気が付いたこと・・・ 独り言から   2014/12/12

ずっと謎だった久保寺博士のユーカラ説話説・・・昨日借りてきた著作集でようやく解った!!
それを書いておこう・・・(*^_^*)

「日高・沙流で採集したものはほとんど、英雄詞曲と同一の人称法をとっているが、
これは後世の混同であって
幌別・近文・美幌・芽室あるいは樺太等の神謡のように
詞曲とは違った第一人称を用いるのが古格であろう。」

沙流のものは、新しいと考えていたことがハッキリした・・・
金田一博士の概念とは、大きく違っている・・・
金田一博士とヌッキペッのツナレを訪れた時のことも読み返してみたが・・・
ツナレが最後のハウキ伝承者だったこと気が付かなかったのが窺える。
後は、金田一博士のユーカラの分野は、緊急を要することなのは弁えておられた
近世のものを残すのに動いていたその時代
金田一博士は、古代・中世の空白の部分の探求だった・・・
それを混同されていた人多かったのでしょう。
してみると・・・金田一博士のワカルパ翁4篇の邦訳は、如何に貴重かが解る。
周りがみんなそんなもので・・・これでは駄目だと思われたんだと思う
幌別のものをうっちゃって・・・よくぞワカルパ翁に戻られたと思う。


Irankarapte を今では「こんにちは」と云う意味だと説明されているが・・・嘘(*^_^*)
Irankarapte iyaikoirushkare ~挨拶もなく怒って下さい=ご無沙汰をお詫び致します
道で行き交う人には、云わない言葉・・・身内の男同士の挨拶の言葉(*^_^*)
増して、『貴方の心にそっと触れさせて頂きます』と云う意味もあると言うのは
気持ち悪くて、吐き気を催しますよね~ 女性が使わない言葉です。
金田一博士が修羅場で覚えたお呪い・・・
アイヌの世界は、血縁の世界・・・その中で使われていた言葉・・・
それを云われた酔っぱらいの放蕩息子が平身低頭してから・・・呪文のように使った
ひらけゴマ・・・本当に何故か皆ニコニコする?(*^_^*)
道交う少女達に云うと・・・ニコっとして・・・アイヌの女と暮らしているのか?・・・と
こそこそっと話していたりしている・・・言葉(*^_^*)


今まで分からなかった・・・ポイヤウンペの親が夫婦で樺太に交易に行き
毒の酒を飲まされて・・・樺太を買うと云って戦になるという話
真偽の程は、解らないが・・・樺太は和人の領地だったというもの
今まで、ウイマムは函館の松前と云われていたのは間違いになる

tonoko uimam (和人との交易)と云うのは、大昔は樺太を指している
金田一博士は、ここに
?(クェッションマーク)を付けられている
このことは、そこら辺研究されている人達の目を引くことでしょう
石狩のハウカセが寛文蜂起の時、参戦しなかったのは、日本海側に
独自の日本本国との交易圏が存在していたことを窺わせる興味深いこと。


Ponokikurumi isoitak は、Kane esaman 金の獺が
出て来るもので、ユーカラのKane esaman 金獺記と繋がってくる
オキクルミとポイヤエンペは、相対的な関係にあること分かる。

Poro oina を4枚訳してみたが・・・
ユーカラには、出て来ない Kaipokunkuru カイポク彦が出てきた。
カイポク彦は、金成マツさんのユカラ?には出て来る。
金成マツさんのものは、何でも出てくるので
頭の中がぐちゃぐちゃに混沌状態を引き起こす苛立ちを覚える
この曲の下隅に幌別の竹の海の
Iporose (表現・描写)を
金田一博士は、メモされている(恐らく知里博士の言葉?)
topsara atuiko hokushkoro an kashike akush sui
topsara chiukohepitatpa koro chikap korachi ne
choropokke ayaitesure imakaketa ateshkosanu

沙流の描写は・・・下の言葉で言い切っている
tope pita koro choropokke wa kush
topeshirush koro kashke akush
なんと詩的であるかが解る・・・

