今月のトピックス

 

 March ’02

3/8(金) 緒方恵 ヴァイオリン・リサイタル「北欧のヴァイオリン音楽」

ニールセン(1865〜1931)  ヴァイオリン・ソナタ第1番イ長調 作品9 (1895)
ルーセンベリ(1892〜1985) 無伴奏ヴァイオリン・ソナタ (1921)

アルヴェーン(1872〜1960) 森は眠る  −歌曲「7つの詩」 作品28より− (1918)
                  エレジー  −劇音楽「グスタフ・アドルフU世」組曲 作品49より− (1932)
                  羊飼いの少女の踊り  −バレエ組曲「山の王」 作品37より− (1923)
リンデ(1933〜1970)     ヴァイオリン・ソナタ第1番 作品10 (1953)

(アンコール)
ニールセン          ロマンス 作品2−1
リンデ             ロマンティックなメロディー

ピアノ伴奏  アナヒート・ネルセシアン 

 抒情的という概念で括られていた北欧音楽も、各々の国、時代、個人の多様性に焦点が当てられてきた。透明な響き、独特のユーモア、感性と知性の絶妙なバランス等北欧ならではの理想的な響きの上に表現される魅力的作品群は、芸術表現が前衛的にも保守的にも振れることが可能な歴史的状況で生出されたものであり、尽きせぬ興味を駆立てる。(プログラム・ノートより)

(2002.3.13 Ms)

 先月の、オーボエの小品目当ての上京に続き、今月はヴァイオリン・ソナタ目当て。ニールセンに惹かれて。交響曲を生で聴く機会もないし、とにかくニールセンと聞けば行けるとこまで行ってしまえ、という心境。ゲヴァントハウスの来日でニールセンが外されたのが本気で口惜しい故か?
 ・・・・正直、そういった側面があったのは確かだが、ニールセンの第1番のソナタにひっかかって、とりあえず緒方さんのCDを購入して考えようか、と思ったところ大正解。メインに据えられ、たびたびリサイタルでも取り上げているらしい、リンデの作品にも興味が涌き、今回の首尾と相成った次第。

 まずは、ニールセンのソナタ。緒方さんのCDには第2番の方が収録されている。ちなみに2番の感想について最初に触れておくと、交響曲に比べるなら随分難解な印象を受ける・・・1912年の作で、交響曲第3番「ひろがり」のすぐ後の頃の作品なのに。第1楽章から調性が全く定まらない感じ。第2楽章はかなり頻繁に拍子が変わるようだ(11小節の間に8回、とCD解説にあり。)。しかし、一転、第3楽章は、とても優しい穏やかな3拍子の音楽。いつものニールセンらしい雰囲気で安心安心・・・ただし聴いた感じと楽譜とでは一拍ずれて記譜してあるは、主題が再現されるたびに調性が変化するはで、なかなかひねってはいる(このリズム感と調性感・・・すなわち、競技的3拍子と進行的調性・・・ニールセンの二大特徴の大胆な実践の場であるわけか。)。おまけに、これから主題が展開されるのかな、と思った矢先に、いつのまにやら減衰して終わってしまう・・・何これ?とても交響曲第3番の頃とは思えない。人を食ったような側面は、まるで晩年、6番の交響曲以降のような雰囲気すら感じる。唐突に出現したかのような彼の個性全開な作品。
 ここで私のヒラメキなのだけれど。まずは、緒方さんのCD解説からの引用、「シンフォニストとしてのイメージの強いニールセンではあるが、私は、彼自身最も知り尽くしていた楽器であるヴァイオリンの作品にこそ、20世紀を代表する特筆すべき作品が多いと考えている。」
 さらに、Simpson著作にある、ニールセンの作品の時代区分(p.21)。
第1期、歌劇「サウルとダビデ」、交響曲第2番の辺りまで。第2期、合唱曲「眠り」から始まり、歌劇「仮面舞踏会」、交響曲第3番などを含む。第3期、1912〜1922年という彼の最も充実していた時期、交響曲第5番を頂点にして、その後の木管五重奏曲も含む。その、充実の第3期の開始を告げる作品こそ、このヴァイオリン・ソナタ第2番とのこと。第4期は、当時の前衛を受け入れつつ書いた交響曲第6番、2つの協奏曲など。
 この2つの記事からの私の曲解。やはり、自分の最も親しい楽器、ヴァイオリンを使用しての作品、ということで思いっ切り冒険したい自分の創作意欲を素直に表わせたのではないか?直前のヴァイオリン協奏曲で第2楽章の第一部で調性の不確かな部分なども試みつつも、大規模な管弦楽作品ということでの大衆性なども作品全体としては考慮に入れたかもしれない彼が、続く、室内楽たるソナタという形式では、実験精神も旺盛に素直に書きたいように書いた、のかもしれない。案の定、「1912年の初演時には「彼の音楽は複雑で難解すぎる」と不評であった」(CD解説による。)とのこと。
 この1912年こそが彼の彼たる個性を存分に開花させる契機となった年として覚えておかねばならぬ重要な年、ということは他の作品を見ても私には感じられる。作品リストによればFS番号でソナタ第2番の一つ手前が、「管楽パラフレーズ」・・・タイタニック号沈没の追悼作品なのだが、ここでの沈没の描写の凄まじいこと・・・交響曲第3番やヴァイオリン協奏曲のすぐ後にこの作品というのは信じ難いほどの(当時としての)前衛性を感じる。ニールセンがニールセンとして、彼しかなし得ない高みへと登る最初のステップとなった1912年、ストラヴィンスキーやシェーンベルクの台頭とも軸を一にしている、と考えてよいのかな。今までの彼の作風に磨きがかかると同時に、前衛的な要素も部分的に加わり始める第3期の出発点、是非押さえておきたい。

