今月のトピックス

 

 July ’01

フィンランド紀行 2001


 連日40℃ちかい猛暑の日本列島をあとにして、行って来ましたフィンランド。今年はまるごと1週間(7/25〜8/1)、フィンランドを満喫、ということで特に田舎の方も回ってきました。
 今までの私の旅行を振り返れば、3年前は、北欧4ヶ国をざっと巡り、フィンランドはヘルシンキ周辺のみの観光(市内と、郊外のヌークシオ国立公園ハイキング、そしてヤルベンパーのアイノラ訪問)。昨年は、北欧3ヶ国(ノルウェーは除き、デンマークはオーデンセも、スウェーデンはスコーネ地方も)、フィンランドは、ヘルシンキ及びハメンリンナ。シベリウスの生家への旅。
 といった具合で、少しづつ、フィンランドのウェイトが高くなり、とうとう今年は、ヘルシンキから南カレリアのサボンリンナ周辺、そして湖水地方を抜けて、タンペレ及びハメンリンナ、さらに、西部、国際的にも名高いナーンタリのスパ・ホテルを拠点に、トゥルク、世界遺産ラウマの旧市街、そしてムーミン・ワールド、とフィンランド南部をほとんど周遊するツアーと相成ったわけだ。
 ただ、今回は、まったく自由時間のないツアーへの参加であり、今までのような自由な旅は実現できず、制約の中での旅。いままでのような、音楽ネタに傾斜した旅にはなかなかできなかったのは残念。自力で全部旅行できるような語学力が習得できたらいいのだけれど。

<1> フィンランド航空

 さて、成田からフィンランドへの直行便、フィンランド航空にての空の旅。一度乗ってみたかった。初めてである。約9時間半。日本から最も近いヨーロッパである。
 機内食が美味しいのは良い。2度目の食事、チキンと書いてあったのだが、どうもカレーの匂いがプンプン。肉料理が、チキンカレーライスとは。航空会社によっては、肉と魚、あるいは、和食と洋食、選択も出来るが、そういったことはなかった。また、食前食後の飲み物は、食前にまとめてもらう。2度目はまわって来ないので注意。コーヒーやお茶はまた別に周って来ますが(でも、あまり何度も周ってこなかったような)。ということで、必要最低限しか全体を対象としたサービスはないようで、ややサービス不足と感じられるかもしれない。しかし、サービス過剰であるより、乗客個々の要望に応えられる余裕があるのは合理的とも言える。あと、女性の社会進出においては世界でもトップクラスのフィンランドたけのことはあるのか、スチュワーデスさんは若い人はほとんどいません。・・・別にそのあたり期待してたわけじゃぁないよ。

 さてさて、毎度期待しているのが、クラシック・チャンネル。さすが、フィンランド航空だ。いきなり、シベリウス、交響曲第2番第1楽章。おお。素晴らしい。続いて、ニールセンの「ボヘミア・デンマーク民謡」これまた涙モノ。続いて、グリーグ。「ペールギュント」第2組曲の「アラビアの踊り」ってのはちょっと・・・・離陸時にこれがかかってたのはかなり違和感(シベリウスの展開部あたりで離陸したらなかなかいい雰囲気であったろう)。しかし、北欧三巨匠で始まるのはなかなかのベスト・チョイスじゃないか。
 その後、パロックや、ハンガリー舞曲の最後らへんの曲など続き、シューマンの「ライン」第2楽章など堪能した後、な、なんと、ショスタコーヴィチだ。しかし、ただ、一言「can−can」。謎である。聞いてみた。うーん、わからない。ただ、初期のパレエ的な雰囲気ではある。「ハムレット」と同じ素材がでてきたり、金管打過多な咆哮する音楽。なかなか面白い。「メーデー」のように、同じ旋律は2度と回帰しない。あと、コーダ。スネアのロール・ソロの上に和音打撃が鋭くかぶさったのちのゲネラル・パウゼ。そして銅鑼のソロとともに、今までの雰囲気とは一変、短調で悲壮なまでに切迫感は高まり、壮絶なクライマックスが待っている・・・・これはいい曲じゃないか・・・・出典はいずこ。英語の解説でも何も詳細は語らず。
 ということで、帰国後、CDで確認。can−canなるタイトルは付されていなかったが、「黄金時代」の第2幕の終曲であることが判明。私もまだまだショスタコ・フリークとしては若輩モノであるな。
 ただ、演奏はセーゲルスタム。私のCDはロジェベンの全曲版だが、セーゲルスタム、録音しているんだろうか?特に最後のコーダの迫力とテンションの高さはロジェベンなど遥かに及ばない。是非、また聞きたい、セーゲルスタムの「can−can」。情報求む。
(後日談・フィンランドのレーベルから、うるさい曲ばかり集めたCDとして存在することが判明。)

 てな感じで、睡眠とりつつも、ショスタコは4回ほど聞いてしっかり耳に残しておいた。あぁ、結局、オタク的音楽ネタに傾斜した旅行記になってらア。

(2001.8.4 Ms)

<2> ヘルシンキ

 今回の旅、ヘルシンキは決して主役じゃない。ただ、通り過ぎるだけの街だ。でも、もう3度目、なにかしら懐かしさを感じる。あぁ、またやってきた!という感激と安堵と。
 他の北欧の首都に比べれば、あまり歴史を感じさせない、近代的な側面の目立つ街、あまりきれいじゃない街(夏は工事ばっかやってる・・・今しか土木工事できない。)、なのは承知の上ながら、何か落ちつかせる。首都ながらコンパクト、雑踏もほどほど、というのが旅行者には嬉しい、という面もあるだろう。そして、街のど真ん中、白亜の大聖堂の前、元老院広場にて青い空を仰ぎ見れば、あぁヘルシンキよ、素晴らしい。と感無量にもなる私。

 さて、ただ通り過ぎるだけのわりには、経験したこと多々あり。あまり冗長にならないように気をつけて、と。
 午前10:55のフライト。ヘルシンキ、バンタア空港には午後3時頃着。6時間の時差だから日本時間で午後9時。それから、市内観光約4時間、いきなりタフな日程ではある。
 とにかく暑いのにはガクリ。31℃。もっと涼しいはずなのになぁ。ヨーロッパも猛暑だった・・・。ただ、日陰は涼しい。直射日光ずっと当たっていると暑い。ヘルシンキ、お盆の頃だと夏も過ぎ、涼しいのは良いがなかなか天候に恵まれない。それに比べれば、ほとんど連日快晴な今回の旅、ありがたいとおもわねば。

 さて、今回のツアー、日本人ながらフィンランドで結婚、移住しているおばさんがずっとガイドとして添乗。気さくな方で、ガイドっぽくなかった、それが良かった。堅苦しい話よりは、気楽な話が多く、フィンランドでの生活、についてもいろいろ垣間知ることが出来た。また、クラシック音楽にも通じていて話もいろいろ楽しかった。
 空港より市街へ向かう途中、最初のガイド、ヘルシンキ市の豆畑の紹介。市営の畑。誰でも自由にとって食べて良い、ということで自転車でふらっと立ち寄ったヘルシンキ市民がえんどう豆をその場で食べている。なんだかのどかな光景で、良い。とにかく、フィンランド、生の豆やらベリー、イチゴやらとにかくそのまんま食べている。街の真中でも。自然体といおうか、都市型ならぬ自然型の生活。何だか、それが人間らしいって感じた。
 ヘルシンキ市内観光、北からざざっと。まずはオリンピック・スタジアム。下車。さらっと済ませて、シベリウス公園。その途中に、泥酔者専用の収監施設車窓観光?夏はとにかく、フィンランド人は嬉しい。とにかく飲む。明るい時から飲む。さらに、こちらでは酒のみは高額納税者。ちゃんと、その対策もバッチリと言う訳。
 シベリウス公園。パイプオルガンの如き威容を誇るモニュメント。緑豊かな公園だ。女流彫刻家のこの大作、当初評判悪しとのこと、パイプオルガンもどきがシベリウスの音楽を象徴しているのか?てな具合。ということで、片隅に、シベリウスの顔も作って置いた、とか?ホントかな?ガイドさん、得意ネタで一席。シベリウスもやっぱり大酒のみだった、という話。イエテボリでのコンサートにて、指揮者なのに飲み過ぎで本番の途中、指揮棒を止めて奏者に注意し始めたシベリウス。コンサートだかリハーサルだかわかんなくなっていた始末。いてもたってもいられなかったのがアイノ夫人。さっさと一人で帰ってしまい、飲み過ぎに注意という手紙をしたためたとか?その他、失われた第8番も、娘婿がその存在を確認しているのに本人が焼いてしまった、とか、妙に詳しい話も公園にて皆に説明していた。こりゃよっぽど詳しいね。私も、ハメンリンナ辺りから、本性をさらけ出していろいろ個人的にもお話しました。現時点では、まだまだおとなしく聞き入っておりましたとさ。
 岩のドーム、テンペリアウキオ教会。中は銅を主体に鈍く輝く。
 海岸に沿って南下。造船所には超巨大豪華客船が建造中。昨年見たより完成に近づいた。造船なんて日本じゃ斜陽の産業のはずだか・・・。こちらの造船は景気がいいらしい。カリブ海クルーズ用らしい。フィンランドの造船技術、第2次大戦後のソ連に対する賠償を期に飛躍的に進歩したという。打たれ強いというか、やはりシス(フィンランド魂、忍耐、我慢)の精神のひとつの表れかと思う。戦勝国としてあぐらをかいてしまったソ連の工業化の行く末との明確な対比でもあろう。
 海には多数のヨット、ボート。そして、じゅうたんの洗い場に沢山、各個人宅のじゅうたんが海辺に干してある。これまた、自然との共生を思う。
 港。そして、マーケット広場。食料品から衣料品、土産関係まで豊富にそろっている。イチゴや野菜が山のように積んである。イチゴやエンドウはその場でどんどん食べる。おかげで、地面はイチゴのふさから、豆のさやから散乱。おおらかなものだ。この自然のゴミは早朝、市民の税金によってキレイに清掃されますのでご安心。
 人々の雑踏以外は音もない。鳥たちの声が目立つ。日本におけるようなスピーカーからの音楽や放送がない街では、鳥の声が最も響き渡る。ちょっと遠くでは、アコーディオンとクラリネットで、ガーシュインなんかをやっていた。それも耳に優しいね。
 最後に、白亜の大聖堂、元老院広場。その白く輝くルター派の教会、青い空に映えて、とても美しい。長く広々とした階段には市民が何気に座り、夏のまだ終わらぬ夕べを思い思いに楽しんでいるようだ。日本の都会にはない光景、ゆるやかに落ちついて時間は過ぎているんだな。
 そんな中で我々日本人観光客は、足早に次を急いでいる。午後6時に、日本人が店員でいる免税店が閉まってしまう。添乗員さんが閉店に待ったをかけに走り、その後我々は、ヘルシンキにおける唯一の正式なお土産タイムと相成り、せわしく、ムーミンの名を冠するキシリトール入りガム始めお土産を物色。元老院広場南側に位置するこの店、ムーミンガムは是非押さえておきたい。しかし、今回、買って箱の中、日本で見たら、日本語でもしっかり「ムーミン」と書いてある。なんだかがっくり。フィンランドの言葉だけで結構・・・・。
 長い初日はこれにて日程消化。ホテルも市内ど真ん中。さて、夕飯獲得、及び軽いショッピングに出かけよう。午後7時すぎ(日本時間では午前1時)。飛行機でしっかり寝たから、まだまだ元気。

