今月のトピックス

 

 February ’02

2/23(土) ハンスイェルク・シェレンベルガー オーボエ・リサイタル

 R.シューマン   3つのロマンス Op.94
 R.シューマン   4つの歌曲
            (君は花のよう、間奏曲、森の語らい、月夜)
 メンデルスゾーン 「無言歌集」より (ピアノ・ソロ : 三輪郁)
            (ヴェネツィアの舟歌、5月のそよ風、狩りの歌)
 C.シューマン   3つのロマンス Op.22

 ニールセン    ロマンスとユーモレスク Op.2
 ブラームス    2つの歌曲
            (夏の夕べ、月の光)
 ブラームス    「ティークのマゲローネによるロマンス」Op.33より4曲
            ( 憩え、いとしい恋人
              早くも消え失せて
              別れの時があるのか
              何と喜ばしく生き生きと )
 サン・サーンス  オーボエ・ソナタ Op.166

 (アンコール)
 プーランク    オーボエ・ソナタ より 第3楽章
 R.シューマン  献呈
 R.シューマン  私は怨むまい

(2002.2.24 Ms)

 ニールセン熱、押さえようもなく、この6分程度の小品が聴きたくて横浜まで行くこととした・・・・今までの感覚なら諦めてしまうのだが、今の私の状況がこうさせた。この4月で仕事が変わるのは確実(職場を移動しないとしても)。新たな仕事ともなれば当分休日とは言え自由に動けないのが常。とにかく行けるうちに興味あるものはどんどん行ってしまえ、というわけだ。

 ただ、ニールセンだけ聴きに行く、というよりは、ロベルト・シューマンのOp.94の2曲目のロマンスなど前からとても好きな曲だし、前期ロマン派の美しい音楽をいろいろ聴くのもおおいに期待してのこと。ベルリンフィル奏者のハイレベルなオーボエ、というのにも誘われた。もともとは名古屋でのコンサートに行こうと思ったらニールセン外しだったので、一度行くつもりだったからこそ余計に意地になってしまったか?それはともかく。
 とにかくシューマンの素晴らしさに尽きる。幸福感。クララの作品も、今、覚えてはいないが、夫のハーモニー感覚に近いなと感じさせるのもまた一興。メンデルスゾーンは、初期の作ということもあってか古典的でやや面白みに欠けた。こういった小品という形式、旋律美、和声感覚・・・・断然シューマンが素晴らしい。こういう分野では、比較してしまうとブラームスはどうも分が悪いか。ピアノ伴奏部が低音好みで渋い雰囲気もあるが、オーボエとピアノという取り合わせだとどうもつまらない音楽に聞こえる。ただ、Op.33の最後の曲の拍子感が面白い。朗々たる3拍子の音楽ながら、指揮者もいないのでどこが小節の頭か分らない難しさがある。そんな感覚、ニールセンの競技的3拍子の元祖的存在と言えそうか。

 さて、全体的に選曲が「歌」「ロマンス」づくしである。技巧的な、コンチェルタンテなものを前面に出すというよりは、歌心で勝負。ほんとに、うっとり聞き惚れてしまった。ただ、同系統の音楽が続き過ぎたのと、ブラームスの置かれた位置故に、ブラームス作品が、「あぁまた似たような曲か」「似たような曲にしてはシューマンより魅力的でないな」という感想を持ってしまったのはブラームスにはお気の毒。

 そんな中で、ニールセンが断然輝く。後半の頭という位置も観客にいいイメージを与えたか。それ以上に曲のインパクトの強さがとても際立っていた。まず、ロマンスのうら寂しさ。北欧的叙情なんて言葉で片付けてしまうのもステレオタイプだけれど、前期ロマン派にはない、引き付けられる要素がある。和声感覚がとにかくいい。フレーズも長くて、その大きな流れに引き込まれる。ドイツ音楽にはない広々とした音楽の持続性を感じる。「はい、ここで半終止」「次はここで完全休止」とかいった古典的なありきたりな和声の落ち付き方をしない故のことか。コンサート前半の作品群との雰囲気の違いが、同じ「ロマンス」のタイトルながらも際立って、私はとても感動した。
 続く、ユーモレスク。これもまた、文句無しに素晴らしい。比較的遅いテンポの作品が前半で続いていたためもあり、このユーモレスクの俊敏な機知に富んだ音楽がとても新鮮なものとして飛び込んできた。速い曲の流れの中でテンポの揺れも絶妙。ピアノの調子ッぱずれな合いの手もおかしい・・・ただ、この無調的合いの手、私の持っているBISのCD(ベルゲン木管五重奏団メンバーによるもの)では、かなりガツガツとピアノも違和感を前面に出していたが、こちらの演奏では、やや柔らかなタッチで、ディミニエンド、リタルダンドもかけてスムーズに次のオーボエの旋律へと受け渡しをしており、ロマン的な解釈であった。CDのような攻撃的ぶっきらぼうな演奏による可笑しさは緩和されていた。コーダの辺りでは、休符のフェルマータ、そして急激なアッチェレランド、最後の気まぐれな無理矢理速いテンポで消えてゆくさまがとても楽しかった。曲が終わるや、拍手とともに客席から笑いがもれ、また、速いパッセージの技巧的な確かさもあって満足げな溜め息などももれ、今回の演目の中でもピカイチな存在感を示した曲だ。もっと取り上げられてしかるべきコンサートピースだと確信。

 メインにあたるサンサーンスも佳曲である。死の年、80台の作品とのことで、枯れた味わい。第1楽章など音数も少なく単調な動きが目立ち、バッハ的な節回しがあったりもする。短くて軽味をもった押しつけがましくない第1楽章。そして、ピアノの和音の上にカデンツァを奏でる第2楽章。5音音階的パッセージもあって、ふと昨日の、ドビュッシーのシランクスも思い出す。そして第3楽章、これは舌を巻いた。とても速いパッセージ。音階やらタンギングやら。さらにオーボエでは聞いたことないような高音(Gの音かな)。華麗なテクニック披露。もう釘付け。さすが、である。