要するに幌別のものは、散文であって・・・詩の韻律が崩れていて
蛇足が多くて・・・飾り言葉が多いだけで古格とは言い難い。


バチェラー博士は、沙流平賀の古老ペンリウクからアイヌ語を習っている。
帰国して神学校で学び直して・・・六年経って沙流を訪れ
事件が起きて沙流から撤退し、有珠・白老・釧路など伝道に歩き
幌別に定住して四年経って・・・再び沙流を訪れて仲直りして札幌に定住
その時に、金成マツさんを函館の愛隣学校に入れている。
六年間愛隣学校で学んで、明治31年から平取の教会で
11年間伝道活動をする・・・その間に色々メノコユーカラ・カムイユカラを
聞いたのだと思う。勿論、厚真の首苞・首肴をカネカツクから聞いた。
でも、沙流のユーカラ語は、殆ど分からなかったのだと思う
エテノア等のものを聞いて題名と印象深かった言葉など
自分なりに組み立てて・・・物語を作った。

バチェラー博士は、ペンリウク翁から日常語は、習ったけど
ユーカラ伝承者は、相手にしなかったんだと思われる。
そして、沙流ではユーカラと云えば・・・男子のみが伝承すること
知らなかったんだと思う。
それで、金成マツさんが幌別にもユーカラは在ると云ったのを
本当だと思って・・・沙流の第一等のユーカラ伝承者ワカルパ翁から
筆録して、道庁と樺太庁から踏査費用が出て踏査したこと
知って・・・紹介して金田一博士が近文を訪れた。

金田一博士が学生の頃からアイヌ語を学んでいたのは、
バチェラー博士のアイヌ語辞典によるところが大きかった。
それでバチェラー博士を尊敬されて居たのだと思われる。
アイヌの一番大切な神に捧げる酒を禁じるキリスト教は
アイヌにアイヌの神々を捨てろと云っているのと同じ事。
金成喜蔵翁は、酒を飲まないそうでシサムサニ・・・アイヌを捨てている。
そんな幌別にどうしてユーカラが存在すると云うのか?

モナシノウク媼が一つも筆録させなかったのは、それを見破られるのを
怖れたからかも知れない・・・ユーカラは、沙流では男同士が伝えるもの
と云うことを知っていたのかも知れない。
砂沢クラさんが云っている・・・知里真志保青年にアイヌ語を
教えてやってくれと砂沢友太郎氏にお願いした金成マツさん
どうしても解せない話であって・・・綻びが出る。
幌別では、とうの昔にアイヌの神々は忘れ去られていて・・・
知里幸恵がヌサコロカムイは、婆さん神だと云ったのが分かる。

金田一博士は、沙流のもの全部訳さずに、文学論を展開されたので
はっきりと分類出来なかったものなのか?・・・
一度、知里幸恵の送ってくれた原稿を無くしたと云うエピソードもあるが
神謡(カムイユカラ)としたけれど・・・見てみるとユカラで無く
Uwepekere として出版するしかないのでは?・・・と思って
東京に呼んで話をしようと思ったけれど・・・
幸恵は、これが幌別のカムイユーカラだと堂々と主張したのかも・・・?
そして、身体の調子が悪いので帰りたいと幸恵が云ったが・・・
校正を終わらせて亡くなってしまった・・・翌年出版する。

その年、大正十二年に、ワカルパ翁の娘ユキ来て・・・
Pishka toa pishka を伝える。
このことは、金田一博士にとって青天の霹靂だったでしょう。
でも、今更カムイユーカラではないとは言えない・・・後ろめたさが付き纏う
これが第一回目のアイヌ文化の迷走に繋がる・・・
本当にバチェラー博士の云うように幌別にユーカラが存在するのか?
昭和二年に金成マツさんから虎杖丸の曲を筆録する・・・
なんと云う事だ・・・丸で伝承とはかけ離れた創作ではないか !!

それに味をしめた金成マツさん・・・筆録させようとしていた。
伝承なら筆録する価値あるけれど・・・と博士は逃げていた。
痺れ切らして自分で書くようになった・・・煽ててノート送ってやった。
書きに、書いた・・・好きなように ノート山に成った。

そして、マイクロフィルムで残すことになった・・・やれやれと思って
自分の筆録だけでも一生掛かっても訳し切れないし・・・
幌別のものは、幌別の知里真志保君に頼んで・・・同時進行の約束して
オイナを先に纏めていたら・・・一つも手を付けずに死んでしまった。
そして、沙流のものと一緒の題名のものはパスして・・・ばれるから (*^_^*)
金成マツさんのものからユーカラ集に出した。
これが第二回目のアイヌ文化の迷走に楔を打ち込むことに成った。