 最初から脱線でスミマセン。第1番のソナタの感想。このリサイタルが初耳。あまり実演や録音にも恵まれていないだろう。第2番の方が僅かとは言え録音の頻度は高い。昨年のN響定演でシベリウスのコンチェルトを演奏したテツラフ氏もCD出しています。
 交響曲第1番(1891〜92)の後、1895年ということで当然まだまだ青い、若い作品、と想像していたところやや裏切られたような気がしないでもない。なかなかに難しい印象もある。リズム、拍子感。特に、第1楽章、第1主題は4拍子、第2主題は3拍子ということだと思うが、素直に拍子を感じ取れない箇所も多い。指揮者がいない分、視覚的に拍子が分る訳でなし。この辺りも先に述べた通り、自分の得意楽器故に、始めての世に問うヴァイオリンソナタ、今までの自作にない冒険をしていると言えるのかもしれない。さて、フェイントも多く拍子感はちょっとわかりにくくかったものの、旋律線やハーモニーの感覚はもう既にニールセン以外の何者でもない。半音下げられた第7音など、これこそニールセン!と思わせるし。なだらかでおおらかな3拍子も同じく。
 ただ、全体に固さは感じる。ピアノの書法が全体に重た過ぎないか?ヴァイオリンとの関係上、やや不釣合いと思えるような雰囲気も?リサイタルのパンフレット解説にも「ニールセンにとってのピアノは、テクニックの未熟さゆえに扱いやすいものではなかった。そのため、ブラームス、シューマン、フランクなどのピアノ曲を研究しこのヴァイオリンソナタに着手した。第1番ソナタのピアノパートには特にブラームスの影響が見られる。」とあり、固さと重たさは一重にブラームス仕込みということか。その辺り、第2番になると肩の荷も下りた気楽さが感じられる。また、逆に作品2のオーボエの小品などはピアノの未熟さがすっきりとした軽妙なユモレスクの伴奏に上手くマッチしている。やはり、ニールセン、第1番ソナタのピアノ書法にちょっと頑張り過ぎたかもしれない。
 ただ、第3楽章はとても気に入った。イ長調でおおらかにヴァイオリンが歌い出すテーマは、調性の一致もあって、交響曲第4番「不滅」第4部冒頭のテーマすら想起させる気持ちよいものだ。しかし、ピアノがせわしく、ズチャズチャズチャ・・・とまるで「剣の舞い」みたいな急速な伴奏型を連打するのはややおかしみすら感じた。でも微笑ましくも楽しい楽章だ。パンフレット解説に寄れば「第3楽章のジョヴァーニーレは若々しくという意味だが、ニールセンはこの言葉を17,8才の少年の希望と不安に満ちた特有の心理状態と理解し、その後の作品にも好んで用いた。」。ただ、手持ちの資料だけではその後のジョバーニーレの作品が何かは分からないが、この少年の心理状態、交響曲第2番第2楽章の彼のイメージとも相通ずるようだ。そう言えば、旋律の動きも同じ音を中心に行ったり来たりを繰り返していてよく似ているな。少年時代の自分の感覚、感性をずっと生涯大事にし続けたのだろう、ニールセン・・・やはり彼の少年時代にこそ彼の音楽を解く鍵がありそうではあるな・・・。