 アンコールで印象的なのはやはりプーランク。現代的な響きはややグロテスクな雰囲気も。しかし、洗練された趣味の良さも感じる。と同時に、超高音と超低音の旋律が対話して行くような面白い効果も。今回の選曲のなかではインパクト強いもの。

 昨日に続いての木管楽器フューチャーのコンサート。本物の音楽を聴けた!との満足感と幸福感と。やはり高いお金払ってでもいいものに触れるのはいいねぇ。つくづく。出来る限り、たまにはこういう体験をしてゆきたいもの・・・・なかなか難しいけれども。
 ちなみに今回の上京では、四谷にて本場スウェーデン料理、スモーガスボードを堪能(「オールドタウン」にて)。あいかわらず北欧三昧をテーマに上京を楽しむ。平日1380円の食べ放題なランチは絶対オススメ。飛行機で行けば最も日本に近いヨーロッパである北欧諸国、魚介類をふんだんに使った日本とも味覚の近い美味なる料理の数々、そして、北欧の音楽・・・これらを知らないでいるのは絶対に損ですって!!

(2002.3.1 Ms) 

2/22(金) オーケストラ・アンサンブル金沢 第17回東京定期公演

 チャイコフスキー   組曲第4番「モーツァルティアーナ」
 モーツァルト      クラリネット協奏曲
 (ソリスト・アンコール)
 ドビュッシー      シランクス

 ショスタコーヴィチ   交響曲第9番
 (アンコール)
 リャードフ        音楽玉手箱
 ハチャトリアン     バレエ「仮面舞踏会」よりワルツ

指揮 : ドミートリー・キタエンコ
クラリネット : ヴェンツェル・フックス

(2002.2.24 Ms)

 同一のプログラムは名古屋でもコンサートがあったのだが、今年に入ってからの異常なまでのニールセン熱ゆえに、オーボエの小品を聴くべく2/23に横浜へ遠征する事としたので、このプログラムは東京にて聴くこととした。これも休日出勤に明け暮れる毎日なので、平日の上京も結構楽な身分ではある・・・・残業手当も多少のおこづかいにはなる。逆転の発想で、自身の演奏活動が今、不可能なのを逆手にとって、目一杯、音楽的な毎日を目指してもいるわけだ。
 さて、名古屋公演とアンコールの内容、演奏のレベルが相違していたかどうかはともかく、遠く足を運ぶだけの価値はあったコンサート。とても満足している。

 とは言え、前半は個人的には選曲としては、ややテンションが低い。チャイコフスキーの組曲は、モーツァルトの主にピアノ作品を2管編成のオーケストラに編曲したもの。ただ、3曲目の超有名なアベ・ベルム・コルプス以外は音楽自体、それほど面白いわけでもない。それは置いといて、しかし、小編成の室内オケなのに、弦など、ここまで音が豊かなのは驚嘆。もとがピアノ曲ということで細かな音の動きなども多いのだが、小編成故に明確に音楽の彫りが立ち現われ心地よい。また、全体的に硬質なクリアな響きとも感じた。アンサンブル金沢、さすがに実力を持った団体ではある。
 アベベルムはやはり名曲である。オケ編曲も冴えている。ただ、終曲の変奏曲が冗長。主題自体もつまらない。その弱点を編曲が少しは補ってもいるのだが(ピチカートと鉄琴の絡みなどは面白い。後の「くるみ割り」の中国の踊りなども想起する)、後半のバイオリン・カデンツァそしてバイオリン協奏曲的な展開は、いかがなものか(2002年2月後半時点における流行語である)?さらに、最後にクラリネットのカデンツァまで飛び出すのはお笑いに近い・・・・バイオリン・ソロだけでも、モーツァルト自身がお笑いとして書いた「音楽の冗談」という作品の一節を思い起こす。何だか曲に対する批判ばかりが先に立ってしまった、が、演奏は悪くない。逆に、チャイコのオーケストレーションの変化の面白さを充分感じさせるスマートな演奏。下手な演奏だと途端に嫌いになりそうな作品かもしれないし。

 モーツァルトのクラリネット協奏曲。チャイコとうってかわって弦の響きも軽やかに変わり、ソリストとのバランス、雰囲気の変化がよくわかる。ソリストはベルリン・フィル奏者、ということで安心しきって柔らかなうっとりするようなクラリネットの響きを堪能。音量の強弱の差の激しさ、やはり各段にうまい。弱奏のささやき、などクラリネットでなければ表現できない。また、第2楽章の美しさは絶品だ。微妙なハーモニーの変化、短調への転調の切なさ、素晴らしい。
 ソリスト・アンコール。なんだかストラヴィンスキーの春祭の冒頭みたいな節回し、かと思えば、演歌みたいな5音音階も飛び出して・・・。ドビュッシーとは。まだまだ知らない曲は沢山ある。

