今月のトピックス

 

 April ’02

4/18(木) 第70回 日本音楽コンクール 受賞記念演奏会

プロコフィエフ ヴァイオリン協奏曲第1番
(ヴァイオリン部門第1位 米元響子)

ニールセン フルート協奏曲
(フルート部門第1位 高木綾子)

ヴェルディ おだやかな夜 〜「トロヴァトーレ」
プッチーニ ある晴れた日に 〜「蝶々夫人」
(声楽部門第1位 木下美穂子)

リスト ピアノ協奏曲第1番 
(ピアノ部門第1位 佐藤卓史)

 松尾葉子 指揮  セントラル愛知管弦楽団

 万難を排しての、ニールセン体験、今年第3回目。なかなかオーケストラ作品には出会えなかったが、今回は協奏曲。始めての体験。素晴らしかった。と同時に、おそるべし、木綾子、である。この難曲を、堂々と、余裕を見せて見事吹き切った。
 それにしても、とりとめがないような、自由に過ぎる作品で、音楽のキャラクターもころころ変わる。ソロ・パートは当然のことながら、オケも、ほとんど癇癪持ちのような爆発とセンチメンタルと。とっつきにくさは常々感じていたところなのだが、今回の演奏は、協奏曲ならではのエンターテイメント全開で、退屈もせず、とっつきにくさなど感じさせない、曲の持つユニークさを見事表現し尽くした名演であった。とにかく、木綾子のソロに参った。華がある。音の存在感。そして、多彩な音色と、豊かな表現力。ニールセンの音楽の持つ、強さ、楽しさ、そして何より遊び心。彼女の持てる力をフルで発揮させる曲であると感じた。彼女については、商業主義の匂いが漂うJクラシック、軽めなイメージ先行で、あまりその音楽性にまで目を向ける機会が無かったのだが、今回、素晴らしい奏者であることを見せつけられた。是非、このニールセン、CD化していただけないものか?コンチェルト・デビュー、切に望みたい。決して、モーツァルトやイベールでは味わえないスリリングさが「彼女のニールセン」にあると思う。
 ただし、オケは、セントラル、今回はやや不満。バス・トロンボーンが役者不足だったのは痛い。これだけの豪華な主演女優がいながら、対等に演じきれなかった。フルート協奏曲としては異例な、トロンボーンの活躍。それこそ、植木等風、「およびでない」の世界なのだから、いくら新進音楽家を温かく見守るコンサートとは言え、遠慮しては失礼だ。堂々、彼女の胸を借りて、はりあって欲しかった。なんだか、トロンボーンが全体の中に溶けこみ過ぎて、やらしいグリッサンドも効果薄。この点は残念。また、是非とも鑑賞する機会を持ちたいものだ。

(2002.4.20 Ms)

 さて、今回初めて、難曲と思しきフルート協奏曲(演奏する側のみならず、鑑賞する側もまた難曲か)に真剣に向きあったのだが、これがまた、こちらの真剣さを嘲るようなユーモラスさ、そして毒に当てられて、見事にツボにはまった感じだ。無調への接近、当時の前衛音楽の影響を受けて・・・・などとこちらが警戒したわりには、多いに楽しい作品であることが判明した次第。確かに、親しみにくく、訳分らない音の連続などもある。また、2楽章制という変則的な構成で、一般的な協奏曲の、急−緩−急といった形からは逸脱したもの。Allegro moderatoの第1楽章と、Allegrettoの第2楽章。それぞれの楽章の中で、どんどん楽想は変わり、テンポも変わり、ソナタ形式だ、ロンド形式だ、といった定型を一見して、見定めることが出来ない。まだ、同じ2楽章制でも、ヴァイオリン協奏曲などは「緩急」−「緩急」という2楽章制で素直なもの。交響曲第5番にしても、第2楽章自体が標準的な交響曲本体の4部構成を思わせ、まだまだとっつき易い構成なのだが、このフルート協奏曲に至っては・・・・???な構成だ。この構成に、私は曲自体の解かりにくさ、難しさを感じてしまうわけだ。
 しかしながら今回の演奏を機会にこの作品に親しむにつけ、なにか見えて来た。例の「曲解」ながら一つ分析してやろう、というわけだ。しかし、手元にはスコアが無い。詳細についてまでは言及できないが、幸い、音友本「北欧の巨匠」に譜例つきで解説もある。そして、Mina Miller編の英語文献「The Nielsen Companion」にも詳細な解説があり、第1楽章をソナタ形式、第2楽章をロンド形式と分析している。それをそのまま紹介するわけではないけれど、参考にしつつ、自分なりに曲を追って行きたい。