釦の掛け違いを勇気を持って・・・直すべきであったと思う。
知里真志保青年は、金田一博士のその後ろめたさを・・・
姉と何か在ったのではないか?・・・と勘ぐってしまったのが確執みたいだ。
このテーマは、ずっとやってきて・・・ようやく落ち着いた感じがする。
結局、バチェラー博士は、アイヌの父と呼ばれているけど・・・
アイヌの神々を捨てて、キリスト教に転じた人にだけ父であって
沙流の物知り達には、疎ましい人物だったようである。
金田一博士が亡くなるまで知里幸恵の日記などを誰にも見せずに保管していた訳は
別に書いておこうと思う。


ユーカラ群の大半を訳して見て・・・全部訳さないと解らないようになっている事実
これは何を意味しているかと考えてみると・・・
全部訳すまで論じてはいけないと云うことだと思う・・・
アイヌ文化研究者一丸となって当たらなければならなかったと云う事
原典を探る作業を徹底しなかったと云うことだと思う

古事記の場合、
稗田の阿礼の口述を太の安万侶が筆記したと
されているが・・・ユーカラの場合はワカルパ翁の口述を金田一博士が筆記
ノートにして十冊分・・・嘘つかないのを土産に来たと言って始まった。
ワカルパ翁は、文字のある人に筆記してもらって死にたいと云っていた。
創作ではない、一語一句精確に伝えるべき伝承の重さ
筆記しかないことをワカルパ翁は知っていたことになる。
その後、金田一博士が筆録されたものが・・・ワカルパ/フォルクローレに
含まれているところをみると・・・アイヌの古事記に当たるもの。
その古事記に当たる原典を中心に据えて各地のものを比較する手法
それが出来なかったので迷走した・・・

2010/11/03 に道立図書館でマイクロフィルムからコピー取って
翻訳に挑戦して・・・二年八ヶ月約三年
大凡のことが解るのに矢張り三年掛かるんですね~(*^_^*)

蝦夷の古事記・・・ワカルパノート十冊
ユーカラ本体を除いて・・・纏め上げる必要があると思う。
現在起きているアイヌの状況とユーカラの世界は、ほぼ同じだと気付く筈
シャクシャインは、決して英雄ではないことなども・・・
大昔から和人との共存共栄を探っていたのがユーカラの正体
喧嘩しても負けると知っていた賢いアイヌだったから・・・
ポイヤウンペは、一人で闘って学んで行くし、勝つための戦略を
自ら生み出す力を持っている・・・それだものピリカメノコ惚れる 

アイヌに関する記録は、文字を持って居た和人側のものであって
アイヌ側の記録ではないことを肝に銘じて読まなければ片手落ちになる
そしてワカルパ翁の伝えたことは、形而上学だから難しい
アイヌの秘密を明かすことは、つまり神からPirikare (傍に置く=死)
ワカルパ/フォルクローレには、それを心配した村の人達とか
コポアヌ媼が心配しているとか・・・ワカルパ翁がちらっと漏らしている
これが森鴎外だったら気付いたのかも知れない。
ワカルパ翁は、第一級の形而上学者であったと思う。

ツレアン翁がハイで作ったパスイをお土産に呉れたと云うこととか
ワカルパ翁の守り神(狐)をウトムリウク翁が博士専用にしたとか
風前の灯火のようになっていたのを救った事に対して感謝してのこと
これをしっかり認識出来なかった・・・金田一博士なのか?
バチェラー博士・金田一博士などを批判をした知里博士・・・
そこまでやったなら・・・何故?ワカルパのものを見せて欲しいと
云わなかったのか?・・・これもお馬鹿さん (*^_^*)


今日は、Kamui uwepekere 忘れられた神 白ギツネの話三枚訳した。
初めて出て来た化け物
Iwaposoinkara と云うもの・・・直訳すると山も見通す化け物
目が飛び出ているらしく・・・其処が弱点で蓬で突き殺すらしい 
それが出てくると飢饉になるらしい・・・飢饉の神???

