ツキノィエについて

ツキノィエは、メナシ・クナシリの蜂起に関係していて
小中学生の副読本にも出て来る有名な酋長なのですが・・・
クナシリの乙名とされている文献が多いです。

ところがワカルパ/フォルクローレに依ると
違う裏側の面を明らかにしており、
そこら辺を少し検証してみたいと思います。


メナシ・クナシリの蜂起は1789年に勃発しており
その19年前に十勝アイヌに依るトパッツミが
日高沙流に押し寄せたことをワカルパ翁が伝えている。
それと最近、根室の乙名ションコに松前から『定』と云う
書状が1778年に届いていたとの史料がロシアで見付かったので、
見直しがされると思われます。

ワカルパ翁に依ると、ツキノィエはエトロポの大将
と云っていて・・・現在云われているクナシリの
乙名とは違うことを言っている。


 
 ブザンソン美術館
ワカルバ翁が伝えて居るのは、クナシリの乙名は、Toohui  厚岸の乙名は Ikotoi
釧路は Humenkakushi  厚岸にツキノィエの弟、Kashunde が居たが
弟は優秀で人望もありエトロポでラッコの皮を売って殺されかけた兄を助けたが
ツキノィエは、弟を嫉み憎んで厚岸のアイヌ Shirikometu に殺させる。

ツキノィエは、弟に Ekashi korope 家宝を一つも分け与えずに、Kashunde の親友
湧別の Ikushue がツキノィエから良い宝持って来てカシュンデにやる。
その為、戦起こる。

そのようにトパッツミ(夜盗)とか争いでアイヌが沢山死んで人口が激変した時代に
不穏な空気が流れていてトパッツミの警告の為、道東では Upopo が出来た。

それで、アイヌ古式舞踊としてトパッツミが隠れた状態で紹介されている。
これは、今までのアイヌ文化研究者が誰も、金田一京助博士のユーカラノートを
検証しなかった落ち度だと思う。 2014/12/03

Tukinoye   釧路へ行ってチャランケした話あり・・・・・コポアヌ媼の話し

厚岸の乙名へ酒も米も出すからチャランケしないばイイ、それより云えば
シャモ地までカンピ出せば 持って行けばイイとそうして用済む故 アイヌ感心する。

tan tukinoye ekori erenka tumi shirene  tan akkesh kotan
ekooshirutu kiwane yakne kukoro ottena utara orokehe
itak sak kusu kochaketa huyeu shisampo kune yakkaiki
kukoro ottena utara kochaketa ku itak na
shisam anakne ikoro sak kusu tomi sak kusu tapanpe patek
ikoro shirine yaikoram sake ne yakka amam ne yakka
ne kusu kukoro ottena utara kochaketa sake ne yakka
amam ne yakka kusanke wa nehi akkari ikori renka
eye wane yakne huye shishampo kune yakka
tono eramu anno tan akkesh kotan epunkine kusu
ayante shisam kune akusu tono oro pakno kunuye kampi
arapa yakne ekori renka eye yakka wen ruwe ne na