虎杖丸の曲について・・・



虎杖丸の曲と金成マツ媼のユーカラについて


ユーカラの最高峰「虎杖丸の曲」は金田一博士脚注のワカルパ翁所伝の本伝 金成マツ媼所伝の別伝
ヌッキペツ ツ゜ナレ翁(ハウキの名人)のは、ワカルパと同じと博士は確認している

久保寺逸彦博士筆録 北海道教育委員会訳注の平賀ヤヤシ所伝のもの

鍋沢元藏翁筆録 扇谷昌康訳注・・・ワカルパから伝授されたものとしているクツ゜ネシリカ

--------------ワカルパ翁のものと比較した場合-------------

金成マツ媼のものは、長いけど内容が別の物語のように違っている
ヤヤシ所伝のものは、金成マツ媼のものと同じ酒宴の席の位置が省かれている
鍋沢元藏翁のものは、最後の戦いが省かれているし終わりの戦い相手が変っている
酒宴の養兄とカムイオトプシの位置が入れ替わっているのは・・・
一見、なんでもないように見えるが・・・重要な意味を含んでいるんでは?

ユーカラが一語一句、精確に伝わりがたいことが解ります。(*^_^*)
ユーカラが楽しむものとして創作された瞬間に歴史を変えることになり
その真義が崩れてしまうものだと思われる。

知里真志保博士は、クト゜ネを虎杖と訳すのは間違いで・・・
虎杖は「イコクッタル」であると言っているので・・・
鍋沢元藏翁も虎杖丸とはしないでクト゜ネシリカとしたと思われる
これは、最後のユカラクル(ユカラ伝承者)に対しての極めて失礼なお話で
後のアイヌ文化の迷走に繋がる愚行・・・極めて罪が重たいです。
初期の解題は、反魂丸としていたが・・・
金田一博士は、ワカルパ翁から虎杖のような中空の剣の鞘で・・・
日本刀の鞘のように張り合わせではないと聞いていて、その制作技術に驚いている。
虎杖と敢えて洒落たところも有るんです。
それは、虎杖丸の鞘に着いている憑き神の一つに夏毛の狐の皮膚が皺で波打っているのは
その当時、アイヌは虎を見たこと無かったので、そう表現していて
そのことを見事に金田一博士によって補われていて名訳だと思われる(*^_^*)

追記 : ワカルパ翁は、ikokuttara oro mun ホントは kutuと博士に伝えている
orom kuttara はナナツバ(反魂草)と伝えている 2012/04/17
又、大正四年にウテカレ媼から(虎杖丸の曲) の終章を筆録されいいる 2012/05/06
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金成マツ媼のユーカラについて・・・

金田一博士は、バチェラー博士の紹介で大正7年に旭川近文の金成宅を訪れて
祖母のモナシノウク マツ媼 知里幸恵に会っている・・・
大正11年に知里幸恵が上京し、神謡集を校正して亡くなる
翌大正12年に柳田国男氏の援助もあって、アイヌの手による本が初めて出版出来る。
博士は、モナシノウクのものを筆録したかったが・・・機会を逸している

昭和2年にマツ媼を訪ね「虎杖丸の曲」を筆録して・・・
ローマ字が出来るのであれば・・・ローマ字で書いて残したら良いと・・・提言している
「忘れないから、その必要はない」とあっさり断っているんですネ

昭和3年、幸恵の七回忌に上京して博士を手伝おうとするのだけど・・・
博士も多忙で外ばかり出ていて・・・マツ媼が自分で書き始めるんです。
それから20年書きに書きまくって・・・ノートの山が出来る。(*^_^*)

72篇の内、1〜35篇までモナシノウク伝授のものだが
36〜72篇は、他人やら知人から筆録したものであったらしい。
それで、書きに専念した半分は、スッカリ忘れて再演出来なかったそうです。(*^_^*)

昭和32年國學院で金成マツ筆録ノートと金田一ノートと共にマイクロフィルムに保存
幸恵を死なせてしまったことは、博士の心に大きく被さっていて・・・
知里博士と半分づつでも取り掛かろうと約束が出来て・・・
本腰を入れて訳注に力を注ぐが、知里博士は一つも手に付けず死んでしまう。

師弟の確執があったとされているが・・・私はてっきり知里博士の「ユーカラは実戦の記録説」と
マツ媼のユーカラに自己矛盾を感じて訳せなかったと思っていました(*^_^*)
最近読んだ本の中で「砂沢クラ著 私の一代の話」と「湊正雄著 アイヌ民族誌
知里真志保さんの思い出」にその謎が解けました。

知里博士は、金田一博士に研究の為、ただ利用されてるだけで・・・
マツ媼は、金田一博士の為尽くしたのになにもしてくれないで苦しい生活をしたとか
博士の面白い話は作り話だとか周りに話していて・・・
最初から訳す気持ちは無かったようである・・・(*^_^*)

それでも金田一博士はユーカラ集をマツ媼のものを7巻まで進めて
84歳になってワカルパ翁のものに切り替え・・・8巻を出し
その頃から痴呆気味になり・・・途中まで進んでいた9巻を病気の痛さをこらえて
久保寺逸彦博士が協力し、ご子息の春彦氏が刊行したのである。

金成家と知里家の人の犠牲の上に金田一博士の仕事が成り立っていることでは
決してないこと・・・理解できました。