これと同じ話を大正十四年にも伝えているが・・・今回のが原典だと思う。
今回のは、大正八年で・・・大正十四年のは、五枚で構成されている。
大阪大学名誉教授の森東吾先生に教えて頂いたこと・・・
『同じ話が在った場合古いものほど簡潔で短く・・・時代が下がるにつれて
色々飾られて長くなるものです』 それを大切にして判断している。

六月十一日のKamui yukara でコタンコロカムイ(梟)の妹も神だが・・・
一番恐ろしいと思うのは・・・人間の女であること (*^_^*)
だから神は、人間の女のInonno itak 祈りの言葉は聞かない・・・
このことは、なかなか分かり辛いものだけに・・・ようやく最後になって解った。


昨日に引き続き 『イヨマンテ-上川地方の熊送りの記録』 をじっくり読んで
その順番とか書き出して整理してしてみると・・・ジェジェジェ・・・ジェ (@_@)
屠ったら直ぐ皮剥の前に、供物の胡桃など撒いている
送る前に煮て喰ってしまっている・・・
カムイノミのイノンノイタクも沙流のものとは懸け離れている
コポアヌ媼の熊送りとは、順番が前後している・・・
どちらが正しいとは、アイヌでないから言えないが・・・
只、真っ直ぐ神の国へ行けないような気がしてならない・・・(*^_^*)
この時、各地から集まって来たエカシたちは、屈斜路湖・阿寒・白老・など・・・
この地区ではこれがアイヌプリなのか?・・・(*^_^*)

カムイ(熊)と言うのは、扱いが厄介で下手をすると禍をもたらす
kamui uwepekere で成功した場合と失敗した場合を一つとしている程 (*^_^*)
オキクルミの云う通り口上が言えた賢いのは・・・神達認めるが
言えなかった場合・・・カミアシ(化け物)として追放される・・・
送られる前に、喰われる処を見ているとしたら・・・そして、イノンノイタクが
何処に行ったら良いか解らないものだったら・・・カミアシになるしか無い (*^_^*)
しっかりした祈祷の言葉を知らない者がやると・・・化け物が増えるだけ


沙流の先祖供養は、シンヌラッパと言って・・・供物を配ることをイチャラパと言う
伊達・白老もこの言い方を守っている。
道アイヌ協会・各支部(様似・新日高・厚真・弟子屈・静内・紋別など)東京は、
イチャラパを先祖供養と言っている。
これは、文化の違いを示していることに他ならず・・・
ヤウンクルとレプンクルの違いを示している・・・
今まで、これを同一視していたから・・・混乱していた。

それと、一番の大きな違いは、コタンコロカムイ(シマフクロウ)の扱い方・・・
沙流・千歳など所謂、ヤウンクルでは、オキクルミも拝む神として
送りの儀式はない・・・レプンクルは、屠って送る儀式がある。
知里幸恵のShirokanipe ran ran pishikan がそれに当たる。
kotan koro kamui (梟)は言わばTumunchi kamui 村の守り神の親分
矢を向けたら怒って村人皆殺される憂き目に遭う神様

それを教育の現場に持ち込んでずっと来たのは、チト、問題があるでしょうね。
神の世界の概念が違う以上・・・そこにメスを入れて
別の文化として取り扱う必要があると思われる。
今まで、沙流のユーカラ群の一部しか訳されない状態で文学論で
片付けてしまった・・・これが間違いであった。

現在、アイヌ文化として紹介されているトンコリ・ムツクリ・鳥踊り
ウポポなどもレプンクルのものであって・・・ヤウンクルのものでない。
沙流でも近代において、もたらされたもの
古代・中世の蝦夷を探るには、沙流のアイヌ側のユーカラ群を
あらゆる分野からの精査をする道しかないと思うし
それが密かに隠されていると思う。
遠い昔のことではなくて・・・現在のアイヌの不正問題もその図式が
そのまま当て嵌まることに注目して貰いたいとも思って居る。(*^_^*)
アイヌの誇り高くて慎ましい精神を汚している現状。


沙流の豪族の軍事機密としてレプンクルの情報を記録していたユーカラ
これは、秘を以て貴しの例えで・・・一般アイヌでも知らなかった。
それを伝承出来る能力を備えている若者は、居なかった。
でも、残さなければいけないと必死だったユカラクルの責務

ワカルパ翁は、口述で残すことは不可能で、文字に依る筆記しかないと
思って居たが、アイヌにそんな人間は居ない。
コポアヌ媼もメノコユカラ・カムイユカラに精通している生粋のカッケマッ
樺太でクサエ(ラマンテ)から筆録したのを金田一博士に見せて貰って・・・
ピーーンと来たんだと思う・・・これだ !! (^_^)v
博士も本物のユーカラを今の内に筆録しないと永遠にこの世から消える。

そこで奇跡が起こった・・・ワカルパ翁も貧乏・金田一博士も赤貧の生活
窮すれば通ずでそれが何とか整った・・・そして残ったユーカラ
でも、言語学者としての成果を出さなければいけないことで・・・
文学論が先行してしまった。

文学論でやってしまうと創作ものまで、その範疇に入ってしまう。
全く子供のような素朴な疑問・・・何故? 浜益のことが沙流にあるのか?
何故? 胆振にもあるのか? ・・・果たして同じものなのだろうか ?