ヘルシンキ後半に続く(2001.8.6 Ms)

 ということで、市内散策。まず気になるCD屋。ヘルシンキ中央駅のすぐ東側、北東へ伸びる道沿いに「Fuga」という店がある。3年前は海に近い方にあったが、昨年違う店に変わってて意気消沈、しかしバスの中から偶然見つけたのだった。「Musiikki」と大きく書いてあるから分る。飛行機で聴いた、セーゲルスタムのショスタコ演奏を探したい、と思っていたが、残念ながら6時30分閉店。残念無念。まだ昼間みたいに明るいのに。
 さて、ショッピング続行。「アカデミア書店」(Akateeminen)。ヘルシンキ中心街最大の本屋。これまた昨年見つけたのだが、「FMQ」なる雑誌を探す。季刊で、英語によるフィンランドのクラシック音楽専門誌。600円弱。昨年は没後100年のクラミが特集だったな。今年見つけたのは、おお、「指揮者としてのシベリウス」が特集。彼がどんな自作自演してきたか書いてあるようだ。詳細は別項にて。その他音楽書も充実している、が今回は適当なものはなし。
 夕飯は、豪華レストランにて、といきたいのだが、お気に入りは意外なところに。「アカデミア書店」のすぐお隣が「ストックマン・デパート」フィンランドの大手有名デパートってところか?ここの地下の惣菜売り場の「Deli」がお気に入り。特に、甘えびのたっぷりはいったサラダが優れもの。北欧では定番だろう。やはり漁業国ノールウェイのものが最もおいしいが、それでも、フィンランドのものもこれは美味しい。ただ、今回、ドレッシングを買い忘れてたのが失敗ではあったが、それにしても美味い。パンもまた同様。ヘルシンキまで行って、デパートの地下の惣菜売り場ってのも、セコイ、惨めって思われる方も多々おみえでしょうが、私はこのヘルシンキの人達が普通に食べているであろう、この一品、とても大切に思ってます。日本では、とりあえず今のところありつけません。

 さて、ながーい一日でもあり、ストックマンにて初日の全行動は終わり・・・おっと、ビールがないや、そこら中にある「キオスク」、もう販売時間終了かと不安になったがありつけて満足。代表的庶民的なビール、「LAPIN KULTA」、これは外せませんなァ。もうひとつの定番「KOFF」もいいです。

 ホテルへの帰り道、どうも遠くで音楽時計のような可愛らしい音が・・・モーツァルトのトルコ行進曲か・・・とんどん音が大きくなっている・・・その音の発信元に近づく・・・打楽器アンサンブルだ!
 デパートに行く途中では、口から火を吹くパフォーマンスやってて人がたかっていた。今度のアンサンブルの方は、残念ながら人もまばらだが、一時、足を止めて聴く。
 グロッケン、シロフォン、マリンバ、ヴァイブ、1台づつ。マリンバは2人で高低分れての5人組男性。ビバルディの「夏」の第3楽章と「冬」の第1楽章を聴く。なかなか面白い。腕も確かだ。シロフォンで、あのバイオリン・ソロ・パートやっている。アレンジもいいぞ。退屈しない。芸大生か?ああ、打楽器アンサンブル・・・何か私にも情熱が飛び火してきたような・・・。(日本まで消えずに残っているかな?)
 明日の朝も早い。ずっと聴くことも出来ず2曲でさよならだ。彼らの前に置かれた、上部の皮を張っていない小太鼓に小銭を入れてホテルへ。背後から、また曲が聞こえる、今度はヨハン・シュトラウス「トリッチ・トラッチ・ポルカ」だ。ああ楽しそうだね。港と同じく、人の雑踏以外、スピーカーの類から垂れ流される無神経な音もない。ホテルに入るまでずっと、打楽器の音はヘルシンキの街にこだまする。

 なんだか感激していた自分。翌日、ガイドのおばさんに私の体験を話した。すると、意外な答えだ。「新聞の投書欄に、うるさい、ってのったこともある」と言うのだ。何でえ。楽しいじゃないの。でも、考えた。そのフィンランド人にとっては、日本で私たちが街できく無造作な音の洪水と同じことなのかもしれない。街には、そんな人工的な音楽なんかいらない。自然のままの音があるだけでいいということか。
 こんな考えの延長に、シベリウスの音楽もあるのだろうか?そう言えば日本人もかつては、静寂をもっと楽しんでいたはずじゃないか。「蛙飛び込む水の音」、こんな音に耳を傾けた先人たちと同じところに、そのフィンランド人もシベリウスもいるということかな。

 さすがにやや疲れてすぐ眠ることは出来た。ただ、ヘルシンキのど真ん中の高級ホテルながら冷房はなし。ちょっと暑かったのは確か。日本で冷房を入れた方が断然快適ではある。でも、ここはフィンランド、常に我々は自然とともにある、ということか。ちょっとの我慢でやがては熟睡。

こりゃなんじゃ?

シベリウス公園のモニュメント、下から仰げばこんな感じ。中はがらんどう。青空が見えます。

(2001.8.13 Ms)
画像追加(2001.8.22 Ms)

<3> カレリア (イマトラ〜プンカハリュー〜サボンリンナ)

 とうとう、フィンランドの「心の故郷」カレリア地方への旅である。とは言え、シベリウスがハネムーンで訪れた北カレリアまでは及ばず、南カレリア、キュミ県周辺。将来的には、是非是非、北カレリアのヨエンスー、そして、交響曲第4番へのインスピレーションを与えたコリの山地なども訪れたいところだ。第2次大戦後、いまやほとんどロシア領となったカレリア地方ではあるが、フィンランドに残されたカレリア、一日半という短い滞在ながら、満喫した。

 カレリアへの旅は電車で。午前6時にはホテル発。ガイドさんのお話通り、ゴミだらけ(ビールのビン缶やら食べ物くず)の街を、ゴミ拾いの人々や清掃車が忙しく働く。フィンランド流の雇用創出か。昼間は、流入してきているアフリカ系の人々でやや緊張感漂う駅構内も、この時間ならばのんびりしたもの。7時過ぎの特急「Intercity」で快適に出発。ヨエンスー行き、下車駅は「パリッカラ」である。地名を読むのもまた楽しい。コミカルであり、母音も多くて日本語に近い感じ。
 ホテルで朝食はありつけず、ハムサンドみたいなのと、洋梨のジュースをお弁当として。なにげない洋梨との出会いではあったが、今後、この旅で洋梨のウェイト、高くなっていくことを思えば因縁めいた感じ。
 ちゃちゃっと食べるもの食べて、車窓観光。ヘルシンキから北上する電車の旅、2度、普通電車でヤルベンパーまで行っているせいか、これまた懐かしく、心ときめくものあり。都心からちょっと外れただけですぐ、自然いっぱいの風景。心和む。都心近く二駅止まった後、一気にリーヒマキまでノン・ストップ。アイノラ最寄の小駅も、そして、ヤルベンパーもあっと言う間に通りぬけた。やや淋しい。でも、そのヤルベンパーの一つ手前の小駅、キュロラの辺り、なんだか以前より開発されつつあるような気がしたのだが。アイノラ周辺、都市開発懸念、なるべく早めに皆さん行きましょう。シベリウスがいた頃とは随分変わっていくような気がして・・・・・。

 ヤルベンパーを越えると、次の目当ては、ラハティ。ヴァンスカ率いるラハティ響のホームタウン。スキーのジャンプ台が見える。結構海岸から奥まで来たのにさすがフィンランド、平地は続く。ということで、山岳国ノールウェイとは違って、ジャンプ台も完全に人工。山がないんだから。目立ちます。新しく出来た木造のシベリウス・ホール、車窓からは確認できず。

 ラハティを過ぎるとなんだか眠くなった。朝早かったし、もう、この辺りまで来ると、森ばっかで景色も単調、うとうと・・・・。
 ロシア方面に行く鉄道との岐路を過ぎたあたり、もう、ロシア国境に近い、ラッペーンランタの駅で目覚め。随分田舎にやって来た。特急停車駅なのに駅舎も簡素。リュック背負って、森に入るようないでたちの人達。さて、カレリアの風景を堪能しましょうか。
 でも、やはり単調。森と湖と、といった風景を期待しつつも、なかなか湖は現われない。もう、カレリア地方に入ってきたはずなのになァ、地図上は湖の近くのはずなのに。景色に変化が現われたのはイマトラの辺り。平坦なフィンランドにしては、流れのよくわかる川がある。ガイドさんが、「あの川の向こうがロシアです」と。あぁ、ショスタコの故郷か?などとビデオを急に回しつつ、「ロシア」という言葉の響きに感慨深く、また、ふと、フィンランド人はこの風景を見つつ、失われたカレリアを思うのだろうか?(日本にとっての北方領土みたいなものだわなぁ、)と二重の意味で心揺さぶるものあり。フィンランドへの共感と、ロシアへの憧れと・・・・。所詮、距離的、時間的な隔たり故に日本人の私は妙な感傷にも浸っていられようが、この国境を見、二国のただならぬ対立の歴史を思えば、そんな悠長に構えてもいられない、か。
 イマトラの辺りから、やや、水の見える風景もボチボチ。そして、人家もほとんどない。下車駅の一つ手前のシンペレなる駅、ホームもあるんだかないんだか?森と岩盤しか見えなかったなァ。えらいところまで来たもんだ。さぁ、次はパリッカラ。当ツアー、数少ない男手である私、10数個のスーツケースを短い停車時間の中で下ろすべく準備開始。故に、シンペレ・パリッカラ間の車窓は見る余裕無し。慌しくパリッカラ下車。この駅もまた、周りに何にもないや。ただ、サボンリンナへ行く分岐の駅、サボンリンナ行きの列車が止まっていたな。ただ、降りた人も乗った人もあまりいなかったようだ。人影のないのが、ホントのフィンランドだって感じかな。人と出会うのが珍しい、という感覚、この風景からも分るな。

カレリア旅行記、まだまだ続く(2001.8.16 Ms)