 さて、肝心の緒方さんのソロ。堂々たるもの。一瞬の隙もよどみもなく30分近くの大作を一気に聴かせて頂いた。CD録音と同じ伴奏者のアルメニア出身のネルセシアンさんとも息もあって見事に、この(合わせにくそうな)作品を完全に自分のものとして仕上げていた。第1楽章の華やかさ、さらには細かな動きを伴った主題のクリアさ。それと対照的な第2楽章、重く、また豊かな響きをもったレリジョーソ・・・宗教的というよりは随分訴えかけてくる人間的なムードすらあった。第3楽章は、少年の移ろいやすい感情の繊細さ。冒頭の「不滅」風なメロディーはもっと展開・再現してほしいくらいの存在ではあったが、徹底的な展開をせずに次の楽想へと移りゆくのもまた「ジョバーニーレ」的と言うわけかな。爽やかな風が吹きぬけて行ったような感じ。・・・・絶対の信頼感に裏打ちされてこそ、その作品に没頭することができるし、まして自分にとっては始めての作品との出会いである。この作品との出会いがとても幸福なものとして記憶されたことに対して感謝の気持ちで一杯です。まだ手元には第1番のソナタのCDがないのでまた入手してじっくり聴きこんでみたいですね。交響曲しか知らなくても、交響曲との関連など(私としては前述のとおり2,4番辺りを思い出しますが)も思いながら聴けば楽しめると思いますよ。

(2002.3.16 Ms)

 ニールセンに続いて、ルーセンベリの無伴奏ソナタ。1921年の作。20世紀初頭、シベリウス、ニールセンの影響が強かったスウェーデン音楽、ルーセンベリも出発点はそこからではありながらも、1920年のドイツ、フランス等への旅行でストラビンスキー、シェーンベルクらの最先端の作品を知り、ルーセンベリも挑戦的態度で前衛的な作品を生み出していったと言う。今回の作品はまさにその頃の作品。(その後また作風が変わったらしい。CDに収められている2番のソナタとは随分雰囲気が違う。)
 2楽章制。ラルゴの序奏付きアレグロの第1楽章、バッハを思わせるような雰囲気があるも刺激的な不協和音も多々ぶつけられいゆく。ただ、全体に開放弦Gの求心力が強く調性感は残存。でもなかなかに曲には厳しさを感じさせる。第2楽章は主題と変奏。主題自体は簡素でこれも調性的、ト長調が主導のムードではあるが、変奏の最後にG−Aという音の流れが続くことが多く、何か不思議な感じもする・・・その部分については個人的にはショスタコーヴィチの、ピアノ曲「アフォリズム」の第2曲との親近性を感じた。無論無関係だろうけれど。