 さて、お待ちかねのショスタコーヴィチ。9番は今までアマチュアでしか聴いたことがない。ロシア出身、キタエンコの指揮ということでも期待満点・・・・ただ、前半は、いかがなものか。
 第1楽章のテンポ感は、もう少し速めの方が好き。おまけに冒頭いきなり弦のズレが気になる。かと思えば第2楽章は速過ぎだ。速いせいだか、冒頭のクラの旋律、2小節目で途切れるところ、ここがいいのに、音が出てなかった。ちょっとガッカリ・・・・。
 でも、結果としてそれらの失点は最終的にチャラだ。とにかく楽しい。ショスタコ特有の自虐、笑い・・・・体制批判だとか、そんなウラを感じ取ろうと思わずとも、とにかく音楽だけで笑える。
 第1楽章など丁寧なテンポ故か大袈裟な表現も随所にあって面白い。特に、第2主題のトロンボーンの登場のある種、違和感などギャグそのものと感じた。小編成オケということもあろうが、トロンボーンが凄い存在感で現われるのだ。展開部の弦のガツガツした雰囲気も小編成故に硬質さが前面に出て面白い効果ではある。
 第2楽章の第2主題、弦が低音域で半音上昇しつつクレシェンドしてゆく、あの不気味な恐怖の場面、あの雰囲気の作り方もいい。迫り来る恐さがある。一拍ごとのクレシェンドの感じも良い。ただ、小編成なのが違和感を覚えるところもある。このクレシェンドの先に、ゲシュトップのホルンのハーモニーがあるが、ちょっとそれが大きく感じる。もっと弦が聴きたい所だ。
 第3楽章以降のテンポ感は違和感なく。文句なしに楽しんだ。トリオのトランペットのソロも、颯爽、という感じ。硬質な筋肉を思わせる。ロシア風という訳ではなかったが、存在感としては良い。余分な脂肪のたっぶり付いた(?)、ビブラートがばしばし入るようなのがイメージではあるのだが、これもまた良し。そのトランペット以上に耳が引き付けられたのが、それに先行する弦のリズム。金管、ティンパニのリズムを受けて、それらの荒々しさ以上にガツガツ鋼鉄のような響きが飛び込んできた。これも小編成ゆえの弦のサウンドか。このトリオの迫力にゾクゾク。スケルツォ再現におけるタンバリンもいい。最後の一発だけ異常に皮の音を炸裂させる、これはロシアの伝統じこみ?
 第4楽章、トロンボーン、チューバの威圧的ムードもかなりな重々しい存在感。続くシンバルも、サスペンデット2枚を使用し奥行きのある深い響きで、これはいけます。シンバル一発だけで荘厳ささえ感じる。いい雰囲気だ。そして、ファゴットの長大なモノローグ。個人的には朗々とし過ぎていて、主張し過ぎ、とも感じたが、(もっと心細く始まり、じわじわと感情が高ぶるようなのがいいなぁ。今回のはいきなり、待ってましたと言わんばかり、ホントに、ベートーヴェンの第九のフィナーレの低弦かと思ってしまうよ。金管の威圧に本気で食って掛かるようなたくましさだ。)力んだ感じのモノローグも面白いんじゃないか。
 第5楽章。そんなに飛ばしまくらないアレグレット感がいい。展開部の切迫感はやや足りない感じもしたが、主題再現の派手派手しさに免じて許そうか。これ、ホントに室内オケのアンサンブル金沢か、という違和感に微笑む。容赦なく金管打にやらせてしまい、やけっぱちな大クライマックスが築かれた訳だ。この自虐的な野蛮な舞踏的な雰囲気、いつ聞いても、私には太宰の「人間失格」の冒頭近くに出てくる「インデヤンの踊り」の想像をしてしまう。ここの思いっきりの良さがこの作品の結論。ロシアじこみなうねるようなエネルギーの発散、もう感激です。この太宰的結論の後、植木等的な「およびでない。これまた失礼しました。」風なコーダも軽快で楽しい。とにかく、エンターテイメントとしてこんな楽しい交響曲、他にあるだろうか?とすら思う。売れてない無名漫才師の漫才よりは笑えるんじゃないか。
 オケもノッテいた。特に木管。終わった途端、かなりはしゃいでいたかのようだ。会心の作、といったところか。ファゴットをみんなで激励していたし。

 ここで、ショスタコに関する全体的な感想として、弦の編成について。この作品、新古典的、それこそプロコの「古典」などを思わせるハイドン風、なる形容で語られる事もあるのだが、やはり弦の編成は、作曲者の希望どおりかなり大編成でやるべきか、というのは思った。やはり、アンサンブル金沢、小人数ながらもかなり音の鳴る奏者ばかりではあるが、金管打の爆発的なパッセージも用意されていることだし(プロコとは全然違う訳だ)、それを容赦なくやるためにも弦の編成も大きくすべきなのだろう。そして、第1楽章冒頭こそハイドン的なのかもしれないが、それをあえて大編成でやる違和感も楽しみつつ、新古典などという枠に収まりきらずに、とても古典とは思えない最後のひねくれた大クライマックスへといつの間にやら音楽の質が変貌して行くのもこの曲の面白さかと思う。今度は大編成オケのロシア人指揮者でまた聴いてみたいとも思う。

 さて、アンコールが最高。まずは未知なる作品であった、リャードフ。ピッコロ、フルート2、クラ3(ソリストもオケの中で参加!!)、ハープ、鉄琴のみというとても可愛らしいお洒落なワルツだ。キタエンコも愛嬌たっぷりに指揮。最後は客席に振り返ってお茶目に締めた。会場の笑いとともに拍手喝采。ショスタコーヴィチの初期のバレエや映画音楽すら感じさせるユーモアを感じさせる佳曲である。「音楽玉手箱」、いい曲です。
 最後は、これまた意表をついてハチャトリアンを、とてつもなく派手にぶちかましてくれた。ショスタコが3人で打楽器できるのに、なんでトラまで呼んで4人でやっているのかふしぎだったが、ここで納得。あぁ、この暗く情熱的な旋律、チープな感じもするのだが燃えてしまうんだな。小編成ながらも弦も分厚く第2テーマをねっとりやってくれていい感じ。取るに足らん曲と理性的に思いつつも興奮してしまう曲の一つ。
 アンコールの客の熱狂は私も楽しい感じ。帰り際、アンコールの曲名を書きとめる人多数、やはりロシアもの、魅力ありますよ。アンコールも素晴らしくきまって、来て良かった、と素直に感じたコンサートでした。

(2002.2.25 Ms)
 

2/11(月) オーケストラ・ダスビダーニャ 第9回定期演奏会

 (2002.2.6)たぶん、だぶん、より。
 さてさて、3週続けての土日出勤継続中。疲れもたまってきつつある。しかし、その先に2/11のダスビのコンサートあり。労働の喜びを素直に私も称えようか?NHK大河ドラマの影響か、ちまたでは、「癒し」から「励まし」へと時代は変わりつつあるとか(ホントか?)。若きショスタコの素直な革命讃美、労働讃美のメッセージ、私も素直に受けとめたい。第4番から始まる、政治との軋轢を秘めた深読み交響曲群とは違い、今度の2番3番、「励まし」を感じたい、と個人的に思いつつ、上京する予定。仕事あと四日、乗りきろう。