 もの静かなパリッカラの駅にて貸切バスが待つ。約4時間の電車の旅は終わり、ここからはバスの旅。日本で用意したガイドブックもほとんど役立たず。この辺りの情報はまったく乏しい。未知なる世界へ。まずは、プンカハリュー方面へ。あいかわらずの森の中。ただ、湖も右に左に見え始め、とうとうプンカハリュー周辺に来れば、大きな湖も姿をあらわす。
 湖と、森と、島と、複雑に錯綜した風景。いかにもイメージ通りのフィンランドである。特に、プンカハリュー、約7kmに渡って南北の細長い陸が続き、両側は湖。日本なら天橋立、これをもっとスケールを大きくし、かつ、複雑にしたような地形である。高いところから眺望できれば、さぞかし素晴らしいことだろうなあ。この辺りの地形は氷河が作ったものらしい。それにしても、家も人も見ないな。そんな中、小さな華奢なかわいらしいたたずまいのプンカハリューの駅は目をひいた。
 さらに北上、サボンリンナの手前で細い道に入り、昼食の場所へ向かう。とある農場にて、カレリア地方の家庭料理をいただくと言うプランだ。ずんずん田舎道を進む。到着、しかし、時間が15分ほど早かったらしい。「まだ、食事ができてません」。ということで、家の周りで思い思いに時間つぶし。傾斜した草原の向こうにやはり、湖が見える。広々としたカレリアの大地。ヒゲもじゃなお爺さんが出てきて、その辺のベリー・イチゴの類やらを摘んで食べるようにと促す。なんだかセーゲルスタムみたいな感じの人だ。後で聞けば、そこの使用人の方のようだ。
 さぁ、食事だ。とにかくうまいのなんのって。カレリア・パイ。パイの中にジャガイモが入っているくらいのシンプルなものだがとにかく美味しかった。ちなみに、バスの運転手さん、カレリアの人ではなく、ミッケリという中部の街の方のようだが、こんなうまいカレリア・パイは始めて、とバクバク食べていた。フィンランド人にとっても貴重な体験らしい。何でも、やはりここのところ昔ながらの食文化も消滅しつつあるらしく、伝統的な、このカレリア・パイもなかなか食べられなくなっているとのことで、淋しい限り。また、スモーク・サーモンかと思ったらニジマス。これも美味。魚は北欧でもよく出てくるがハズレはない。さらに、使用人たちのために出す、自家製ビールも良かったなァ。午後も仕事しなきゃいけないからアルコールは控えめ。しかし、濃厚な麦の味と香が独特。・・・・でも、こんな遠くはなれた日本とカレリア、まして、商売っけもそんなないだろうし、料理の研究もあえてしたわけでなかろうに(わざわざ日本人受けする料理に仕立てたとは思えないので)、なんで違和感なく食べ物が美味しいんだろう?親近性、感じるな。
 でも、きっと、もう2度と同じ味を私は味わうことはないんだろうな・・・・。ひょっとしてロシア領カレリアに行けばまだ伝統が残っているのか?とふと新たな野心が芽生えたり?

昼食をいただいた農場です。
左の写真を撮った位置から
逆方向を望む。
湖とサボンリンナ周辺の島々が遠くに。

 充実した昼食後、バスは再びプンカハリューへと戻り、レトレッティ・アート・センターへ。地下洞窟に現代美術の彫刻絵画を展示しているという変わった美術館である。今日もまた快晴、汗ばむ陽気、洞窟内はとても快適である。しかし、どうも意味不明なものばかりで・・・・。企画展は、ダリ。例の、ふにゃふにゃな時計とか、引出しのある人間とか、足の長い象とか、主に彫刻を展示していた。こちらは、そこそこ楽しめた。あと、お国ものとして、ガレン・カッレラの絵画の下書きの類も一室設けてあった。シベリウスのCDジャケットでお馴染みな、レンミンカイネンとかクレルヴォとか見たことある絵があって、やや、楽しめた・・・・でも一般の日本人には、ガレン・カッレラ・・・まだまだ知名度低いよなァ・・・・てな按配で、私も含めてだが、予定より早く我がツアーの人々は出てきて日陰の芝生に集結する始末。今日の宿泊はスパ・ホテル、ということもあって、早目にホテルに行ってしまえ、ということに。

 ツアーの当初予定では、サボンリンナ近郊泊となっていたが、オペラ・フェスティバル真っ只中で具合良くホテルが取れなかったようで、一部旅行代金返金、そして、7〜80km逆行してイマトラに宿泊することとなったようだ。プンカハリューからイマトラへの道、運転手さんとガイドさんも気を利かせてくれて、違うルート設定、狭い道で、このフィンランド版天橋立の風景を違う角度から車窓観光させていただいた。フィンランド国歌の作詩者も、この地にて、素晴らしい風景をめでて詩を書いて、そんな石碑も立ってる、とのこと。
 再びロシア国境の街、イマトラへ。途中、ロシアの国境警備の塔なども遥か森の奥にそびえてたりして、個人的には感興をそそる。
 スパ・ホテルということで、プールとかも完備しているのだが、どうも、老人が多いな。小さい子ども連れのファミリーもいたにはいたが。日本で言う、健康ランドみたいなノリだ。あと、部屋も広く、ソファが置いてある、2段ベットが備えられた部屋がもう一室、さらに、ベランダもちょっとした一部屋と数えられそうなもの。ホテルが新しいのも良かったが、ベランダから下を見るとまだ工事中だったりして、下を見なけりゃ、森の木々の間から、湖に沈む太陽など眺めつつ、いい雰囲気ではある。しかし、ベランダに出ると、歌声やら歓声やら聞こえて来る・・・どうもお爺さんお婆さん達がダンス・パーティしているようだ。悠悠自適で老後の生活、夏はスパ・ホテルで満喫、か。さすがに福祉国家のご老人達、元気が良いようだなあ。

 翌日はカレリア南部の中心的都市サボンリンナへ。(2001.8.18 Ms)
画像追加(2001.8.22 Ms)

 イマトラの朝、サボンリンナのサイマー湖クルーズを控え、またも文句無しの快晴。さて、朝食、バイキングだが、品数が少ないな。ご老人用なのか?いやいや、もともと、フィンランド人の朝食は質素という。改めてそれを実感したな。でも、肉けのものは欲しいところ、せめてベーコンくらいは・・・。
 朝8時バス出発。サボンリンナから少々遠くに来てしまっているから仕方ない。イマトラ自体の観光はなかったけれど、ちなみにイマトラと言えば「イマトラの渓流」。本来、標高差のあまりないフィンランド、滝とか急流とはあまり縁がないのだが、ここでは、川幅が急に狭くなることによって、渓流がみられるというわけだ。古くからの観光地として有名らしく、エカテリーナ2世も訪れ、また、シベリウスもカレリアへのハネムーンの途中で立ち寄っているのだそうな。我々は、渓流は割愛、再びプンカハリューの風景を楽しみつつ(実はほとんど寝てしまったけど)、サボンリンナへと急ぐ。

 オペラ・フェスティバル真っ只中のサボンリンナ、さすがに人も多く活気がある。まずは、船着場近く、マーケットへ。やはり、野菜が沢山置いてあるが、CDも野外で売ってるのでそちらにひかれてしまう。あぁ、でもオペラが多いや。当たり前か。でも、そんな中、BISのCDを購入。「FINNTASTIC」なるタイトル。森と湖のいかにもフィンランド的風景のジャケット、フィンランド土産的なCD。フィンランドの音楽のセレクションだ。急な雨にでもやられたか、ライナーノーツがややふやけてはいたが気にしないでおこう。
 観光とは関係ないがちょっと中身を拝見。冒頭から、「フィンランディア賛歌」なのは王道。しかし、クラミ、コッコネン、ラウタバーラ、アホ、とかなりマニアな選曲じゃないか。シベリウスにしたって、チェロのためのロマンスは良いとしても、レンミンカイネンの歌など合唱曲や、初期のピアノ曲習作、これまた初期の金管合奏のためのアンダンティーノなど珍曲多し。名盤、ラハティ、ヴァンスカのシベリウス交響曲全集からは、6番の第3楽章か?(最も演奏時間の短い楽章ということかな?)あと、ヴァンスカのクラリネットをフューチャーした、Crusell(1775〜1838)のクラリネット五重奏曲より第2楽章。こりゃ凄い選曲だ。まぁ、日本でもきっと入手可能でしょうが、サボンリンナでの土産として購入した。

 10時よりクルーズである。サイマー湖を一時間ちょっとの船旅。さすが、オペラの聖地、乗船した観光船の名も「フィガロ」でした。お隣には「ファウスト」なんてのも停泊していた。まぁ、ファウストよりフィガロのほうが難破しそうにないな。などと意味不明な納得をしつつ乗船。まずは、サボンリンナのシンボル、オラビ城の周りをぐるり。城とは言え、スウェーデンとロシアそれぞれの辺境の地にあたるこの地、故に砦のようなもの。キレイと言うより武骨な感じ。どこぞから歌劇「アイーダ」の大行進曲の有名なテーマが聞こえるぞ。でも、あれ、今夜の演目は「リゴレット」のはずだ。よくわからないな。さて、サボンリンナの島とオラビ城を結ぶ橋は、急遽、船のために航路を空ける。城に近づく。舞台衣装をまとった歌手が水辺にいる。船からは、きっとオペラ・フェスティバルの滞在客だろうか、ヴェルディのアリアから一節、急に大声で歌い初めて驚き。
 城を一周した後、湖を南下、街からドンドン遠ざかる。あっという間に、森と島とそして湖と、だけの光景に。そんななか、ちいさな島の岸辺に、ぽつぽつと小屋が見える。フィンランド人の別荘ということか。こんな別荘にこもってしまえば、ほんとに自分ひとり(もしくは、家族だけ)の世界になってしまうだろう。買物とかも大変だよな。電気水道ガスなんてないだろうな。自然の中に自然とともにある生活・・・・やわな日本人たる自分には無理な生活だろうが、文明的生活と自然の中の生活がバランス良く両立しているというは素晴らしいことと思う。日本人の休暇とかとは比べ物にならないな。
 小屋から一人ボートで漕ぎ出した男性が観光船に向かって手を振っている。孤独を愛し、自然に浸っていると想像される人のわりには、やけに、愛想がいいんだなぁ、とやや意外に思っていたところ、観光船からなにやら、ビニール袋にはいった物が投げられる。何だろう。ボートの男性は急いでそのビニール袋を取る。よくみると、新聞が入っている。いつも、決まった時間に、観光船が別荘の住人に新聞を届けている?のかな。意外と合理的にものごとは進んでいるようで。勝手に、孤独を愛し・・・・などと別荘の住人のことを想像していた自分が笑えてきた。ほんとに孤独を愛し、だったら、こんな観光船が一日何度も通るところに住まんわな。

フィガロ号

オラビ城が近づいてきます。

オラビ城。右手、テントの下でオペラを。

 クルーズが終わって、さぁ昼食だ。昨日、食事をいただいた農場よりさらに北へ、ラウハリンナと呼ばれる森の中のレストランへ。森の中のやや小高い丘の上に立つ、精緻な飾り付けと淡い暖色系の外観が印象的な、木造の建物、これは、ロシア貴族が、自分の妻のために建てた別荘だそうな。1900年というからおよそ100年前。フィンランドへのロシアの締め付けが強くなり、独立運動の高まりを見せていた時期、ロシア国境に近い、ロシア貴族のリゾート地でもあったカレリア地方では、まだまだ当然の如くロシアの支配地といった感じで貴族達はとらえていたということか。でも、木造ながら綺麗な女性的な風貌の邸宅である。食事をいただいた広間は、3階の高さくらいまで吹き抜けの広々としたもので豪華なシャンデリアが目立つ。これまた、オペラ・フェスティバルの滞在客だか、老夫婦たちの集まったテーブルでは、乾杯のたびに誰か一人が音頭を取って何やら歌をみんなで歌っている。ほんとにご機嫌なようだ。
 朝とはうってかわって、贅沢、豪勢なバイキングだ。もう、迷ってしまう。サーモンを始め、魚も美味しいし、トマトを煮込んだ一品も格別。ロシア貴族の流れだからかは知らないが、ビーフストロガノフもまた良し。1時間半を要する優雅な食事である。

