貴重な映像の数々ではあるが、如何せん、番組としてのセンスが悪すぎる。小刻みにCMは入るはニュースが何度も飛び込むは、で民放の性ではあるが、あまり良いものではない。最初に録画のチェックのつもりで入れてみたら、近衛秀麿指揮のシベリウスの2番など(1970.4.27。第199回定演)。続く回は、ベルグルンド指揮で、シベリウスの5番(1971.12.10。第230回定演)。詳細はまだ見ていないが、30年前の演奏、そして映像。そんな貧弱なものではない。ただ、自分にとって永久保存かどうかは微妙なところか?ただ、渡邊暁雄氏など登場願えれば興味は出てくる。さて、今後の展開は如何に?
 それにしても、番組の終了時にも数分演奏が流れるが、「トゥオネラの白鳥」途中でブツッと切れていたのは如何なものか?限られた時間で収まるような選曲なり、1曲全部入るようトークの時間を調節したり、細やかな配慮は必要だと思う。所詮フジTVの音楽に対する考えがその程度という証左ではあろうが。

(2002.4.27 Ms)


 スヴェトラーノフ逝去。5/3、モスクワの自宅にて。73歳。冥福を祈ります。
 追悼の意味も込めて、とCDを探したが、意外と持っていなかった。ただ、私にとって、中学時代からショスタコを聴き始め、高校時代に丁度全集が出始めたロジェベンとともに、先輩からコンドラシンそして、スヴェトラのLPを借りてとにかくむさぼるように聴いたのが懐かしい。中でも、彼の7番「レニングラード」(ソヴィエト国立、1968年録音)は壮絶。ホントにソ連製重戦車の進軍そのものと感じる凄さ。さらに、同時期のLPで9番のカップリングで入っていた「祝典序曲」の速いのなんの。こちらはCD化されたのを発見していないが、7番については、5,9番とともにCD化されており入手済み。随分久しぶりに今、聴いている。ウルサイだけで中身がない、とかいう意見もよく耳にするが、凄いものは凄い。素直に認めよう。逆に、こんな素直に感動できる音楽に対して中身がない、なんて言ってるヤツらが世間のクラシック離れを助長しているのかもしれん。この暴力的な音の洪水、この迫力もまた、オーケストラの魅力の一つであろうに。
 これだけの熱い演奏を聴かせてくれたスヴェトラーノフには感謝。晩年、N響を何度か振ってはいたものの生で拝見する機会はとうとう持てなかった。でも、ロシアもので固めたプログラムはBSで見て、これがN響?と仰天するほどのロシア的演奏で感銘深し。特に「だったん人の踊り」は鮮烈に覚えているな。
 「初夏の日や ソ連は遠くなりにけり・・・・」などと感傷に耽りつつ、鑑賞に耽るGW。レニングラードという街の名も、ソヴィエトなる国名も今やなし。

 偶然、CD屋で試聴版を聴く。何かと噂の西本智美氏指揮、ボリショイ交響楽団ミレニウムでしたっけ。今月、豊橋交響楽団を振りに来ることもあってか、彼女のポスターは街に溢れ(豊橋駅前のド真ん前に張ってあったりしてなかなかの広報ぶりで)、CD屋もそれにならってか。
 チャイコのバレエ選集。「白鳥」と「くるみ」。「くるみ」は全曲版でもないのに児童合唱もカットせず意欲的か。「白鳥」は初版なども参考にしているとかで、現在は外されている、「ロシアの踊り」というヴァイオリン・ソロの作品も収録。なかなかに興味深いもの。
 演奏は、もうロシア臭さプンプンの出来か。でも打楽器はどうかな。「白鳥」のフィナーレなどは昇天できそうもないほどに爆裂しているな。ティンパニ。あと、この部分の小太鼓を経験しているので感じるのだが、普通、こんなに聞こえませんて。かなり粗っぽく聞こえてきて、ロシア的といわれればその通りながら、いかがなものか。ジャケット表は西本氏の写真。裏に、バレエのトゥシューズの写真などあって女性的、洒落てはいるが、演奏はさにあらず、と感じた。ロシア・オケの今昔、いろいろ混乱もあるようだが、まずは、このミレニウム、しっかり実力を蓄えて、ロシア音楽の神髄を未来に継承していっていただきたいものだ。