・・・・・てな具合で、いつになく仕事に忙殺されているこの1,2月、一時はこの5年、年中行事と化していたダスビ上京もあわやお流れかとの不安もあったが、なんとか馳せ参じることができた。今回は、初期の合唱付き交響曲2曲、つまり交響曲第2番「10月革命に捧ぐ」交響曲第3番「最初のメーデーの日に」を中心に、あと1曲、晩年の交響詩「10月」。見事なほどに、革命讃美的なタイトルの並ぶ、やや怪しげな(?)内容である。
 交響曲2曲は単独でレコーディングされる事も稀(全集でないとまず録音されないでしょう)、まして日本で、いやきっと今となってはロシア本国においても、つまりは世界中でまずコンサートで取り上げられる事のほとんどない幻の作品、と言えよう。そんな知られざる作品を、見事な演奏で私達の耳に届けてくれた、オーケストラ・ダスビダーニャ、コール・ダスビダーニャ、そして、マエストロ長田雅人氏にまず感謝致します。

 実は、個人的にはこの2曲の交響曲、いくらショスタコ・ファンを自認する私でも疎遠かつ、それほど親しめない、敬遠がちな作品であることは素直に告白しておこう。やはり4番以降の政治との軋轢の中で研ぎ澄まされた、生きるか死ぬか的な厳しい交響曲作品群こそショスタコの本領であって、また、ソナタ形式の基本を踏まえた主題の展開、かつ素直な感情の流れに沿った音楽の運び、作品構成の安定感こそ私の好むところであるので、この2作品の前衛的実験的な側面と、素直な体制讃美はイマイチ自分にとってしっくり来ないというイメージではあった。しかし、今回のダスビのプログラム決定を契機に一度これらの作品と向き合ってみようか、と思い立ち、実質コンドラシン及びロジェストベンスキーのショスタコ交響曲全集の演奏しか知らなかったのだが、その他の演奏も入手、スコアもこの際購入、この半年ぼちぼちとダスビに向けた準備もしておいた。その過程のなかで親しみも涌きはじめ、前衛的な手法を用いながらも意外と明るさに満ちた音楽に好感も持ち始め、冒頭に掲げた今の私の「労働者」ぶりなどもおおいに手伝って、期待するところ大に膨らみつつ、ダスビのステージを待ちわびていたという次第であった。

 ずはり、今回のコンサート、「励まし」をもらうことができました。私としては歌詞を吟味することはあえてしませんでしたが、旧体制を打破し、新しい時代を作るんだ、という意気込み、勢い、希望、前向きさ、これらが随所に溢れた作品であることを演奏が見事に証明していたと言えましょう。特に3番「メーデー」は、ロジェストベンスキーのような遅くて鈍重な演奏などでは聴いていられない、つまらない代物になってしまうのだが、見事今回の演奏は、これこそショスタコの映画音楽的なスピード感溢れる、各場面場面の転換のスマートさがぐいぐい私の心をつかみ一気に最後まで祝祭の中の高揚感の中に浸る事ができてまさかこの作品でこんなに快感を得ようとは・・・。
 もちろん、ダスビ全体から感じられる、金管打を始め勇猛に作品に体当たりしていく凄みは随所にあり、その全体の総合力に加えて、それこそ3番の冒頭に象徴されるクラリネットのうっとりするような美しい歌、また、ツボを得て脇役ながらも主役をもぎとる勢いを感じたビオラの健闘ぶりなどなど感激の材料には事欠かくことはなかった。この演奏そのものが、作品の一見するところのポピュラリティの無さ、気難しさをカバーして、ショスタコーヴィチとダスビが相互に助け合いつつ
(それこそ、ウルトラ警備隊がウルトラセブンの危機を救った場面を想起するかのような?)、このコンサートから私を始め聴衆に感動、励ましを与えていた、と強烈に感じています(今回は、ショスタコがダスビに助けられた感を強く持ったのは事実)。

 ということで全体的な感想はこの辺りとして、また1曲づつ思い起こして行こうかと考えています。
 最初の交響詩「10月」、ですが、実は私の大変大好きな作品、思い入れも強いです。ただ、これこそ晩年、書きたくもないのに機会作品を書かされて、というイメージが強くずっとどちらかと言えば嫌いな作品ですらあったのが、2000年4月の新交響楽団の演奏を目の当たりにして見事開眼してしまった作品。ということで、まずはその私の開眼のきっかけなども思い出そう。
今月のトピックスと、曲解と。私もこれらを読み返してからコメントを続けよう。 

(2002.2.11 Ms)

<1> 交響詩「10月」

 1967年、10月革命50週年のための作品。作曲のきっかけとしては、1936−37年にかけて作曲されながらも上演されなかった映画音楽「ヴォローチャエフの日々」作品48の映画上映準備に立会い、その中の「パルチザンの歌」が彼曰く「うまく作ってあった」のでこの30年前の自作に触発されてその場で作曲を始めた、とのエピソードがある。
 この「パルチザンの歌」は、この作品の第2主題として用いられている。

 作品全体はモデラートの序奏、そしてアレグロの主部からなり、序奏主題の開始は弦の分厚い響きによるC−D−Es−Hという音型であり、これは主部の第1主題でも使われている。3/4拍子の序奏及び、第1主題は、ほとんど彼の交響曲第10番の第1楽章及び第3楽章の冒頭と同じである。ちなみに、彼が生涯通じて作品に埋めこんだイニシャル動機、D−Es−C−Hとの関連性もある。
 序奏及び第1主題はハ短調。第2主題もハ短調、同じ調性ではあるものの(ソナタ形式において対象的であるはずの2つの主題が同じ調性というのはあまり例がないのではないか)、第2主題は4/4拍子、そして、
G−C−D−Es−D−C−B−Gという節回しは、第1主題と同じく、C−D−Esという3度の音程の中を順次進行しながらも、第1主題が、第2主題がの音を通過する事で、前者はハ短調を確定的にし、後者はハ短調を曖昧にし変ホ長調との間で転調をしながらの旋律となる。また、主題提示において第1主題が金管打を動員し大きく盛り上がるのに比べ、第2主題は木管楽器を主体とした密やかなムードを持つ。同じ調性、同じテンポ感の中にありながらも、拍子、微妙な旋律線の流れ、ダイナミクスに対照をつけている(余談ながら、私がチャイコフスキーの「ロメオとジュリエット」を演奏した際、指揮者、竹本泰蔵氏が第1主題から第2主題への移行部で絶対テンポを緩めることを許さず、同じテンポのなかに流れを止める事無くこの対照的な2つの主題を提示するのがこの作品のすごいところだと力説していた。このショスタコの作品でも、同じことは言えるのではなかろうか)