伝承は、出自がはっきりしているもので・・・それを明らかにすべきです。
それを一つ一つ明記して読者が判断するもの・・・それを怠ったので
アイヌ文化モドキが横行したんだと思う・・・(*^_^*)

沙流のものを大半訳してみて・・・蘆丸の曲が途中で終わっていて
結末を想像させるのが、ainu uwepere の古いものだと思われる。

ユーカラには、エツラチチとかコタネチクチクだとか化け物が出て来る
そう言った抽象的に表現したものをフォローするような短編が
Iso itak として存在していて・・・曼荼羅を形成している。
カムイユカラもそれだけで完結してなくて、曼荼羅の一部である。
しかし、重要な欠かせないものである。

密教で言えば・・・大日如来の下に慈悲と戒律の眷属が在り
それもそれぞれ眷属を持ち・・・特命を持った神も在り・・・

人間の造る酒とイナウが神の世界を豊かにして人間を守る。
人間が死んだら神も廃る・・・この相対論は、素晴らしい
だから子孫に神を祭り続けることを教えて置かなければならない。
実社会も本当はこのルール相対論を守れば巧くいくが、難しい
仏教で言う三毒が蔓延した価値観の世界・・・そのバランスが難しい


昨日借りていた本二冊、元町図書館に返して・・・新たに二冊借りてきた。
その一冊、知里真志保博士の「和人は舟を喰う」の中に Panampe Penampe が入って居て
読んでみたら・・・鍋沢ユキも伝えている「金の子犬と銀の子犬」の幌別バージョン・・・(*^_^*)

言葉付きも違うし約二倍以上の言葉で成り立っていて・・・切れが悪い
コポアヌ媼も同じもの二年前に伝えているがユキより一頁短い・・
そこが原典を見出すときに非常に難しい点であるが
この物語の原典としての根拠は、恐らく母親のタウクノ媼からの伝授であろう
と推定してユキのものを原典であろうと決定した経緯がある・・・

それと知里博士の採録したものの中に
erampetek と言うのは金成マツさんの
特徴でもある・・・
erampeutek ~分からない →erampetek と言う癖
erampetek と言うのは、アイヌ語には無い。

Hau は、沙流のユーカラ語を使っているので韻律が整っているが
幌別には、元々ユーカラ語が存在してなかったので方言で表現するから
どうしても、散文調になり説明的な語句が多くなるのだろう (*^_^*)

uwepekereuwepeker として e を付けるのは間違いとしている・・・(*^_^*)
yukarayukar とした方が正しいとする彼のアイヌ語理論・・・
彼の理論が通用しないものは、沙流には沢山ある 
文化が違うんだから当然のことで・・・どちらが自分に合っているか?
どちらが優れた文化が持って居る諧謔精神が豊かか?・・・それで判断する

金成マツさんにしろ知里幸恵にしろ・・・深刻な場面で思わず吹き出してしまう
諧謔精神の欠片もないのは、本当のアイヌのものではないと思う。
沙流のものを訳すとそれが良く解る。


panampe penampe がもう一曲、コポアヌ媼のものを引用している
金田一博士が訳文だけ載せているもの・・・確かに教訓話

アイヌの物語は、古い言葉を残す意図もあり、そのまま伝承するルールもある
沙流に於いては、大正四年まで何とかその原典が残っていた。
金田一博士は、ぎりぎりの間一髪でそれを救った・・・それが現実

upopo について解説があり・・・白老・近文・幌別の場合を解説して
大部分は、神を賛美したものとして、又現在では殆どその真意を捕捉し得ぬ
までに転訛しているものの多いことである・・・これは全くの誤謬 (*^_^*)
upopo は、根室の方の風習でオツケニ婆さんがもたらせたもの
トパットミ(夜襲)などに備えて女が踊るように知らせる訓練であって
物事を逆に言ったりするもの・・・