 続いて本屋にて、前から気にしていた、「シュニトケとの対話」を購入。私が新婚旅行に出かける前日に確か訃報を聞いた事もあって、それなりに印象的な現代の作曲家でもある。合奏協奏曲第1番、交響曲第3番、第5番などはCDも入手しており、大学時代はそこそこ聴いていた。最近では、N響で諏訪内氏がヴァイオリン協奏曲第4番を取り上げ、視覚的カデンツァの部分で、オケ団員の前に座ったり、髪を下ろしたりと、ステージ上でいろいろ面白いことをしてくれたっけ。
 まだしっかり読んでいないが、ショスタコーヴィチとの関係などは面白い記事があり、是非オススメしたい。当時のソ連の楽壇の状況を生々しく伝えている。証言の記述と重なる部分もあったりで興味深いので是非ご一読を。

 GW、暦どおりで大型連休でもなく、まして休日にも仕事して、一方、親族のお見舞い等々あまりGWらしくないのはいつものこと。最近ちょっと離れていたロシア・ネタに囲まれてのささやかなGWではある。

 久々と言えば、BS朝日にて先週、アバド指揮のベルリンフィルのライブあり。マーラーの7番。結婚してとんと聴く機会がなくなったマーラー。多忙な生活の中で、このビデオもとりあえず両端楽章しかざぁっと見ていないが、感激した。やっぱ、引き込まれる魅力はある。あと、ウェーベルンの「6つの小品」が意外と心に残るものあり。ほとんど聴いたことがないウェーベルン。しかし1909年の作品でこれだけの難解さ、緊張感、というのは尋常じゃない。興味深いものはある。もっと寡黙で訴える力のない音楽という偏見を持っていたようだ。好きな曲にはなりそうもないが、気になる存在ではあった。

 マーラーに感化されつつ、また、先月のゲヴァントハウスのシベリウスの7番の鑑賞もあって、ニールセンを絡めて、マーラーとシベリウスにも曲解ネタに登場してもらおうか?と考えているところ。ニールセンHP1周年のお祝いにでも駆けつけていただくとするか。

(2002.5.5 Ms)


 兼田敏氏逝去。5/17。66歳。冥福を祈ります。
 学生時代、吹奏楽に所属していたこともあり馴染みの名であり、また、愛知県芸大の教授ということで彼の弟子である学生から和声やらオーケストレションやら私も習っていた経緯もあって(一応、彼の孫弟子にはなるわけか。でも彼は私を知る由も無く)、感慨深くこの訃報を受けとめた。
 大学時代、偶然、名古屋ディレクターズバンドのコンサートで、彼の指揮のもと彼の作品ばかりを聞いたこともある。「交響的音頭」は10代の私にとってとても心に残った曲ではある。名曲とされる「パッサカリア」よりも印象深かったッケ。最近の創作活動については知る立場にもなくなっていたが、それにしても早過ぎる死ではなかろうか?安らかに。