 食事の後、再び、サボンリンナ市内へと戻り、オラビ城の中へ。ちょうど、今夜のオペラのリハーサルが終わったのだろう、顔写真付きの名札を付けた、楽器ケース持参のオケの人達が城からぞろぞろ出てきた。なぁんだ、城の中でオペラの一節でも聞けるかな、と思っていたのに残念。
 とにかく、中世の砦である。中は暗いし、基本的に、豪華な装飾やら見所といえるものは少ない。王様の間、と呼ばれるところだけは窓も広く明るいが、現実に、ここまでスウェーデン王がやってきたことはないようだ。今は、キーボードなどが片隅に置かれ、地元の人達の結婚式などにも使われるとのこと。注目の、オペラを上演する場所だが、舞台装置の転換やらで忙しく中は入れない。ただ、仮設の観客席の土台部分である場所を通ってほんの少し、会場の雰囲気は見えた。いつか、こんな場所でオペラなど見られたらいいだろう(が、いまいち、まだオペラには慣れていないし、まだまだ不勉強な私には不似合いな場所かな)と思いつつ、城を後にした。
 再び、また訪れたいという気持ち、いろんなところに残しつつ、これにて一日半という短いカレリア滞在はおしまい。
 続いて、中部の工業都市タンペレへ。約5時間の長距離ドライブが待っている。

(2001.8.25 Ms)
画像追加(2001.9.15 Ms)

<4> サボンリンナ 〜 ラハティ 〜 タンペレ

 午後3時頃サボンリンナを出発、ほぼ南西に進路をとり、高速道路でラハティを目指す。ラハティからは、違う高速道路に乗り換えて北西に進路をとって次の目的地タンペレを目指す。およそ350kmのバスの旅。
 うとうとしつつも記憶をたどって。高速道路に関するネタ2つ。
 サボンリンナとラハティの間でのガイドさんの説明。片側二車線の道路ながら、中央分離帯にあたる部分がとても広い。障害物もない。ただ、だだっ広い舗装道路が一直線に続く。「ここで有事の際、戦闘機の離発着をします。」フィンランド国内にはこういった飛行場になりうる高速道路が何ヶ所かあり、現実にそういった訓練もなされているそうだ。近くのミッケリなる街は、第2次大戦では軍の本部が置かれたような場所でもあり、旧ソ連の隣国だったからだろうか、とにかく危機の際にどう動くか合理的にいろいろ考えているというわけか。日本辺りでは、国土交通省と防衛庁が一体となった施策を打ち出せますか?縦割りで機能しないのでは?
 もうひとつ。対向車線は渋滞か。1車線工事している。おまけに、金曜日の夕方ということもあり、土日を利用して、ヘルシンキ、ラハティから北部、もしくはサボンリンナ方面の別荘へ向かう車が多くなっている。しかし、「整然と少しづつ進んでいるのが、日本と違いますね。」。工事をやっている随分手前から、二車線あるにもかかわらず、みんな1車線のみを使用している。空いている車線を暴走して工事場所の手前でどんどん割りこむという日本的光景は見られない、という。「大人」である。「公共」という概念が染み付いている、成熟した民族性と理解した。日本人はどうだ。子どもじゃないか?未熟じゃないか?
 高速道路にての話題ニ題。合理性、成熟、秩序、公共性・・・・日本人も学ぶべきところ大ではなかろうか?

 5時間のドライブ、運転手さんも長目の休憩が必要である。運転手さんの故郷ミッケリ(サボンリンナとラハティの中間)の郊外、南西方向、彼のいきつけのスーパーでの休憩、30分。典型的な郊外の大型スーパー。高速道路沿いということもあり、運転手用の休憩室も完備。スーパーにてビールやジュースなど買いだめしておく。結局ビールはその後、冷蔵庫のないホテルもあったりで日本まで持ち込むことにもなったけれど。
 スーパーの中には、「wood shop」という、木を使った商品を扱う店もあって見るだけでも楽しかった。
 また、インフォメーションには、その地方の観光マップやら資料もあり、ミッケリの夏のイベント特集の冊子には、表紙にゲルギエフの姿もあり中をのぞいて見ると、ミッケリ音楽祭にて、マリンスキー劇場のオケとベルディの「レクイエム」とかやっていたらしい。こんな地方都市なのに、やることは凄いな。

 さて、ラハティの手前、ヘイノラでは、高速道路なのに木造の大型の橋があって、これまた森の国フィンランドらしさを感じた。
 ラハティでは、ガイドさんの口も滑らかに、ヴァンスカを称えるスピーチ。炭酸系の「ムーミンジュース」、国民的な飲み物?(ファンタみたいなもの)の工場などもある工業の街、そしてジャンプ台のすぐ近くもとおり、スポーツの盛んな街、でもこの街を一挙に世界に知らしめたのが、言うまでもなく、ヴァンスカ率いるラハティ響である。「どうしようもないようなオーケストラを彼が育てあげ、かつ、団員、街の人からも好かれている。だから、世界的に有名になっても、ヴァンスカはラハティを捨てずにいつも戻ってくる。」
 残念ながらラハティにての休憩はなかったので、行きの列車と同様、ラハティの街に降り立つことはなかった。シベリウスホールも含めて、また、正式に訪れたい街である。
 ラハティを過ぎ、次は宿泊地タンペレへ。翌日は、ムーミンそしてレーニンゆかりの観光。

(2001.9.1 Ms)

<5> タンペレ

タンペレのシンボル。水力発電所。

宿泊したホテルより撮影。

 宿泊したホテルは、街の中心、ただ一つそびえたつような高層のホテルである。お隣には、驚き、水力発電所。ホテルに着いた時、ホテルのレストランあたりにいた人々がみんな我々のバスをなめるように見つめていたのが印象的。まだまだ日本人、珍しいでしょうか?
 午後8時到着、食事は8時半頃。時間も遅いし、ちゃちゃっと済ませたいところだが、金曜の夜ということもあってかホテルのレストランも大混雑。全然でてこやしない。ガイドさんがウェイトレスにいろいろ話かけるのだがとりあってくれない。「見れば分るでしょ」程度の応対らしい。去年のデンマーク、オーデンセでも通常2時間かけて食事するのが礼儀だ、などという話があったが、のんびりかまえるのがこちら流ということか?夜もまだまだ長いのだし。予約入れておいても、別に特別にすぐやってくれるわけでもなさそうだ。
 でも、しばらくたってウェイトレスから「ようやく取りかかれそうです」と報告をもらったようだ。誠意は見せてくれていた。と言おうか、我々の側がせっかちだったのだろう。
 ただ、おかげか、ガイドさんとはいろいろ話ができた。息子さんがバイオリンをならっていて、夏の講習にでるため、自分がピアノ伴奏しなきゃいけないのだが、意外とシューベルトのピアノ・パートは難しい、息子はすぐバイオリン弾けるのに・・・などと普通の家庭でこんな感じかァ。芸術的なことだ。こちらからも、気になるフィンランド・ネタをふってみた。時あたかも、日本は参院選前。「ツルネン・マルテイさんが立候補してますが」。こちらでも有名らしい。源氏物語のフィンランド語訳やっているということもあって。ちなみにガイドさん、ツルネン氏のフィンランドにおける前妻ともお知りあいだそうで。世の中、狭いもので。
 食事は10時過ぎに終わり。風呂に入ったり、荷物の整理したりで、すぐ0時を過ぎてしまった。まだ遠く、山の上のあたりは赤い。ずっと、この旅行、朝早かったため夜の暗さを意識していなかったが、ここで初めて日没を見た。明日は、タンペレ市内観光から、ということで午前10時発。多少は夜もゆっくりできた。

 さて、朝、余裕があるため、自由行動として、9時頃には街へ繰り出す。まず真っ先に向かったのは、レーニン博物館である。当然、この時間、開館はしていない。中には入れないものの、きっと今では世界でほとんどないであろう、レーニン博物館、入口のレリーフなども貴重なものとして思える。ロシア帝政時代、レーニンが潜伏、スターリンと始めて対面したというタンペレ、こういった施設が、ソ連崩壊後も存続しているというのは、歴史を大事にしている現われの一つであろう。決してフィンランドにとって愉快ではない、将来多々の災難を与えたソ連に関する施設があること自体、フィンランド人の心の奥行きの深さを物語るようでもある。
 確かに、このタンペレの街、中心にある赤い発電所の威容、昼夜を問わず煙突から吹き出す煙、着いたときから、工業の街、労働者の街、という雰囲気は感じる。それこそ、(私は知らないが)ソ連のイメージともダブるのだ。ちなみに、フィンランドの紙幣にも、このタンペレの発電所は描かれている。
 ベルリンに行った時もそう感じたのだが、ソ連崩壊後、社会主義国ではどんどん社会主義を思い出させるものは破壊、廃棄されるなか、逆に、資本主義国の側では、そういったものが貴重なものとして残されている。ショスタコーヴィチの音楽を愛する私としては、その音楽の背景に常に存在していたソ連なる国家の痕跡は、今となっては大事にしたいもの、という一種の感傷が私にはあるようだ(決して政治的にその体制が素晴らしいとは思わないが)。なんだか、スリリングな一時ではあった。記念写真を撮るときも緊張した。右翼主義者にでも見られたら、どんな因縁つけられるか・・・・。まだ時間が早くて人影もまばらではあったが。

さらに拝みたい方はこちらへ。

特に、
ショスタコーヴィチの
交響曲第2番を歌う
(叫ぶ)方に。

 ホテルに戻りがてら、ソーコス・デパートにてショッピング。ホテルに割引券があったから、というチープな理由。それほど見るべきものもなかったが、本屋で、日本語で書かれたフィンランドの紹介をしている本を見つけた。シベリウスの創作の根源として、北カレリアのコリの山地の写真なども載っていて興味深くて購入。その他、フィンランドの愛唱歌集と思しき楽譜も面白そうで買った。作曲家メリカントの名も見かけられ、そう感じたのだが。どうも短調の曲が多いようでもある。全てフィンランド語だから詳細は不明ですが・・・。

(2001.9.2 Ms)
画像追加(2001.9.15 Ms)