 さて、私がこの作品に思い入れ深く、大好きである由縁はひとえにこの第2主題「パルチザンの歌」
 この旋律線が、マーラーの第3交響曲第1楽章の第3小節目と全く同じ節回しである。とか、ショスタコがプラウダ批判で交響曲第4番を撤回、名誉回復のために交響曲第5番を作曲したちょうど同時期の映画音楽である。などなど、裏を探るに事欠かないネタである事は確かだ・・・詳細は2000年4月頃の上記の記事(今月のトピックス、曲解)を再読していただきたい。
 あと、なぜ30年も映画がお蔵入りになったのかも私は知らないが、プラウダ批判の直後、「人民の敵」のレッテルを貼られた作曲家の関与した映画ゆえのことであれば、この30年ぶりの上映は彼の苦難に満ちた人生の象徴的な出来事の1つと言えるかもしれない。30年ぶりに世に出た「パルチザンの歌」、この音楽自体が、社会主義リアリズムなる芸術政策にたいするパルチザン(武装蜂起した民衆)の意味合いも併せ持つようにも思えてくる。ソ連なる不自由な国家の中で、音楽創作を通じて折を見て蜂起し続けたショスタコーヴィチ自身の姿をこの「パルチザンの歌」に重ね合わせてしまう私である。

 ただし、そんな曲解をせずとも、この「パルチザンの歌」、純粋に音楽的に見てもとても魅力ある旋律だと思う。
 癒されつつも励まされ。勇ましくもまた哀しい。
 先に述べたように、ハ短調と変ホ長調を揺れ動く微妙なハーモニー感がいい。
 また、主音(ハ短調の提示部ならCの音)に確定的に落ちつかずに、何かまだ言い足りないかのように自然に続きが流れ始めるのもいい。
 さらに、8小節フレーズながらも最後2小節は伸ばしの音、その最後の2小節ごとに何か表立って言えない心の中の動きが表現されているかのような旋律以外の繊細な絡みがいい。

 あえて心引かれる理由を分析すればこのようになるのだろうが、そんな分析などなくても、この旋律、一度聴いただけで数日間私の頭の中をぐるぐる回り、こびりついて離れない。私の感性に鋭く密着してしまう、とても恐ろしいほどの威力を持っている。決して、メロディーメーカーとしてショスタコが論じられる事は多くはないのだろうが、この旋律は、音楽史上、少なくとも20世紀後半における名旋律であることは声を大にして主張したいところだ。

 さてダスビの演奏の話のつもりが例によって前置きばかり長くて恐縮だが、とにかく、この第2主題を丁寧に細やかに美しく演奏していたのがとても素晴らしく、涙を誘うほどだ。まず、主題提示においてはクラリネット、柔らかく優しく、荒れ狂う第1主題の嵐の後に見事場面転換をし違う世界へ誘ってくれた。確かに30年くらい時代を遡らせるような遠い眼差し、ふと動きを止めて何かを思い出すような、そんな切なくも胸をジーンとさせるような雰囲気があった。その雰囲気は他の木管に受け継がれた後も同様である。嵐の後、緊張を解かれてあぁ、と私も脱力。しかし、そこで今まで気がつかなかったのだが、フレーズ最後の2小節間の旋律の停滞の背後で不穏に動くビオラの細かな動きが現われ消えて・・・・これが最高である。今回のコンサートでの新発見。武装蜂起の歌のわりに確かに提示部ではおとなしく書いてあるのだが、密かに身を潜めて行動の時期を待つような、声を押さえた歌を歌いながらも感情は完全に押さえきれず、はやる気持ちがビオラに託されているかのようで、この音楽の作り方、もうビビビッときてしびれまくりだ。情感たっぷりな「パルチザンの歌」、これを押さえて表現させつつも、しかし、収まりきらない気持ちもある・・・・ショスタコーヴィチの置かれた状況を思う時、まるで今回のダスビの演奏はショスタコーヴィチ本人の告白であるかのような説得力を私は感じた。作品と演奏が完全にかつ素直に一体化している、と思った。・・・これ自体が曲解だと言われればそれまでだが・・・・
 もちろん、この第2主題がここまで効果的に心に染み入ることになった前提として当然、冒頭の深みのある弦の響きや、第1主題提示における容赦ない金管打の応酬などがあり、オーケストラ全体が1つの大きな音楽の流れを統一的に作っているからこそ、ではある。