本の題「和人は舟を喰う」の本題というべき言葉の誤りを指摘していること

「魚のことを
chiep と言い、また詰めて chep と言う」
バチラアさんの辞書には、そお書いてあり、金田一先生の著書にも
 そお書いてある。学者も世間の人も、一般にそお信じている。
私もアイヌ語を学び始めた頃は、そお信じていた。ところがある時、
シラオイの一老人は、私にこう言った。
『チえ
 と ちエプ とは、違う。チえと言えば一般の魚のことで
エプ と言うのは、鮭に限る名だ』 そう言われてみれば、成る程
シラオイばかりでなく、ホロベツでも、ムロランでも、魚の方は
「チえ
」と発音し、鮭の方は「ちエプ」と発音して、厳重に使い分けている。

沙流ではchiep も chep も同じことである・・・
蛋白源の食べ物としての・・・普段の食べ物は魚
狩の上手な人だけが獲れる熊・鹿などは、貴重だった
滋養効果のある生食部分と血は、その場に居合わせた者の特権
飼い熊のお祭りイヨマンテは、それを食べられない村の人
身体の衰弱した人にも提供する医療行為・・・
宗教的なことよりか寧ろ、そちらの共同体の健康を守る行為
本来は、そのような全く合理的なものだったのでしょう。
梟を屠って・・・お祭りしても何処に医療的なメリットがあるのか?分からない (*^_^*)

この他にも、永田方正氏の蝦夷地名解に触れて批評しているけど
先駆的な調査であって、寛容な態度が望まれるが・・・
バチェラー博士がRuを凍ると訳しているのは間違いとしている。
アイヌの場合は、反対に氷を常態と考えて、溶けることを言う・・・
どうも偏った思考の持ち主のようで・・・(*^_^*)

久保寺博士も知里博士も、白老とか幌別の物語が古格で
沙流のものが新しいと考えていたらしいこと・・・ようやく分かった。
今回の Panampe Penanpe も長くて・・・久保寺博士が採録したエテノア媼の
虎杖丸もワカルパ翁の倍以上あるのは・・・古いものだとする思考
確かに文字を持った人間は、記憶力に於いてアイヌより衰えている。
話が本来長いものが時を経るとともに一つ抜け二つ抜けて行くと
段々短く成っていく・・・と考えがちな言語学とかが一般的なのかも?

しかし、社会学の森東吾先生は、逆の理論を私に教えて下さった。
古い話が在った場合、古いのは簡潔で短いもので・・・時代を経るに従って
飾りが付いて長くなるものです・・・これを私は真理と思って居る。

そのようにあらゆる見地から研究・検討しなければならない沙流のもの
ようやく、スタートの位置に着いたと思う・・・
民族学・歴史学など参考になる事柄がワカルパ/フォルクローレには
沢山含まれているんです・・・(*^_^*)

知里博士曰く、アイヌ民族の歴史の秘密を解こうとする時、アイヌ語の研究こそ
それを解く最も貴重なかぎであると言いたいのであります・・・全く同感 !!
只、各地のものを全部、目を通して・・・精査しなければ無理なことであって
先駆者たちの言葉尻を捉えて批判しても偏ったことしか見えず・・・
原典を探し出す洞察力を持たないと絵空事でしかない (*^_^*)

又、沙流のユーカラ群は、全部訳さないと解らない曼荼羅を形成していることから
言語学者何人集まっても・・・恐らく気が付かない代物であろうと思う。


知里博士の熊祭り(送り)は、猟運を確保する為・・・とある。

沙流の熊送り
Keomante は、夜送るのは行くのを偶に見る人が居て・・・
見た人は、貧乏になるかららしい・・・(*^_^*)
皮も肝もお金になるし・・・肉など全部食べ尽くして人々の健康回復になり
そのお礼にイナウと団子餅など持たせて・・・オキクルミから教わった通り
カムイフチを通して行き方を教えて送る・・・この言葉は女に聞かせない。
この祭りの為、貧乏になるなら理屈に合わない。(*^_^*)

ヤウンクル(沙流)とレプンクル(十勝)の違いに・・・蛍のことを
ninninkep tomtomkikiri がある
前者は、光が消え消えする・・・後者が光りが点く点く・・・
どちらも同じ虫を表現していて・・・知里博士の ru は氷が常態とするのは不自然で
命の源、水は、液体が常態とした方が自然で、バチェラー博士が正しい。
屁理屈と嘘を言って・・・人々を惑わす知里姉弟・伯母には困ったもんだ (*^_^*)