 民放BSもボチボチ見ているところ。BS日テレの「ブラボー!クラシック」も5/7の放送を始めて見た。読売日響のコンサート・ライヴ。
 今回は、昨年話題となった、ナチスによって葬られたユダヤ人作曲家の作品の演奏会より。シュールホフの交響曲2曲。第2番は、第3楽章が「ジャズ風に」と題されたもの。全体に新古典的な明快さ、そしてプロコフィエフ辺りを思わせるややひねたハーモニー感。聞きやすいもの。楽しささえ感じる。もっと悲痛なユダヤ人としての叫びが聞かれるのかと思っていただけに意外ではあった。一方、「人間」と題された作品(番号なし)は、後期マーラー、R.シュトラウスを思わせるような豪奢なオーケストレーションの上にメゾソプラノ独唱(打楽器を一切使わなかったのはやや淋しいが)。叙情的な作品。両者ともに、ユダヤ人としての苦悩、政治的メッセージといったものを聞くことは無かった(その点では、今回放映されていないウルマンの作品こそそういった傾向のものだったらしい。今回聞けなかったのは残念。)が、純粋に当時の音楽シーンに対して敏感に反応しつつ作曲を重ねていたのは興味深し。ただ、最新の『レコード芸術』のなかで、確かシュールホフの6番について紹介されており、こちらは、ナチスに対抗して、「共産主義」を旗印に、ベートーヴェンの第九的な作品として仕上げられているらしく、おおいにこちらも興味深い。シュールホフ再発見が、どちらかというと、ジャズなど軽音楽を取り入れた退廃的な作風故に当局から疎んじられたという側面で語られることが多いとかで、シュールホフ再発見のさらなる再発見、今後期待したい。

 一方、2000年のザルツブルク音楽祭での、ノリントン指揮によるハイドン、パリ交響曲集(82〜87番)。BS2にて。これが意外と面白いンだな、また。
 ハイドンと言えば、後期の「軍隊」「時計」「ロンドン」、も少し遡れば「驚愕」とかくらいしかよく知らないのだが、さすがに104曲も有ればそれなりに面白い曲もある。10年くらい前に、読売日響をロジェストヴェンスキーが振った時、ショスタコーヴィチをメインにやるたびにハイドンの中期辺りの全く未知の交響曲をカップリングしていて、今記憶に有るのは「うかつ者」だったっけ、妙な趣向がこらされた作品に驚いたもの。
 さらに昨年のN響、ブロムシュテットが、マーラーの4番の前プロで86番をやっていて、これが激しくまたスピーディな軽やかさをもった、これまたチャーミングな佳作。音楽そのものの駆け抜けるような心地よさと、テーマの明瞭さ、展開の巧妙さ等々に満足したものだ。
 今回のパリ・シリーズ、全部見たわけではないが、その86番と同様、トランペットとティンパニを備えた輝かしい作品である82番「くま」が楽しい。金管打の派手な使用法も見所、特にフィナーレの豪快な響きは快感。ちなみに「くま」というニックネームは、フィナーレの冒頭、低弦で奏される装飾音符つきの音が、熊の鳴き声に聞こえるとか。その装飾音符自体が重要なテーマとなっていてその使い方も耳につく。ニールセンの個性とも近い感覚で余計に今の自分に印象的なのかも。とにかく、ハイドンの「くま」、聞いて損はないでしょう。

 仕事に追われる毎日、TVから流れる様々な音楽に癒されつつ、がんばらなきゃあ。ということで、シュールホフからハイドンまで、さらには前回掲載のマーラーそしてウェーベルンまで(なかなかウェーベルンに癒されることはないが、マーラー風な誇大妄想的な大袈裟かつ不気味な表現が面白かっただけだけれども、自分としてはまだまだ柔軟な耳をしていることが分って安心。まだまだ新規開拓、楽しめそうだ。)。生のコンサートへの渇望もあるが良しとしよう。来週からは、BSのN響定演もショスタコにニールセンと目白押しだし。相変わらず、ショスタコとニールセンが我が支えということか。

(2002.5.19 Ms)