 さて、この密やかな「パルチザンの歌」、再現部においても調性は変わりながらも木管によってやはり密やかに再現。フレーズ最後のビオラの細かな動きは今度はなくて、弦全体のピチカートであったがこれも提示部と呼応しており、音量のクレシェンド・デクレシェンドという増減を伴っている。ここの弦全体の統一感も良い。
 この第2主題が低弦に移り、今までの声を潜めた表現から一転、全面的に主張をし始める辺りから音楽は変わり始める。地の底から涌き上がるような懐深い低弦の歌。高弦の機械的音型も心地よい(「カレリア組曲」の第1曲目みたいではある。)。この低弦の歌の2小節間の伸ばしの間のホルンのクレシェンドする半音階下降も押さえきれなさを感じさせて前向きに第2主題が動き始めているのを後押しする役割。この押さえきれなさが、続く幅広い金管・ティンパニによるコラール的ですらある第2主題後半の歌を導く。前述のホルンからここの朗々たる雰囲気への流れも素晴らしい。そして、
(きっと)イ短調による第2主題再現が、一瞬ハ長調主和音に解決、ティンパニもC−Gの音に収斂、ほっとするのも束の間、強暴な第1主題の再現、3/4拍子、明確に第2主題の勢力拡大を断念させる。ここの変わり身の早さ、完璧だ。さらに、その第1主題を乗り越えて、第2主題は木管高弦でやっと高らかに爽やかに颯爽と参上だ。ここの雰囲気の断絶がとてもいい。やっと、「パルチザンの歌」は、何者をも怖れずにその存在を高らかに歌い上げるわけだ。長い道程だった。ただ、フレーズ最後2小節のトランペット・ティンパニの8分音符の合いの手がやや不鮮明に聞こえたとは感じたが枝葉末節か。この辺りの第1主題と第2主題の対立、変わり身の早さが安定していたのは小太鼓の確実なリズムの先導あってのこととも思う。ここの展開はスリリングであり、嫌がおうでも釘付けにされてしまういい場面だ。
 ただ、ここで第2主題の高らかな宣言の後にまだ第1主題が暴れまくるのは、ショスタコの人生そのもののようではある。そう甘くはない。しかししかし、最後は待ってましたのシンバルの一撃でハ長調への収束が決定付けられ、長調と化した第2主題を中心に一気に畳み込んで曲を輝かしく結ぶ。ここの最後のトランペット・ティンパニの壮絶な早吹き・連打が素晴らしく決まった。
 とにかく曲の世界に引き込まれた。やはり、名曲だ。もっと聴かれる機会が多くあって欲しいもの。この演奏に出会えて私は幸せである。本当に。思い出すだけでゾクゾクしてくるのだ。

 さて、余談ながらも、この「パルチザンの歌」を含む作品48の映画音楽自体は私は未確認である。ただ、ソ連時代の全集(映画音楽に関する2巻分については抜粋でしかないのだが)の楽譜を見ると、「極東の歌」とか「日本軍の攻撃」なんてタイトルがついている。満州国との国境辺りの話なんだろうか?日本とも関係のある作品であることは確かだと思う。いつか映画音楽の方も聴いて見たいものである。

なお、「10月」のスコアは手元にないので若干説明に誤りがあるかもしれません(調性とか管弦楽法とか)。ご容赦のほど。(2002.2.16 Ms)

<2> 交響曲第2番「10月革命に捧ぐ」

 現在、ショスタコの交響曲でもっとも人気の無さそうなものなのだが、どうだろう。私は今回のコンサートを期に、もっと聴かれてしかるべき、との思いを強くした。ショスタコらしからぬ明るさに満ちた佳作である。どうか、偏見やら、通常の曲目解説による先入観などを捨てて聴いてみたらどうだろう?
 確かに、この作品については、内容的には、革命讃美の詩による合唱が敬遠されがちだろう。特に最後は、音程不定のシュプレヒコールで、
「レーニン!」などと叫ばねばならず抵抗ある人も多かろう。
 音楽的には、前衛かぶれでわかりにくい、との雰囲気もある。この作品の最大の特徴は、彼曰く、「最大27声部による
ウルトラ対位法」ということでこの部分の訳わからなさは強烈ではある。さらに、合唱を導くサイレンの音(Fisの音という指定)、これは当時のイタリアの未来派、騒音音楽あたりとの関連か?本来の楽音ではない音素材を使うということで、例えば彼の歌劇「鼻」の打楽器合奏のみによる間奏曲なども同じ発想と言えるかもしれないが、いわゆるクラシック・ファンにとっては奇異に写ることだろう。

 これらの曲に関する一種、一見したところのマイナス要因はさておき、私のこの曲の楽しみ方としては、
  
オーケストラと合唱の織り成す豊かで奥行きのある贅沢なサウンド体験
  そして、
  その
サウンドの豊かさの上に繰り広げられる明るいエネルギーの発散、といったところを第一に挙げておきたい。
 
「ウルトラ対位法」と作曲家自身が自負しているところだが、決して「対位法」的な発想は、曲の真ん中の「ウルトラ対位法」部分のみならず、全曲にわたって主導的であり、ショスタコの他の作品にはあまりみられない複雑な絡み合いが随所に見られる。彼の大部分の管弦楽作品を見れば、いくら大編成の音楽になろうと、旋律と伴奏、というわかりやすい単純な作りをしていてユニゾン・オクターブで重ね、結局同じことを誰かと大勢でやっている場面が多いわけだ(一人でピアノで弾けてしまうような構造)
 しかし、この2番に限っては、もちろんそう言った場面もあるものの、対位法的にかなり複雑に書き込んである傾向が強い。端的には合唱パートを見れば一目瞭然である。例えば、逆に単純さを追求した3番の合唱パートはほとんど四声がおなじリズムで並行して動き、またオクターブ・ユニゾンも多用されている。これは、「森の歌」その他後年の合唱曲にも言える。しかし、2番の合唱パートは随分個々に複雑に絡んでいることが聴き取れるだろう。
 そして、オケのパートも同様に、例えば、合唱部分のオケによる間奏、「太陽のテーマ
(交響曲第12番フィナーレ冒頭のホルンのテーマと同じもの)」が次々とフーガ風に現われる部分(鉄琴の輝かしい音色がいいですね)。また、合唱が各パート、「10月」を連呼し絡む部分に、オケもまた様々なモチーフを重ね合わすところなどなど。決して一人でピアノで弾く事は不可能な込み入った書法を見せているのは確かだ。そんな複雑さが、作品の奥行きを深くさせており(よく、ショスタコ作品はウルサイわりに薄っぺらいとか、貧しいとか、批評家はのたまいがちだが・・・。)、個人的にはバッハの宗教曲やら、ベートーヴェンの第九フィナーレの精巧なる二重フーガなども想起させるほどなのだが・・・。