<1>第1楽章

 冒頭、低音のペダル音に引き続き、A−Dと4度音程の上昇するモティーフが出て、ごちゃごちゃと細かな動きが並び、早速フルートもそれを模倣しつつもA−Dの上昇のみ同じで細かな動きは全く別。このフレーズが音友本に譜例で出ているが、これを第1主題と思ったら、ニールセンの罠にいきなりひっかかったという訳。もう、2度と出てこないのではなかろうか(スコアでは未確認なので、影で出てきていたらスミマセン)。チャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番の冒頭ほどではないにせよ、冒頭の主題は、ただの客引き。後にテーマの展開を見せないダミー主題だ。主部と無関係な客引き的な序というのはベートーヴェンの3番「英雄」のフィナーレなどにも例がある。とりあえず派手に何かやっとけ!と。
 このニールセンの場合の客引き的なイントロ。最近(この2月)生で体験したばかりということもあるが、作品2のオーボエとピアノのための幻想的小品の第2曲「ユーモレスク」の冒頭と同じ発想のモティーフであることは押さえておきたい。これが、意識的な引用か?または、偶然の一致かはわからない。それにしても全く同じと言っていいほど似た雰囲気ではある。ただ、大きな違いは、作品2はDの音の低音ペダル音の上に、A−Dと乗っかるのだが、40年近い歳月を経て、フルート協奏曲では、Esのペダル音の上にA−Dと乗っかり、壮絶な不協和を演出しているという点。ニールセンの和声感覚の変転を実感させるもの。
 この類似を面白く感じ、私は、この冒頭、
「ユーモレスク」の宣言!とでも名付けたくなるのだが、いかがでしょう。確かに冒頭のテーマの受け渡しに続くフルートのテーマは、やや滑稽な、せわしない(ニールセンの旋律線の特徴の一つでもある)同音連打も含めたもので、曲の雰囲気も進行するに従ってユーモラスなムードを次々と感じさせるわけだし(バス・トロンボーンの道化的な活躍を初めとして)、「おぉっ、今から、ユーモレスクでもいっちょ行くかぁ!」といったニールセンの気楽な呼びかけをここに聞けば、この作品への親しみももっと湧くのではないかな、と。

 Miller文献でも、冒頭はイントロダクション(序奏)として整理、その次のせわしないテーマを第1主題と認定。確かに何度も出てくる。そして、へ長調でトランクイロの部分。ここが第2主題。第7音が半音下げられたいかにもニールセンらしいメロディ。オケでまず提示、そしてソロへ受け渡し、しっとりと歌わせます。しかし、このテーマは長く続かず、弦のトリルの上にヒステリックなソロの叫びが重なり、また、第2主題の最後の歌いまわしをクラリネットが部分的にマネしてフルート・ソロにイヤらしく嘗める様にまとわりつく。そして第2主題がもう一度帰ってくる。・・・・この作品の構成上の解かりにくさ、というのは、邪魔が常に入って来る、ということではないか?この第2主題も提示の最中に異質なものが飛びこんで来るわけだ(ちなみに、Miller文献では、第2主題提示を邪魔する弦の低音域のトリルの部分が「リムスキー・コルサコフ風」と記載されているが、「シェヘラザード」の冒頭に似ているからかな?)。
 そんな邪魔者の最たるものが、続いて出てくるティンパニであり、バス・トロンボーンである。誰が、フルート協奏曲のソロに、パートナーとして彼らを選ぶような発想をするだろう?ニールセンのユーモア・センスには恐れ入る。ちなみに、この協奏曲はニールセンと親しかったフルート奏者に献呈されているが、フランス趣味だというそのフルート奏者に対して、随分挑戦的な作品だったかもしれない。さて、第1、第2主題の提示が終わったところで、落ち着いた雰囲気をぶち壊すのが、上述の邪魔者たちだ。ティンパニとバス・トロンボーンのデュオにフルート・ソロが絡むというのも不思議なオーケストレーションだ。
 そんな展開部、続いて主に第1主題のせせこましさが繰り返されるが、その盛り上がりの中で、ホルンによって新たな主題が投入される。ソナタ形式としては変則的ながら、展開部の最中に第3主題と言うべき重要なテーマが織り込まれる。騒がしさは遠のき、フルート・ソロがしっとりと第3主題を歌う。ドシドという節回しが繰り返される特徴的な旋律。バッハのトッカータとフーガの冒頭を思い起こさせもし、個人的にはショスタコーヴィチの交響曲第8番の冒頭を思い起こさせる。しかし、旋律の雰囲気はそんな攻撃的なものでは決してなく、
美しくも、また、はかなくもあり、この協奏曲の中でもっとも感動的な部分といって良いだろう。このソロの歌が心に染みるんだなァ。しかしながら、いくら美しいとは言え、展開部における第1主題の展開の最中に思いついたように全くの新主題の登場と言うのも、これまた邪魔者ではあろう(余談ながら、この第3主題の提示方法だが、まず、トゥッティで出しておいてから、その後、しっとりと歌わせるというのは、ショスタコーヴィチの交響曲第1番のフィナーレの第2主題の提示方法と同じである。ほとんど同時期の作品だが、まさか関連性があるんだろうか?まさか。)。
 この辺りから第1主題のせせこましさは次第に消え、まるで第2楽章、緩徐楽章的なムードが濃厚となる。第3主題の提示に続いてはフルートのカデンツァが待っている。しかし、ここでもカデンツァはオケの暴力的な爆発で中断されてはいる(ちなみに、ここの部分の邪魔者のテーマは、バッハの行進曲のモティーフとのMiller著作での指摘があるが、確かに譜例ではそっくりながら、どんな作品なのかは私はまだ知りません。)。
 カデンツァの中には当然、提示された主題も折りこまれてはいる。そして、カデンツァの後はAllegroの雰囲気は消え失せ、第2主題と第3主題を主に扱いながら(第1主題はおぼろげに聞こえてはいるが、かつての勢いは全く無し)、調性的にも前半部分の目まぐるしい変転とはうってかわり、変ト長調というやや意外な結論に落ち着き、幾分調性的には安定した状態で、まるで緩徐楽章が穏やかに閉じられるような雰囲気で第1楽章は終わる。