 プログラムに掲げられた、上記の説明、芸術表現が前衛的にも保守的にも振れることが可能な歴史的状況、これが今回のリサイタルでとても関心を持つところだったのだが、20世紀北欧の音楽、シベリウスとニールセンに代表されるように、ストラビンスキー、シェーンベルクらの調性破壊的な前衛音楽が主流になりつつあるなかで、調性感の残存というのは一つの特徴と私は考える。新しい音楽を求めてどんどん聴衆から乖離を始める現代音楽。その影響のもとに作品を書くことだけが作曲家の道ではなかったところに興味を覚えるのだ。芸術表現が前衛的にも保守的にも振れることが可能な歴史的状況というなかでの作品群・・・吉松隆氏の「世紀末抒情派宣言」を待つまでもなく、20世紀北欧でそれに近い音楽のあり方は多様な作品を生んでいたというわけだ。こういった作品が、必ずしも傍流、少数派的な存在でなかったとすれば、知られざる魅力的な作品、まだまだ沢山ありそうですよね。
 余談ながら、表現が保守的にのみ振れることが可能であった国こそ旧ソ連である。ここで、20世紀、現代音楽と現代政治との接点もまた得意のMs的曲解のネタとなる。資本主義、自由と民主主義、競争原理をどんどん追求する西側。その正反対がソ連始め東側。その狭間にあるのが北欧諸国。北欧諸国は原則は西側の価値判断、社会構造の上に立脚しながら、社会主義的な側面も大々的に導入、今なお理想的なモデル国家と目され得る福祉国家を建設している。そんな国のあり方と、音楽のあり方に共通するものが感じられないか。やはり、新しさのみに目を奪われ非人間的なる社会、音楽といった危険性をはらんだ西側にあって、外的には東側からのインパクトもあっただろうが、基本はそれよりは「人間らしさの追及」、それがあってこそ、北欧諸国の今があるのではなかろうか?
 そんなことを考えつつ、今回のリサイタル、前半は当時としての前衛に振れていた音楽を聴き、後半は当時としての保守に振れていた音楽を聴く、という流れになっていたのではないか。そして、時代的にはどんどん新しくなるにもかかわらず、作品の質は後半プロのほうが随分と耳に優しい、聴きやすい(ただし平凡ではない)ものとなっていった。

 後半最初はアルヴェーンの小品3曲。印象派的な色彩すら感じる「森は眠る」は歌曲からのアレンジ。続く2曲はオーケストラ作品からのアレンジ。
 「エレジー」は名曲中の名曲。弦楽オケを中心とした編成の作品で、今回の演奏は、オケ版に比べればややあっさりと速めのテンポで軽くまとめられていたが、それにしても涙を誘うようなメロディーとハーモニー、素晴らしい作品です。「羊飼いの少女の踊り」、まるで民俗音楽を聴くような、活発なそしてチャーミングなユーモアにも溢れた作品。グリーグの作品をも思わせる。

 最後が、ボー・リンデのソナタ。作曲家の表記の仕方、ブー・リンデとも言うようです(日本語表記しにくい発音なのだろう)。
 1953年の作品にしては随分調性的で聴きやすいもの。他国に比べナショナリズムの高揚が少なかった近代スウェーデン、現代音楽の台頭に呼応して芸術表現の前衛化が増大したという。その反動として国民主義を訴えたのがこのリンデということらしい。ただ、このソナタ、アルヴェーンの小品ようにもろ民俗風、という短絡的なものでもない。無調、複調的な手法も使用しながら、しかし、開放弦Eを曲の中心に据えている配慮が、曲の親しみやすさ、そしてピアノの書法ともあいまって華麗さ、躍動感を生み出している。第2楽章の沈痛な雰囲気と、第3楽章の急速なスケルツォ的な気分はやはり私的にはショスタコーヴィチあたりも感じさせ自分の感性に訴えかける物が大であった。また、37歳での死というのも気にかかる。彼の20歳のこのソナタの完成度からして「その後」は多いに気になる。しかしCDを探すのはなかなか困難な作曲家ではあろう。今後気にしてゆきたい作曲家がまたひとり増えた。

 さて、アンコールで、再びニールセンが聴けたのは嬉しい限り。先月オーボエで原曲を聴いたばかりの作品2のロマンスのヴァイオリン編曲版。ト短調の原調から1音あげたイ短調。そう言えば、ニールセン、ヴァイオリン奏者であったにもかかわらず、こういった小曲を残していない。シベリウスなどは相当な数、サロン的な小品も生活のためとはいえ残していたのに。このあたり、アンチ・ロマン主義者たるニールセンの面目躍如か。ソナタ2曲と、抽象的な題名の作品(変奏曲とかプレストとか)しか残していない。そんな彼にとっては「ロマンス」というレパートリー、奏者としては大事だろう。ヴァイオリンやピアノ曲における、古典主義的な創作態度、これはニールセンの本質を物語る事実として押さえておく必要はおおいにありそうだ。