 個人的な出来事ではあるがご容赦。私の祖父が亡くなった。90歳という大往生。自宅にて老衰。
 GWに会った時は既に痴呆も進み、私の名もすぐには出てこない。思い出していただけたのが嬉しく思った。涙もろくもなり、また、最近は夜うなされることも多く、中国での戦争体験から故か、中国語らしき言葉でうなされていたという話には驚いた。きっと拭いきれない過去は最後までついて回っていたかも知れない。
 死の尊厳、死の重みについても頭をよぎった。小さな子供たち(ひ孫が5人葬儀にも出席)が、妙に神妙にいたのにも感じ入った。ひいおじいちゃんの死をどこまで理解していたのかはわからない。でも、家が見なれない通夜の会場となり、親や祖父母たちが時として普段見せない涙の表情を見せ、また、火葬場での骨拾い、そして異空間であろうお寺での葬式・・・・これらの光景をおとなしく見つめていた子供たちの様子からは何か凄いことが起こっている、ということは場合によっては感じ取っていたのではないかとすら感じた。様式化したものものしさもまた、死の重さを感じさせるわけだろうか。
 火葬の間、ふと葬送と音楽について考えてもみた。最も死に近そうなマーラー、死についての思索から数々の交響曲は生まれたとも言えそうなのだが(常につきまとう葬送行進曲。幼少の極貧生活における兄弟の死のイメージの鮮烈さ故か。)、今の私にはどうも響かない。あんな演出化された葬送では遺族という立場には不相応と感じた。また、非業の死を遂げた人々へのレクイエムたるショスタコも違うな。家に帰ってふと聴いてしまったのは、シベリウスの4番の第3楽章であった。
 改めてシベリウスの91年の生涯についても思いを寄せる。最後の頃、取り乱したりはしなかったのだろうか?間近に90年を越える生に触れて感じるところもあり。
 ・・・・偶然とはいえ、今パソコンに向かう背後からN響アワー、ブラームスのドイツレクイエムが流れる。耳を傾けよう。(2002.5.26 Ms)

 続いて、シベリウスの「悲しきワルツ」とは驚いた。まさにこの日にこの作品を聴こうとは。長調に転じた部分でテンポが上がらなかったのは演奏としては不服ではあるけれど、死者を思いつつ静かに聴かせてもらった。
 さて、そう言えば葬儀の際、お坊さん4人がかりで、太鼓やシンバル系の楽器でジャンジャカ派手に鳴らすのは興味深いものであった。いろいろ地域性なり宗派の問題もあろう。さらに読経も正直単調なものではあるのだが、一人個性的な声色の方がみえてその人の音程が主音となって、4人の読経のハーモニーらしきものがなんとなく聞こえてきたのも興味深かった。当然西洋の和声感にぴったりはまるわけではないのだが、全く各々別の無関係な音程ながらも、微妙に3度音程が聴き取れ、ロ長調の主音と第3音が不安定にも浮かびあがり、その他の音程は全くの不協和でしかなかったが、ロ長調という調性感もまた、死の儀式に相応しいものとも感じ(チャイコの「悲愴」とか「ロメオとジュリエット」とか。)一人感じ入ることもあった。

 さて、その読経で思い起こすのは、黛敏郎の「涅槃交響曲」。最近彼の作品を偶然にして聴く機会にも恵まれた。NHK−FMにて「現代の音楽」、彼の電子音楽を聴いた。これはもう過去の博物館的な代物か?サウンドとしては、いまや、かなり我々の耳に馴染んだもの。音素材としての新奇性の感じられない今、音楽としてのみ鑑賞してどうだろう?解説者の西村朗氏は、彼の音楽の特徴として、人懐っこさ、人間らしさ、を挙げていたが、何かしらのユーモア、サービス精神といったものは感じないでもない。そういう点では彼のオーケストラ作品などはもっといろいろ聴いてみたい、とは思う。でも電子音楽は、個人的にはちょい辛い。
 さらに、BSフジの、日本フィルの過去の演奏。渡邊暁雄氏の指揮、解説で、30年ほど前に放映された、音楽史をたどるTV番組。その中で日本の現代作品として、彼の「弦楽のためのエッセイ」が取り上げられた。日本の雅楽的な雰囲気が興味深し。個人的には、最後に演奏された、小山清茂の「木挽歌」のスマートな快演が良し。ティンパニを前後に5台置いての例のソロは映像として楽しい。

 以上、ささやかながら音楽も生活の中に生きてはいる。自分から発する音楽は残念ながらないのだが・・・・。

(2002.6.1 Ms)


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