 そして、その複雑さは一見、現代音楽的なわかりにくさも感じられるが、特に後半は基本的には調性的で、かつ、長調の明るい響きのなかにある。オーケストレーションも金管楽器などに独自な大事な役割を与え、輝かしいサウンドを作り上げている。金属打楽器の活躍もまた然りだ。前半の無調、複調的な混沌(冒頭及びウルトラ対位法部分)が、サイレンと合唱の登場とともに(まさしく帝政は崩壊、レーニンの登場、労働者は団結)、調性に立脚した秩序ある世界へと生まれ変わる、という曲の流れをつかめば、わかりにくさよりはわかりやすさを感じとることができるのでは、と個人的には思う。
 ただ、この調性的な長調の明るさの部分も、決して古典派的、ロマン派的な聴き馴染んだありきたりなものではなく
(分析は私では難しい)、個々の旋律が明るさを個々に主張しつつ、古典的な和声感からするならぶつかり合いながらも、トータルとしてはその秩序の中にあるような(決して全体主義的な統率ではなく、それぞれの個が自由でありながらもまとまりをみせている、という理想的な集団のあり方!!)、微妙なバランスの上に立つ現代的な新たなる調性感とでも言える独特なものと感じるのだ。・・・比較するなら、アイヴズの交響曲第2番のフィナーレ・コーダの明るさか?・・・余談ながら、後のショスタコの5番の最後など見事に、この現代的な調性感などはなく、全体主義的な統率を思わせる古典的な和声感が前面に出てしまう・・・。

 などと、馴染みの薄いこの2番とのこの半年間のおつきあいで随分私もうちとけてきました。その2番への自分の気持ち、今回のダスビの演奏生体験をもって完全にゆるぎないものとなり、今まで敬遠していたのを恥じ入るばかり。ショスタコにしては、「怒り」や「苦しみ」を感じさせない、元気を与えてくれる痛快なスマッシュ・ヒット・・・・(でも、やっぱホームランてなわけにはいかないか)。多いに盛り上げていただきました。

(2002.2.18 Ms)

 やはり、ダスビのオケ一丸となりつつも各パートそれぞれの自己主張をもった熱演、この演奏スタイルこそ、この対位法的な、そして、全体主義に陥らない、個の高らかな宣言の集合体たるこの作品を見事に描ききっていた、という感を強く持った。特に後半の合唱部分の生き生きとした晴れやかなムードは心地よいものがある。

 細かな点も思い出してゆくと・・・・冒頭、かなりゆっくりなテンポで恐る恐る何が始まったのやら不気味さの際立つムード。大太鼓のトレモロが、ほとんど空気の揺れ程度な認識のなか、低弦からうめきのような音楽ならざる音が漂い始める。この部分、やや音の動き、音程も不鮮明でなかなか認識しづらい。慣れてない人にはかなり????な場面か。もう少しさらりといった方が客には優しかったか?しかし、これが革命前の暗黒、暗闇かもしれぬ。
 その暗黒にトランペットがわずかな光を差し込んで、快速なアレグロ部分へ。颯爽と立ち現われた弦のきびきびした動き。そして、その動きが収束したところで、例の
「ウルトラ対位法」。長大なヴァイオリン・ソロ、ブラヴォー。そして、クラリネット、ファゴットとの複雑怪奇なる三重奏。正直なところは、音楽的に理解しづらい部分ながらも、この音符をアンサンブルしているだけで何やら凄そう、と感じさせてしまう。特に、ヴァイオリンは、妙な重音や、やらしいグリッサンド、変なアクセント等等、よくやった!と。そして、次々と木管、弦が乱入してウルトラ対位法が繰り広げられるわけだ。
 この部分は、正直、意外な感じがした。やはり、CDで聴き慣れていると、本当のコンサート会場での響きとは全然違って聞こえるようだ。解像度の問題。屋根付きの2階席だったのが原因かどうかはわからないが、各個のパートが何やっている、なんてのは全然わからない。渾然一体となっている音の渦だ。ビート感、リズム感だけで音楽は進行していく
(この、ビート、リズム。ショスタコがいくら前衛、ゲンダイオンガクにかぶれようとも、しっかりとした音楽の骨格が維持されているのが私達にはうれしいわけだ。)
 CDだと、いろいろマイクを立てているせいか、聞こえやすい音が耳に飛び込んでくるようだが、生で聴いてみるとそんな特別な存在はなく
(ヴァイオリン・パートの超高音グリッサンドがかすかに認識できた程度か)、混乱、混沌そのものだ。確かに、本人曰く「ダイナミックに響く」・・・・異次元的な不思議な体験だ・・・これを聴けただけでも(ソ連崩壊後だからこそ可能なのだろうが)、21世紀の生き証人になったという感じ??。
 大太鼓の衝撃的な深い一発始め、小太鼓、シンバル、金管の強烈なアクセントも決まって、弦木管はやや厳密な対位法的な流れからは離れ収斂を始める。この雪崩のような半音階、この発想が後半の合唱部分でも随所に現われ(後半では調性的な骨組の中での音階として安定しているように聞こえる)、混沌から秩序へ、というプロットが影で示されているように思う。この半音階が聴きづらかったのは個人的には残念か。やはりホールの解像度の問題なのだろうか。・・・この私の感覚もCDでしか聞くことのできない作品ゆえの哀しさか?・・・もっともっと生でいろいろな「ウルトラ対位法」の実験に立会いたいものです・・・。