 午前10時より、タンペレ市内観光開始。まずは、タンペレ大聖堂。これが良かった。シベリウスのアイノラと同じ建築家の手による教会である。重厚壮麗な外観、しかし、ガイドさんは言う。「これからみなさんを黄泉の国にご案内します。」暗い教会内、まず正面の祭壇画が異様である。グレーを貴重とした、暗い表情の人々が歩いている絵。墓場から死人がぞろぞろ起き上がる。その中には、和装と思われる人も。世界各国の人々の復活を描いたもの。
 天井を見上げれば、アダムとイブの話にある、ヘビとリンゴが描かれている。
 また、教会内の側面には正面以外の三面に渡って連続している絵が描かれているのだが、長く太い綱のようなものを12人の子供がそれぞれに持ち上げようとしている。キリストの12使徒を描いたものという。その重い綱を軽々持ち上げる者もあれば、今にも落としそうな者、かろうじてしがみついている者など11種類の持ち方が描かれている。その中で一人、綱を持たない者もいる。それが裏切り者のユダである。
 その他、骸骨たちの集う庭園の絵など、普通の我々がイメージする教会内部とは全く相違する雰囲気が漂ってくる。
 1902〜7年の建築というから絵画の作風もルネサンスや古典主義とは全然違うわけだ。なかなか感懐ぶかいものがあった。なお、こちらの教会のパイプオルガン、なかなかに巨大なものである。2階に上がる事は出来ず近くで見る事は出来なかったものの、オルガニストがリハーサルをやっていたのか、静謐なるコラールのような音楽を奏でていてとても良い雰囲気であった。が、しばらくするや、その雰囲気も打ち破られ、ガツガツ弾き始めて驚く。バッハとかバロックのものではなく、近現代もののトッカータ的な、オルガンを目一杯鳴らしてしまうような音楽であった。音楽は覚えていないのだが、その重厚で、巨大な存在を思わせるオルガンの響きとともに、教会内の異様なる光景は私の記憶に深く刻み込まれたようだ。教会の見学でここまで感動したことはなかったと思う。

タンペレ大聖堂。迫力満点の教会。
なのに、
レーニン博物館の画像を大きくし過ぎて、
貧弱に見えちゃったのは失敗か。

 続いて皆さんお待ちかねのムーミン谷博物館。タンペレの市立図書館の半地下部分にあります。原画や、ムーミン谷やらムーミンの家のミニチュアが飾られている。世界各国のムーミン本などもあります。なかなか学術的?な展示方法で、ムーミンの原作から、いろいろなキーワードを抽出し、それに従って見てゆくようだ。「孤独」「友情」「愛着心」などなど・・・・細かい事はよくわからないが。一応、こちらの図書館の方が書いたムーミンの学術的なる解説本など熟読すればわかるのだろうが、この「ムーミン谷における友情と孤独」なるタイトルの本、日本語版も購入したがなかなか、こむつかしい印象ではある。
 「隠者達の孤独〜世界の子供達は怖がっても、哲学者はそうであってはならない」
 「スノークのお嬢さんは、ムーミントロールの親友であり得ない」

 とか、なかなか意味不明なといおうか意味深長なる説明も多くて、興味深いがちょっと理解に苦しむな。まぁ、博物館自体は、ビジュアル的に楽しめばいいのだろうけれど。個人的には、ムーミンキャラクターの各国語の表記の絵がおもしろかった。第一、フィンランドの生んだこのムーミンだが、トーベ・ヤンソンの原作は公用語であるスウェーデン語。フィンランド語ともキャラクター名がちがったりする。ちなみに日本で言うところの「ノンノン」は世界じゃ通用しない日本だけの命名。「フローレン」だったり「スノークの女の子」だったり。あと「ニョロニョロ」もなんだか難しい名前のようだ。
 先日亡くなったトーベさんのために記帳した後、ムーミングッズを併設のショップにていろいろ購入、トーベさん自身の仕事の全容を紹介した冊子なども興味深い。さらに、あまり有名ではないかもしれないが「さびしがりやのクニット」という話、数年前に知ったのだが、これが意外とムーミンシリーズの中でも重要作のようで、例の解説本でもあとがきの締めで触れられているし(後のムーミンワールドでも重要度は改めて知らされたのだが)、そのクニットの絵本も入手しておいた。実はムーミンは出てこない話なのだが、誰にも話しかける事の出来ないクニットが勇気を出していろいろ行動した後、スクリットという同じく孤独な女の子を助けて2人が結ばれるという話。トーベさんが監修したビデオ(アニメとは言えほとんど紙芝居的なスピード感)は日本でも入手可だと思います。日本で偶然見つけたこの「クニット」の話、こんなに本国では親しまれているらしい、というのを知って、少々得した気分ではある。

(2001.9.8 Ms)
画像追加(2001.9.15 Ms)

 土曜日の午前中という事もあってか、街も人影まばらだったが、ムーミン谷もほとんど我々の貸し切り状態。日本のツアーもぼちぼち、このタンペレ、ムーミン絡みで訪れる事も多くなったが、ここまで時間にゆとりがあるツアーはほとんど今のところない、とか。タンペレで宿泊、翌日もさほど遠くないハメンリンナでの宿泊、のんびりとこのタンペレに滞在する事が出来た。
 ムーミン谷ですら時間を持て余し、その隣の鉱物博物館に入ってアクセサリーを物色する時間すらあったが、私達は鉱物には特に関心もなく、ムーミンづくしではあった。

 ムーミン谷の後、昼食をとる予定ではあったが、ヘルシンキからずっと、(田舎ばかりで)まとまってショッピングする時間もなく、ツアーの女性客の方から、お土産タイムが欲しい、今日の朝も時間がなくて、という話が出たので昼食は1時間後回し、各自の自由行動が確保された(こんな融通のきくツアーは始めてである。10人少々という小回りの良さもさることながらガイドさん、添乗員さんの性格にも寄りますか)。
 うーむ、レーニン博物館へのチャンス到来、とも思ったが、いざとなると怖いような気もするし、自分にとってはこのツアー、ヘルシンキでのCD店「Fuga」に行けなかったこともあって、地方都市ながらもダメもとでCD探しもしたく感じていた。ということで、ツアーの皆さんはガイドさんに連れられてソーコス・デパートへほとんど行ったようだが、ソーコスは私は午前に既に行っているので、もうひとつの大型デパート、駅前のストックマン・デパートへ。やや距離はあったが、いつのまにか昼下がり、街には人が溢れんばかり、なんのことはない、白夜でみんな夜更かしして朝から行動していないだけのことか・・・えらく淋しい街だと朝思ったのがウソの様だ。

 さて、ストックマンでは、それほどCDの品数も多い方ではなかったものの、ここのところ話題になっていた、Ondineレーベルから出た、今度こそ本物のシベリウス自作自演の「アンダンテ・フェスティーボ」があったので旅の土産としても最適だしと早速購入(まぁ日本でも入手可でしょうけれどね)。とりあえずはこれでCD探しは納得して、その他お土産タイムとなり、昼食へ。
 集合場所にて、ガイドさんが、何かいいものありました?と訪ねるので得意げにCDを見せれば、どうも知らなかった様子で、「これは良い買物をしましたね」、と。興味深くCDを眺めつつ、ミッコ・フランク指揮の「エン・サガ」にも興味を示し「彼は素晴らしい指揮者だ。」と言いつつも、
「いつぞやヘルシンキの夜の街で酔いどれて誰かに殴られていた」

とかなんとか地元マル秘情報も。
 続く「ポヒョラの娘」トゥオマス・オッリラ指揮のご当地タンペレ・フィル。「これもいいですね。」
「ただ、オッリラ、才能はあるのだけれど、音楽上のトラブルでタンペレ・フィルの常任から降りてしまって、最近芳しくない。」
「やっぱり、ヴァンスカみたいに常任でみっちり音楽を作り上げないと・・・。」

などなどいろいろ興味深い情報を知ったのでした。

 余談ながら、このオッリラとタンペレ・フィル、まだまだ日本では知名度もないだろうが、2年前だったか「フィンランディア」作曲100年の記念番組かどうかは知らないが、「フィンランディアの秘密」なる番組をBSでやっていて、この番組の最後に演奏を担当したのが彼らだった。冬の森をイメージしたセットで、真っ暗な状態で曲は始まり、照明はくるくる回って嵐を思わせながらも、スモークは晴れ次第に明るくなって・・・・というなかなか面白い趣向だったのを覚えている。演奏は、なかなかアクセントを多用したゴツゴツした骨っぽい印象、タフな曲作りである。それにしたって、ラハティといいタンペレといい、こんな小都市(日本の感覚では)に素晴らしいプロオケがあるというのはうらやましい限り。対人口比で言えば、日本とは比べ物にならないほどの状態と思う。・・・さて話は戻って。

 そのCDには、まだ、クフモの室内オケによる「恋人」も収録。これまた、奥地のクフモは日本人バイオリニストが始めた音楽祭でも有名、ガイドさんもいろいろ話は尽きないところであった。

 昼食は、特に土地のものと言う訳でもなかったが、日本ではとても見かけられないほど巨大なサーモンが出てみんなびっくりである。
 それは、さておき、店から出る時、レジの場所に小さな緑色の小箱に入ったお菓子(飴とかガムとか?)と思しきものが置いてあったため誰かが興味本位で買っていた。おかしなもので、誰かが買っていると自分も欲しくなるという心理はあって結構ぞくぞくと皆さん買うのである。私はもうその時は既に外に出ていて知らなかったのだが。そして、それが凄い代物だったらしい。中には黒っぽい色をしたグミが入っており、みんなゲーゲー言っている。凄いまずいのである。例えようもないほどまずい。その名も「SISU」、シスとは「フィンランド魂、忍耐、我慢」といった意味、その通り、忍耐を強いるグミである。ガイドさんは言う。「これを噛まずにひたすらなめる、これこそがシスです。フィンランド人はこれが大好きなんですよ。」中国でいう「臥薪嘗胆」ですな。
 ただ、私は何故だか、あまり違和感無くなめられるのだ。味覚が麻痺しているのだか?ここでは買いそびれたのだが、あとでまたこの「SISU」に出会うことが出来たので購入、ストレスの多い世の中、シスの精神を鼓舞するべく日本でもたまになめることとするか。

(2001.9.10 Ms)

<6> ハメンリンナ

 印象深いタンペレの街ともお別れ、次なる目的地は、シベリウス生誕の地、ハメンリンナである。タンペレからはバスで1時間もかからない。
 昨年の旅行でも訪れたが、ほとんど通り過ぎる程度、時間もなく口惜しい思いをしたものだ。今回は、ハメンリンナにて宿泊もあり、じっくり散策できるかな、と思ってはいた。しかし、宿泊がハメンリンナ市街ではなく、やや離れたアウランコ国立公園内のホテル、ということで少々がっくり。それでも時間を見つけて、市内を自由に散策したい、との希望を胸にホテル入り。

 荷物の整理をしてから、午後4時過ぎ、アウランコ国立公園でハイキング。まだまだ日は高いです。
 ガイドさん曰く、ここの自然は自然ではありません、と。本来ここにあった自然ではなくて、人工的にいろいろな木々を植え、また人工の湖を作り、といった按配の公園だとのこと。確かに舗装された道路があって、たまに車が山を上って行く。やや興ざめではある。ロシア帝政時代のロシア軍人の別荘地、ということらしい。ちなみに、最近、日本からのツアーで人気なのがヘルシンキ郊外のヌークシオ国立公園、こちらは、ほんとの自然です。3年前の旅行で訪れました。
 例によって、ガイドさんが、野イチゴやらベリーの類を見つけては、みんなに食べるよう促す。意外とまずくはないです。たまに酸っぱいのもあるけど。ほどなく、人工の湖、「白鳥の湖」(ワザとらしい命名だな)に到着。パンくずなどちぎって白鳥その他の鳥たちとのコミュニケーション。クッキーやコーヒーなどもみんなで分散して持ち歩き、とりあえず湖近くで休憩、ツアーのある女性の発案でそれぞれの自己紹介などしあって、微笑ましくも団欒の機会を得る。私も、シベリウスの音楽のことなど話題にして、明日のハメンリンナ観光への意気込みなど少々アピール。