今日は、久保寺博士の「アイヌの昔話」について比較検討しよう・・・
先ず、久保寺博士がアイヌに抱いていた考えを書いておこう・・・(*^_^*)

--- むすび ---
アイヌ民族固有の文化なるものは、近い将来---おそらくは半世紀をいでずして---
忘れ去られるであろう。現在、学者たちがあらゆる角度からその文化を研究しつつ
あるといっても、結局それは、刈り入れのすんだ後の野末に落ち穂をひろうように、
彼らの現在の生活の中に遺習としておもかげをとどめているいるものを採集して、
検討考察を加えることでしかないのである。 昭和四十六年
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ワカルパ翁が虎杖丸の曲を金田一博士に伝えた時・・・その一番最初に言った
紫雲古津より川上では、伝承ではなく自分たちで勝手に作っている・・・
とその当時の状態を嘆いていることが記されている。
川上と言えば・・・平取などを指していると思われるが・・・
沙流でも、原典が残っていたのは、新平賀と紫雲古津の年寄りのものだけで
あとは、楽しみにやっていたカムイユカラばかりになっていた。

久保寺博士が採録した人達は、その部類の人達ばかりである。
新平賀のエテノア媼と荷菜のカレピア媼からの採録が多いが・・・
原語対訳でなく、和訳のみではあるが・・・最後の締めくくりが一緒で
決して・・・してはいけない と締め括っている。
知里幸恵のものとも一致する・・・金成マツさんが平取で聞いたものだと思う
旭川のキナラプック Kina rap uk さんも金成マツさんからも幾つかは聞いている思う

中身も変わっている部分があるのを一つここに書いてみよう
ワカルパ翁が伝えた
Santa tori paina 月中人を例に上げると・・・
川に上る魚の種類と順番は
ワカルパ翁 
tukushish(アメマス)→ichanui(鱒) →shupun(ウグイ)→kamuichep(鮭)
カレピア媼 チライ(いとう)→ツクシシ(あめます)→ます→カムイチェプ(さけ)

ここで言うチライは、私にとって初めての魚であって原典と思われるものには
出て来ないものでありますね~・・・個人の創作が入ったものでしょう。
厳密に言うと、その時点でカムイユーカラとしての価値を失う・・・
ワカルパ翁の方は、泣いてもカムイを毀損してはいけないと躾けなかった親も
同じ罪だと言っている・・・子供だけに言っていることではない。
カレピア媼の方は、子供だけに云っている・・・親の勝手を言ってはいない。
大人も神でも先祖に対しても畏敬の念を何時も態度で示せ!!・・・それが子に顕れる
芯がしっかりとして来て・・・本当の思いやりの気持ちが芽生える。

もう一つ気になる
ainu uwepekere 「41 化け物鹿とクマの話」があって・・・
熊が鹿の化け物に角で殺され熊を祭って憑神にして・・・化け物を毒矢で殺し
熊の神に・・・祟りが恐ろしいから、
nitne inau (魔神用の幣)を立てろと言われ
イナウを立てること・・・
この件は、ワカルパ翁は、『恐ろしく思っても化け物だけには
絶対イナウをやってはいけない』と言っていること、やってしまうと
力を増して手が付けられなくなると言っているのに反する物語
生兵法は怪我の元・・・カレピア伝 (*^_^*)

コポアヌ媼は、女は神事のことは聞くものでもやるものでもないから知らぬ !!
と金田一博士にはっきりと答えている・・・それがアイヌのKatkemat
男と対等に渡り合う度胸も持って居る・・・アイヌ女性の強さと魅力 (*^_^*)


昨日、借りていた知里博士と久保寺博士の本返して・・・新たに二冊借りてきた
一冊は、『地名めぐりの旅・・・新旧地形図が語る100選』と
『シンポジウム北方文化を考える アイヌと古代日本』