 さて、突然ながら、解説のたぐいによれば、ここの部分最大27声部のウルトラ対位法とのことだが、個人的には、やや誇張、だと思わないでもない。
 27の数え方だが、木管、金管、弦、そして、大太鼓、小太鼓、シンバルまで含めて27声。先ほどみてきたように、これら全ての楽器がそろった場面では、木管、弦はほとんど半音階の同じような動きに収斂しつつあり、それまでの、各々が全く違う動きばかりの部分に比べれば、やや、整然とスコアが整い始めている場面である。まして、トロンボーン、チューバの役割は、対位法的な旋律と言うには大袈裟な、効果音的な感じがしないでもない。
 私の感じでは、ヴァイオリン・ソロ、クラ、ファゴットの三重奏から弦、木管、そして、小太鼓、シンバルに対位法が波及する辺り(最大15声部・・・これにしたって凄いや)は、ホールの解像度はともかく、もう、個々の音の流れが聴き取れない、まったく訳わからない世界だと感じられる。しかし、大太鼓の一発(練習番号48)で、何かしら、音楽の進むべき方向性は決まり始める。木管、弦は今まで勝手気ままな動きから統一的な方針のもと動きの質を変えている。そして、対位法的な絡みは金管楽器内の抗争という形を取りつつも、早々にホルンの主導のもとに音楽はまとまりを見せようとする(練習番号50、ホルンのみフォルテ3つ。)。このホルンの入りの部分は、後の合唱部分の練習番号79、ソプラノの歌を先導する高音域のヴァイオリンの旋律を予見させている。そして、ウルトラ対位法部分はティンパニのロール・ソロと共に終焉、ホルンのフォルテ4つの雄叫びのもとに、まるで後期ロマン派、マーラー、R.シュトラウスの如き豪華なカッコイイ響きで満たされる・・・素晴らしいッ。
 ここのホルンの頑張り、私にはしっかり届いていました。私の心の中で若干の増幅はあったかな?でも、ウルトラ対位法の嵐の中に、来るべき秩序を指し示すホルンのここの踏ん張りがあってこそ、後半、労働者達は工場のサイレンの音のもとに集い、新たなる社会の建設に立ち上がるのだ、と私は理解しています。感激です、この部分。
 その後、一度落ちついて、ビオラの心に染み入る高音域の一節、そして、クラリネットによるショスタコーヴィチのコールサイン(諸井誠氏による命名。後半「太陽のテーマ」を導く重要な素材・・・後の12番の交響曲フィナーレの主題にほとんど同じ形ででるのを始め、ほとんど各交響曲に埋めこまれたジクザグした旋律線のテーマ)。さらに、澄みきったヴァイオリン・ソロの上行する緩やかな音階、と美しい場面を経て、突然鳴り響くサイレン!!

(2002.2.20 Ms)

 今回のコンサートの目玉の一つが、Fisの音に指定されているサイレン。まずCDなどでも実際の音を確認することはできない。いわゆる私たちが良く知っているサイレン、ウゥーウゥー言っているのは音程もグリッサンドして変化するのでこの場では適当ではない。エドガー・ヴァレーズが、好んで使っているサイレンもグリッサンドに惹かれての使用であり(史上初の単独の打楽器アンサンブル曲「イオニザシオン(電離)」を聴いてみればよくわかります)、このサイレンを使ってしまっては作曲家の意図であるFisの音のロングトーンは不可能だ(以前ラジオで、音程の変わるサイレン使用の演奏を聴いたがはっきり言って変であった)。サイレンがない場合は金管楽器等で代用とのこと、ほとんどはこの代用で演奏されているのではなかろうか。
 さて、ダスビの演奏。見事、Fisの音の、ヴォー、てな感じないわゆるサイレン音を派手に鳴らしていて、さすが、である。最初の一発は少々音程が不安だったような気もしないではないが、後は音程の不確かさは気にならなかった・・・・後で聞くに、特注の代物とか!他に使い道ないだろうなぁ・・・今後、この作品がメジャーになるのであれば、日本中いや世界中からレンタルの依頼があるだろうに。今後このまま埋もれてしまうのか・・・。
 個人的には、年末恒例の第九の前プロとして定着させたいところ・・・だが、いかがでしょう。かたやフランス革命に影響を受けた自由と民主の叫び、かたや、その延長にあるロシア革命の落とし児たる作品、ヨーロッパ近代の二大政治的シンフォニーなわけだ。歌詞のハズカシさの類似も私は感じるし、合唱交響曲プログラムとして今後いかがかしら・・・。

 それはともかく、その歌詞のハズカシさの究極にあるのが最後のシュプレヒコール。「10月、コミューン、そして、レーニン!!
 この部分におおいに感激したのは私だけだろうか(歌詞にじゃなくて、あくまで音楽的に、ですよ。念のため。)?このテンポ感と、叫びきった後の打楽器、そして低弦のウネウネ・・・そしてそれが増大して輝けるロ長調の響きへ。ここの音楽の流れがどんな演奏よりもしっくりきた。レーニン!!の叫びの延長に自然にロ長調の確立がなされていたのに感動、なのだ。
 すなわち、このハズカシさ、そして指揮者によっては歌詞への嫌悪感、というものは露骨に音楽の作り方に表れている箇所なのだと思う。とにかく早くこの変な箇所を済ませたい、という意志が働くと、曲の結論が著しくゆがめられ安定した終止感が得られないのではないか?そう言った意味でソ連時代のコンドラシンの全集における演奏は唯一ベスト、と言える雰囲気を持っている。たっぷりと確実に、そして心を込めて(本心かどうかは別として)シュプレヒコールを上げるのだから。ただ、しかし、その後がちょっと気になっていた。レーニンの叫び声の後のティンパニと大太鼓の派手な打撃が違和感ありありで、どうも笑える。そして、なにかまた違う音楽が静寂の中から立ち現われ、レーニンの叫び声との連続性が感じられないまま、ややとって付けたようなロ長調が現れている。何かしっくりこないものはあった。
 そこで、今回のダスビだが。決してハズカシがらず、正々堂々シュプレヒコールに立ち向かったのがまず得点。そしてその後の打楽器もレーニンの叫び声を受けた形で突出し過ぎず、叫び声の流れの中にうまく組みこまれていたと感じられた。そして、打楽器の余韻の中から素早く続く弦の響きが立ち昇り、コンドラシンの演奏では絶ち切られていた感のあるコーダが自然に導入されていたと私には感じられた次第である。レーニンの叫び声の残像のなかにロ長調の秩序ある響きが存在するというわけだ。生演奏ゆえの発見、かもしれないし、それ以上にダスビの曲の作り方の勝利かもしれない。この部分の演奏上の問題点を見事クリアした例を示して頂いてとても納得。交響曲第2番、個人的には、急浮上である。昨年の「ステンカラージンの処刑」と同様に、日本においてプロがほとんど手のつけられない領域での、レベルの高い実演によるショスタコ紹介、日本音楽史上、特筆すべきトピックであったと思われる。

(2002.3.2 Ms)


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