事故率の変遷



棒グラフはF1ドライバーの死亡事故件数で、折れ線グラフはF1GPでの出走台数ごとの事故発生率です。1970年代中盤まで、F1ドライバーはF1以外のレースにも出場して命を落としていました。
両者の関係は1970年代中盤を境に対象的です。すなわち、1950年代から1970年代中盤までは、F1ドライバーの死亡事故が毎年多発していますが、それ以降は減っています。一方、F1GPの事故発生率は1970年代中盤以降、増加しています。安全性が高まるにつれて、ドライバーは無理をするようになったのでしょうか。

F1マシンによる死亡事故



これはF1マシンによる死亡事故に限った場合です(前のグラフはF1ドライバーによるF1以外の死亡事故も含んでいます−例:1955年アスカーリと1968年クラークはF1以外で死亡)。
初めてF1グランプリレース中に死んだのは1958年フランスGPのムッソでした。以来、1994年サンマリノGPのセナまで、F1レース中に18人が命を落としています。予選では6人。1958年から1982年までの25年間、F1グランプリは、年に一人は死ぬ時代が続いていました。

排気量規制の変遷



レギュレーションにおけるエンジンサイズの変遷です。1958年と1960年に、F1での死亡事故が多発し、1961年に排気量が3リットルから1.5リットルに半減されました。その結果、馬力がダウンしましたが、死亡事故がなくなったわけではありません。一方、1.5では迫力がないという声から、1966年に再び3リットルに戻されました。F1の長い歴史上、3リットルの期間がもっとも多いとわかります。
さて、過給は排気量が制限されていて、長いこと進出するメーカーがなかったのですが、1977年にルノーがターボに挑戦し、1979年に初勝利を上げました。この後、他メーカーも続々とターボを採用し、1984年には全車ターボとなりました。ターボで最大の栄光をつかんだのはホンダです。出力は1000馬力を超え、危険と判断されました。1987年から過給圧規制がかけられ、1989年に過給が禁止されました。
死亡事故は1987年以降、止まったのですが、1995年、前年のセナらの死亡事故から、排気量は再び3リットルに戻りました。

シャシーの安全対策

1961年 ロールバー
車が横転したときドライバーの頭を保護するために設置されました。1958年と1960年の死亡事故多発を契機として、コックピット背部はドライバーの頭より高くなくてはならなくなったのです。

1969年 シートベルト
事故の衝撃でドライバーが車外に放り出されて頭部損傷で死亡する危険を防ぐために義務付けられました。それまではシートベルトがない方が脱出しやすく火災などから安全だと考えられていたのです。1968年のクラークの死亡事故が教訓となりました。

1983年 フラットボトム
強大なダウンフォースを発生するウィングカーは、同時にハンドリングが重くなり、緊急時の回避が困難です。ウィングカー禁止のため、シャシーの底を平面にする規制がとられました。前年の1982年、追突事故が多発し、G・ビルヌーブとパレッティが死亡、ピローニが引退に追いこまれていました。

1996年 サイドプロテクター
車が横から衝撃を受けた場合、ドライバーを保護するために設けられました。1994年のセナの死、1995年のハッキネン重傷が教訓となりました。サイドプロテクターのおかげで、1997年カナダGPのR・シューマッハはガードレールに横から激突しましたが、無事でした。

※重大事故が起きないと、安全対策はほどこされなかったのです。今のF1マシンは、幾多の犠牲から築かれた安全性の上に成り立っています。
しかし、1997年のパニス、1999年のM・シューマッハの事故では、足がやられました。フロント部分が依然として弱点です。