知里幸恵と金田一博士の謎 |
知里幸恵は、古くから教科書に載るほど『アイヌ神謡集』を自ら書いた少女として有名ですが、 不可解なことも多いので、それを検証してみたいと思います。 その前に幸恵を養女にする金成マツさんの概略足跡を参考までに書いておきます。 金成マツさんと妹のナミさんは、バチェラー博士の愛隣学校を卒業して 明治31年~明治42年の秋まで日高沙流平取の教会で伝道活動をします。 金田一博士が平取でカネカツクから Pa imoka Pa chepipe 「首苞 首肴」を 初めて筆録するのが明治39年ですから・・・未だマツさんは、沙流に居たことになる。 バチェラー博士は、ペンリウク翁にアイヌ語を習ったがトラブルで一旦撤退して 再度、教会を建て布教に努めるが、アイヌの神々はお酒が好きなので、 禁酒するバチェラー博士の神様を長老たちは相手にしなかった。 コタンピラは、洗礼を受けてマルコと云う名前を貰っていたようです。 明治42年の秋に旭川のアイヌ部落が在る近文に金成マツさんは幸恵を養女にして 母親のモナシノウク媼と三人で暮らし伝道活動を継続します。 大正11年に幸恵が亡くなり、モナシノウク媼も間もなく亡くなり 大正14年に登別に帰って、静かな余生を送ることになります。 |
さて、これから本題に入って行きたいと思いますが・・・ 大正元年に上野でコポアヌ媼と出会って、金田一博士が自宅で沙流のユーカラを ワカルパ翁から筆録し、翌大正3年にコポアヌ媼と息子のタイノアシから シサムウゥエペケレなど筆録し、大正4年に沙流で集中筆録し原典を残せた。 それからは、専らコポアヌ媼が上京して沙流のものを伝えた。 新冠の御料牧場の為、沙流に移住させられた人のものも伝えた。 大正7年の踏査の時、バチェラー博士に会い、八重子と中條百合子にも会って それから随筆でも有名な金成マツさんと知里幸恵に会ったと思われる。 それから幸恵とのやりとりが始まり・・・東京行きに繋がる。 大正9年6月に金田一博士は、幸恵に大学ノート3冊送る。 幸恵は大正10年4月にノート一冊目を2・3冊目を9月に送り 金田一博士が柳田国男に見せて、爐邊叢書に載せるのを決める。 それから幸恵は出版用に原稿を書く。大正11年「アイヌ民譚集」の原稿も書く ----- 幸恵の日記と両親に宛てた手紙から検証していこうと思います。 ----- 大正11年5月11日に室蘭から連絡船に乗ることになるのですが、 ① 大正11年4月9日のご両親に宛てた手紙には、 『ちょうどフチが、此の度帰ると云はれますからお送りして、登別へ参ります。 少し都合がありまして三十日のを二十八日に決めました。 そして、お家から東京へ立ちたいと思ふのです』 そして、13日に東京に着いて金田一博士の出向かいを受けます。 それから17日のご最初のご両親に宛てた手紙には、 『日高のウナラベは、孫と姪だか二人のむすめを連れて来て二十日ばかりゐましたが、 私が来る二三日前に帰ってしまったさうです。その婆さんは今度で七回目の上京ですって』 その婆さんと言うのは、大正10年12月に来てその続きを娘を連れて 伝えに来たコポアヌ媼のことで、普通は若い女性ならフチと云う筈? そして、幸恵は、コポアヌ媼が椎茸とか豆も送って来るそうだが・・・ 自分が持って来た豆の方が上等だと両親に云っている。 何かしら対抗意識が垣間見えるような気がしてならない。 幸恵は、6月1日から日記を付けることになるけれど、 6月2日に書いてあるのはこう・・・ 『今日もいゝお天気。朝の中は英語の復習、洗濯で時を過し、お昼飯まではシュプネシリカを書く』 金田一博士は朝7時には家を出て夕4時頃帰宅されることを幸恵は最初の手紙で書いている。 