二冊目に、蝦夷通辞の上原熊次郎の調べたものが記されている・・・
ユーカラの勢力地図をどう纏めようかと考えていたので・・・これで描ける (^_^)v

----- その文を書いておこう -----

シビチャリクル・ハユンクル・ヤムワッカウンクルとて、三場所の運上屋シビチャリ川
の辺に銘々にあり。ハユンクルとは今のシツナイ夷人の事、ヤムワッカウンクルを
和人誤ってナムワカクルといふ。当時多分、ウセナイに居るシビチャリクルは則ち、
此の川尻の最寄りに住居す。 扨又、当所よりポロイツミ辺までの蝦夷をまとめて
メナシウンクルといふ。則ち東のものといふ事。
ニイガプよりシラヲイ辺までの蝦夷をシュムンクルといふ。則ち西のものといふ事
ウス・アプタ・エモト・ポロペツ辺の蝦夷をウショロンクルといふ。則ち湾のものといふ事
ヲシャマンベよりモリ辺までの蝦夷をウシケシュンクルといふ。則ち湾の末のもの事
シカベよりトイ辺までの蝦夷をホレパシウンクルといふ。則ち沖のものといふ事
ビロウより子モロ領辺(国後含む)迄の蝦夷をメナシユンクルといふ。則ち奥東のものの事
エトロフより奥の嶋のものをチュプカンクルといふ。則ち日の方のものといふ事。
北蝦夷地、その他嶋々の夷人をレプンモシリウンクルといふ。則ち離島のものといふ事
(レプンモシリウンクル~樺太・礼文島・利尻島)
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この藻汐草は、金田一博士も読んでおられている・・・
ユーカラに出て来る勢力図そのものなのに・・・何故?それを云われなかったのか
エサンノットは、恵山崎と確定しても差し支えないでしょう。
金田一博士は、コシャマインの蜂起は、無かったと仰っているのは・・・
身内同士の争いで、対和人の戦いでは無かったとしている筈・・・
不思議なことは藻汐草では、西側石狩湾に付いては一切出て来ない
アイヌの都、沙流の軍事機密情報説が矢張り正しいのでしょう。


サカナに付いてはワカルパ翁が三代に上ってエカシキリを伝えている
コポアヌ媼がWendarep yukara として伝えている・・・
夢に見たものでも、現実に起こったことを伝えていて面白いものの一つ

『シンポジウム北方文化を考える アイヌと古代日本』を読んでみると・・・
吉田巌・松浦武四郎・菅江真澄も伝えているが・・・沙流とは逆の伝えで英雄扱い

そうした記録とは、逆の情報を伝えている沙流のもの・・・これが埋もれていた (*^_^*)
藻汐草で云うと・・・幌別は、ウショロンクルだからユーカラが存在するのは
不自然なことになるし言葉が随分違う・・・矢張り捏ち上げであろう。

歳神パコロカムイを疱瘡神と云っているが、
Patum kamui がワカルパ説
ユーカラは、和人とアイヌの戦いを憚って沖国と置き換えた・・・とか
十勝のユーカラの敵は、沙流人・鵡川人・新冠人となっているとワカルパ翁が
云っているのは、どう説明したら良いのか?


基調演説 「梅原 猛」 ユーカラの世界と云うのがあって・・・

日本語の元は、古いアイヌ語に残っているのではないか?
琉球語とアイヌ語という二つの灯の中に、我々が失ったものが
浮かび上がって来るのではないかと云う風に思うのです。

これは、独り言でも何度か書いてきたこと・・・(*^_^*)
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このシンポジウムの討論メンバーを書いておこう・・・(*^_^*)

司会 上山春平氏 京都大学教授・人文科学研究所所長
梅原 猛氏 京都市立芸術大学教授
江上波夫氏 東京大学名誉教授
佐々木利和氏 東京国立博物館研究員
高橋富雄氏 東北大学教授
成田得平氏 北海道ウタリ協会教育文化部長
藤村久和氏 北海道開拓記念館研究職
吉崎昌一氏 北海道大学助教授
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総じて、金田一博士・久保寺博士・知里博士は、良く云われていない(*^_^*)
辞典をしっかり作らなかったことに批判をしている・・・
それは無理なことであって・・・ユーカラ語(古語)はアイヌでも知らない言葉
沢山あって特に、ワカルパ翁の十冊のノートの四冊しか金田一博士は
訳されておらず・・・後を継ぐ人居なかった

もっと悪いことに久保寺博士・知里博士に依って幌別とか白老のほうが
古格であるという沙流のものを軽視することに拍車が掛かり・・・
ワカルパ研究が殆ど為れなかった罪を問うたほうが良いのでは? (*^_^*)

それにしても、32年経つと三人の方亡くなっていて・・・
シンポジウムの命題から研究が進んだものあるのだろうか? (*^_^*)