 さらに山を上り、展望台到着。ハメンリンナとは逆方向の風景なのだけれど、これは素晴らしい。鬱蒼たる森、そして青々とした湖、その合間に人家、耕地が少々点在。天気も良い、晴れ晴れとした気持ちになる。今回はじめて高い視線でフィンランドの自然を見渡す事ができたわけだ。いい感じ。さらにさらに、石造りの高い塔があるので、息をきらしつつ頂上へ。ここからの眺めがまた輪をかけて素晴らしい。是非、オススメしたい。言葉で説明するよりは見ていただくのかてっとりばやいはず。

展望台からの風景
展望台に立つ高い塔
この上からの風景がまた絶品。
しかし、感激のあまり、
デジカメで塔の上からの風景を
撮るのを忘れてしまったので
ゴメンナサイ。

 ハイキングは夜の7時半頃まで。それから夕食。余裕があればハメンリンナ市内まで一足お先にフリーで行こうと思っていたのだがそんな時間の余裕はなくなっていた。残念。でも、アウランコの塔からの絶景が体験できたのだから、と自分に言い聞かせた次第。
 ただ、アウランコの夜、やや興ざめではあった。夕食の途中から、なんだかアマチュアっぽい人達がバンド演奏。なんだか、うるさいは、途中で歌が止まるわで、聞いてられない。なんでも、のど自慢大会の地区予選らしい。こんなホテルのレストランでやるなよ!って感じ。オマケもあって、自称画家と称する日本人中年男性が寄ってきて、私達のツアーの女性たちに「一緒に踊りませんか?」などとナンパしているのであった。しょうもない思い出ではある。

 ちなみに公園内の自然に囲まれたこのホテルには、冷房はない。ちょっと暑い感じ。冷蔵庫もなし。ちょっと不便な感じではあった。大きな窓の横に網戸のような縦長の窓があって、それを開けたが汚いし穴も開いてる。ホテルの設備など見ても、やっぱり田舎に来たのだとは感じる。

(2001.9.24 Ms)
画像追加(2002.1.5 Ms)

 翌朝、ガイドさんは黄色のシャツを着て登場。「これは、シベリウスにとってはニ長調の響きです。」などと、なかなか玄人なコメントである。ヤルベンパーのアイノラに掲げられた葬送の絵があるが、その絵が黄色っぽい配色で、これを見てシベリウスはニ長調を感じ取っていた、と言う話があったのを思い出す。他のツアーの方々には?な話か。
 今日は、この旅の一つのクライマックスである。ハメンリンナ観光。シベリウス生誕地。ガイドさんも気合が入るだろうが、それ以上に私も入る。
 ここは先制。バスに乗り込む前に、ガイドさんと雑談。そこから誘導、である。「ハメンリンナで是非寄りたいところがあるんですが。シベリウス公園・・・・。」「あぁ、それじゃあ行きましょう。まだ日本人はあんまり行かないんですよね。」とあっさり承諾。旅程には予定されていなかったが、こうも簡単に希望が叶うとは。やはり小人数のツアー、さらにはガイドさんに恵まれたというわけか。

早朝、人影もない
ハメンリンナ駅

 さて、日曜日の朝、ということで街はひっそり、なにも動きがない。まずハメンリンナの駅舎に立ち寄る。赤く華奢な感じのかわいい建物。ちなみに、フィンランドの鉄道の先駆けは、ヘルシンキ〜ハメンリンナ間とのこと。古くから文化水準は高かった街ということか。
 続いて、ハメ城。中へは入らず外から眺める。まぁそのくらいで結構なポイントではある。去年は中まで入ったが、ようはスウェーデン辺境の砦に過ぎない。中になにか面白いものがあるわけでもない。既にサボンリンナのオラビ城の場内観光もしたし、あっさり立ち寄っただけなのは正解。私達は次を急がねば。ただ、外見で気になったのは、やはりオラビ城がロシアとの国境に近く、戦いの跡が城にしっかり刻まれているのに比べて、国境から離れたこの内陸のハメ城は、やや平和な雰囲気があるような。
 ハメ城の隣に塀に囲まれた軍事博物館がある。当然中に入ったわけではないが、でーんと構えた中世のお城の傍らに近代的な戦車やら置かれているのはミスマッチが面白い。昨年は気がつかなかった。のんびり外から城を眺めていて気がついた。おまけに、城の周りのちょっとした公園では、リスがご挨拶。俊敏に木の枝の間を飛んでは走り。こののんびりさが良い。
 ハメ地方の人々のキャラクターについては、のんびり、動作が鈍い・・・・とのお話。そんなハメ地方的な観光を朝から楽しんだ次第。

 続いてお待ちかねの、シベリウスの生家。去年は「フィンランディア」1曲分も滞在できないほどのせわしさ。今年こそ・・・・と思ったかいはあった。なんとあの狭い家の中に1時間弱も滞在。ハメ地方の観光はこうでなくちゃ。
 ハメンリンナの街の中心部にあるのだが、街自体、古い町並みが残っていて・・・・・という世界ではない。普通の今風な街。シベリウスの生家の裏手にはそんな高くはないものの大きな店のような建物がある。その建物の周りは例によって、夏の大工事真っ最中で足元も悪かった。
 さてシベリウスの生家、黄色い木造の平屋立て、でも中にいる人間がでっかいのか高さは結構ある。しかし、この黄色、最近塗りなおしたとかで、パンフレットの写真はグレーになっているのだ。色を変えて塗っちゃっていいのか?
 父が医者だったということで、診察室が手前にある。ドアの上部にガラスの小窓がついていて次の患者さんを呼び出すというわけ。診察室には暖炉があり、赤っぽい壁に対して、その陶器で出来た暖炉と煙突が緑色をしているのが映えている。この緑の暖炉、アイノラもそうである。幼くして父を亡くしたシベリウス、父の思い出はほとんどない。かすかに、タバコとこの緑の暖炉を覚えているのみ、と。アイノラを作る際は、暖炉を緑にするのが、設計者に対する第1の注文であったとか。タバコの愛好も、知らぬ父への憧憬の現われか?


 部屋の中では、父の書いた診察記録やら、破産宣告書、そして、シベリウスの学生自体の写真や、当時のハメンリンナの様子など見る事が出来る。一部屋さらに進むと、楽器がいろいろ置いてある。シベリウスの姉愛用のピアノ、弟愛用のチェロ。本人愛用のヴァイオリンはありません。そのかわり、幼いシベリウスの弾いていたオルガン(足踏み、4オクターブの小さいもの)、とギターが展示されている。シベリウスとギターというのはやや意外な取り合わせではある。

ピアノの上には、同じピアノの前で
ポーズを取っているシベリウス自身の
写真があります。

これらの楽器でシベリウス三兄弟が
トリオなんか組んでいたんですね。
う〜ん感激。







下は、可愛らしいオルガン。
ジャンを名乗る前、
ヤンネ坊やの面影も
想像されます。

   

 


 さらに進んで、シベリウスが生まれた部屋。人の良さそうな、彼のお婆さんの写真が掲げられている。


 ひととおり、説明を受けたあと、サロン・コンサートのできる中心の部屋に座ってシベリウスの音楽のCD鑑賞会と相成る。ガイドさんが、「せっかく、シベリウスの故郷に着たのだからと」選んだのは「水滴」というバイオリンのチェロのデュエット。まだ10歳のシベリウスによる可愛らしくもちょっと哀しげな小品。これを聴いたあと、「それでは、シベリウスの専門家の方に曲を選んでいただきましょう」ということになった。うーん。長くなく、シベリウスの音楽の良さをみんなに知ってもらう曲か・・・・いろいろ悩みつつ、やはり、ここはアイノラじゃないし、若き日のシベリウスを聴きたい、と個人的に思ったのと、ピアノの作品は比較的親しめるかな、と思ったため、「即興曲 作品5−5」を選んだ。個人的には楽しめたのだが、ちょっと暗かったな。さらにさらに、我が妻の選曲、弦楽四重奏曲「親愛な声」のフィナーレ。確かにカッコイイ曲なんだが・・・ちょっと深刻味がありすぎだったか?・・・でも、この3曲続けて聴いてみて、シベリウスの音楽の背後にある、「暗い情熱」みたいなものは感じ取っていただけたかどうだか?
 ここまで聴いて、さすがにガイドさんもフォローしなきゃいけない、と感じたか、「専門家の方の選曲はちょっと難しかったですかねえ。シベリウスも晩年はなかなか難しい曲を書くようになっちゃって。まぁ、最後に、元気の出るような明るいシベリウスも聴きましょう。」と。
 カレリア組曲より「行進曲風に」
 妥当にうまくまとめていただきました。ありがたや。・・・・ただ、皆さん、こういう立場のとき、何を選んだら良かっただろう?交響曲から1楽章分抜き出すのも長いし。超有名曲とは言え「悲しきワルツ」じゃ、唾を飲み込む事も出来ないほどの緊張が強いられるし。最初から「フィンランディア」を敢えて選びたくもないし。「アンダンテ・フェスティーボ」じゃ淡白過ぎか・・・まぁ、ガイドさんと私達の選曲した4曲でシベリウスのかなり本質的なところまで短時間で習得しえたであろう、ということにしときますか。

 余談ながら、でも、こういう時、シベリウスって難しいなぁ、と感じてしまう。あり得ない話ながら、ショスタコの家、なんて設定なら文句なしに交響曲第10番の第2楽章。タヒチ・トロットという手もあるな。・・・・いろんな作曲家で考えてみるのも楽しい。・・・・ただ、シベリウス以上に困るのはブルックナーだろうな。でも、こんなシチュエーションが全くあり得なさそうな作曲家ではある。

 シベリウスの生家で、これだけのんびりと(ハメ方式で)、腰を落ちつけて滞在できたのは一生の思い出。
 最後に、受付の男性がガイドさんに話していたこと。「今日の選曲はセンスがいいですね。毎日10回以上フィンランディアを聞かされるんです。個人的には、独立記念日だけのために取っておきたいのですが・・・・」
 ひそかに嬉しい。

(2001.10.3 Ms)
画像追加(2002.1.5 Ms)

 シベリウスの生家ともお別れ、続いて、シルバー・ラインのクルーズである。ハメンリンナからタンペレへの航路が、シルバーラインと呼ばれているのだが、湖の両岸の銀柳が美しく銀色に輝いている事からその名が付いたらしい。タンペレまで船で行こうものならまる一日かかるほど、のんびりした旅である。我々観光客は、シルバーラインの見所である、ハメンリンナ〜ハットゥラ間のクルーズを楽しむ。
 まず右手にすぐ、ハメ城の雄姿が目の当たりに。さらに、宿泊したアウランコ公園が左手に。あとは、ひたすら自然の中を1時間弱。
 とあるシベリウスの伝記のなかに、少年時代のシベリウスがバイオリン片手に、このヴァナヤヴェシ湖に船で漕ぎ出し、鳥たちに向かってバイオリンを奏でる、というとても美しい描写があった。・・・・事実かどうかは知らないけれど。シルバー・ラインの船から、ハメンリンナの自然を体験する時、ふと、そんなシベリウスの姿が脳裏をかすめていい感じ。

