旬のタコいかがですか? ’99 11月
(ショスタコBeachへようこそ!)
ほとんど、冗談で始めた、「ショスタコBeachへようこそ」ではありますが、今年後半の当ページのメインテーマが、ショスタコーヴィチということで、毎月、この項では、その月にちなんだショスタコ・ネタを紹介していこうと思います。
旬のタコ、いきのいいタコのネタを、どうぞ、ご賞味あれ!!!
さて、この項を書き始めた今日、1999年11月9日は、ベルリンの壁崩壊10年の記念日だ。この夏は、東欧、旧東ドイツと旅行し、共産圏の自由化の生の姿をじっくり見てきたこともあり、感動もまたひとしお、といったところ。ショスタコーヴィチも生きていたなら、この現実を喜んだことだろう。しかし、自由の行き過ぎについては、さて??(現在連載中の、今月のトピックスの東欧旅行記も参照してくださいね)
ところで、私がこの記念すべき日に取り出したCDは、映画音楽「ベルリン陥落」。ナチの都ベルリンの陥落を、この夏見てきたベルリンのど真ん中に今なお残るソ連軍戦車を思い起こしつつ想像しながら、そのソ連の支配にあったベルリンを陥落させた10年前の民衆の力を今また思い出しながら、その音楽を聴いているのだ。
英雄スターリンに向かってある少女が「キスさせてください!!」とのたまってしまう、今となっては大爆笑のソ連最高の国策映画の傑作でもある。そんな、恥ずかしさ一杯の、しかし、それを笑ったら殺されかねない悪しき映画のためにショスタコーヴィチは、たいそう大袈裟な音楽をつけた。それも、ほとんど旧作で、スターリン好みなオラトリオ「森の歌」とそっくりな音楽つけて、彼の手の抜き方は明らかだ。(それにしても、「ベルリン陥落」全編、一度見てみたいもの。)さて、今月は、その「ベルリン陥落」じゃなく、実は「森の歌」の方が主役である。
1949.11.15
オラトリオ「森の歌」初演
今年は、「森の歌」完成、初演50周年、という記念Yearでもあります。その割には、全く盛り上がってないですね。
第一、ショスタコ・ファンの間でも大不評の作。権力に対抗し続けた、芸術家としての良心溢れる彼というイメージに基づくなら、全面的に権力に屈服し「スターリン万歳」とやってしまったのがまずかったか?
しかし、私は大好きです。いきなり、ドミソーなんて聞こえてくるは、旋律がドレミファソラソーだったりして、音楽知らない政治家達にも受けるような音楽なのが気に入らない、というのもうなずけないではないが、1949年、奇をてらったような現代音楽横行の時代に、こんな素朴な、しかし魅力ある作品を書いた彼は、やはり、こんな曲書かせても、天才だ、と納得せざるを得ない。本稿においては、「森の歌」への応援、名誉回復を狙ってみよう。
(1999.11.9 Ms)
<1> 「森の歌」 概説
曲は全7楽章からなる。
第1曲「戦いの終わった時」。第2次大戦は勝利の内に終結。ソビエトの領土は拡張し、スターリンの独裁的権力もさらに強化された。大祖国戦争を勝利に導いた偉大なる指導者は、国内に目を転じ、冷戦構造の一方の大国として共産圏独自の経済圏を確立すべく、砂漠の緑化、食糧大増産の方針を打ち出す。
この「森の歌」の総論部分である。指導者の聡明な見識、民衆を思う徳性が穏やかな楽想に現れる。ただ、前述の通り、ドミソ、ドレミファソラソ、などという平易な旋律展開が、偉大というよりは、単純すぎるようにも感じられる。今となっては、結局、脳天気な自然改造計画は成功したのだろうか?とも考えてしまうな。
第2曲「祖国を森で覆おう」。指導者の鶴の一声で、大衆動員。スローガンが何度も連呼される。同じフレーズがアレンジを変え、何回か繰り返されるのだが、その旋律が、長調と短調を行き来し、かつ、3拍子基本だがサビは4拍子、と飽きさせない作りでかつ、ロシアの民謡的な雰囲気もある。ショスタコーヴィチお得意のスケルツォ楽章だが、道化あるいは独裁的脅威は微塵も感じられず、真面目である。交響曲には見られないスケルツォである。
第3曲「過去の思い出」。ロシアにおける自然の脅威を嘆く農民達(ロシア南部の穀倉地帯が舞台。極寒の地というイメージでなく。)。日照り、そして砂漠からの熱砂によって農作物は全滅。あぁどうしたらいいのだ。いや、その自然を克服しよう。国土を改造してがんばろうじゃないか。
私は、この楽章をクローズアップさせたい。確かにロシア民謡風、平易な書法は貫かれているが、冒頭の弦5分による主題に注目、複付点音符の特徴的なもの。交響曲第5番、第8番冒頭をかすかに想起させる。ちょっと本音が出てきたか?絶対的な強者に苦しめられる弱者、という構造。独裁者か自然の猛威か、という違いは有れ、基本は同じ。さらに、混声合唱を主体とした民衆の嘆き。彼が敬愛するムソルグスキー的な世界が現れてはいないか。