 第1楽章はソナタ形式を基本としつつも、展開部後半から、新たな第3主題を投入、そしてカデンツァ、そして再現部と、緩徐楽章的な雰囲気への変容がみられ、巧妙にアレグロ的第1楽章と緩徐楽章たる第2楽章の合体がされている、と見てよいのではなかろうか?ただ、そのソナタ形式という基本をふまえながらも、序奏からさりげなく第1主題提示へと移り第1主題を見誤らせるようなトリック、そして、第2主題提示中の中断、展開部中の新主題の提示などなど音楽が直線的に進行しないような罠が仕掛けられていて、聴く側の意表をつかせる構成となっており、なかなかに興味深い作りとなっている。
 続く、第2楽章も様々な主題が入り混じり、また、第1楽章との関連もいろいろ趣向が凝らされており一筋縄ではいきません。

(2002.4.28 Ms)

<2>第2楽章
 
 第1楽章が、ソナタ形式のフォームを基本としつつも、通常のアレグロ的第1楽章と緩徐楽章的第2楽章の合体を思わせるのならば、続くこの第2楽章も、複数楽章の合体という側面で捉えたくなるのが人情と言うもの。ただ、第1楽章に比べれば、随分素直な構成には見える。CDによっては、この第2楽章は2つのトラックに分割されてもおり、冒頭のAllegretto、そして後半のTempo di marciaの2つに分けて考えるのが普通の見方であろう。
 ちなみに、Miller著作においては、その2つの部分両者ともに主要な主題が同一であることに着目し(Tempo di marciaのテーマは、冒頭のフルート・ソロのテーマを、単純に2/4拍子から6/8拍子に変奏させたものの他ならない)、ロンド形式と認定している。即ち、前半は、Allegretto部分が主ながらも途中でAdagio ma non troppoが挟まり、後半も、副主題が主要主題の6/8拍子の変奏の間に挟まり、大きく、「ABA」「ACA」+コーダという形式が見えてくる。
 第1楽章が通常の交響曲の前半2楽章の合体と見るのならば、第2楽章は交響曲の後半2楽章の合体とも言えそうである(スケルツォとフィナーレ)。ただ、第1楽章との関係で見れば、違った側面も見えてくるので、私なりの曲解的分析も付記しておきますと・・・・。