 ハットゥラにて再び船を降りバスでハメンリンナ市街へ。昼食をとって午後は、ガラス製品の工場兼ショップのある有名メーカー、イーッタラへ。その前に、私の希望を入れてくださり、シベリウス公園へ。
 ヘルシンキのシベリウス公園ほど広くもなく、なんの変哲もない小さな公園。ただ、若き日のシベリウスの銅像がここにある。フィンランドのシベリウス像、と言えば、まず、ヘルシンキのシベリウス公園、モニュメントの傍らの最晩年の厳しいお顔、であり、また、隠遁の地、ヤルヴェンパーの駅近く、ヤルヴェンパー・ホールの、晩年の全身像、が有名であろう。しかし、それだけじゃぁありません。ここ、生誕地、ハメンリンナの若き精悍なシベリウスの姿も一度見ておく価値はあるでしょう。

若く凛々しい精悍なシベリウス像

 シベリウス・ファンの方々にとっては、シベリウスのシベリウスたる所以は、晩年の凝縮された作品群あってこそ、という意見が主流になるのだろうけれど、私にとっては、やはり初期の荒削りな、そしてスケールの大きな表現なども多いに好むところで(クレルヴォやエン・サガなど)、若きシベリウス、になんだかひかれるところ大なのである。個人的には感激しました。
 そして、ガイドさん、シベリウス公園の道を挟んだ向かい側の、シベリウスの母校もちらりと紹介してくださり、壁に埋め込まれた、有名な卒業生たちのプレートの中の一つ、シベリウスのものを教えてくれた。そのプレートには、「フィンランディア賛歌」の冒頭がしっかり刻まれておりました。
 ハメンリンナでのゆったりとしたハメ方式の観光。1年ごしの夢がかなって嬉しいです。ほんと、このツアーには感謝感謝。

 さて、ここでどうも私のテンションは沈静化。目的は達成されたわけで、この続きはややオマケ的なもの。かるーく流しておきますか。
 ハメンリンナ郊外、 イーッタラにて、ガラス吹きの見学や、その後、ガラス製品のショッピングを楽しむ。工場に併設、ということでニ流品がとても安く購入できて良い(素人目にはキズはわかりません)。かなり沢山買い込みました。単価としては、日本での価格の半額近くで購入可、別途郵送料を入れても7,8割のお値段、というところでしょうか。拙い英語を駆使して、日本への郵送を依頼したりもしました。個人的には、とてもヒヤヒヤものでしたが。・・・後日談。2週間ほどで荷物は届きましたが、中身、一部破損・・・・なんてこった・・・・ということで写真とともにエア・メールを送り、やっと9月下旬、無事届いたところです。一安心。

 (2001.10.9 Ms)
画像追加(2002.1.6 Ms)

<7> ナーンタリ 〜 ラウマ 〜 トゥルク

 イーッタラから進路は西へ。バルト海を目指す。風景は一転する。いわゆる、森と湖の国、ではあるのだが、ハメ地方から西は、湖もめっきり少なくなり、また、耕地が多くなる。我がフィンランド紀行もコーダにさしかかって来たわけだ。
 フィンランドの古都、スウェーデン支配時代の首都であったトゥルクを目指し、その街の手前でやや北に進路を変え、トゥルク郊外のリゾート地、ナーンタリが、私達のフィンランドでの最後の宿泊地となる。豪華リゾート・スパ・ホテル。
 とても美しい、そして清潔感あふれるホテルである。午後6時半頃着。食事は午後7時半から1時間半くらい。そして、その後やっと、温水プール、サウナにてのんびり、という訳だが、午後10時には終わってしまうのだから、なんともせわしい旅人たちではある。
 そもそも、1週間2週間と滞在し、昼間からプール、サウナ、女性の皆さんはお肌の手入れなどなど楽しみ、場合によってはホテルを拠点に観光に出かけ、午後はのんびり食事、そして歌い踊る、という、長期休暇に対応したリゾート施設なのだけれど、私達はせわしい日程もあり、とてもヨーロッパ的にこんなホテルも使いこなす事はできない。あわただしく、プールにドボン。10時過ぎてもドアは閉められないけれど、サウナのスモークはじょじょに薄らぎ、ここらが潮時、と三々五々11時頃までにはみんな部屋へと戻る。
 ちなみに、食事の時、やはりアウランコのホテルと同様、ショーをやっていた。ただし、こちらの方が断然ましだった。やはり客層は圧倒的に老人が多い。アコーディオンが主役のバンドがステージに立っていろいろタンゴ始めダンス・ミュージックを演奏する。すると老人の夫妻たちがおもむろに立って社交ダンスを始める。ダンスのスペース、ところ狭しと老人達がくるくる回る。不思議とぶつからないのが凄い。かなり上手い人も多い。面白かったのは、曲が終わるごとに一応、皆さん席に戻るのだ。そして次の曲が始まると、「この曲はやめとくか」「こいつもいっちょ踊ろうか」てな感じで判断してからたち上がって踊り始める。どんな曲でも同じ踊りの夫妻もいるけれど、テンポや曲想の違いに対応して、その都度、ダンスが変わるカップルもいて、これを見るのは楽しかった。
 ダンスタイムの合間には、やや場違いな感じがしたのだが、若者達がストリートパフォーマンスっぽいような今風なダンスを披露していた。床でくるくる回っているようなやつ。ただ、BGMが、ビゼーの「アルルの女」前奏曲のテーマ(ファランドールの冒頭にも出てくる旋律)、これをアレンジしたものでなかなか面白い。そういえば、日本でも最近、どうきいてもこの部分をパクッた歌がヒットしていたっけ。ひょっとして、そのパクリは二重のパクリだったのかもしれない。アレンジの具合や醸し出す雰囲気がその日本でのパクリとどうも似ている。ただこちらで聴いたのは部分的なパクリではなく、ちゃんとした「編曲」ではある。

 広々とした部屋で快適に過ごしたフィンランドでの最後の夜も過ぎ、朝を迎える。この日は、ホテルから徒歩で行ける「ムーミンワールド」の観光から始まるということで朝ものんびり出来た。

 そう言えば、今回の旅、ホテルでのTVで見るべきものはなかった。チャンネル数がとても少ない。今まで旅したその他の北欧、あるいはドイツ東欧では、結構日本のアニメをこちらでやっていたりしてなかなか滑稽なものもあった。昨年のデンマークでは大流行の「ポケモン」、3年前は、「ゆかいなバイキング・ビッケ」を北欧の何処かで見た。本家本元で日本制作のバイキングもののアニメが放映されているのも不思議なもの。
 さて、今回不発だったテレビ・ネタではあったが、このナーンタリで貴重映像を目の当たりにした。
 地元のTVも少なく、通常はCNNやらBBCを見ることが多かったのが、偶然その時は地元のいわゆる朝の情報番組的なものを見ていた。森の中で2人のキャスターがニュースを読みつつ、天気予報や体操が間にはさまる。何気につけておいたのだが、突然、宮城道雄の「春の海」が流れ出して驚きである。ただし、尺八ではなくバイオリン。伴奏はお琴のような・・・でも違う。画面を見たら、フィンランドの民俗楽器カンテレである。音色は、ハンガリーのツィンバロンにも似て、日本の琴よりは鋭角的な感覚か。ヴァンスカ指揮のラハティ響の来日時にプレ・コンサートでカンテレを聴いた方もみえるでしょう。さらに、よく見たら、バイオリニストは、ペッカ・クーシストであった。フィンランド期待の若手である。ただ、どうも太ったな。演奏が終わるとトークタイム。兄で、そのラハティ響のコンサートマスターの、ヤーッコ・クーシストも一緒である。うぉお、素晴らしい。偶然ながらこんな番組を見てしまったのは嬉しい。ただ、何しゃべっているのかは全くわからないけれど。

左が兄ヤーッコ
右が弟ペッカ

ペッカ・クーシストには毎年お目にかかっているが
どうも太りましたかね・・・・


 しかし、月曜の朝、フィンランドの日常生活の中で、日本人の伝統的な音楽がTVで流れている・・・・・偶然のこととはいえ、ホントにフィンランド、親日的な国なんだろうな。そして、日本の伝統楽器の代わりに、フィンランドの伝統楽器が使われていた、というのもさらに親しみを覚えた。日本人よ、もっとフィンランドから日本への、熱く優しい眼差しを意識しようよ。

(2001.10.13 Ms)
画像追加(2002.1.6 Ms)

 さて、フィンランド滞在最終日の午前は、ナーンタリのムーミン・ワールドである。ホテルからは海沿いをゆっくり歩いて30分弱ほど。
 ムーミンワールド自体は、小さな島にあるため、長い桟橋を渡っての上陸。午前10時の開園であり、10分ほど前にはかなりの列になってはいたが、もちろんTDLとは比較にはならない。すぐ入れます。ただ、ここで注意。入口は2つあります。向かって左手に入りましょう。右手は海賊ランド?違うテーマパークになっていますので注意。誰もそちらに向かう人はいなかったけれど。
 さぁ開園。ムーミンその他キャラクターたちがお出迎え。さっそく子供達はおおはしゃぎである。天候は残念ながらどんよりとした曇り。ムーミンたちも長靴?をはいての登場、ノンノンは長靴の上からアンクレットをしていた。なかなか珍しい経験か。
 そう言えば、昨日のホテルにて、旅程の中にあらかじめ、ムーミンが夕食にご案内、などと書いてあり、かなり恥かしいなァ、と思っていたのだが、実際は、ホテルに着くや会議室に通され、ノンノンが現われて我々との独占撮影会と相成ったのだった。そのノンノンに先導されてレストランに向かった我々に地元の方々の好奇の目、恥かしい。ただ子供は一緒に着いてきたり、叫びまくるはで大騒ぎ。ガイドさんによれば、着ぐるみに入っている人は、ちゃんとしたオーディションを受けているらしく、そう簡単にバイトの学生にアルバイトさせたり、というわけではないらしい。日本では、ウルトラマンの中に学生時代の三宅裕次が入っていたとか話もありましたが。
 果たして昨日のノンノンと同じだったのかどうかは知らないが(ホテルまで出張サービスなんてやってるのかしらん)、とにかく、パパ、ママ、始めヘムレンさんやらいろいろ歩き回っている。ただ、ミーとかスナフキンは着ぐるみでなく、メイキャップなのは見てるほうが恥かしくもなるな。まぁ、着ぐるみには不適格ではあろうが。
 気をつけるべきはスティンキー。黒いゲジゲジしたヤツ。大きさからいって子供が入っているのだろうが、すれ違い様に、ギャーッと叫ばれてマジで驚いた。いろいろいたずらをするらしい。これまたガイドさんの話では、スティンキー、以前、地元の子供に説教されていたんだそうな。いたずらしちゃいけない、とか、あの時(アニメの中で)、あんなことしちゃいけない、とか。子供は純真ね。
 中央の道を歩いてゆくと、ムーミンの家がある。しかし、建築工法上、あんなに細長く建てられないのだろうか、随分、ずん胴な形態ではある。家の中では、もちろんフィンランド語でムーミンと思しき声がテープで流れていろいろ説明しているのだろうが、やけに快活な声である。日本のイメージだと、岸田今日子のボソボソッとした声なのだが、全然違う。さらに、当然ながら、流れている音楽も、こちらのオリジナルだろうが、なんだか美しい叙情的なバラードっぽい雰囲気のそれもやや悲しげな歌がいきなり聞こえてきて本家のムーミンの雰囲気にはややとまどった。ミーのテーマは、なんだか健康的かつユーモラスな6/8拍子のマーチ風で、これまたあの小憎らしげなキャラとは合い入れない感じもした。流れている音楽に興味を持ったので、楽譜集やCDもこの際、と思って入手したがどうもここで聴いたものとはまた違う代物。いろいろなバージョンがあるんだろう。「チビのミー」という題なのだろうが、流れていた歌がどうも耳についてしょうがない。・・・なんだかミッキーマウス・マーチっぽい気もしたり。
 そんなに広いテーマパークではなく、2,3時間もあれば、全て見て、買物も済んでしまう。ショーは見なかったけれど。
 中央の道から外れて右手は、タンペレの博物館の記事でも触れたが、クニットの小道がある。暗い、寂しげな雰囲気だ。クニットの物語に沿っていろいろ説明を読みつつ進む。なかなかに、通好みな趣向ではある。クニットについては、もっと我々も知っていてよさそうだ。
 左手の道は、何気にスナフキンのテントなんてものがあったりもするのだが、注目すべきは山の上の展望台。ここから海を隔てて、フィンランド大統領の夏の別荘が見えます。ちなみに現在の大統領は女性。ムーミンママを思わせるとのことで、ムーミンワールドの名誉村長?のような役職にもあるとか。なんだか微笑ましい。