6つの学校で言語学を教えていて忙しいことも書いている。 そうするとコタンピラが来たのは、5月21日・28日の日曜日か風邪で博士が休んだ30日か? に限定されてしまうが・・・ そして、6月9日のご両親に宛てた二度目の手紙では、こう書いてある 『それに此の間、あのアチャボがやったユカラをまだ書いてゐるもんですから……』 アチャボと云う言い方は、余程親しい人にしか言わない言い方で・・・ 金田一博士がワカルパ翁を呼ぶときに使う言葉・・・普通はエカシと云う。 金田一博士は、大正2年に沙流の豪族のエカシキリ(男の系譜)をワカルパ翁から聞いて コタンピラ・カネカツク・ヤヤシ・鍋澤元蔵などの出自を把握されている。 バチェラー博士のこともワカルパ翁から聞いて解っていた。 金田一博士は、これは本物だと思うと筆録しておこうという気持ちが強かったと思われる。 だからコタンピラとかエテノアとかを筆録する意欲が無かったようです。 ヤヤシ所伝のシュプネシリカの終章を大正6年にコポアヌ媼から聴いて確認されて居る。 金田一博士は、踏査の中で本物かどうか?は、見抜いて居られた筈 色々、危ない目にも遭っておられる・・・でも、ワカルパ翁の虎杖丸の曲は 何時も鞄に忍ばせて・・・危機を脱したこともある。 幸恵が東京に着いて・・・二週間以内にコタンピラ等が7人して、増して日曜日に来たとは どうしても考えにくいのですが・・・シュプネシリカを書いている幸恵 幸恵が亡くなってから博士は、幸恵の日記を読んで愕然とされたんだと思われる。 ご自身の日記を調べたらコタンピラ等が来たのは7月に成っている。 母親のナミさんも平取に居たときにコタンピラらとユーカラを楽しんでいて 仲が良かったから金田一博士に相手にされないのを気の毒に思って 金成マツさんが画策したものでないのか? それで、東京に立つ前に、登別で一回聴いてから大凡の筋書きを飲み込んで 東京生活に慣れた頃、東京見物がてらコタンピラが来て・・・ 幸恵が仕上げたのではないのか? でもそんなこと知らない博士は、悩まれたと思われる。 幸恵の『アイヌ神謡集』の中身は明らかに散文の日常語だし・・・ 果たして、これをカムイユカラとして出版しても良いものだろうか? しかし、もう既に柳田国男氏と渋沢敬三氏の手を煩わせている 本当のことを曲げるわけにはいかないのでノートに7月と書いておいて 幸恵の日記は、自分が死ぬまで誰にも見せないようにすればバレないかも? しかし、民譚集までは出版する気にはなれなかった。 それが真実ではないでしょうか? (*^_^*) 実は、金田一博士と金成家の関係は明治39年に遡るんですが、 未だ学生だった博士は、バチェラー博士の辞典などで勉強されていて 金成喜蔵に質問して馬鹿にされバチェラーに聴けと云われ バチェラーが云っているから聞くのだ・・・と云ったら下を向いて黙ってしまった。 そして、幌別にも当代随一のユカラクルが居るのだとバチェラー博士から聞いて 大正7年に旭川の近文に金成マツさんを訊ねることになるんです。 昔、苦い経験があるので、本当かどうか?知りたかったのでしょう。 金成マツさんが大正14年に登別に帰って・・・ 以前、虎杖丸の曲も登別に在ると聞いていたので昭和2年に筆録される。 しかし、虎杖丸の曲とは全く、別のお話だった。 金成マツさんのものの中には、Pa imoka Pa chepipe も含まれている。 ということは、登別にはユーカラが存在しないことになる。 矢張り、金田一博士は沙流のものを全て訳されて、その有機的に 結びついている曼荼羅を明かすべきだったと考えられる。 でも、コンピュータの無い時代だから無理なのかも知れませんね。 |