彼のムソルグスキー的作品と言えば、交響曲第11番を筆頭に、第14番初めとする声楽作品などが代表とされ、どちらかと言えば後期に特徴的なものという感覚もある。しかし、彼が歌劇「ボリス・ゴドノフ」などに感化された最初の例は、やはり歌劇「マクベス夫人」最終幕の囚人の合唱あたりではなかろうか?そして、その声楽作品としての系譜は、「プラウダ批判」によるオペラ作曲からの撤退によって中絶される。しかし、彼の中にムソルグスキー的なものはくすぶりつづけ、その機会をうかがっていたのではないか。そして、晴れて、国家的大作「森の歌」の中にそのイメージを発見し、その片鱗を開花させた、ような気もするのだが。この楽章に関しては、一応の評価を与えたいところなのだが・・・。いかがでしょう。
第4曲「ピオニールは植林する」。ピオニールとは、国家規模で組織された少年団。全楽章からのアタッカで、低弦の持続音の上に、少々可愛げなトランペットのシグナルが鳴る。そして児童合唱の登場。ショスタコーヴィチのスケルツォ感覚が、皮肉や道化に向かわず、かつ第2曲のような真面目さにも向かわない時がある。子供の無邪気さを表象するスケルツォも深読み無しに楽しいもの(彼の子供のために書いた作品群など。ピアノ協奏曲第2番始め。)。日本語で、「どんぐりさん、どんぐりさん、早く実をつけてくれ」なんて歌われるのを聴くと、ホントに顔がほころんじゃうなぁ。今の日本の子供たちには似合わなくなりつつあるんだろうか。この曲のような感覚は、子供たちに是非持ち合わせていただきたいな。保育園辺りでの必須アイテムとして歌い継いでいただけないものか?「曲解」者としてでなく、一人の大人としてせつに願うところだ。
第5曲「スターリングラード市民は前進する」。さらにアタッカで、曲想は盛り上がる。少年達に引き続き、若者達が植林政策を肯定しつつ、共産主義をも称え始める。その前座となる主題が、「祝典序曲」にも生かされる。第2次大戦の激戦地、そして、ドイツ軍への反撃を開始した地、そして、偉大な指導者の名を冠した地、その都市が、この植林政策の前進基地なのだ。意気上がるスターリングラード市民の興奮がとめどなく続く・・・・。
第6曲「未来への逍遥」。熱狂的な前楽章の興奮がやみ、コーラングレの独白。この作品で、もっとも「ハッ」とさせられる部分。大クライマックスの後に続く木管楽器の弱々しい独白は、ショスタコーヴィチの定番。交響曲でも数多くの例がある。しかし、この作品に現れるからこそ、という重要な意味がこの部分にあるような気もするのだが・・・・それについては後述。
この楽章は、合唱が主体となり曲は進む。砂漠が緑化され、その森に鳥たちが集い、美しい歌声を響かせるであろう。フルートがうぐいすの歌を歌う。とても美しい場面だ。今なお、合唱に携わる人々がこの曲を憧れ、背後にあるドロドロとした政治的な影をも気にせずに純粋に音楽的な理由から歌い継いでいるのも、充分うなずける。ショスタコーヴィチにしては、ほとんど例外的な「癒しの音楽」だ。どこかのレコード会社が、ヒーリング・ミュージックのCDの中にこの楽章でも入れたのなら、確実にヒットすること間違い無し!!!
余談だが、私は車の中に「ドライビング・ショスタコーヴィチ」なるテープを入れており、高速道路などでよく愛聴している。交響曲全集から、とにかく速い楽章ばかりセレクトした一品(10番2楽章を筆頭に、8番3楽章、11番4楽章、12番1楽章などなど)。これも発売すれば売れそうな気もするが、今度「ヒーリング・ショスタコーヴィチ」もセレクトしてみようか。なかなかネタに困るかも。閑話休題。
第7曲「賛歌」。ロシア的な7/4拍子を基本とした、壮麗なるフーガである。国家礼賛がひたすら続く。そのフーガの頂点で、金管のバンダが登場、第1曲が回帰し、堂々たる終結へ移行する。「スターリンばんざーい」で幕。(スターリン批判の後は、露骨な表現は改められている)
全体的に、平易な書法、空虚な歌詞内容で、世の音楽ファンからは冷たい視線の「森の歌」。たしかにそんな点は認めるが、音楽的に素晴らしい部分もたしかに存在する。捨て置くにはもったいない音楽だと思いますが、気を取り直して聴いて見ませんか。
さらに、私の個人的野心。
わが愛知県にて開催の2005年の万博。自然との共生がテーマ。是非とも、万博のテーマ音楽として
「森の歌」はいかがでしょう。
自然保護と、人間生活との調和を図る上で、「森の歌」のメッセージは(反面教師的側面も多分にあるが)もってこいだと思うのだが。幸い、名古屋には、「森の歌」を歌うべく結成されたという合唱団も数10年、オケとの共演も含め地道に活動しているのた゛。今こそ「森の歌」復活の時代だ。初演50年にして思う。この作品を歴史の闇に葬るも、後世に伝えるも我々の判断次第。もっともっと、「森の歌」盛り上げて行きたいものだ。
(1999.11.21 Ms)
<2> 「ヴァイオリン協奏曲第1番」 概説