(2001.10.20 Ms)

 昼食は再びスパホテルに戻って。おいしいものをまた発見。洋梨のシードル、である。洋梨のジュースは、旅の最初、カレリア地方への電車のなかで飲み、なかなか美味しかったのだが、このシードルがまた良いんだなぁ。緑色のラベルをした、ゴールデンカップという名の果実酒。甘くてすごく飲みやすい・・・・やや危険ではあろうが。もっと早く知っておきたかった。もっと味わいたかった。もうフィンランドを発つ日なのだ。

 さて、午後は、トゥルクから9時15分のシリアラインの豪華客船に乗りこむということで、それまで、トゥルクから北へ約1時間、世界遺産に指定されたラウマの街へ。18,9世紀の木造建築の町並みが今なお街の中心部に残っている小さな都市。
 教会も含めて一時間程度滞在しただけ。街の中央の広場にバスを止めて自由時間となったのだが、華やかな観光都市ではなく、とても地味、いや、自然な街であった。ショッピングセンターも観光客目当てのいかにもというお土産屋も見つからない。コンビニも、キオスクもない。普通に人々が暮らす普通の町、という印象だった。伝統工芸のボビンレースが有名とのことで、その実演をしている店にも行くがもう午後3時で閉められていた。まぁ、こんなところまで足を伸ばす事も今後ないだろう、と思いつつ街をふらふらするも、店らしい店がない。とりあえず手芸の店っぽいウィンドウの店に入るが、これがまた、自然なのだ。地元の人がボタンから布やら布団やら買いに来るような店だった。狭い店だし、何も買わないのも悪くて、ちょっとお洒落なろうそくを買って店を出た。冬が長く暗い日々を送る時、フィンランドの人々はろうそくにいろいろ趣向をこらし、その灯りを楽しむ。そんな、彼らの日常の品を、日常品を売る店で買ったことは思い出深いものがある。
 それにしても、何かラウマに来たと言うような土産はないかしらん、と再びふらふら歩くと、見なれたTAX FREEの旗がかかる店を発見。しかし、中をのぞくと先ほどの店と似たような按配。でも時間がないのでここで何か買って行こう、と決める。結局、手芸品みたいなものや鍋敷きみたいなものを買うことになってしまう。いろいろ迷っているうちに時間も押してきた。ちゃっとレジに持ち込むが、店のおばあさんが、とても丁寧なのである。ひとつひとつ品物をマメに包んでくれる。おまけに、にっこり笑って、絵葉書を一つ、観光ガイドパンフレットを袋に入れてくれた。さらにレジの横にコーヒーポットがあって、「コーヒーはいかが?」と勧めてくれる。・・・・ごめんなさい・・・急いでいるので・・・・あぁ、こんなこと言いたくなかったなァ。せっかくの好意だし。コーヒーでもいただきながら、何かお話でもできれば良かったなと後悔している(英語だけででも話が通じたかどうかはわからないけれど。でも僕の方が片言程度というのがオチだろう。結構一般の人々でも英語が通じている印象がある。)。
 フィンランドの旅の最後、なにかしら心に深く刻まれたのが、このごく自然な素朴な、ラウマの街と、店のおばあさんのこと。自分の日本での生活のテンポとかスピードとは全然違う、ゆったりとした、穏やかな、暖かな、そして人間的な雰囲気、をこのラウマで感じたように思う。今回のフィンランドの旅、東のはずれカレリアとさらに西のはずれラウマ、とても印象に残った。このラウマにて、フィンランド紀行、ほぼ全日程を終了した、といって良かろう。あとは、日本へ帰る帰路に過ぎない。

(2001.10.21 Ms)

 トゥルクの街に着いたのは夕刻。9時過ぎのシリアラインに乗船し、スウェーデンの首都ストックホルムへの船旅である。それまでの間、若干の観光と夕食をとる、それだけのためのトゥルク滞在。
 ヘルシンキと同様、造船がさかんな街のようだ。街に入ると、中央にはそれほど大きくない川が流れ、その岸に多数の船が停泊している。ほとんどがレストランらしいのだが。
 まずは、トゥルク城。これで、今回の旅、フィンランドの三大古城制覇というわけだ。が、第2次大戦で破壊。再建である。スウェーデン支配下の首都ということで三つの城のうちで最も長い歴史を誇る。場内は博物館となっており、中世の衣装やら家具やら、いろいろ集めて置かれている。城の歴史のジオラマなど見ると、立った当初は海に面していたらしいが、数百年の後、土地がみるみる隆起して内陸の城になったのだそうな。氷河時代に分厚い氷河に覆われていた北欧、氷河が溶けて、その重石がなくなってから1年に数センチという単位で土地が隆起しているという。
 城の中には、中世当時の城でまかないをしていた召使と同じ、白と青の服装をした人達が係員としてみえますが、私達が訪れたのは閉館直前、どんどん私達を後ろから何気に追いたてて、せわしなく城を後にしました。
 続いて、大聖堂。さすがに巨大な教会。ただ、あまり装飾もなく地味な感想。まぁ、この旅でみた最も大きな建造物だはあっただろう。しかし、私はそれよりもおおいに気にしていた事があった。この教会の近くに、シベリウス博物館がある。・・・・当然もう閉館なのだけれど。せめて博物館の前まで、と思ってはいたが、時間もない。バスの中からちらりと拝んで、またの機会を心に誓った。

 夕食の際は、忘れずに、洋梨のシードルを頼む。あいかわらず美味である。

シリアライン甲板より後方、トゥルク方面を望む


 さぁ、フィンランドともお別れ。シリアラインに乗り込む。ここにも、着ぐるみムーミンがいた。やはり、このトゥルク、ナーンタリ・・・ムーミンの本拠地の感が強いな。さて、今まで二度、シリアラインは利用しているが、2回ともストックホルムからヘルシンキへの旅。今回は、トゥルクからストックホルム。航路が違うので船も若干違う。船室はあまり大差なく感じたが、ショッピング街がやや狭く、相当混雑していたようだ。あと、ヘルシンキへの航路と違って、出発時間が遅く、また、到着時間が早い。船内での活動がおおいに制限されてしまう。6時頃から船に乗り込んで、のんびり食事と買物を楽しんだ前回に比べ、9時に乗り込んで11時に店が閉まるため、甲板に出て風景など楽しみ、船内を探検し、また、買物に時間をかけて、などとやっていたらもう時間である。しかし、洋梨のシードルと、シスなるまずいグミはしっかりと確保、である。
 船内に慣れていないのもある。通常、船に乗り込むときに、写真を撮られるのだが、それがショッピング街の一角に全て張り出され、欲しい人は購入、というわけだが、その恒例の場所がなかなか見当たらず、結局、ショッピング街の一つ上の階で見つけたのだが、そんなことにも時間をかけてしまう。
 さらに大変だったのは、朝食。今までと比べ一時間ほど到着時間が早い。朝、早起きを強いられ、かつ、大混雑のバイキングである。随分並んだ。待たされた。正直、今回の船旅はイマイチ。やはり、ゆったりとした、ヘルシンキ〜ストックホルムの船旅をお薦めしたい。
 そんなこんなで、もうラウマからは、日本への帰路ってなテンションになってしまった次第。

(2001.10.27 Ms)
画像追加(2002.1.6 Ms)

 翌朝、ストックホルム着。市街をざっとバスで回る。しかしいつ来ても青い空と湖、美しい姿で私を迎えてくれるストックホルム。この風景、三度目だがいつも間違いなく清々しい。・・・ただ、思い返せば、1回目の訪問はスリにカメラを取られ、2回目は半日ホテルでダウン。ろくな思い出もない面もあったりするのだが、今回は無事、ストックホルム滞在を過ごせた、とは言え半日足らず。自由行動もガムラスタンでブラブラ。も少し時間があれば中心地へ行ってNK(エヌコー)デパートでお土産など買いたかったがそこまでの時間はなく。ガムラスタンにあるセブンイレブンでパスタなど食べて時間はあっというまに。
 空港で昼食。旅の総括として、やはり北欧のオープンサンドを。
 最後に空港内の売店でシスによく似たグミを発見。名前は違うが外見はほとんど同じ。でも、ちゃんとフルーツ系の味がついていて、シスとは全然違うな。スウェーデン人には、やはりシスはお好みではないらしい、ということか。

 さて、フィンランド紀行もこれでおしまい。
 この旅行の後、海外へ行くのもなかなか大変な時代となってしまいました。今後はなかなかヨーロッパまで足を伸ばすのも・・・・。
 また、2002年、ユーロ通貨の導入、シベリウスの紙幣ともさようなら、か。
 ということで、余計に今回の旅行、思い出すたび、美しさ、楽しさ、美味しさ、もろもろの感激がよぎります。

 フィンランド、いや、スオミよ、ありがとう。これからも、良きスオミでいておくれ。またの再会の日を楽しみに。

  帰りの飛行機で、ムーミンが来日。
成田空港にて、お出迎えの子供達に囲まれて。

これにて長期連載完結。(2002.1.6 Ms)

画像追加その他一部文章訂正(2004.5.24 Ms)


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