 注目すべきは、前半の中間部にあたるAdagio ma non troppo。
 第1楽章が穏やかな表情で終止した後、突然、弦楽のみによる、第2楽章冒頭はまさしく無調的な意味不明な音の羅列が並び緊張感を高める。しかし、ホルンのDの音が一つ投げかけられるや、そのDの音が中心的な存在となり、フルート・ソロによる素直なテーマを導き、自然とDの音がドミナントの役割を果たしてト長調へと軟着陸。だが、それも長くは続かずに短いトリルを特徴的に繰り返す新たな主題へと移り、さらにテンポを緩め、注目すべきAdagioの悲しげな旋律へと移行。そして、そのまさに
Adagioの旋律は、第1楽章の最後に出てくる半音階でゆるやかに動くモティーフとの関連性を持つもので、Adagio部分は第1楽章後半の緩徐楽章的部分の延長とも捉えられそうである。この時点で、冒頭のフルート・ソロのテーマはほとんど展開されることはなく、Adagioのテーマの方が主役かと錯覚させる。
 Adagioが悲劇的な結末を弦とティンパニの打撃で示したのも束の間、フルート・ソロによるト長調のテーマが再び回帰、そしてまた冒頭の無調部分、ティンパニの突然のトレモロ、さらにAdagioと、単純な再現ではなく展開を伴いつつ一通り流して、最後のMarciaの部分へと到達する。
 こう見ていくと、この第2楽章、最初に述べたとおり素直にスケルツォとフィナーレという合体であるとも分析も出来るが、第1楽章との主題の関連性からいってもAdagio部分の扱いからいっても(通常のスケルツォのトリオにあたるとは言い難いほどの存在感がAdagioにあろう。)、緩徐楽章とスケルツォ楽章との合体との分析も成り立ち得るのではないか。そうすれば、より、協奏曲の基本スタイルである3楽章制(急緩急)というフォームは見えてきそうである。そして、スケルツォ的部分は、第2楽章前半においては、ブラームスのインテルメッツォ風第3楽章
(4番以外の交響曲の第3楽章を想起)の雰囲気を漂わせながらも(ニールセンにおいても、交響曲の第2番第2楽章、第3番第3楽章、第4番第2部など、ベートーヴェン的スケルツォからは距離を置いたブラームス的インテルメッツォは愛用されている)だが、最終的には6/8拍子のよりスケルツァンドな楽想へと変化、パロディ的な扱いをしながら曲を閉じるという一風変わったエンディングが用意されるというわけだ。
 さて、この
楽章終止の任務を負ったMarciaの部分こそ、この作品の最大のポイントであり、邪魔者の楽園となる。面白い部分だ。
 即ち、第2楽章の冒頭のフルート・ソロの爽やかな主題が、6/8拍子で道化づいて出てくるのに続き
(幻想交響曲第5楽章における、恋人の主題のEsクラリネットによる再現に似た発想か?)、第1楽章での最大の泣かせる場、美しい第3主題が、よりによってバス・トロンボーンで朗々と歌われ、おまけにフレーズの最後はお笑いのオチがつくかのようなグリッサンド。そして、負けじとティンパニも乱打を繰り広げてフルートのヒステリックな叫びを誘う(このフルートのフレーズが、第1楽章冒頭の上昇音型の変奏とみてもよいだろうか?そうすれば、協奏曲の最後に再度、ユーモレスクの宣言がシンメトリカルに演出されるということなのだが。)。最後は再びバス・トロンボーンのグリッサンドの応酬で何とも言えぬユーモア全開な結末。フルート協奏曲のイメージからは程遠い、お上品とは言い難い、笑いのフィナーレと相成る。

 ざっと見てきて、この2楽章制、基本は協奏曲の急緩急の3楽章制を踏まえつつ、本来真ん中の緩徐楽章を、それぞれ両端楽章に組み込んでしまった、という理解をしても良いのではないか?そして、そのそれぞれの楽章の緩徐的部分は同一のモティーフが使用されている。そして、第1楽章において通常は登場しない緩徐的な第3主題が、第2楽章のコーダでパロディ化されて再現され、楽章間の主題の連関を配慮しつつもユーモレスクのムードを決定付けてもいる。
 さらに言えば、2つの楽章を通じて三度音程の上昇型が様々な主題を構成する統一的なモティーフとして埋め込まれてもいることに注意しておきたい。第1楽章の第2主題はややこじつけだとしても、最大の泣かせ所の第1楽章第3主題、そしてより明確には第2楽章の第1主題、と3度音程は旋律線に隠されており、なかなかに隙のない構成力を示しているのが心憎い限り。
 古典的な形式感からの逸脱を一見感じさせつつも、全くの気分屋ではなしに様々な計算が配慮されているわけで、興味の尽きない作品である。また、主題の提示、展開の方法、さらに素直な再現を避けている辺り、マーラー(特に第7番か)やショスタコーヴィチの交響曲などとの類似点を比較しても面白いのではないかな?古典的な定型を見定めることは困難ながらも、主題の展開、主題間の統一的な配慮など、全く独自な緊密なる構成感を示しているわけだ。
 また、余談ながら、美しい先行主題のテーマがお道化てフィナーレ後半で出てくるのは、
ショスタコーヴィチのヴァイオリン協奏曲第1番(第3楽章のパッサカリアの崇高なテーマが、フィナーレで木管と木琴によって元の姿を留めない哀れな再現をしている)を個人的には思い出したりして楽しかったりもする。

 是非とも、生で、それもいい演奏で出会えたなら、この協奏曲、楽しいこと間違いなし、と私は主張したい。不思議な魅力に満ちた作品だ。親しむまでにやや時間がかかるのかもしれないが、まずは、協奏曲の本来の魅力に立ち返って、ソリストの名人芸に魅了され、エンターテイメントとして楽しむことから始めよう。そういう意味でも、今をときめく木綾子さん、この作品の魅力をもっともっと私達の前で披露していただきたいものだ。こんな奏者を身近に抱えている日本という国もなかなか捨てたものじゃないね。

(2002.5.4 Ms)


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