 最後に、リンデの「ロマンティックなメロディー」。当然知る余地もない。アルヴェーンの歌曲か何か?と思ったものの、曲の半ばでやや調性の不安な箇所があり、アルヴェーンにしてはやや前衛風か?と感じたのだが、おおよそその印象は近いものだったかもしれない。1933年生まれの作曲家としてこんなロマン全開な作品を残している辺り、さらに興味深く感じた。

 ソリストの緒方さんは、ニールセンのヴァイオリン協奏曲に関する論文で博士号を取得された方とのこと。そういった経歴ゆえか、一般的なヴァイオリン・リサイタルの雰囲気とはやや違った学究的な側面をも感じさせる今回のリサイタルであったが、しかし、そこに親しみにくさや、こ難しさは私には全く感じられなかった。ヴァイオリンという楽器の持てる力を十分発揮させる魅力的な選曲であり、またその未だポピュラーと言い難い作品の数々を丁寧に誠実に演奏し、その音楽の魅力を引き出し、新たな作品たちとの幸福な出会いを演出していただいたわけだ。これからも、こういった活動は是非是非続けていただきたいし、多くの方々にも、緒方さんの演奏と、緒方さんの選曲する興味深い作品に触れて頂きたいと訴えたい。私的にはニールセンに凝っている最中ということで、おおいに応援してます。とりあえずは、Atlusレーベルから出た新譜、是非聴いてはいかがでしょう。
 リサイタル終了後、サイン会にも寄りました!!是非激励を、と思いまして。「はじめまして。愛知県から来ました。ニールセンの音楽につられまして・・。」「シンフォニーのファンの方ですね(笑)。クァルテットもいい曲ですし是非聴いてください。」などなどと気さくにお話させていただきました。でも、きっと、いろんなところでまだまだニールセンと言えば交響曲・・・・ということが多いのだろうなぁ。私もきっかけは当然、交響曲。でも、それ以外にもいい曲は沢山あることは最近ようやく気がついてきたに過ぎません。今回のリサイタルのような企画、もっともっと期待したいところです。

(2002.3.21 Ms)

3/3(日) ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団 豊田公演

モーツァルト   交響曲第35番「ハフナー」
          フルートとハープのための協奏曲

ベートーヴェン  交響曲第7番

(アンコール)
ベートーヴェン  エグモント序曲

指揮 ヘルベルト・ブロムシュテット
フルート アンナ・ガルツリー
ハープ 吉野直子

(2002.3.13 Ms)

 随分前から楽しみにしていた、ゲヴァントハウス。来日公演プロからニールセンの6番がはずされたのは非常に惜しいし、今回、注目のブロムシュテットのシベリウス7番も聴くことはできなかった(正直、大阪もしくは、新潟の上越市まで行こうかしらん、とさえ思ったこともある)。しかし、我が家から最も近い公演である豊田市にての演奏、もう、驚きと感激とで胸一杯の素晴らしいもので満足。とにかく、ベートーヴェンの凄さと言ったら・・・・。これこそ、ベートーヴェンの音楽、そして響き。弦の分厚さ、迫力、全てを圧倒する威力!!特に、エグモント序曲の冒頭など背筋がゾクゾクするほどの感動を覚えた。これでなきゃぁ・・・。何度となくアマチュアオケなどで聞くこの序曲・・・はっきり言って巷に溢れる演奏はベートーヴェンの音楽に対する冒涜ではないか、とすら感じてしまう。こんな本物聴けば、打ちひしがれるよ、僕たちのやってることは何なんだって・・・。

 前半はモーツァルトということでかなり小編成。弦の響きも古楽的なアプローチを感じさせ、またトランペットなどもバルブのないもの。ティンパニも小さな木バチを使っている。冒頭、いきなりティンパニのバタバタいうような響きには違和感がないわけでもなかったが、オケ全体としてこういうアプローチなのだから納得。そういえば、ブロムシュテット、N響でハイドンの交響曲やった時もバロック・ティンパニでわざわざやっていたな。
 スマート、颯爽たる気持ち良いモーツァルトだ。「ハフナー」、冒頭の主題も、モチーフの最後の跳躍音をホントに軽く、抜くように演奏させ趣味の良さを感じる。モーツァルト特有なチャーミングな表現、突然のフォルテ、もしくはピアノ、というフェイントも自由自在。さすがお手のもの。余裕で私の耳を楽しませてくれる。特にフィナーレの、これまた快速なテンポ感(弦の無窮動的な動きの整然としたさまは凄い・・・バイオリンからコントラバスまで見事だった)の中にも、切迫感ではなく優雅ささえを感じ、快感である。普段は控えめな金管も、フィナーレでは随所でツボを押さえた色取りを加えて音色の移ろいなどにも細かな配慮がある。とにかく楽しさ、心地よさに浸れた。

 協奏曲はさらに小編成となり、コントラバスなど一人だけ。こじんまりと、そして精密なアンサンブルを聴かせてくれた。フルート・ソロはゲヴァントハウスの奏者が担当。息のあった協奏曲を堪能。ハープの細やかな動きもクリアに粒だって聞こえ、普段のオーケストラにおける添え物的、ムード作りの存在とは違うハープの独奏楽器としての一面を充分に楽しんだ。ホントに綺麗な音楽だよな。神童、天才のなせる技だ。痛感します。

 そして、ベートーヴェン。前半の倍くらいに人数が増大。ステージ狭しと弦が並ぶ。管はアシスタントなし。とにかく、弦の迫力で押しまくる印象。ブルックナーも今回のツアーで取り上げているが、きっとその編成と同じだけ弦がいるんじゃないか?とにかく凄い弦サウンド・・・・。ごうごう、ガリガリいってるんだから。管がややもすると埋没してしまうほど。木管もどちらかというと地味、華がない傾向ではある。金管もこの曲は高音域が目立つ印象が非常に強いが、この演奏では全く突出したところがない。弦にブレンドされているかのよう。しかしティンパニはブレンドされず、硬質な打撃を印象付けている。フィナーレでの乱打、クレシェンドの仕方などが絶妙で、興奮の度合いをおおいに高めてくれた。
 弦が多い分だけアンサンブルの乱れは気になるところもあった。しかし、とにかく醸し出す雰囲気が凄くて麻酔状態にでもなったかのように夢中で音楽に浸ってしまう。2階席、1st Vn.のすぐ上の辺りということもあって、ド迫力な音塊をもろに浴び、また、弦の後ろのほうまで壮絶なアクションで精力的な演奏を続ける奏者の気迫に圧倒されまくり。2nd Vn.の後方に長髪パーマの若手がいるが、彼の今後に注目したい。とにかく全身全霊をベートーヴェンに賭けていたかのようだった。
 普段は、金管が弦を消していると私が思っていた箇所も、金管が遥か後方にあって弦の動きが各パートくっきりと浮かび上がって、何度も聴く曲なのに新鮮さを感じた。弦の細部までそれぞれ聞き逃す事無く飛んで来るわけだ。特に低弦の音が、いくら速いパッセージでも明瞭にそしてド迫力で耳に届き、その安定感がとても良い。また、第2楽章の冒頭などは、さすが「いぶし銀」と例えられるオケならではの渋さも感じ取れた。
 ブロムシュテットの指揮は、とにかく颯爽と駆け抜けるかのよう。フィナーレなどもう私達もこのスピードに翻弄されまくり。何せ、1小節一つ振りのテンポ感が終始持続。年を取った巨匠といえば鈍重な解釈を想起させるものだが彼は正反対。この勢い、ガムシャラに走り続けるテンションの高さ、ベートーヴェンの7番の本質を鋭く突いた名演だ。こんな演奏でこそ、この作品は常に聴きたいものだ・・・・。また、このコンビでの演奏、聴く機会を持ちたいものだと切に希望する。

(2002.3.14 Ms)


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